〔十‐4〕 命の刻限
「ツバキちゃん……」
弟切の掠れた声を聞き、忍から足の治療を受けていた椿の目に涙が溢れた。傷の痛みは堪えられるが、生還を果たした命を前に、感情の高ぶりは収まらなかった。
「弟切さん……! 無事だったのね!?」
「あぁ……、何とか、なぁ……」
上体を起こそうとする弟切だったが、「ダメよ、寝てないと!」と椿に叱られると、へっと笑って腕の力を抜いた。蒸し暑い空を仰ぐ。雲の切れ間から、月光が漏れ出していた。それに見入っていると、途端、激痛が全身を蝕んだ。
彼の身体は、ドレートにより蜂の巣にされているのだ。忍がいなければ、とっくにお陀仏だった。
「ツバキちゃん」
「何……?」
「悔やまなくて、いいからな」
椿は何も言えなかった。「俺は、悔やんで、ねぇからな」と繰り返す彼に、「私……」の後に続く言葉を口にできなかった。
「俺は、知ってるよ。キミが、どんな気持ちで、早河誠を、求めていたのか、知ってるよ」
畜生、息が切れやがる。弟切は、次第に鈍っていく腕の感覚に抗うように、アスファルトに爪を立てた。その左手の指に、鋭い何かが触れた。
「……ただ、助けたかった、だけなんだよなぁ。早河誠を、守りたかっただけ、なんだよなぁ。でも、いつまで経っても、解決できなくてよぉ。それが、怖かったんだよなぁ。自分の、弱さを、認めるのが、怖かったんだよ、なぁ……」
「…………」
「そりゃあ、周りに当たりたくも、なる、よなぁ。誰も頼りに、ならねぇから、独りで踏ん張るしか、なかったんだよなぁ。手段なんて、どうでも、よくなっちまったんだよなぁ」
「弟切さん、私は――」
「ごめんなぁ……。オジサンが、頼りない、弱虫なばっかりによぉ。辛いことを、独りで、背負わせちまったよなぁ。刑事の、風上にも置けねぇ、とんだクソオヤジだった、よなぁ……」
泣いていた。弟切は右手を椿に伸ばしながら、泣いていた。
本当だ。刑事の風上に置けない、とんだ弱虫オジサンの、情けなくて優しい泣き顔だ。
彼の名前を呼び、椿も雨に降られたように涙を流した。
「でも、安心しろよぉ、ツバキ、ちゃん」
やけに熱く、やけに重い身体を起こしながら、弟切は笑顔で言った。
「オジサン。ずっと、ずっと、先延ばしにしてきた、自分のルビコン川、ようやく渡る決心がついたんだ……」
とてつもなく嫌な予感に椿は、「ダメよ、絶対ダメ!」と声を荒げた。
しかし弟切は、忍の制止さえも振り切って立ち上がると、椿に近寄り、彼女の細い身体をギュッと抱き締めた。
「ダメ……、ダメだよ、弟切さん……!!」
「若モンに任せて、こんな所で寝息立てられるほど、腐っちゃあいねぇんだよ」
「そうよ、弟切さんは腐ってなんかない! それに、ヤナギさん達が絶対に勝つから、行っちゃダメ! 行かないで!!」
「嬉しいねぇ。ツバキちゃんみたいな、若くてカワイイ子に、そうやってせがまれるなんてよぉ。冥利に尽きるってもんだ」
弟切は右ポケットから、黄ばんだ小さな立方体を取り出した。それを椿の白い手の平へと押し込んだ。彼女は拒んだが、しっかりと、無理矢理握らせた。
「これがあったから、刑事をやっていられたんだ。キミに預ける。息子と孫に、伝えてくれ。笑ってくれて、ありがとう、ってな」
「そんなことは自分で――」
「分かってる。キミがこの先、周りの奴らに、どう思われるのか、全部。でも、俺も、自分を貫きたいんだ」
「弟切さん……」
「……必ず、会えよ」
そう言って弟切は、彼女から身体を離した。その時、少女の瞳がとても綺麗に輝いて見えた。
弟切は、恐ろしいものだなと胸を弾ませた。恋ってのは、こうまで人の心を潤しちまうもんなんだなと、苦笑した。
あぁ、目の下のクマがすっかり消えている。希望を持てたんだな。良かった。
弟切は彼女のそれを親指でそっとなぞると、拳銃を拾った。
「早河誠と、幸せにな」
命が、容器に入った液体のようなものであるなら、その液体を容器から掬い出すことで力が出るのなら、掬い出された液体の量で力の大きさが変わるのなら、容器の中に一滴だけを残して全部を使えば、そのときに発揮する力はとても強大なものになるかもしれない。
まさに今の弟切は、その容器の中の液体を、必死で掻き出していた。命の刻限が迫るのを肌で感じながらも、力を振り絞り、血みどろの身体を押して、海のほうへと駆け出した。
忍が彼の愚行を抑えようと試みるが、彼の決意めいた眼光と、残り数秒の余命を慮ると手を引いた。
「弟切さん!!」
呼び止める少女の声は足枷だった。それを断ち切り、引き金に指をかけた。
もう、賽は投げられたのだ。




