〔十‐2〕 不屈の少女
黒装束の少女カゲノは、ワゴンのルーフから戦場を見下ろす男のことをあまりよく知らなかった。同じ千代灯籠の一員で、彼女達監察方を束ねる“筆頭”という役目を担うこの男については、同僚達の間で度々話題になるものの、経歴から何から分からないことが多過ぎるのだ。
ただハッキリしているのは、御頭首ことMr.昼行灯のお気に入りの間者で、それ故に監察方筆頭にまでなり、そしてその最たる役目と言えば監察方をまとめてリーダーシップを執ることよりも、協力関係にある裏世界の警察機関ネイムレスにスパイとして潜入することにあるということくらいだ。
だから面食らった。八手がその容姿を変えられるセンスを持っているヘレティックであることを。
対して、八手はカゲノのことをよく知っていた。黒装束の下には中々グラマラスなボディが隠されていることも、祖母が元監察方筆頭であることも、ほんの偶然から姿を晒してしまった粗樫と現在ラブラブなご関係であることも、そして未だキスすら交わしていない処女の未成年であることも、よく知っていた。改めて粗樫の意外と生真面目な性格には感心した。
巻き込みたくはないと思う反面、頼りにしていた粗樫があの体たらくなので彼女の力が不可欠であるとも思った。ただ嘆息を漏らしてしまうのは、自分も人のことは言えないが、こうして彼女が監察方の使命――“その姿晒すべからず”という禁を破り、仕事よりも恋愛を優先してしまったことだ。
ツバキちゃんに触発されちゃったかな。八手はほくそ笑んだ。そして今度はドレートを見た。
状況は最悪。ネイムレスではなく、Mr.昼行灯率いる千代灯籠の監視をネイムレスから命ぜられている二重スパイとしては、この状況に素直に参戦するべきではないとは思う。しかしそうしてしまうと自分は千代灯籠の監視役を外れざるを得なくなる。仕事が減るのはいいと思いきや、どうせネイムレスのことだ、また容姿を変えて潜入しろと言ってくるに違いない。
まるで、一人リサイクル。
ここまで来たし、こうして晒してしまったし、後はなるようになるしかない。
「どういうことだ、いつ入れ替わったのだ。本物のツバキ・ヒヤマはどこにいる!?」
ドレートは早鐘を打つ心臓を無理に静めながら問いかけた。
「教えてやってもいいけど、もうお前に手駒は無いよなぁ? あるなら、わざわざあの交差点にお前本人が出張る必要なんて無かったんだからなぁ!」
ドレートの全身数箇所にある打ち身が疼く。
八手は長い髪をかき上げた。
「でもなぁ、少し自信がなかったんだ。本当はお前よりも上位の人間がいるんじゃないかってな。だが、お前とヤナギが話すのを見て確信した。お前ほど頭が切れて、自尊心の高い男が、一兵卒で収まっていられるはずがない。おまけにあのクロジャイとかいう大男も、ずいぶんとお前に肩入れしてる。だから俺は、このプランを提言した。随分とテコ入れされたがね」
「誰に……?」
「解りきっているだろう?」と八手は肩をすくめた。手振りを加え、「我らが御頭首様にだよ」と快活に笑った。
「馬鹿な! 今もフジヤマにいるあの男に、貴様らが連絡した形跡など無かった!」
「お前がどうやってその情報を取得しているのか気になるが、一つだけ、目の前に答えの扉を開ける鍵が転がっているんじゃないか?」
「まさか!」
報告に無い人間がいた。
振り返るドレートの視線に当てられ、粗樫を背負って逃げようとしていたカゲノの身が強張る。彼女は音もなく彼から離れていた。
余計なことをと八手を睨む彼女に、ドレートは仕掛けようとしていた。
しかし、八手の言動が彼を釘付けにした。
「おっと、お喋りは大好きだけどここまでだ。ここからは、殺し合いのお時間だ」
「動くな!」
ディオラはいつものかったるい口調も忘れて、レーザー砲の照準を八手に合わせて叫んだが、「できない相談だな」と失笑された。
彼はピンを抜いた手榴弾を下手投げで抛る。それはレーザー砲の重い体に当たると、中から赤い液体を生み出した。液体はまるで重力に逆らうようにして中空で球状に膨張を重ねると、ブラックホールのごとく獰猛さでレーザー砲を跡形もなく喰らい尽くした。
さらに彼は、その光景の始終を見届けることなく、ドレートに対してライフルで牽制球を放っておく。するとドレートはカゲノを追いきれず、こちらに意識を割くようになった。
消失したレーザー砲の傍で、意外にも腰を抜かしているディオラに、八手は窘めるように言った。
「オモチャで遊んでいるような気分なんだろうが、コレはやり過ぎだよ」
「まさか、〈AE超酸〉……!? コレが、ネイムレスが開発した?」
「おーっと、いけない子だなぁ。この国の言い伝えでは、嘘つきと秘密を守れない悪い子は、閻魔様に舌を抜かれちゃうんだぜ?」
八手は車のルーフから飛び降りると、赤い刀身のナイフを構えてディオラに振り抜いた。
瞬間、二人の間をドレートが駆け抜けつつ、ディオラを抱え去っていく。
「昼間とは逆だな」
交差点で椿を奪われたことを、ドレートは言ったようだった。
確かに根に持つのも仕方ないだろう。アレがなければ、千代灯籠は彼らを国外へ逃がしていただろうから。我ながらベストタイミングにファインプレーを決めたものだと、八手はほくそ笑んだ。
「ディオラ、ディアベス!」
ドレートの声に、コンテナに凭れていたディアベスが目を覚ました。ゆらりと立ち上がって、冷酷な目を八手に向けた。
「もはや猶予はない」とドレートは双子に告げる。彼はジャケットの内ポケットから、二ミリリットルの微量遠心管を二つ取り出した。そのチューブの中は血液らしき赤い液体で満たされており、不純物もいくらか混じっているようだった。
彼はそれらのフタを開けると、ショットグラスに注がれたカクテルを一息で飲み干すように、同時に呷った。チューブを背後の海へ捨てた彼は、おもむろに高周波振動剣と個人防衛火器を装備した。
「〈トライスター・コンバット――ジェノサイド〉」
直後、彼らは一斉に八手に向かって駆け出した。
三方から寄り集まってくる狂気に、八手はアサルトカービンM4で応戦した。まずは最も足の速い少年――のように見えていた双子の片割れに一発。続いてドレート――のように見えていた大人と、残る双子の片割れに連射した。しかし彼らはひょいっと横に大きく跳ねるだけで、進攻を止めなかった。その動きは同時、そのセンスの名に相応しいダンス・パフォーマンスだ。
双子の高周波振動剣が八手を襲うも、素早く身を反らされて当たらない。体勢が崩れたところを大人の剣が貫く。
剣は避けたが、八手の目はその軌道を追い過ぎていた。大人の膝がアゴに直撃した。仰向けに飛来しながらも、彼は咄嗟にM4のグリップから手を離し、そこから数センチ手前にあるもう一つグリップを握ってトリガーを引いた。M4の銃身下部にセットされた取りつけ台で接続されたグレネードランチャーM320の銃口から、40×46mm口径グレネード弾が連射された。続けざまに放物線を描く三つの榴弾だったが、トライスターに被弾させることなく、埠頭の足場を粉砕させるのみだった。
一度、二度と腰を打つ八手の身体を受け止めたカゲノは、彼のすまないという言葉を待たずに、単身、脇差を片手に彼らへ挑んだ。
無茶だと叫ぼうとする彼の視界に、彼女のもとへ駆けていく片腕を失くした男の姿が映った。肩口は焼き潰されており、《鎧肌骨》も相俟って、辛うじて止血の役割を果たしているようだった。見ているほうが痛くなるような傷を抱える粗樫は、カゲノが持っていた増血剤のお蔭で、過剰な失血を免れていた。しかし力を込める度に傷口から血が溢れて、とてもじゃないが満足のいく状態とは言えなかった。それでも彼女の盾にならんと横に並んだ。
「ご無理はなさらないでください!」
「しようがしまいがどっちでも一緒やろ! それやったら俺は、お前を守って死んだるわ!」
バカ。
カゲノは微笑ののち、丸く幼い目に厳しさをたたえ、狙いを双子の片割れ――少年のように見えていたほうに絞った。読みが正しければ、この〈トライスター・コンバット〉の鍵を握っているのは少年であるはずなのだ。
ズレていたアゴの関節を戻す八手も、ようやく立ち上がって粗樫達を援護した。その脳裏には、カゲノと同じ推測が浮上していた。
彼らが疑問視し、一つの可能性を思い浮かべる要因とは、ディオラを救ったドレートの行動だった。状況から見れば単に仲間を窮地から救ったように見えるが、今こうして鋭敏な動きを繰り返す彼女なら、自力で八手に抵抗できたはずだと考えられるのだ。
それをわざわざ抱えて救った。つまり平常時の彼女には何らかのリスクがあり、同時に彼女はこの集団から切り離せない重要な役割を担っているのだろうと推理できた。
ならば、カゲノがトライスターのうち、ディアベスを狙うのは何故だろうと、八手は思った。彼には確信を得る材料が足りていなかった。
かく言うカゲノもそうだったが、粗樫の助言が、この厄介な式を解へと導いていた。ドレートが八手の登場に戸惑っている隙に、彼に治療を施しながら聞いた。
“双子は《シンクロナイズ》というセンスを使う”
“《シンクロナイズ》は、互いの動きをリンクさせる性質がある”
“煙幕で時間稼ぎをしたとき、少年だけが追撃してきた”
“少女は遠方から、レーザー砲で狙撃してきた”
“二人で高周波振動剣を使って力押しするという手段もあったはずなのに、二手に分かれ、騙まし討ちを選んだ”
双子それぞれに、何らかの決定的な個体差があるとしたら。
それがカゲノの解だった。そして、チャレンジ&カバーを繰り返すトライスターの攻撃を回避しながら、執拗に少年を追い、現状からもさらに鑑み、読みの不安要素を補填する。
気になるのはドレートが飲んだ血のような液体だ。アレを服用した直後、彼らは訓練で積み重ねたにしてはよくでき過ぎた連携プレーを継続している。まるで一つの意志が彼ら三人の身体を突き動かしているようだ。
もしもあの血がきっかけで、ドレートにも《シンクロナイズ》へ参加する資格が備わったのだとすればどうだ。この連携を崩すには双子のいずれかを先に始末する必要がある。ドレートを殺して統制を壊すという方策もあるが、それは良案とは言えない。何故なら、一般人の少女一人を手に入れるために万全を喫しようとするほど用心深い男が、何の隠し玉もなしに肉弾戦を選ぶわけがないからだ。
将を射んと欲すればまず馬を射よ。
ここはその理にあるように、先に連携の目を摘むのが得策だ。
そしてここでさらに後顧の憂いのないよう備えるなら、〈トライスター・コンバット〉を崩したときの彼我の戦力差を考慮する必要がある。双子のどちらかを殺しても、大人と片割れだけで《シンクロナイズ》の効果が持続してしまっては元も子もない。
だから、もしもディオラという少女が本来足手まといならば、そちらは無視して、まずはその彼女に身体的影響を強く与えているのであろうディアベスを先に始末するべきなのだ。
「今度は気絶では済まさん!!」
高周波振動剣によって切り刻まれ、ハバキから針のように残った脇差の刀身で、少年を刺そうと手を伸ばす。しかしカゲノの腕は大人に掴まれ、捻り返されたところを少女の剣に切り裂かれてしまった。
「くうううぅっっ!!」
「カゲノぉっ!!」
辛うじて即死を免れたカゲノだったが、少女の脳天狙いの唐竹が彼女の左目蓋を縦に両断していた。粗樫の右腕を思い浮かべて激痛に耐えた彼女は、全力で拘束を振りきった。
その隙に粗樫と八手が彼らを銃撃し、カゲノの盾となった。
「無茶すんな、ダァホ!」
「し、しかし!」
「まずは止血だ! 援軍の到着まで耐えられるな?」
「ひ、筆頭、ここは撤退を。飛山椿の誘拐が失敗した今、奴らには敗走するしか手立てはありません。我々が退けば、奴らも無為な戦いはしないでしょう」
「カゲノちゃん、少年狙いの戦略は見事だが、今のは血迷ったね」
「……?」
「こんなに押されちゃってる状況で撤退をするってことは、殿を要するってことだ。この中の誰かが人身御供になるってことだ。彼らに撤退を選んでもらわなくちゃあ、俺達全員で生き残る術は無い」
男達が銃を乱射する中、「……できています」とカゲノはぼそりとつぶやいた。何だってと二人が声を荒げて聞き返す。
「覚悟ならできています! 私は“影の者”。本来名など持つことさえ許されない我々は、アナタ方をお守りするためだけに生きているちっぽけな存在に過ぎません。何より御頭首が下す命は、決まって一つ。身命を賭せ、それだけです。粗樫様から名をいただいておきながら、それすら守れず、他者の屍の上に生きることなど私にはできません! だから――」
「知るか、んなもん! 何やねんお前は、聞いとったらグダグダしょうもない言い訳ばっかしよって! そんなに俺が考えた名前が嫌いか、カゲノ! 気に食わへんのやったら、何であのとき言わんかってん!」
「ち、違います! 私はただ――」
「まったく……。俺達が守っているネイムレスってのは何なのかね。彼女らみたいなのを、本当はネイムレスって言うべきなのにさ。目的が違えばこうまで覚悟に差があるのものなのか」
「お二人とも、さっきから何を……」
「せやから! お前の意見は却下やっちゅうてんねん!」
「御頭首の命令なんて今はどうだっていいさ。何故ならまだ、そこまで絶望するべき状況じゃないんだから」
ですがと反論を重ねようとする彼女に、「まだ、皆生きている」と八手は微笑んだ。
涙が傷口に沁みた。カゲノはスプレータイプの止血剤を顔に振りかけて、八手から赤いナイフを受け取った。
そこへ三つの影が飛来した。人型恐竜だった。
粗樫は左手のショベルで、八手はM4で、カゲノは赤いナイフで、それぞれ目の前の恐竜を撃退した。
一息つこうかというそのとき、八手の懐に爪先が捻じ込まれた。
ドレートが、肉薄していた。中空に投げ出される彼の名を叫ぶ間も与えられず、粗樫の首筋に高周波振動剣、カゲノの額にPDWの銃口が向けられた。
「ツバキ・ヒヤマは何処だ……?」
「知るか、阿呆が」
「そうか……ならば失せろ」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
叫んだのは、粗樫でもカゲノでも、ましてや八手でもない。
弟切警部だった。彼は自前のピストルを構え、ドレートに放った。その顔に似つかわしくない精密な射撃は、ドレートの左脹脛をしっかりと射抜いていた。
「に、逃げろぉっ!」
その場で膝を突くドレートに粗樫達はトドメを刺せなかった。双子に王手をかけられた状況を脱しなければならなかったからだ。二人は弟切の声に従い、トライスターから急いで離れた。
恨めしそうなドレートの眼光から逃れ、コンテナ群の奥の奥に隠れた一同は、もう一人、ここにいてはならない人物と再会してしまった。
「ツ、ツバキちゃん……!?」
「自分何しとんねん!」
「えーと、エヘヘ……」
飛山椿は――本物の彼女は、恥ずかしそうに頬を掻いて笑った。
「いや、褒めてんちゃうで!?」
「ここには近寄るなと言ったはずだよ、ツバキちゃん」
腹を押さえて八手が言う。その口からは血反吐が漏れている。肋骨と内臓が損傷したようだ。
椿はハンカチでそれを拭ってやると、「人任せは嫌いなの」と強い眼差しで答えた。
「私は、あの男に訊きたいことがあるの。だからアナタ達に殺される前に訊き出しておかなくちゃって思って、弟切さんを急がせて来たんだけど……」
「へーへー、ピンチでスンマセンでしたー!」
「そうじゃなくて、その、それ……」
椿は粗樫の右腕――があった場所を指差した。
優しくも辛そうな瞳をたたえる彼女の頭を、彼は優しく撫でてやった。髪に血がついてしまったが、そこまで思い遣ってやれる余裕はなかった。
「心配すんな。いや、むしろ自分の心配せい。俺らは正直今、チョー劣勢や。自分ら一般人守って戦ってられる自信なんてあらへんねん」
「訊きたいこととは何だい? それは俺達が代わりにやっておくから、キミはすぐにこの場から離れるんだ」
「イヤよ」
「ツバキちゃん!」
「これは私がやらなくちゃいけないの!」
聞き分けのない少女の胸倉を、黒い手が掴んだ。
「いい加減にしろ、飛山椿……!!」
「だ、誰……?」
黒装束の下にある顔は、見知らぬ女のものだった。彼女は、声を懸命に殺しながら言った。
「お前は自分を何だと思っているんだ。良家の小娘のワガママに付き合うにも限度がある!」
「ワガママって……。えぇ、そうよ。コレは、ワガママよ」
開き直る椿の頬を叩く。
女同士の場違いな喧嘩にたじろぎつつ、男共は早く終わってくれと願って周囲を警戒した。
「お前は自分の価値を何も解っていない!」
「解るわよ。解ってるわよ! だからこそ、私は自分の口で問いただしたいの! 良家の娘でも何でもなく、早河誠の人質足り得る飛山椿として、あの男から真実を訊き出したいの!」
「真実? そんなもの、たかが人間風情に訊くことも見ることも許されるわけがない」
コンテナの上から声がした。その主は、潮が溶けた風に赤い髪を靡かせていた。碁盤目状に整列された路地の中でも、最も深い場所を選んだつもりだったが、探し当てられるのはやはり時間の問題だったようだ。
東西に伸びる退路は双子に塞がれた。彼らが構える剣が、モスキート音のようにギリギリ聞き取れる音域で唸る。耳障りだ。
ドレートは一同を眼下に、「今一度感謝しよう、ツバキ・ヒヤマ。飛んで火に入る愚か者とは、お前のことを言うようだな」と右足を引いたお辞儀――Bow and scrapeで礼節を尽くした。
「一つ事に拘り、自らを窮地に立たせる貴様の浅はかさがなければ、私はこの地で、Mr.昼行灯の存在はおろか、マコト・サガワの関係者を見つけることすらできなかっただろう」
懇意にしている科学者の元に届いた一通のメールが、彼を日本へと導いた。先にこの国に乗り込んでいたクロジャイは言っていた。
〈王〉ことマコト・サガワを捜している人間が一人だけいる。マコト・サガワの個人情報はネイムレスと思われる何者かによってことごとく消去されていて、警察も彼の存在を示すあらゆる物品を紛失してお手上げ状態だったが、その人間だけはずっと異様なまでの執着心でマコト・サガワを追い続けている、と。
天涯孤独の〈王〉へと繋がる、唯一の人間である、と。
その僥倖にドレートは、自らの天命の強さを自覚したものだった。同時に、その天命が険しい道程にあるとも知った。何故なら来日直後に、あの男――〈ドレッド・ゴースト〉こと柳が、彼女へ接触を図ったからだ。
「ここで貴様ら千代灯籠とやらを根絶やしにできれば、その功績はネイムレスがREWBSと罵り虐げてきたヘレティック達へと伝わり、我らの存在をより高めることになる。そしてその名声は、ネイムレスを誘き寄せるのに他に類を見ない、最高級の餌となる」
「やはり貴様の狙いは、ネイムレスの殲滅か」
八手の問いに答えるように、彼はコンテナから飛び降りた。
千代灯籠は椿と弟切をコンテナと挟み込むように陣を組んだ。
「ヘレティックである以上、当然の目的だ。独裁主義はやがて民主主義を生み出すが、やはり人には、唯一無二の絶対的なリーダーが必要なのだ。解せんことだが、我々ヘレティックにも同じことが言える。倒すべきを敵を間違えたネイムレスを滅ぼし、ヘレティックを束ねてノーマルを駆逐する。その先陣を切り、支配する。それがこの私、ドレート・アリリ・ツェーラが時代という名の神に与えられた宿命だ」
「とんだ夢想家だな」
「私はな、ヘレティックが権力を掌握するのに、地位も金も必要ないと考えている。有力なセンスさえあれば、一人が一国を落とすことさえ可能なのだからな。強力なセンスの前では、誰もその絶対者に逆らうことはできん」
「理論値で物を言うなよ。実際にそんなことは起きていない。これからも起きやしない。土台無理な話だ」
「ならばネイムレスは何故存在する。REWBSが取るに足らない有象無象の集まりであったなら、わざわざ命を懸けて戦いに身を投じる必要などないはずだ」
「全てのヘレティックと人類を守るためだ。REWBSの無法破りな行ないが明るみになれば、ヘレティックは益々居場所を失ってしまう。だからネイムレスは、同胞殺しの汚名を着せられながらも、今日までその意志を貫いてきた!」
「なるほど。噂には聞いていたが、まさかここまで思い上がっているとはな。やはり貴様らは粛清されて然るべき存在だ。双頭の鷲が許されるのは紋章の中だけの話。それを掲げた者は常に一人、二人の君主が並び立ち国を治めた話など聞いたことがない。世界を統治する種族もまた、一つでなくてはならん。それが世の理。人より優れた我々ヘレティックは、誰に諭されるでもなく、生まれながらにしてそれを理解せねばならん!」
不意に剣を翳した。
ドレートの合図に双子が動く。彼らは一同を挟撃しようと駆け出した。彼らの雰囲気は同じに見える。《シンクロナイズ》が発動している証拠と言えるはずだ。
八手と粗樫が銃を撃ち鳴らし、ドレート諸共牽制する。
ドレートは助走もなしの垂直飛びで再びコンテナの上に飛び乗り、弾丸の嵐を免れた。弟切に撃たれた傷をまるで気にも留めていないようだった。
双子はまたもや巧みな身のこなしで銃弾を躱し、一同に迫った。
彼らの剣を、ライフルを盾にして防ぐ。それが豆腐のようにスッパリと裂かれると、八手は少女の腹に、粗樫は少年の顔に鉄拳を放つ。しかし寸でのところで避けられて、大きく距離を取られた。
そこへまたもやドレートが舞い降りた。彼に抵抗していた弟切が拳銃をリロードしている隙を突いたのだ。彼は粗樫の大きな傷口に向かってPDWで狙い撃った。《鎧肌骨》が盾となっているが、その衝撃は過敏になっている神経を直撃した。
カゲノが赤いナイフでドレートに斬りかかる。しかし、彼の振動剣に腹部を裂かれてしまう。手から滑り落ちるナイフが、アスファルトをカンと鳴らす。
傷物にされていく彼女の姿に激昂した粗樫は、左のショベルでドレートに抵抗した。だがそれさえも容易く受け止められ、豪腕をもってして、再び波止場の開けた場所へと投げ飛ばされた。
続けて、呆気にとられる八手は、双子の猛攻に押され、粗樫と同じ方向へと追いやられた。
何が何だか分からない。目まぐるしく移り変わる戦況に、弟切は気が狂いそうになった。しかしここで椿を守らなければ、刑事として生きてきたこれまでの日々が嘘になってしまうような気がした。
彼は、立ち向かった。椿だけを見据えるドレートの眼前に身を乗り出し、銃を構えた。
「投降しろ! さもねぇと、射殺する!!」
これは日本警察の流儀だ。どんな犯罪者に対しても、まずは制止を呼びかける。射殺は最終手段。一警察官が、独自の判断でできるものではない。先の発砲でさえも、辞職覚悟で行なったくらいだ。
「弟切さん下がって!」
「下がれるわけがねぇだろ!」
歩みを止めないドレートは、弟切の震える銃口を、自らの胸に押し当てた。
撃てるものなら撃ってみろ、下等種め。
言葉なくして伝わるその声に、弟切はついに引き金を引けなかった。気付けば、全身に無数の穴が穿たれていた。PDWの銃口が煙を燻らせていた。
「弟切さあああん!!」
椿の絶叫の中、ずるりと崩れる老体を野草のように踏み越えるドレートは、剣をコンクリートの足下に突き刺すと、彼女の首根っこを掴んだ。
「さぁ、本物のツバキ・ヒヤマよ。共に来てもらうぞ」
「ま、マコトの何が狙いなの……?」
「これから自我を失う生き餌に答える問いなど無い」
「アンタ、殺して殺して、それで世界を手にして、どうしようってのっ」
ドレートは何も答えなかった。
「私ね、マコトがいなくなっちゃって、その原因となった人を散々責めてきたわ。頼りにならない警察も責めた。親も昔から嫌いだったから頼りにしなかった。幼い頃から私をほったらかしにして、仕事だ何だって言ってはパーティに出かける身勝手なあの人達を恨んでた。だから、マコトを探すために財布代わりに使ってやった。ナナさんのことも鬱陶しいように感じちゃってた。みんなが私からマコトを奪ったんだ、みんな敵だ、って、本気で思ったわ」
そのせいで、不眠症になっちゃった。首を締め上げられる彼女は、左の拳を硬く握った。鼻から息を吸い、自ら喉を潰すように言った。
「でもそれは間違いだった。ただの八つ当たりだった。私が責めてきた誰のせいでもなかった。そんなことに、今更気付いたのよ。本当は、本当に責められるべきだったのは、私や、アンタ達みたいな連中だったのよ。私やアンタ達みたいに、他人のことを思いやれない連中がいるから、マコトみたいに善良な人が住みにくい世界になってしまったのよ!」
「ふざけるなよ。小娘が、何を解ったような口を利くのだ」
背後のコンテナに押し付けられながらも、椿は続けた。
「解るわよ、他でもない自分のことだもの! アンタの言うとおり、目先のどうしようもない事情に囚われて、ただただ嫉妬と苦しさをぶつけてただけ! 周りがどれだけ迷惑して、どれだけ困惑して、どれだけ辛い想いをしていたのか解ろうともしないで、見て見ぬ振りして子供みたいに喚いていただけ! 私達は他人のことを省みない最低な連中――知性の欠片もない大馬鹿野郎だったのよ!」
「立場を弁えろ、人間め」
「あぁうっ!」
銃声が鳴った。椿の左太ももから血が滴る。白い柔肌が、赤に染まっていく。
「貴様と私が同列だと? 馬鹿は貴様だ。進化する素養もない下等種には、己の無力さを計る術すら解らんらしい」
意識が朦朧として、ドレートの言葉に汚染されていく。
思えば、確かに自分の無力を知らず、五里霧中だと言うのに東奔西走の限りを尽くしていた。忠告も優しさも受け入れず、とにかくひたすらに。その結果、彼らのような連中に目をつけられた。
運の尽き。這い蹲る自分は、いつの間にか周りの人々の足を掬っていた。
だけど負けられない。だから負けたくない。
「フフッ」と椿は笑った。不敵に、嗤った。
「何がおかしい。気が狂れたか」
「確かによくよく考えれば、私とアンタは違うわね。私は自分の落ち度を認めたもの。金輪際、同じ失態は繰り返さないと誓うわ。ここまで言われて学習しない、アンタとは違うから!」
「子供がなぁ! この惨状を生み出したのは貴様だろう! 貴様の暴走が、この下等種共の命を摘み取ったのだ! そんな女が、私を非難しようとは何たる愚かしさか!」
「そうよ、弟切さん達を傷付けたのは私よ! だから私は、その事実から逃げない! アンタから逃げない! 私は、うぅっ!?」
首の骨が圧し折れてしまいそうだった。もう、これ以上は耐えられないか。
でも、負けられるか。死ぬにはまだ、早過ぎる。
彼女が奥歯を噛み締めた矢先、彼女の首を掴むドレートの右腕をすり抜ける、別の腕が現れた。それは彼女の胸元も通り、よく辿るとコンテナの中から伸びていた。
不思議なことに、椿は不快な気分を何一つ感じなかった。
対するように肌を粟立たせるドレートの手の力が緩む。
椿は噎せ返しながら宣言した。
「わ、わたしは、私は、アンタの言いなりになんかならない!」
「そうです、その必要はありません」
応じる声は、コンテナを抜け、彼女を抜け、二人の間に立ち塞がった。
ドレートは手を引き、飛び退いた。
椿は膝を突きながらも叫び続けた。
負けられるか。負けられるか! こんな奴に、負けられないんだから!! 誠に会うまでは、絶対! 絶対っ! 絶対!!
「もう自分一人で抱えたり、他人任せにしたりしない!」
「えぇ、力を合わせましょう」
「私は知ったもの! こうして助けてくれた人達が教えてくれたもの!」
「私もアナタから多くのことを学びました」
「人の優しさを!」
「想いの強さを」
心を知った。
恐怖にさえも立ち向かう、純粋な愛を知った。
「人間だろうと」
「そうでなかろうと」
「「大切にするべきことは、何一つ変わらない」」
それを守り通すためにも、彼らは――
「「だから私達は、アンタのような愚か者には、絶対に屈しない……!!」」
重なる気迫がドレートを圧倒する。自然、PDWを握る手が硬くなる。
彼と椿の間を分かつように佇む〈ドレッド・ゴースト〉――柳は、首筋に汗を滲ませつつも、いつものように丁寧な口調で言った。
「よく頑張りました。アナタはもう、血を流さなくていい。私に全て委ねてください」
「ヤナギ……さん」
決してドレートに油断を見せず、振り返らない彼の姿は、満身創痍そのものだった。背に空けられた穴が、生々しい赤色で染まっていた。
「呼び捨てで結構ですよ、ツバキさん」
「今までごめんなさい。お互いズレたことばかりしてきたけど、酷いこと言ってたと思う。ごめんなさい」
彼女の口から初めて聞けたそのセリフに、柳はそっと目を細めた。高飛車で高慢ちきだったはずの彼女の殊勝な様子をまじまじと見られないことを、少し残念にも思った。
同時に、ここに出てくるときにちらと見えた光景が、柳の逆鱗に触れた。
「大丈夫です。私も、辛い想いをさせてしまいました。これで手打ちにしましょう。直に援軍が駆けつけます、それまでアナタはその足を休めてください」
「待って、お願い」と椿はせがむように希い、「私まだ、死ねないの。またワガママを言っちゃうことになるけど、でも私はマコトにもう一度会うまで、死にたくないの。生きて彼と会いたいの。私を、助けて……!」と、弱々しい手を握り合わせ、額を地面に擦りつけた。
今更怖がっているのだろう。今までにない激痛が、身体も心も苦しめているのだろう。彼女の声は目も当てられないほど、耳を塞ぎたくなるほど震えていた。
「ワガママは聞きません。ですが、元よりこの日本では、我々がアナタを守ります」
海の方から、ガシャンと大きな音が響いた。粗樫が腕一つでディアベスの身体をコンテナに押さえつけている。
「そういうこっちゃ! 阿呆共、覚悟せぇーや!」
獰猛な形相を湛える弟と同じく、ディオラは八手と激しい銃撃戦を繰り広げていた。
「俺達千代灯篭に手を出した報い、受けてもらうぜ」と八手は無反動砲を彼女に撃ち込んで、言った。
そうして木霊する発砲音と、コンテナを吹き飛ばした爆音は、このコンテナターミナル内で打ち消された。近隣の住宅街はおろか、ここを管理するメガターミナルオペレーターの警備棟にさえ響かなかった。
カゲノと同じ“影の者”達が、ここ一帯に消音粒子を散布したお蔭である。
そう、援軍が到着した。彼女らの応急処置のお蔭で、倒れるカゲノも弟切もどうにか一命を取り留めることが叶った。
カゲノは仲間に支えられながら、まだ戦えるぞという眼光をドレートに向けた。
四方八方を、およそ十余名の黒装束の集団に包囲されたドレートだったが、呼吸を整えると、冷徹な表情で高周波振動剣を再び抜いた。
明確な抗戦の意思を確認した柳は、常套句のように告げた。
「手向かう覚悟、受け取りました。我等は千代灯籠――」
「“殻斗”の粗樫――」
「“天狗”の八手――」
「“枝垂れ”の柳――」
「「「いざ、参る」」」
主導権は千代灯籠の元へ還ったかに見えた。されども、ドレート達は終ぞその反抗的な双眸を揺らがせることはなかった。
ディアベスは高周波振動剣で粗樫を押し退け、ディオラは硬い盾で爆炎を凌ぎ、そんな彼らにドレートは剣先を高々と翳して令した。
「〈トライスター・コンバット――アナイアレイト〉!!」