〔八‐4〕 “枝垂れ”の柳
「この度はご指名くださいまして誠にありがとうございます。富士・山麓に隠棲して早二二年。酸いも甘いも噛み分けて、気付けば今や、千代灯籠実動方筆頭――主に賜りし二つ名は、“枝垂れ”の柳。この身に染みついた盟約を果たすため、全力で、お相手させていただきます」
「能書きは終わりか」
イヤフォンマイクの通信を切ったクロジャイは、頭を擡げた。名乗る男に問う。
「その余裕、別室の人質は救出したようだな」
「えぇ、空き巣は得意分野なものでして。テレビ中継用のコンピューターもアンテナも、全て破壊しました。ツバキさんを攫ってから襲撃してはいけないとは聞いていません――などと、揚げ足を取るつもりは毛頭ありません。ただ、ここが好機だと判断しました」
「人質から離れていたのは、失策だったか」
「世間ではそれを、油断と言うんですよ」
クロジャイはイヤフォンマイクを外し、長机の上に置いた。
ここは、廃ビルの最上階。会議室として使われていたと思しき、ビル内で一際広い一室だ。その隣屋には、椿の家族を拘束していた資材置き場がある。
会議室に設置した電波受信機からパーラの報告を受けると、資材置き場に用意していたビデオカメラで家族達の様子を捉え、双子の姉ディオラが作製したトランスミッターとコンピューターウィルスの発信を併用し、映像を国内のあらゆるテレビ局とインターネットのポータルサイトにリアルタイムで配信することができる。逆探知を撹乱するために、都内の至る箇所にトランスミッターを秘密裏に設置していた。家族の公開処刑は、ボタン一つと、三度の引き金――全て人差し指一つで放映される手筈だった。
「何故だ。何故分かった」
昼間、ドレートが電話で柳と話したのは、この廃ビルだ。誘拐の様子を追走しようにも、パーラの能力の前では全くの無意味。さらに保険として〈マント型DEM〉で全身を包み、誰にも見られぬ状態でこのビルまで移動した。
〈DEM〉は複合的なステルスシステムだ。目に見えず、音を消し、ニオイまでも失くしてしまう。それはどのような手段でも外からは観測できない。しかし装備者、あるいは装備物には多大な負荷を掛ける。その最たる要因が、内向きに発する強い電磁波だ。
クロジャイが聞いた話によれば、ネイムレスは戦闘服に〈DEM〉の搭載を検討し、実験を行なっていたらしい。しかしあえなく断念することになったそうだ。何故なら、〈DEM搭載型戦闘服〉を着用したヘレティックのDNAが強過ぎる電磁波により変質し、装着者が廃人と化してしまったからだ。ヘレティックのDNA――〈覚醒因子〉と呼ばれるセンスの源となる人体第三のゲノムが、少し刺激しただけで消滅してしまうほど繊細なものだったために、耐えられなかったのである。
だが、クロジャイは〈マント型DEM〉を装備できた。それは彼の〈覚醒因子〉が特別頑丈だったからのようだ。そして人型恐竜ことクロジャイ・クローンもまた、彼の完全な複製とは言えないものの、〈DEM〉を装備するのに充分な肉体を有していた。
だからそれを装備できる彼を追跡することは不可能だったはずなのだ。しかし現実は違っている。目の前に〈ドレッド・ゴースト〉が立ちはだかっている。これはもう、クロジャイの頭では考えられない事態だった。
「私には分かりませんよ。私はただ、指示されたとおりに動いたまで」
クロジャイの指がピクリと反応して、「誰の、指示だ」
「それを言ってしまってはクイズになりません」
「誰が貴様とじゃれ合うか。俺は尋問しているんだ」
「止しましょうよ。そういうことは、か弱い人間の領分です。我々には他に似合いの手段があるでしょうに」
「いいだろう。貴様の四肢を捥ぎ、五臓六腑とそのふざけた首級を、ドレートへの手土産にしてやる」
クロジャイはジャケットを脱ぎ捨てた。分厚い胸筋とシックスパックが露になる。その肌は、やはりクローン達の親――爬虫類の硬い鱗に似ている。
「希望どおり、血飛沫撒き散る拷問の末にな」
「それは嫌がらせですよ。私なら縁を切ります」
「奴と貴様を同列に語るな。俺は、奴の好みを知り尽くしている」
「危険な発言ですね」
「俺と奴が意気投合したきっかけを教えてやろう」
「結構です」
「俺達の好物が――」室内の前後の壁際に立っていた両者の間隔が、一息に狭まり、「人間の血肉だったからだ!」巨体が視界を埋め尽くして、柳に拳が振るわれた。
速い。
遅れて室内に並ぶいくつもの長机が左右の壁へ弾け飛ぶ。
「《二律背反》――」柳は透過のセンス《二律背反》を発動し、「〈無相・鏡花水月〉」昼間と同様にクロジャイの拳に自分の身体を通り抜けさせた。柳はそのまま、事も無げに彼の身体をすり抜けて背後に回ると、飛び上がって長い足で彼の後頭部を蹴った。
「効かぁん!」
左の豪腕が斧のように背後へ振り下ろされる。再び柳は透過した後、距離を取った。
「昼間のように、激怒していないんですね」
「そう見えるか?」
クロジャイは向かい合うと、全身に力を入れて、「貴様の目には、俺の滾る怒りが見えんかあああああっ!?」胸を突き出すように叫んだかと思えば、右の拳で床を貫いた。煤けたカーペットと床のコンクリート材が粉塵を散らす。彼は深く突き刺したその腕にさらに力を篭めると、砂を掻くような軽さで床材を潰しながら走り、肉薄した。
「シアッ!」
彼が右腕を掻き上げると同時に、目潰しにしては大き過ぎる無数の塊が飛来する。
飛礫の直撃を免れたい柳は単調な透過を試みるも、足元に迫る蹴りにヒヤリと肌を粟立たせた。仕方なく、ザルから落ちる水のように床下へ消え、下階へ逃げた。
「芸が無い!」
「アナタのセリフにも個性がありませんよ」
クロジャイの目の前で消えた柳は、いつの間にか後ろを奪い、彼の曲がった背中に足をかけると、コンクリートの一塊で首筋を殴打した。ぐらりとクロジャイの身体が前のめりに倒れる。しかし柳の着地の瞬間、駿馬のそれのような、強力な後ろ蹴りが繰り出された。
「ちっ」
舌打ちの後、柳はその蹴りを透過し、再び下階へ消えた……と思いきや、寸秒の後、クロジャイから遠く離れた位置から現れた。
「今、手が見えた」
クロジャイは先程――柳が消えた瞬間に、天橋立の“股のぞき”よろしくの格好で、奇妙な光景を目の当たりにした。床から、人の手首から先が、タンタンタンと等間隔で床を這って遠ざかっていく様が見え隠れしたのだ。
さながら、遊具の一――雲梯を渡るかのように。
「そのセンス、読めてきたぞ」
「ほぉ、それは面白い。あ、そう言えば使わないんですか、〈DEM〉」
「アレは繊細な上に高価でな、ドレートからは白兵戦には用いるなと釘を刺されている」
「現実的なんですね。なるほど、ならば看破される前に決着をつけてしまいましょうか。こう見えてスケジュールが過密なんですよ、私」
「行かせはせん。我々にはやらなくてはならないことがある」
「そう、まさしくそれなんですよ、私が訊きたいのは。あの場では言えませんでしたが、アナタ方の狙いは、飛山椿を使って早河誠を誘き寄せることでしょう? 我々のようには覚醒していない、単なる一市民に過ぎない彼女に、人並み以上の価値があるとすればそれしか無いですから。ですが、それをして何になるんですか。彼を戦争の道具にでもするつもりですか?」
「愚問だ。貴様には、解けぬ謎を抱えたまま地獄へ逝ってもらう」
「承知しました。それではアナタ方のリーダーに問い質してみましょうか」
「行かせんと言った!」
一本調子の戦闘が続く。
クロジャイの重たい拳と蹴りが炸裂し、柳がそれを透過させる。柳は隙を見て、クロジャイの急所を突く。
クローンを解剖した限りでは、クロジャイの急所は人間のものとは大きな差異がある可能性が高い。柳はそれを踏まえつつ、首筋の総頚動脈や頚椎、脇の下や鎖骨、脛やアキレス腱などを、コンクリート片で殴打した。されど、効果なし。クロジャイの肉体は、鋼のごとく強靭だった。首のすぐ下にあるらしい心臓も、やはりクローン同様、一際硬い表皮で覆われているので徒労に終わるだけだった。
かと言って、粗樫の肉体ほどではないというのが、柳の救いだった。もしもここに人質がいなければ、彼にこの男の相手を任せていたところだ。肉弾戦モットーの二人のことだ、さぞや暑苦しく原始的な戦いを披露してくれたことだろう。
「まだ、やるかぁああっ!?」
柳は分析を絶やさない。
クロジャイはデタラメに、我武者羅に拳を振るっているように見えるが、考え無しというわけではなさそうだ。
まず、透過中における二つの行動を気にかけている。一つは着地していながらの透過。もう一つは、床下への透過である。足元への攻撃が多いことから、そこにタネがあることを感知しているのだろう。
また、透過後の攻撃は気にせず、透過そのものを警戒しているような動きを見せている。彼の右腕が身体を透過すると、彼はすぐにその手を引っ込めるのである。彼の身体をすり抜けると、こちらの反撃そのものよりも、こちらの肉体からいち早く逃げ出すような素振りを見せる。
これは、つまり――
「うあらぁっ!!」
柳が穿鑿していると、クロジャイは両手の指を絡ませ、それを高々と振り上げ――下ろした。巨大なダブルスレッジハンマーが床を破壊する。たちまち会議室に亀裂が入り、溶けた氷河のように崩れていく。塵芥が視界を奪う。
足場を失くした柳は、下階へ落下する寸秒の隙を突かれた。コンクリートの散弾が柳を強襲したのだ。柳は咄嗟に身構える。皮膚に当たる感触があった直後、〈無相・鏡花水月〉を辛うじて発動する。飛礫が背後の壁に当たるのを待たず、クロジャイの蹴りが飛んできた。柳は着地と同時に、飛び込み前転で彼を通り抜けた。
「常時発動できるわけではなさそうだな」
「……生物のやることです。何事にも、デメリットはつき物ですよ」
クロジャイは、血みどろの柳の様子にご満悦だった。
柳は腕をはじめ、全身のあちこちを赤く染めていた。一張羅のコートもボロボロだ。それでも幸いだったのは、傷付いたのが表皮だけで、真皮より内側の筋肉や骨、内臓は無事だったことだ。
落下した場所は事務所跡だ。向かい合わせに並ぶ事務机の上に無数の資料が散乱し、そこへ上階の床――ここで言うなら天井や電灯、長机などがそれを押し潰しているという落花狼藉の有様だ。
柳は髪を気にした。自慢のドレッドヘアーに細かい瓦礫が絡みついている。よく見ると、センスの発動と解除という一連の動作によって、それらが髪の毛を――あるいは髪の毛がそれらを貫通し、同化していた。煩わしいような顔をした彼は、コートの裾を払い、こびりつく瓦礫を振るい落とした。
そんな彼の様子に、「なるほどな」とクロジャイは心得顔で言った。「肉体とその衣服。リンクしているようで、実質そうではないのだな」
「……はは、何を」
「ふん。髪の毛は肉体の一部故に、物質を貫通中にセンスを解除すると、髪と物質の交叉部位は融合する。しかし、衣服は貴様の肉体とは別物の、特殊な繊維で構成されていると見える。故に、物質を貫通中にセンスを解除しても、融合せずにそれぞれに分離される」
柳は眉をひそめて生唾を飲み、腰を落として構えた。
「恐れて損をした。時間も浪費した。俺が気にかけるべきは、貴様の肉体だけだったわけだ。それも、肉体と繋がっていながら神経の通っていない毛髪部分だけだ……!!」
逃げ回る貴様に、骨身を断ってまで戦う度胸は無い!
断じて、クロジャイは無鉄砲に飛び込んだ。柳を殴ろうも、例によって透過される。背後に回られる寸前、彼のコートの裾を掴んだ。そして引き寄せ、壁へ打ち付けるように投げた。
しかし柳は瓦礫の山にぶつからず、身体をビルの外へ投げ出した。ビル内部に残していた手首から先で身体を支え、遠心力の要領でビル内部へ舞い戻る。が、「しまっ――」着地の瞬間、クロジャイが高高度から拳を振り抜き、「もらったぁっ!!」拳が、床を砕いた。彼の腕が、柳の懐を貫通している。
「……まだ、だろう?」
「えぇ、まだ皮膚より内側へは届いていませんよ」
それは透過された身体だった。それなのに床に血が広がっているのは、彼の背中の皮だけが穿たれたからだ。
「だがこれで……」
クロジャイは柳のコートを掴み、彼ごと垂直に投げた。
「終わりだああああああああああああああああ!!」
天井は根こそぎ無くなっている。柳に逃げ場は無い。彼は柳の落下に合わせ、指先を揃えた四本貫手で彼を串刺しにしようと構える。
瞬間、柳が嗤った。
「!」
クロジャイの動きが鈍る。
その警戒心が、柳をさらに有利にする。ぶち抜かれた天井さえも、彼の主導権を揺るがぬものへと変えていく。柳は〈無相・鏡花水月〉で彼のぎこちない貫手を透過すると、彼の足元に手を残して身体を下階へ隠した。
クロジャイは飛び跳ねてその場から距離を置く。意図があるに違いないと、柳の動きを注視する。
柳は体操競技の鉄棒技――“片手車輪”のように再び室内へ浮上し、彼に向かって右、左と蹴りを放つ。休まず、蹴りを浴びせ続ける。
太い腕でそれを耐え忍ぶクロジャイだったが、二度目の回し蹴りが〈無相・鏡花水月〉であったために肩透かしを食らってしまう。顔面を、彼の長いコートの裾がすり抜ける。
それを目暗ましにして、柳は彼の背後に回って脹脛を狙った。クロジャイにはまるで通用しないが、それで良かった。彼の裏拳が鞭のように降りかかる。柳はそれをバックステップで躱すと、再三再四の回し蹴りを披露した。
大して威力のない攻撃の連続に苛立ったクロジャイは、再び視界を奪う――顔を透過するコートの裾を気にもかけず、柳本体に向かって手を伸ばす。
タネはもう、暴いたのだ。あの細い身体に一撃でも拳を当てれば、勝負はつく。
復讐は、成る。
あの子達のための復讐を、この場で、この手で、果たすことができる!
「Fuck yooooooooooooooooooooooou aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaass!!」
「〈有相・玉石混淆〉」
柳がぼそりと独白するや、潰れるような音が鳴った。目の前からだ。目のすぐ傍から鳴った。
「残念。このコートも、私の身体の一部なんですよ」
クロジャイの右目の下から左顎にかけて、柳のコートの裾が通ったまま固着していた。いや、もはや固着ではない。紛れもなく、疑いもなく、彼の肉体とコートの裾が、物質的に、粒子的に、本来的に有り得ない“融合”を果たしているのである。
まさしく玉石混淆――クロジャイの皮膚が、血液が、骨が、柳のコートと、新たな分子として誕生したのだ。
「っっっっっっっっ謀ったか! 戦士ならばああああ正々堂々戦えええええええええええ!!」
クロジャイがかつてない激痛に泣き叫ぶ。
柳はそんなことはお構いなしに、融合していない裾の残りを引っ張ってクロジャイの顔からコートを引き千切った。それでまた、絶叫がビル内に轟く。
「正々堂々? 誘拐などという卑劣な手段を使う輩に、詭計を講じて何が悪い」
「貴っ様ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
柳は肩をすくめると、事務机の上に置いてあった金属製の小箱を手に取った。戦闘前にあらかじめ用意しておいたものである。それに搭載されたテンキーを操作した柳は、身悶えるクロジャイから距離を取り、「それに私は戦士などではありません。強いて言えば――」彼に向かって小箱を抛った。
危険を察したクロジャイだったが、もはや退路は無いと悟ったのか、逃げるどころか柳に立ち向かった。
しかして、中空の小箱は残酷にも光を放ち、「紳士です。幼女専門の、ね」弾けた。小箱から同心円状に赤く透き通った液体が膨れ上がった。それはクロジャイの身体を情け容赦なく呑み込み、一息に消し去っていく。超酸性のその液体は、一瞬で半径二メートルの空間内にあるあらゆるものを溶かし尽くし、霧散した。
そこ一帯が、この世から切り取られたように消失したのだ。
そうして、一連の溶解現象を免れたクロジャイの生首が、牙を剥き出しにして飛んでくる。
「ドレート――俺タチの――ゆめ――は――……」
生首が柳の首元をすり抜けていく中、微かな音が耳朶に触れる。
感慨は沸かない。同情はしない。
彼の背後の壁に当たった生首は、卵のようにグチャリと潰れた。
柳は伸びをすると、割れた窓から月夜を仰いだ。
「ふぅ、ヤツデさんのお土産が功を奏しましたか。アラカシ君は、大丈夫ですかねー」
向かいのビルの屋上で、彼の勝利を見届けた黒い影が立ち上がるのが分かった。