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ネイムレス  作者: 吹岡龍
ネイムレスSB【待ち人ラナウェイっ】
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〔八‐2〕 Negotiation

『――――ツバキ・ヒヤマと見受けるが、間違いないな?』


 それは一一時間程前、夕方一六時をしばらく経過したころだ。赤い髪の男――ドレートは、落ち着き払った声音で言った。ディスプレイに映る彼は、薄暗い部屋で、華美な肘掛け椅子に座っている。その足元には、飛山椿の三人の家族――父と母、家政婦の菜々が、川の字に並んで横たわっている。


『アンタ! アンタまさか、皆を殺したんじゃないでしょうね!?』


 悲愴な面持ちで、椿は叫んだ。

 しかし、足元の岩を踏み砕くクロジャイに気圧されてしまった。歯を噛み、鼻息を唸らせ、荒ぶる殺意を懸命に抑えている様子は、もはや猟奇的という表現すら超えている。

『安心したまえ、まだ生かしている。人質としてね』とドレートは視線を柳達に向け、『Mr.昼行灯の番犬達、私は彼女が欲しい。私と、取り引きしたまえ』


『何アホ言うとんじゃワレこらぁっ! 彼女くらい自力で作れや! 他力本願すんな!』

『Mr.昼行灯は犬の躾が不得手のようだな。それとも、わざと駄犬ばかりを飼いたがる物好きなのだろうか』

『何やとぅ!?』


 喧しい粗樫の頭を軽く小突いて、『下がっていなさい』と柳が一歩前に出た。

 するとクロジャイは過敏に反応するが、『クロジャイ、スマートフォンを彼女に』と宥めるように指図された。彼は十二分に加減して、椿にそれを抛った。

 咄嗟のことで椿は慌てるも、受け取ろうと両手を伸ばす。だが、中空で柳に横取りされた。


『拉致が難しいとなれば、今度は人質を取り、交換条件を提示しますか。しかし、満足いくまでやりきっていないのでは?』

『…………』

『人質を盾に、彼女を強引に攫っていくこともできるでしょうに』


 ディスプレイに向かって柳は言う。遠目では赤い髪ばかりが目立っていたが、こうしてよく観察するとその下の小奇麗で冷ややかな輪郭がよく見える。どことなく気品が漂う彼は、『非情な男だね、キミは』と柳を罵った。


『私にとってクロジャイの命は重い、という話さ。人質というカードを手に入れた今、強引に彼女を攫っても我々には何の得にもならないんだよ。キミ達は彼と彼女、そして彼女の家族諸共、この世から消し去ることができるのだから』

『その確信はどこから湧いてくるのですか?』

『人は、自分と他人の命が天秤に掛けられたとき、己に強いられるデメリットを忌避する傾向がある。誰も聖人には成り得ない、という話さ』

『つまりアナタの第一の要求は、この男を無傷で解放しろということですか』

『そうだ。私が人質を理由に、キミ達にハラキリを望まない理由も解るだろうか』

『アナタの仰った二つの話に帰結しますね。我々は我々の命のために、人質やツバキさんの命を軽んじることもでき、それ即ち彼と戦うこともできる。アナタは、我々がそのケースに及ばないという確証を得られないから、こんな奇妙な選択をしている。そして言わずもがな、その人質は、彼女をこの交渉の材料から逃がさないようにするため……』


『惜しいな』とドレートは見下すような目で顎を撫でた。

『なるほど、テレビでもジャックしましたか』と柳は鋭い眼光を忍ばせた。

 流暢な日本語で話すものの見るからに欧米人のこの男が、“Mr.昼行灯”などという固有名詞を口走ったときから、このカードを切ってくるだろうということを柳はすでに予感していた。

 命の基準についての持論を語ったこの男ならではの、交換条件を。


『それも惜しい。正確には、この国のテレビと、国民の大多数が利用するインターネットの大手ポータルサイトを数社ハックした。確認してみるといい、今だけは許可しよう』


 柳は粗樫に目配せした。

 彼はスマートフォンを取り出すと、まずはネットに接続した。すると画面は黒を映すばかりで、検索エンジンも何も表示しなかった。ブックマークから適当なサイトを選択しても、やはり黒表示するのみだった。画面をタップしたり長押ししてみても、何かを選択できたり、色が反転したりすることはなかった。

 トップ画面に戻して電波状況確認するも、アンテナは五本の内三本が起立していた。やはりテレビ電話ができる環境に違いない。続けて彼は、より確実に事態を把握するために、部下に電話をかけた。椿を追っていた弟切の部下――深山と霧島を路地裏で眠らせた男達だ。


『俺や。今、テレビ観れるトコにおるか?』

『そのことで現在、街中がパニックになっています。どのテレビも黒い画面しか表示しません。停電ではないようですが……』

『インターネットはどないや』

『はい。そちらもアクセス不能です。同様に、黒い画面のままです』

『分かった、対処はコッチでやる。お前らは仏さん持って帰れ、安全運転でな……』


 電話を切った粗樫は、鋭利な眼光を忍ばせながら、『実力は認めたるわ。魔法使い(ウィザード)にご苦労さんっちゅうといてくれや』

 ドレートは冷笑すると、頬杖を突いた。

『なるほど』と八手が納得したようだった。


『俺とツバキちゃんの通信手段は圏外のため利用できなかった。でも今は僕のスマートフォンもアンテナが立っている。キミ達の仕業だったわけか』

『電波塔のコントロールセンターをハッキングして機能停止に追い込んでから、その一帯と都心の電波だけを回復してやった。キミ達と話さなければならなかったからね』


 柳が言った。


『ミスター。アナタの本当の人質は飛山宗光とその妻、そして家政婦ではなく、私達千代灯籠の存在そのものということですか』

『そのとおりだ。もしもキミ達が第一の要求も、第二にして最大の要求である彼女の引き渡しも拒んだ場合、この国の国民全てが、彼女の家族の公開処刑を目の当たりにすることになる。それと同時に我々は、Mr.昼行灯と、彼が支える裏世界の警察機関――ネイムレスの存在を公にすることもできる』


 裏世界――決して公にしてはならない世界までも、ドレートは人質に取った。


『しかし宜しいのですか? そうすることで世界の均衡は崩れてしまいますよ。緩慢にでしょうが、崩壊の一途を辿ることに違いありません。やがて表と裏は溶け合い、我々のような者達は矢面に立たされ、存在について賛否を分かつことになる。我々は、善か悪か、人間か否か。当の我々少数派(マイノリティー)を差し置いて、多数派(マジョリティー)が勝手気ままに議論します。それは、三度目の世界大戦の始まりです』

『そうだ。だからこそ素直に、私の要求に応じてほしい。今この場においては、我々は互いに張り詰めた糸を緩めるべきではないのだよ。私を大罪の徒にしないでくれ』

『ふはは、面白い。運命共同体ですか』


 何言ってんのよ! そう怒鳴ろうとした椿だったが、彼の顔の上で起きている矛盾に辟易してしまった。口角が上がっている反面、怨念めいた熱を帯びた双眸がギラついていた。

 これは怒り――か?


『それはそうと、お尋ねしたい。どこで我らが御頭首の情報を仕入れたのでしょうか』


 出自についてはいくつか想像はできるが、勝手に当たりをつけることは危険だ。だから柳には、千代灯籠の一員として一度は聞いておく義務があった。


『答える義理はないはずだ』


 木で鼻をくくったような返事に、柳は落胆しなかった。予想どおりだった。だから淡々と、『ではもう一つ』と少し間を置いて、『何故彼女を欲するのですか。これまでのアナタの口振りから、私はてっきり、アナタは彼女を一人の女性として迎えるつもりなのだとばかり思っていたのですが。英雄色を好むと言いますし、女のために世界を壊そうという愚考もさもありなんなのかと……。しかしそれもどこか違うように思えます』


『まぁ、私個人としましては、こんな枯れ木に興味も愛着もありませんから、誘拐自体にこれといって歯向かう理由はないのです。むしろそちらが動きやすいように、便宜を図りたいくらいです』


『ちょっと何言ってくれちゃってんのっ!?』と噛みつく椿の口を片手で塞ぎ、『ですが如何せん、我らが御頭首は彼女をひどくお気に召しているようで、私の一存では彼女を譲渡しかねます。ですから、御頭首を説得するには、それ相応の理由が必要となるのです』


 ドレートは短く笑った。


『痛快な話術(レトリック)だが、やはりこちらに答える義理はないし、飼い主に指示を仰ぐ必要もない。時間の猶予交渉にも耳を貸すなどもってのほか。今のキミ達は、歯牙を抜かれた愚かな家畜だ。従順に、何も言わず、このスマートフォンを彼女に渡して下がりたまえ』


 要件だけを伝え、それ以外については答えない。こう徹底して黙秘を続けられては、つけ入る隙を見出せない。それでも、どうしても相手を揺さぶりたい柳は、『断ると言えば?』一か八か、挑発してみた。

 彼は柳を非情な男と見ている。真実そう考えているかは不明だが、確かに千代灯籠には何が何でも彼女を守らなければならない理由はない。それなのに一般人の死を望まないのは、彼らにも人並みの倫理観があるからだ。人道に悖る行為は、本意ではない。

 しかしそれは理想の話である。現実では、早河誠の一件のように、ネイムレスによる拉致を黙認してきた。止むに止まれぬ理由があるにせよ、これこそ人の道に背いている。

 つまり千代灯籠は、いつでも飛山椿とその家族の命を見限ることができる。

 ドレートが指摘するとおり、この道どうあっても聖人には成れない。

 千代灯籠とネイムレスの存在を暴露しようという相手の目論見も、時間をかけて情報操作すれば、ただのフィクションとして処理することができる。その間、通常よりも行動を制限されることに違いないが、一生暴露に及び腰にならなければならないわけではない。

 だが、柳のこの策謀は、単純な行為でいとも容易く阻止された。


『複数名の人質を取るのは、交渉相手に自らの本気を伝えるためだ』


 ドレートはおもむろに席を立つと、片膝をつき、横たわる椿の母の首にナイフを突きつけた。切っ先が彼女の首筋に食い込み、今にも皮膚を突き破ろうとしている。譲歩してくれる気は、皆無だ。


『やめてよ!!』


 椿は今にも泣き出しそうな顔で嘆願した。


『アナタ達の指示に従うから! どこへでも行くから! だから、お願いだから、誰にも手を出さないで!』


 ドレートはしばらく彼女を見つめた後、ナイフを引いた。うそ寒い笑みがこぼれる。


『その言葉を聞きたかった。謝意を表するよ、ツバキ・ヒヤマ』

『こんな搦め手まで使っておいて……!』


 目も鼻も赤くして、椿は男を睨んだ。同時に、後悔した。あの時、柳の忠告どおりに大阪に行かなければ、少なくともこんなことにはならなかったのではないのか。家族に迷惑をかけずに済んだのではないか――と。

 怨まれているなと、八手は深く懺悔した。あの日、自分が拉致の手引きをしなければ、こんな状況にはならなかったのかもしれない。そう思うと、胸が苦しい。この痛みは、慣れてくれない。

 粗樫のスマートフォンが鳴った。相手の言葉を、柳に伝えた。


『どうやらコイツら、今の行動をテレビで公開したっぽいですわ。でもすぐに何も映さんようになったと』

『それを観た視聴者の数は』

『おそらく、テレビを点けてる四七都道府県のご家庭、ほぼ全て……』


 これ以上は危険だなと、柳は判断した。結局得られた情報は一つ――彼らは千代灯籠とネイムレスを深く知っている。知り過ぎている。


『もう少し食い下がると思っていたが、キミは引き際を心得ているようだね』


 椿にスマートフォンを手渡す柳の様子を見て、ドレートは甘心したようだった。これで交渉は成立したも同然。彼は余裕綽々の笑みで問いかけた。


『それはMr.昼行灯のためか、ネイムレスのためか、彼女のためか。はたまた自分のためか?』

『世界のため――と言えば格好がつくところですかね』

『白々しいね。キミの目は、エゴイストのそれだよ』


 柳は冷淡な笑みを変えない。怒りと思える相貌も、二度は見せてくれないようだ。


『さて、諸君。話がまとまったばかりで申し訳ないが、まずは第一の要求を呑んでもらおう。そしてもう一つ指示を出そう。クロジャイの解放後、誰一人として彼女との接触を禁じさせてもらう。彼女が見える範囲に、誰も近寄ってはならない。変装しても無駄だ、私には解る。禁を破れば、その時は――』

『アナタには、解る……?』


 一同が抱いた疑問を、椿は代弁した。

 ドレートは取り合わず、突き刺すような視線を彼女に向けた。


『……時間や場所は、追って知らせる。キミはこちらの指示に従って行動してくれ』


『分かったわ』と祈るように椿は繰り返した。『分かったから、だから、誰も……』

 ナイフはジャケットの内ポケットに仕舞ってくれたが、願いを聞き届けてくれたようには思えない。震える椿に、ドレートは一分の同情も示さず、『それではクロジャイ、戻ってきてくれ』と、彼方からこの場を自由に動かした。当事者でありながら、神という名の第三者を気取り、高みの見物に耽っているつもりなのだろうか。


『この場で貴様を殺したいところだが、ドレートの邪魔はできん』


 クロジャイはそう言って、柳を指差した。

 その直截的なセリフが――もしくは指を差されたことが気に食わなかったのか、柳は状況を鑑みることもなく言い返した。


『アナタ、見くびられているんじゃないですか? このドレートという方に』

『ちょっと!』


 誘拐犯を刺激するとは何事だ。椿は急いで柳を窘めるが、打ち鳴らされた大きな音に身をすくませた。音が鳴った方――スマートフォンのディスプレイをのぞいた。


『キミ達も彼女に感謝するんだね。危うく殺してしまいそうになった』


 椿の母の顔のちょうど真横で、ドレートの足が床を垂直に踏みつけていた。普通ならできそうにない話だが、普通でない彼らならば、勢いよくそうするだけで人間の頭蓋をザクロのように潰すことができるのかもしれないと思うと、椿はぞっとして立っていられなかった。

 その場に座り込む彼女を尻目に、クロジャイはクローン達を連れて走り去り、それを見届けたドレートは通話を切った。

 粗樫のスマートフォンがまた鳴った。どうやら今の映像も一瞬だけ流れたらしい。

 肌が粟立つ。冷や汗が止まらない。椿は乾いた喉に生唾を流し込むと、怒鳴った。


『余計な真似しないでよ! もうこれ以上、話をこじれさせないで!』


 手助けしたいという気持ちも、度が過ぎれば有難迷惑だ。柳はこれ以上は刺激できないなと肩をすくめ、粗樫を連れて立ち去っていった。八手も、せめてこのナイフだけでも護身用にと取り出したが、これも彼らの言う“禁”だと思い留まった。


『ツバキちゃん……』


 八手に連れて行かれそうになった弟切警部が、彼女に声をかける。

 背中を打つそれに、椿は身をすくませた。しかし振り返らずに立ち上がり、『ごめんなさい、弟切さん。巻き込んじゃって。でも、私もう、行くから……!』とクロジャイ達が消えて行ったほうへ、覚束ない足取りで進んでいった。

 弟切は、ポケットの中に入れていたサイコロを、固く握り締めた――――。

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