〔八‐1〕 長い夜
闇に溶けた深夜三時。今夜の東京の気温は二八度、ほぼ無風、冷房か扇風機でもなければ心地よい夢は見られないだろう。
それにしても俗に言う、丑三つ時。奇奇怪怪な魑魅魍魎が跳梁跋扈する、異気満ちる危うい時間。それでなくても都会の夜には変わった人が溢れ、その大半があらゆる意味で正気を失っている。闇に乗じて悪さを働く者も少なくはない。
大通りから外れた脇道で、建設途中のビルを見上げていた少女は、ギプスで固めた右腕にそっと触れると決意した様子で歩き出した。
立ち入り禁止のフェンスの扉の鍵は壊されていた。誰がやったのかは明白だ。
まだガラスが嵌っていない、ほぼ吹き抜け状態の入り口に踏み入る。内部は真新しいコンクリートと、未だに剥き出しの鉄骨が入り乱れている。大気の流れが滞っているので、セメントとペンキの匂いが噎せ返りそうなほど充満している。床はビニールシートで覆われていて、細かい鉄屑や砂利の海が広がっている。
暗がりで判然としないが、入り口正面にフロント、左手にロビー、右手に四基のエレベーターがうっすらと見える。エレベーターの前には〈危険 工事中〉と記された看板。よく見るとエレベーターのドアはなく、ぽっかりと空いた仄暗い口の奥にはリフトらしき物は見当たらなかった。
不用意に近付くのは危険だと思った矢先、手元の携帯電話が鳴った。通話ボタンを押すと、男が出た。昼間にテレビ電話の画面に映っていた、赤い髪の男のそれだ。
『よく来た、ツバキ・ヒヤマ。感謝するよ』
「…………」
『入り口向かって左のロビーの奥に、非常階段がある。そこを最下階まで降りてくれ。最下階の扉を開けた後は、両手を挙げて――いや、左手だけでいい。ゆっくりと前進してくれ』
気遣いは紳士的だが、やっていることは外道だ。
今一度気を引き締めて、「アンタ、私をどうする――」
『お喋りをしたくて呼び出したわけではない。立場を弁えたまえ』
にべもしゃしゃりもない。言われた通りに進むしかないようだ。
階段を降りる中、昼間の出来事を回想した。




