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ネイムレス  作者: 吹岡龍
ネイムレスSB【待ち人ラナウェイっ】
75/167

〔七‐4〕 逃げるが勝ち

 男達がそれぞれの場所から、それぞれの思惑を胸に、その光景を目撃していることを、光景の最も近くにいる二人の男女はまだ気付いていなかった。


「驚いたな。キミは頭が良い」

「結構危険ですけど、これなら一先ずは安心でしょう?」


 椿達は、身を潜めていた五階から最上階の六階を通り越し、屋上へと場所を移していた。彼女らは五階である仕掛けを施してきた。病棟の両端にある階段付近に、各病室やナースステーションから持ってきたカーテンやら紙媒体の資料などを大量に散乱させ、火を点けたのである。

 ごうごうと音を立てて燃え広がる炎は、黒煙を伴って一帯を満たしていった。一酸化炭素は上昇を続け、階段を伝って六階へと魔手を伸ばした。六階の両端は防火扉で塞いだ。炎や煙の伝播を最小限に留めることに加え、充満した煙で視界を悪くさせ、相手から上階へ上ろうとする気力を削ぐ作用も齎した。


「ただし、これは精々時間稼ぎにしかならないよ。都内とは言え、近くに電波塔がないのかな、僕らの通信手段は圏外で利用できない。これではキミに付けてあったGPSビーコンも機能してくれているか分からない」


 八手は椿の服の裾に取り付けていた小さな機器を、彼女に抓んで見せていた。いくら身を守るためとは言え、あまりイイ気分はしなかったが、それでもこれが必要な現状では文句の言いようがなかった。


「まずは仲間に位置を知らせること。そして生き延びること。敵の撃退は二の次だ」

「うん」

「トラップに引っ掛かってくれることを期待しちゃいけない。偶然は偶然でしかない」

「もしもトラップに掛かったら死んじゃうよね、あの恐竜」


 彼女の表情に影が差した。そうした様子は早河誠によく似ていた。


「大丈夫、安心して。今から起こることは全て事故、あるいは正当防衛でしかない。キミはまず、自分が生き延びることだけを考えるんだ」

「その過程で僕や誰かの命が天秤にかけられたとしても、キミは自分の命を第一に考えて行動するんだ」

「そんな! アナタには生きて、カササギとしての役目を全うしてもらわないと困る!」

「僕はキミ達のそういう、愛に一筋なところは大好きだよ」


 言った傍から、足下で爆発が起こった。屋上の端まで行くと、病棟の両端から中央へと順に、五階の窓枠が吹っ飛んでいく様子を見下ろせた。そして窓枠だけでなく、炎と、それを纏ったように院内から弾き出されていく人型恐竜の姿もあった。

 五階のナースステーションには石油ストーブがいくつか保管されていた。八手はそのうち灯油が入ったタンクを選ぶと、注ぎ口を開けた状態で五階の廊下の様々な場所に放置した。注ぎ口にティッシュのように燃えやすい物を垂らすようにしておいた。ついでにスプレー缶も数本あったので廊下に放置した。

 今も尚、五階で爆発が連続していて、恐竜達が被害に遭っているところを見ると、五階に到達した恐竜達が灯油タンクへの引火のきっかけを生んだ可能性が高い。火の点いたタンクはきっとその場で弾け、何度も弾け、中の灯油をばら撒いた。そしてそれにまた引火し、火の粉が別のタンクに引火した。タンクはずいぶん老化していたし、破裂したかもしれない。その大きな炎が恐竜達を次々と巻き込んだのかもしれないと推測できた。

 恐竜は全部で五体いた。そのうち三体が今、窓から外へ弾き出された。残り二体か。

 いや、と八手は都合の良いことを頭から排除した。よくよく考えれば、おかしいことがある。椿が襲われた交差点で〈DEM〉搭載型の布を使っていた恐竜は四体だったと記憶している。どこからか増援として一体増えたのだ。あの現場にその一体が隠れていたのかもしれないと思ったが、先日屋敷を襲った十体あまりの恐竜を見れば、追いかけてきた恐竜の数はそれに匹敵するか、それ以上だと考えるのが妥当だ。

 屋上のフェンスを握り、下階の火の手に息を呑む彼女にそのネガティブな可能性を示すことはできなかった。八手は予定どおり、屋上の端に設置された二基の貯水タンクのほうへ歩いた。


「水、入ってるよね」

「そのはずだ、離れて」


 少女が貯水タンクから充分に離れたのを見計らい、赤い刀身のナイフでタンクの腹を切り裂いた。真一文字に溶断されたステンレスは、傷口から大量の水を吐き出した。もう何年放置されたか分からないそれは決して飲むことはできないだろうが、火を鎮火させるには何ら問題はなかった。

 そう、彼らは院内の一部の火を消し止めようと考えていた。五階の廊下が火の海になることで狼煙の役目は充分に果たしてくれたので、ここから逃げ出すことを考えれば、今度は階段の炎が邪魔になるのだ。

 屋上を貯水タンクの水で水浸しにし、階段室(ペントハウス)のドアからそれを流して鎮火させるのである。それを消すということは、敵の足止めを解除するということだが、見るからに老化が進んでいる建物と一緒に心中するくらいなら、襲い来る恐竜の群れと格闘したほうがいくらかマシだという考えだった。

 八手は二基目のタンクの腹も裂いて、より大量の水が屋上を埋め尽くしていった。そしてくるぶしくらいの高さしかない、一段高い縁から徐々に溢れ、病院の外壁を伝って雫が降りていった。その頃にはもう、階段室(ペントハウス)から階段を沿って水が流れ落ちていき、すっかり加熱された足場と炎と衝突して白い煙を上げた。階段室(ペントハウス)から黒と白の煙が立ち上り、灰色となって夏の青空に昇っていった。

 二人は大量の汗をかいていた。上からも下からも熱されて地獄のようだった。


「大丈夫かい、ツバキちゃん」

「私、こんなときにまでワガママ言えるほど、しっかりとしたお嬢様じゃないの」


 八手はほくそ笑み、煙が充分に階段へ流れるのを見守った。


「目立つ行動は避けたかったけど、今回は仕方ないな」

「どうして目立つとダメなの? あ、ヤツデさんは組織のスパイだから……?」

「そう。僕は確かに、組織が千代灯籠を監視するために送り込んだスパイだ。そしてMr.昼行灯からも信を得て組織の監査役にも命じられた、いわゆる二重スパイというやつだ。スパイだなんてスタイリッシュなイメージで聞こえは良いけれど、実際は泥仕合の連続さ。誇れる仕事じゃない」

「辛いの?」

「慣れというものは怖い。僕はその考えに至ってしまったから、キミに真相を晒した。だけどそれ以前の大前提として、組織や千代灯籠は裏世界の存在だ。宇宙人クラスの不確かな存在と考えてくれてもいい。そんな連中が実在すると知れれば、世界が大乱に呑まれてしまうのは明々白々。彼らが定める禁を破った僕が言えた義理じゃないけれど、未曾有の混乱と惨事を招くことは、僕の本意じゃない」

「そんなに大仰な話なの?」

「僕やヤナギの能力が世間に明るみになれば、それだけでこれまでの常識は覆るよ。端的に言えば、これまでの戦争観念が一新され、兵器売買という名の人身売買がまかり通るのさ。人間ではない僕らに、人権は与えられないだろうからね。僕らは、兵器そのものだ」

「人権が無いわけないじゃない!」

「そう言ってくれるのは有り難いね。でもそれは、早河誠が能力者だからだろう?」


 図星を指された椿は、正直にも口を噤んだ。


「なぁに、気にしないでくれ。ニヒルでシニカルな根性が染みついてしまっているだけだ」

「ごめんなさい。でも、少なくとも私は、アナタ達の優しさを知ってるから、だから差別はしないわ。お互い、理解はできると思う」

「……言葉だけは受け取っておくよ。そんなことを言ってもらえるのは、初めてだから」

「素直じゃないわね」

「ハハ、それはそうさ。何せ僕らは、異端――!」


 椿は急に抱きしめられた。宙に浮いた感覚を覚えた直後、砕けたコンクリート片が飛散しているのを目撃した。


「何……!?」


 辛うじて搾り出した彼女のセリフに、八手は答えなかった。彼女を抱いて横に跳ねたのは、攻撃を回避するためだった。何からの攻撃? そんなものは考えるまでもない。


「コレが、人型恐竜……!」


 確かに一見すると二本足で立っているから人のような形に見えるが、やはりその全体像は一瞬の先入観を軽々と打ち砕くに充分なインパクトを放っていた。

 マントのような布切れ一枚が胴体と秘部を隠し、柳のそれよりも生々しい手足が長々と露になっている。肌の色は褐色というよりは浅黒く、光の加減では濃い緑にも見える。皮膚は硬そうで、鋭い爪は人の骨さえも容易に断ち切れそうだ。筋肉のつき方には無駄がなく、それでいて人間の構造とは違っている。違うと言えば、目の形も、背筋の曲がり具合も、とても人間とは思えない。

 やはり、人間ではないのだろう。恐竜なのだろう。人の形を模した、恐竜なのだろう。

 大きな口から太い糸切り歯がのぞく。

 怯える彼女に、「ャギャアーーーーッ!」と恐竜は答えたようだった。

 八手は嫌な予感がして、視線を素早く回らせた。すると屋上の縁から――つまりスクランブル交差点での行動と同じく、病院の壁を伝って、ヤモリのようによじ登ってきていた。

 その数、愚直にも予想に反してくれず、十を超えている。


「うっそ……」


「呆けている場合じゃないよ」と八手は真っ先に現れた恐竜に向かって銃弾を放ち、「下へ降りるよ。絶対に離れないで」とナイフを構えた。四面楚歌の中、八手は椿の肩を抱くと、水飛沫を上げながら煙立つ階段室(ペントハウス)へ走った。

 椿はスニーカーを履いていて良かったと心底思った。骨折サマサマだ。しかしそれでも八手の歩幅は大きく、また走力も速かったので、ついていくのがやっとだった。

 あと大股で数歩、そんなときに、今まで吠えるばかりで威嚇しかしていなかった恐竜達が動き始めた。二人に対し、次々と飛び掛ってきたのだ。

 それでも椿は走った。八手に左手を引っ張ってもらいながら走り続けた。横から飛び込んでくる恐竜を飛んで躱し、右斜め前方から牙を剥きだしに襲い来る恐竜は屈んで対応した。まるでアクションドラマのワンシーンだったが、いざ自分がその立場になってみると一切笑えなかった。本当に今ので二回死んでいる気分にさえ陥った。


「降りるよ!」


 八手のリードのお蔭で、何とか階段室(ペントハウス)に入ることができた。それにしてもと、恐竜の動きに違和感を覚えていた椿と同様に、八手は息を切らしながら言った。


「連中にも思考力はあるのかもしれない。まるっきり野生的ではないが、人間の赤ん坊くらいの知能はあるんだと思う。だからじっくり考えて、それから僕らを食い殺すことに決めたんだ、きっと!」

「殺すって、私を生け捕りにしようとしていたのに!?」

「赤ん坊に命の概念が理解できるかい!?」


 防火壁に閉ざされた六階、業火に包まれた五階を通り越し、4階へと差し掛かったときだ、急に目の前に恐竜が現れた。驚いた椿は思わず八手から手を離し、足を止めてしまった。


「怯えるな!」


 八手は叫ぶと、恐竜にナイフ一本で挑んだ。無理だという椿のマイナス思考とは裏腹に、彼は軽く、実に美しく、ナイフを振り抜いた。まるで空振りのようにして赤い弧を描いたが、刃は確かに恐竜の身体を抉り、袈裟斬りにしていた。ナイフが炎を上げているようにも見えた。


「組織特製の金属でね、大気中であれば刀身の運動エネルギーに応じた高熱を発する性質を持っているんだ。振り抜きが速ければ速いほど、相手を軽く溶断できる」

「す、すごい」

「感心してないで急ぐよ!」


 椿は竦んだ身体に喝を入れ、彼の背中を追った。全身を赤く染めて倒れる人型恐竜の惨たらしい死体を飛び越えて一階を目指した。

 これは人殺しじゃないのか? マコトはこんなことに関わっているのか? 自分も……!?

 とんでもない現実に涙が溢れてくる。そんな彼女の気持ちとは裏腹に、恐竜達は次々と姿を現し、彼女らの行く手を阻んだ。八手は二階に辿り着くと、階段から廊下へ逃げた。それでも恐竜は壁を伝って窓から、病室から、ナースステーションからと至るところから出没した。

 それらを八手一人が対処するも、いよいよ拳銃は弾切れを起こしてしまった。ナイフでは牽制は難しい。椿の目に、八手の背中から焦燥が滲んで見えた。


「ごめんなさい! 八手さん!」


 一直線の廊下を駆け抜ける中、椿にはその一言を搾り出すのが精一杯だった。


「謝る必要なんてない!」

「でも、私何もできなくて……!」

「そんなことはない! キミを守りたいと思うから、僕はこうして戦える! 本来の僕は、こんなアクションには不向きなんだよ!」


 行く手を阻む恐竜の首を刎ねた八手は、椿を階段へと連れ込んだ。ここを降りれば、出口はすぐそこ。しかし二階から一階への階段の踊り場へ踏み入ったそのとき、「探したぞ、少女」八手も足を止めざるを得ない事態に遭遇した。

 彼女らの眼前に、爬虫類似の――いや、正確には人型恐竜達に似ながらも、まだ人間らしさのある大男が立ちはだかったのである。彼は一階階段の一段目のステップに足をかけた状態で止まり、「劣等種の分際で手を焼かせるな」と彼女達を睥睨するも、少女の様子に瞠目した。


「何故、立っていられる……?」


 この大男は、横断歩道で自分に自白剤を嗅がせた輩だ。それを察した椿は、逃げるように壁に背中を預けた。そんな彼女の視界を遮るように、八手が間に割って入った。


「キミ達、あんまり危ない物を造るんじゃない。効果が弱いとは言え、あの薬に使用されている成分は、どれもこれも化学兵器禁止条約(CWC)に違反しているよ」

「何だ貴様は、少女を寄越せ」

「人間だけでは飽き足らず、僕らまで蹂躙する気かい、キミ達は」

「蹂躙だと? それは貴様らの専売特許だろう」

「それではまるで、僕が何者かと断じているような口振りじゃないか」

「Mr.昼行灯の部下だろう」

「色眼鏡は外した方がいい。お互いのために、ね」

「ならば答えろ。貴様は何者だ。返答次第では命の保障はしかねる」

「ずいぶんと使い古されたセリフを吐くじゃないか」


 八手は冷笑すると、「何をどう答えても、やることは同じだろう?」彼はBB弾のような複数の小さな玉を大男クロジャイに向かってばら撒いた。

 クロジャイが後ろに跳ねた途端、それは空中で火花を散らせ、次には白煙を生んだ。


「ふんっ、猪口才な真似をしてくれる!」


 八手は椿の肩を抱いて、元来たルートへ引き返した。二階では恐竜が三体ほど待ち構え、三階の階段からも寄り集まっていた。しかし、立ち止まっている余裕は無かった。


「邪魔なんだ!」


 八手は発煙弾を三階への踊り場に投げつつ、二階の恐竜に果敢に挑んだ。一体目の左手首を切り落とし、二体目の顎を裂いた。だが三体目が彼を背後から襲う。彼は躱しそこねて、右腕に深手を負った。ナイフが廊下に転がった。

 恐竜達は倒れる彼を包囲した。あんぐりと口を開けると、鋭い牙の隙間から、ダラダラと粘っこいヨダレを垂らした。

 さしもの八手もその光景には戦慄した。

 食われる。喰われる。骨を砕かれ、肉を貪られ、血を吸い尽くされ――死ぬ。死ぬ、死ぬ? あり得ない。こんなところで、こんな連中に殺される。自分には目的がある。それを果たすまでは死ぬわけにはいかない。だが、だが――


「あああああああああああっ!!」


 臭いヨダレが彼の全身を濡らした頃、椿が全力で恐竜にタックルを決めた。背中を押されてよろめいた恐竜は、他の二体を巻き込んで転倒した。頭を打ったらしく、恐竜達は動かない。


「ツバキちゃん!」


 我に返った八手は彼女を抱え起こすと、恐竜達を飛び越えて二階の廊下を逆走した。

 しかし、「ごぅああああっ!!」廊下の床を下階から突き破って、クロジャイが這い上がってきた。


「手間を取らせるなと言って――」

「何だぁっ、コイツは!?」


 クロジャイの背後――椿達の視線の先から飛んだ声の主に、一同は注目した。


「ツバキちゃん、この状況は何だっ!」


 刑事弟切が、クロジャイに拳銃を向けていた。


「お、弟切さんだって、どうしてこんな所に! 逃げないと!」

「俺はその後ろの、気色悪い生物を追ってきただけだ! それよりコイツは何だ! もしや、早河誠に関係してんのか!?」

「気色悪い――だと?」

「うぅっ!?」

「俺のカワイイカワイイ分身達のどこが気色悪いんだ、この劣等種がああっ!?」


 クロジャイから放たれる殺気に圧され、弟切は呼吸を忘れた。心臓が冷や汗をかき、銃口が怯えて照準が定まらない。それでも彼は歯を食い縛り、引き金を引いた。的は大きい、何度か床や天井を撃ってしまったが、当たらないわけではなかった。

 だがクロジャイには、人並みの攻撃は無意味だった。「しゃらくさいっ!」と身体を苛む火の粉を振り払うように手を動かすと、一足飛びで煩わしい小物へと詰め寄った。


「弟切さん!!」


 少女の声が耳朶に触れる。目の前では巨体が右腕を振り上げ、顔一つ分の拳を作っている。弟切は身を屈め、事の結末を運に任せた。

 …………。

 何秒経っただろうか。一向に予想していた激痛が襲ってこない。弟切はゆっくり、恐る恐る、怖いもの見たさのスリルを味わうように、厚い目蓋を開いた。


「ふぅー~~。オッチャン、あんま首突っ込まんとってほしいなぁ。死ぬで、マジで」

「あ……う?」


 腰を抜かした。

 目の前で、眼鏡をかけた若い男がこちらを向いて仁王立ちしているのである。彼は背中で大男の豪腕を受け止めて、弟切を守っていた。その表情からは、余裕すら窺えた。


「貴様、“ヘレティック”か……?」

「あ~~? ヘレ肉が何やてぇ?」


 クロジャイは彼の金属のように硬い背中から拳を離すと、もう一度振り上げ、振るった。

 関西弁の若い男――粗樫は、彼と正対すると、左腕で豪腕を受け止め、右手で首を掴み、相手の右足を蹴り払って、薙ぎ倒した。柔道で言うところの、大外刈という技である。


「おごっ!」

「ワレこらぁ。お前のせいでこっちはエラい恥かいてんぞ。どう落とし前つけてくれるんや、あぁん?」


 粗樫はクロジャイに馬乗りになると、首をぐっと締め付けた。「ぐぅっ!」と唸る彼をよそに、「ハタチ過ぎて子供に喧嘩で負けるとか、あり得へんやろ」

 弟切はその奇想天外な光景に見入っていたが、すぐに正気に戻って、ポケットから携帯電話を取り出した。が、「おっと、携帯も没収です。公にされると困ります」陰気な面構えの長身男が、彼から携帯を取り上げた。


「アンタ達、どうしてこんなところに!」


 クロジャイを警戒しながら近寄ってくる椿に、粗樫は顔を向けずに言った。


「そりゃないでツバキちゃん、呼んだの自分らやんか。コッチは必死のパッチで駆けつけたっちゅうのに、ホンマ……」

「そうですよ。礼の一つくらいいただきたいものです」

「アンタに借りは作らないわ! だから礼も言わない! 命拾いもしたつもりない!」

「本当に強情ですね……」


 彼女は柳には舌を出すのに対して、粗樫には愛らしい微笑みを見せた。


「アラカシさん、ありがとう。弟切さんを助けてくれて」

「エエてエエて」


 楚々とした笑みと、しつこくない深いお辞儀。彼女が表現する理想的な謝意をジト目で見た柳は、「差別は反対です」と不服そうに言った。


「差別じゃないわ、区別だから」

「右腕に傷を負った仲じゃないですか」

「アンタは軽症でしょ! 仲を言うなら、ヤツデさんの方が近いわよ。ねー?」


 椿は八手の左腕を取って、同意を求めた。

 止血剤を打っていた八手も、「ねー♪」と陽気に返した。

 隔離政策(アパルトヘイト)に異議を唱えようとした柳だったが、彼には先に聞くべきことがあった。


「ヤツデさん、状況の説明をお願いします。お屋敷の警備に当たっていたはずですが?」

「あぁ、それは――」

「貴様っ!」

「はい?」


 床から声がしたので、柳は視線を下げた。八手のセリフを遮った主――爬虫類似の大男は、視線が交わった途端に粗樫を大きな両手でもって押し退け、壁へ突き飛ばし、すばやく立ち上がって咆哮した。


「貴様はああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 大気を震わせ、鼓膜を劈き、壁にぶつかって乱反射するその声は、それだけで足元の塵芥を腰の高さまで舞い上げた。

 腰をさする粗樫を見やってから、「恐ろしい馬鹿力ですね。私、何かアナタの気に障ることをしてしまいましたっけ?」と柳は首をかしげた。

 その隙に弟切は、クロジャイの右脇を抜けて、彼の背後にいる椿達のほうへ逃げようと床を這った。

 そんな彼に向かってクロジャイは右拳を飛ばそうとするが、視界の左から顔面に何かが向かってくるのを察知してその動きを止め、代わりに左足を半歩下げて身を反らせた。よく見ると、何かとは、弟切の携帯電話だった。

 柳は携帯電話をナイフのように突き出していた。クロジャイが確かめるのを見てから、それを彼の背後――弟切が逃げおおせたほうへ、指先で弾いて抛った。


「……しらばっくれるなぁっ! 貴様はぁっ、我が分身を殺したあああ!!」

「あぁー。あの獣人の。それを言うなら、そこのヤツデさんも同じでしょう」


 クロジャイはすぐに振り返る。

 睨まれた八手は、「いやいや、コッチは正当防衛だよ。やめてよヤナギくーん、キミの快楽主義と一緒にしないでくれー」といつもの飄々とした口振りで回避した。


「なっ! ヤツデさん、アナタって人は……!」

「ぐだぐだうるさああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」


 そそくさと逃げる椿達を恨みつつ、柳は問うた。


「分身と言いましたか。それはつまり、クローニング技術か何かですか」

「貴様らには万死すら温い! 生死の狭間を永劫彷徨わせてやる!!」

「会話をしてください、会話を――」

「っっさぁあああああああああああああああああいがああああああああああああああああ!!」


 開いた両手が、柳を両サイドから捉えようと向かってくる。彼は透過能力を使ってそれをすり抜けた。相手の両手が激しくぶつかり、発砲したような爆音が木霊した。

 クロジャイは幽霊のような、あるいはホログラムのようなその男に対して、今度は足元を攻めた。すると柳は、彼のローキックをバックステップで回避した。


「狙いは良かったですよ、狙いはね」


 その声の直後、視界から〈ドレッド・ゴースト〉が消えた。


「こだ!! どうぉおこぉへにげたあああああああああああああああああああああああああ!?」


 柳は床をすり抜けて一階へ逃げると、ロビーで椿達と合流できた。

 戦闘放棄したのだと察した粗樫は、足を院外へ急かしつつ、「エエんですか!?」


「エエも何も、ここは逃げるが勝ちでしょう!」


 そんな言い分を聞き流せる椿ではなく、「男なら最期まで戦いなさいよ! だからアンタはクズ以下の変態なのよ!」と彼を罵った。するとすかさず、いちびりの粗樫は、「せやせや! ロリコンのクセに!」八手に至っては、「そうだそうだ、ヘイヘ~~イ!」とお祭り気分で囃し立てた。


「何なんですか皆さんっ、妙な三拍子揃えて!」


 この悪状況の中、えらく呑気なやり取りを交わす彼らに、弟切は息を切らしながら問う。


「テメーら、一体何モンなんだ!」

「俺はメタルガルルモンが好きやった!」

「何言ってやがんだ!?」

「おや、アラカシ君。テントモンじゃないんですか?」

「はぁ? 関西人は関西弁キャラが好きやみたいな偏見やめてくれませんか」

「えぇっ!」

「俺はエンジェモンかな~」

「私はエンジェウーモンよりテイルモンが好き!」

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」

「「「「リアル・グレイモンきたーーーーーーーーーーーーーーー!!」」」」


 病院の壁をぶち破り、クロジャイが駆けてくる。その勢いは凄まじく、まさに肉食恐竜のようだ。そんな彼の後を、本当に親を追うようにしてクローン達が追いかけている。

 そこへ、「弟切警部! 止まりなさい!」と場違いな声が飛んだ。弟切達の進路上に、スーツ姿の男が三人、銃を構えて立っていた。


「公安のメガネトリオか! 逃げろっ、殺されるぞ!!」


 怪訝な顔をする男達だったが、その視界が瞬く間に黒を映す。

 声を上げる間もなかった。一人は巨大な掌で頭から足の先まで果実のように潰され、一人は肩まで喰い千切られ、残るもう一人は墜落を目の当たりにしたように吹っ飛ぶと、樹木ぶつかって首の骨を折り、動かなくなった。とてつもない跳躍で一同を飛び越したクロジャイによって、三人の命が消え去った。

 椿達は立ちすくみ、クローン達に囲まれた。千代灯籠の三人が、椿と弟切を庇うように陣を組む。するとどこからか携帯電話のバイブ音が響いた。クロジャイの方からだった。


「フーーッ、ドレート、フーーッ、何の、フーーッ、用だ、フーーッ」


 鼻息が荒い彼に、電話の相手――ドレートは応えた。


『クロジャイ、ありがとう。多少の誤算はあったが、キミのお蔭で全ての準備が整った。映像を見せてやってくれ』


 クロジャイはスマートフォンの画面を一同に見せた。それは、テレビ電話の映像で――


「……ツバキちゃん、こりゃアカンわ」

「何が?」

「アレ見てみぃ。エラいことになってきたで、オイ」

「ウ、ウソ……。パパ、ママ、ナナさんまで……!?」


 画面の奥で、椿の家族が、三人仲良く横たわっていた。

 まるで、死体のように。

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