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ネイムレス  作者: 吹岡龍
ネイムレスSB【待ち人ラナウェイっ】
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〔七‐3〕 カササギ

 八手は前後不覚状態の椿を背中に括りつけたまま、郊外を目指して自慢の白いオートバイを駆った。世界一速いオートバイとしてギネス記録にも登録されていたハヤブサも真っ青の、時速四百キロメートルを超えているのではないかという超高速による連続の信号無視の末、二人は都心から遠く離れた廃病院に身を隠した。

 煤けた暗がりに連れ込まれた椿は、「アナタ……さっき、何を打ったの……?」走行中、八手に無理矢理注射されたことを辛うじて脳裏に過らせた。


「交差点でキミはどうなったか、思い出せるかい」

「こう、さ……?」

「ゆっくりでいい。キミはあの歩道の真ん中で、誰かにその歩みを止められたはずだ」

「……きゅう、に力が抜けて……それ、で――うぅっ!?」


 注射の効果か。彼女の虚ろだった目は次第に生気を取り戻しつつあったが、副作用の頭痛が彼女を苦しめた。全身の血管が別の生き物のように脈動し、彼女は脂汗をかいた。


「何ぃこれぇ……!?」

「さっき、妙な臭いを嗅がなかったかい?」

「そ、そう言えば、誰かにぶつかったときに、酸素みたいな、ニオイが……」


 椿は二ヶ月前の事故当時、病院でフェイスマスクをつけて高濃度の酸素を吸入していた。無味無臭とされる酸素だが、一定濃度にまで圧縮すると特有のニオイを発するという。しかし、病院で扱われる酸素はそこまでの濃度はなく、またニオイを発するとそれは治療とは正反対の猛毒となる。よって、彼女が嗅いだニオイはそれではない。

 おそらくは、フェイスマスク特有のニオイのほうだろう。


「それは自白剤の一種だ。一度嗅ぐと血管が収縮して血の巡りが鈍り、筋肉は麻痺する。脳は衰弱し、自分の意思で物事を判断できなくなる。しかし死には至らない。効果の弱い神経毒や神経ガスの類だと考えてくれればいい。ワクチンを持っておいて良かったよ」

「神経って……サリン、とか?」

「厳密に言えば全く違う、もっと高度な技術で作られた新種の違法薬物だ。彼らは、あの場ではキミを殺すつもりはなかったようだな」

「アナタ……何者、変な、おとこ……?」


 瞳の焦点が揺れて、彼をまともに捉えていない。


「……大丈夫かい? ワクチンの効果は折り紙付きのはずなんだが」


 椿は固く目を瞑った。歯を噛んで、少し唸って、目を開いた。息を吐き出した頃には黒く汚れた天井が視界に広がっていた。周りの色がいつもより濃く見えた。この感覚は、高熱を出して寝込んだ直後の視界に似ている。

 やおら上体を起こした彼女は、膝をついて心配そうな目を向ける男の顔を見た。


「結構ビジュアル系っぽいから、男装してるのかと思いました。ごめんなさい」


 まるで生まれたての仔鹿のように膝を笑わせながら立ち上がった彼女は、病棟の奥まった場所にあるこの部屋から出ようとした。

 八手はそんな彼女の肩を掴んで、「ダメだよ、どこに行くんだ」

 彼女は膝をつき、「どこって、ウチに帰るんですけど」と的外れなことをのたまった。


「そんな身体では無理だ」

「あ、お礼言うの忘れてましたね。ありがとうござりまめま。それれりゃりゃ??」


 再び腰を浮かせる彼女だったが、呂律は回らず、急な眩暈によって倒れかけた。八手は彼女を支えると、肩を貸し、もう一度部屋の奥へと連れ戻った。


「ホラ、ワクチンが強力な毒を殺している最中なんだ。すぐに歩けるはずがない、安静にしておかないと」

「しゃっきからアナニャ、にゃにを言ってるんでしゅか?」

「俺はヤツデと言う。ヤナギやアラカシの先輩に当たる、Mr.昼行灯の部下だ」

「じゃあ、アナタも探偵なんですかぁ?」


 目を細くして、「……そういうことになるね」と彼は笑う。


「どうして私、自白剤なんか……?」

「本当に心当たりがないのかい。何故、狙われるのか」

「私が何をしたって言――」


 意識が回復してきた椿は、ようやく思い出した。弟切の焦燥に駆られた顔や、柳の忠告が、耳の奥で反芻する。


「マコトを連れ去った犯人……? 彼のデータを消して、それでも捜し続ける私が邪魔だったから……!?」

「……悪いけど、そのデータを改竄したのはさっきの連中じゃない。我々、“千代灯籠(ちよとうろう)”と称するMr.昼行灯の一派だ」

「ど、どういうこ――ごほげほっ!」


 咳き込む椿の背中を擦ろうとしたが、彼女の弱々しい手がそれを拒絶した。


「無理はしないほうがいい。それと、大きな声も困る」

「いいから説明してよっ」

「どう受け止めるかは自由だ。ただ俺は――いや、僕は、僕が信じる大義の元に、僕の知っている情報を、キミに提供するだけだ」


 言って八手は、ライダースジャケットのジッパーを下ろすと、内ポケットから一枚の写真を取り出した。それはどういう仕組みなのだろう、写真の画像がまるで短い動画のように、生気ある動作を十秒ごとにループ再生させている。

 それに見入る彼女をよそに、彼は言った。淡々と、ことさら何もないように、意気込む素振りも見せずに、彼は告げるのだった。


「早河誠は、生きている」


 写真のような一枚の紙に映り、動いているのは、確かに少年――椿が会いたくて会いたくて探し続けている片恋相手――早河誠だ。


「記憶は無くしたままだが、元気でいるよ。キミのことも微かに覚えているようだ。必死に思い出そうと、たゆまぬ努力を続けているよ」


 床に何かが落ちた。

 ポロポロとボロボロと零れ落ちるそれの源を辿るまでもなく、八手はそっと目蓋を閉じた。

 椿は、呆然と、我を失くすように、今まで抑えていた感情の(たが)が外れたように、滝のように止めどない涙を、声も上げずに、ひたすら垂れ流していた。


「彼はあの夜、ある組織に拉致された。名目は、彼が特殊な力を秘めている可能性があるために保護する、ということだった。拉致後、組織が彼の身体を調べた結果、特殊な遺伝子の発現と、それが齎す能力の発動を確認できた」

「能力……?」

「今日までに人間が人間を定義し、人間たらしめてきたその域を、大きく超えた力だ。力の形によっては、それを行使するだけで世界を恐怖と混沌の坩堝へ突き落とすこともできる」


 写真の中の誠は、まるで米軍の特殊部隊のような、ガチガチの戦闘服を着ている。


「そのある組織は、能力者だけで構成されている。能力とは、ある者は犬のような鼻と猫のような耳を、ある者は赤外線を把握する目と空間把握を、巨大化する肉体を、火や氷を生み出す腕を――」


 柳の物体を透過する身体が脳裏に過る。あの力は、嘘やトリックなどではない、本物――


「そういう、本来ならファンタジーの中だけに許された力のことだ。彼らは、悪意ある能力者や、本来の科学力から逸脱したオーバーテクノロジーの排除を任務の主眼に置いている。彼らはそうして、今日の世界を影から、裏から、守っているんだ。先日起きた豪華客船の沈没事件にも、彼らが関わっている」

「排除って、人を、殺すの……?」

「時と場合によっては。だけど安心していい。彼は、人殺しを善しとしていない」

「マコト……」


 椿は写真を胸にあてがると、背を丸めて泣きじゃくった。


「Mr.昼行灯は、その組織に資金を提供している数少ない出資者の一人だ。彼は、探偵などではない。“日本の隠れ金山”の異名を持つ、稀代の大富豪だ」

「嘘を、つかれていたの?」

「彼らも組織との密約がある。そしてキミの命を危険から遠ざける必要もある。キミやマコト君が憎くて騙したわけじゃない。犠牲者を出すことは、彼らの本意ではないからね」

「…………」

「それともう一つ伝えておくよ。あの夜、彼の拉致を手引きしたのはほかでもない――」


 あまりに軽やかな口調だった。よどみない弁舌で、危うく聞き流しそうになった。


「この僕だ」


 しかし椿の耳は、鼓膜は、確かに今の、この八手という男の告白を脳まで届けていた。


「僕は本来、千代灯籠の一員ではない。組織の人間だ。Mr.昼行灯の部下として――」


 やおら白い手が伸び、八手の胸倉を掴んだ。窮鼠が、いよいよ彼にも噛みついたのである。


「アンタが、全ての元凶ってわけ……!?」


 八手は彼女の、怒りに震える双眸に答えた。覚悟はもう、決めた。決めていた。ここが、この(とき)こそが、長年待ち続けていた、発露(ほつろ)の始まり――


「そうだ。僕が拉致の実行部隊をあの病院へ招き入れ、当直の看護士を眠らせ、拉致の成功を見届けた」


 あの夜の当直の看護士――吉野。彼女に、椿は散々っぱら酷いことを言ってきた。八つ当たりで、彼女を追い詰めていた。

 良心の呵責が一息に椿の心を責め立てる。締め付けられては軋み、斬りつけられてできた裂け目から、怨みと憎しみが綯い交ぜとなった怒りが、噴煙のように弾けていく。

 椿は馬乗りになり、力の限り、八手を殴った。殴って殴って殴って、「アンタがっ! アンタがっ! アンタがマコトをっ奪ったっ!! 奪ったあああっ!!」左腕で、殴り続けた。

 仰向けに倒れる彼は、「……任務だった」と赤く腫れた顔で言った。


「結果として状況は好転した。彼は神にも等しい力に目覚め、僕らに希望の光を見せてくれている」


 非力な左腕では、十発も殴れば疲労困憊だ。それでも彼女は、叫びながら拳を振るった。


「ふざけないで! アンタのやったことは、決して許されることではないんだから!!」

「確かに許されない。だけど彼をあのまま放置しておけば、キミを襲ったような連中に確実に弄ばれ、殺されていた。そうでなくても、人としての扱いは受けなかっただろう」

「そんなことはっ!」


 そんなことはどうでもいい。

 どうだって、よかったのに。

 誠が隣にいてくれること。それこそが、何よりも重要だった。襲われようとも、殺されようとも、誠さえ傍にいてくれさえすれば、それで、よかったのに。よかったのに――


「……この世界の裏側では、能力者の熾烈な奪い合いが日常的に起きているんだ。僕の所属する組織は能力者を保護し、有志から戦力を募っているが、他では奴隷ならまだマシ、兵器のような戦いの道具同然の扱いをされるのがほとんどだ。彼は、運が良かったんだよ」

「何言ってんのよ! 自分のしたこと分かってるの!?」

「キミよりかは理解しているつもりさ。だから僕は、キミに謝るしかないんだ。許しを請うのではなく、犯した罪と向き合うために頭を下げ続けるしかないんだ。この事実を、語るしかないんだ。本来は極秘であるこの真実を、命を懸けて……!!」


 殴打に耐える八手は、力強い眼を彼女に向けた。それは彼女への反抗という、安っぽい意思の表れなどではない。激痛を甘んじて受け入れる固い決意と覚悟を宿した、真摯な眼光である。

 椿は振り上げていた拳を下ろしつつ、「……私に喋って、大丈夫なの?」


「だから、言葉どおり命懸けだよ。キミが他言すれば、キミも僕も命は無い」


 思わぬ巻き添えを食らって動揺する彼女に、彼は続けた。


「彼の拉致だけは特別だった。それは彼が、能力者の中でも一際異彩を放っているからだったのかもしれない。そんな特別な彼の、特別な女性であるキミには、全てを話しておかなければならないような衝動に駆られてしまったんだ」


 椿は、彼に圧し掛かっていた身体を立たせると、壁に寄り掛かり、腰を下ろした。


「コレが、キミが知りたがっていた、早河誠の失踪事件における真実の全容だ」


「マコトは、帰ってこないの?」と、椿は明後日のほうを向いて訊いた。


「組織に一度入った人間は、二度と元の生活を送ることは叶わない。脱退は反逆行為――抹殺の対象となる」

「そんなのあんまりよ、一方的過ぎるわ……」


 彼女は顔を覆った。


「この世界の現状を維持するには必要な措置なんだ」

「じゃあ、私を組織に入れてよ」

「それはできない。組織に入れるのは、能力者だけだ」


 八手はおもむろに自分の顔を撫でた。鼻先を抓み、目元や頬骨を押し込み、顔を左右から押し潰すようにした。すると彼の顔はあっという間に、柳の陰気な顔そのままに変化した。彼は、自らも“変身”ができる能力者であることを、無言のうちに証明したのだ。


「この能力を知っているのは、キミの知人では、Mr.昼行灯とヤナギだけになる」

「じゃあ、どうすることもできないの? 私は二度と、マコトに会えないの?」

「…………」

「そんなのイヤ。イヤよ、そんなの!!」

「彼が記憶を取り戻せば、何かがあるかもしれない」


 泣きじゃくる彼女に、顔を復元した八手は告げた。「確証は無いよ」希望的観測だ、あるずもない。それでも、「だけど、そう思ってしまう。もしそれが叶わなかったら、僕はさらに命を懸けよう。彼にその意思が確認できたとき、必ずキミと引き合わせる」取り返しのつかない行為を繰り返してきたのだ、組織の一員としての義務より、人道を重んじた大義で罪を償わなければならない。もはや、悠長に己を殺している場合ではない。

 もう、益のない嘘は真っ平だ。

 八手は身体を起こして跪くと、彼女に向かって左手の小指を立てた。


「キミ達二人は、ロミオとジュリエット……いや、織姫と彦星なのかもしれないな。ならば僕は、キミ達が再び巡り会えるように、天の川に橋を掛けるカササギになろう」

「それ……」

「あぁ、彼も言っていたよ。約束を交わすときは、どうしてかコレをしてしまうんだって」


 こんなにキザな言い回しはしなかったが、誠は大切な――必ず守ると誓った約束をするときは、子供の頃からずっと、こうして小指を立てて指切りを求めたのだった。

「…信じる」と彼女はつぶやいた。

 誠のことを知っていなければ、今時、指きりなんてしない。たとえ全ての日本人がこの(まじな)いの意味を知っていたとしても、誠が常識だけを残した記憶喪失であったとしても、彼が今これを行なうことこそに意味があるのだ。

 椿は、小指を絡めた。白い指を、固く、絡めた。


「アナタの名誉のために、絶対に喋らない。だからさっきの約束、絶対にお願いね」

「あぁ。女と交わした約束は、必ず守るものだからね」


 椿は目を見開いて、「アナタ、もしかして――」何かを察した。


「禁句だ。そう思うだろう、ツバキちゃん?」


 八手は彼女の上唇に人差し指を押し当てて、彼女から語次を奪った。

 彼女も言葉を呑み込むと、顔を逸らした。不意に浮かんだ全ての疑問を明らかにしなければ気が済まないほど、彼女は子供ではない。


「さて、これからどうしようか。僕としてはキミとランデブーと洒落込みたいところなんだけど、この状況はそういう冗談が通じそうにないみたいだ」


 八手は立ち上がると、すぐ傍の割れた窓の外をこっそりとのぞき見て、そう言った。

 椿も用心深く壁に身を隠しながら立った。薬の効果は覿面らしく、神経毒による脱力感はすっかり無くなっていた。頭は霧が晴れたように冴え、視界も広がって院内の様子がよく見える。

 この病院は何が原因で使われなくなったのだろう。ホラースポットだったら嫌だなと、椿は思った。

 しかし、この光景ではさもありなんと思ってしまう。窓は全て割られた吹き抜け状態で、日頃のストレスを遮二無二ぶつけたように医療器具は壊れ尽くされ、スプレーでくだらない落書きまでされている。“~参上”、“~大好き”、こんなところで主張して何になるんだろう。彼女は見えない恐怖に怖じけながらも、学校の屋上で叫んでろよと肩をすくめるほかなかった。

 そうしてから、窓の外を見た。壁を背中に当て、なるべく全身を壁際に寄せて隠しつつ、目だけを外へ向けるように、慎重な動作でのぞいた。

 外は雲一つないピーカンで、ゆるい風で揺れる背の高い木々が病院を囲んでいる。視線を下ろすと地面が見えたが、それは思っていた以上に遥か下だった。おそらくここは四階か五階、人一人を担いで上るには苦労したに違いない。

 ふと命の恩人を見ると、「見えるかい? 大量にいるだろ」椿は疑問符を浮かべながら眼を凝らした。すると病院の庭と思しき野原に、五体の人影が見えた。いや、アレは人間ではないと直感が訴える。

 “人間ではない何か”――だ。


「大阪のホテルで、ヤナギはキミを眠らせた後、屋上で彼らと同様の人型恐竜に襲われたそうだ。難なく倒せたらしいが、謎だけが残った」

「謎?」

「彼ら……いや、当時は一体のみと思っていた人型恐竜の狙い、だよ。キミがお屋敷に招かれた日、つまりヤナギが襲われた翌日であり、僕がさる任務から帰国した日の夜、お屋敷が十数体いる人型恐竜達に襲われた。その危機もヤナギの活躍で免れたが、そこで彼らの狙いが我々千代灯籠ではないかという推測が、俄かに現実味を増した」

「……でも、本当の狙いは――私、だった?」

「状況を分析するとそうなる。見てのとおり、アレらはやはり人間ではない。僕やヤナギ、ひいてはマコトくんのように、人の枠組みから外れた、能力者であると考えられる。すなわち世界の裏で生きる連中だ。キミ達一般人とは、同じ場所には立っていない」


 優位性がどちらにあるかは別として、彼らの住む世界は全く違うのである。


「Mr.昼行灯は組織を援助している男だ。組織は裏世界の警察機関として、裏世界では名高い。無名であるにも拘らず、有名だ。要するにキミを襲った連中には、目の上のタンコブたる組織を援助している千代灯籠(パトロン)を襲う理由も、早河誠に関与しているキミを狙う理由も、充分にあるということなんだ」

「連中は、どうして私のことを知っているの? それに、マコトのことも……」

「聞けばキミは、事故からずっと、実に能動的に捜索活動を続けていたそうじゃないか。それを見かねてヤナギが動いたわけだけど、早河誠という情報が漏れたのはキミが原因という可能性は高いよ。それだけじゃないにしても、素因の一端を担っているのは確かだ」


 痛い所を突かれ、椿は顎を引いた。

 八手は即座に、「まぁ、いくら僕らが個人の存在履歴エグジスタンス・レコードを抹消しても、人の口まで完全に塞ごうというのは、土台無理な話なんだという寓喩(アレゴリー)なんだろうね」と彼女をフォローした。

 色男らしい抜け目ない様子に、彼女は微笑を浮かべた。

 しかし人型恐竜の姿が窓の外に見えると、現実に引き戻される。頭が重くなっていく。


「私を狙って、どうするつもりなのかな」

「これはもはや妄想の域なんだろうけど、一つ考えられることがある」

「何?」

「連中の究極的な狙いは、“キミであるが、キミ自身ではない”ということだ」


 八手の意味深長な言葉を、椿は少し思案すると、「何となく、分かる」


「大丈夫。たとえ何が狙いでも、この日本では千代灯籠が必ずキミを守りきる」


 千代灯籠が――椿は首をかしげ、「ヤツデさんは? 守ってくれないの?」


「僕は、一つ所には留まっていられないんだ」

「カササギになってくれるんでしょ?」


「僕は、百面相だから。渡り鳥にもなってしまうんだ」八手は自嘲するように、「ご都合主義で悪いね」


「私、あの変態ナナフシは生理的に信じたくないけど、アナタなら信用できそうなの」

「生理的に?」

「生理的に」

「……相変わらず、女の勘は恐ろしいな」


 椿は、彼の瞳がわずかに揺らいだのを見逃さなかった。しかし、何も言わない。言えない。問い詰めることなどできない。彼の事情を穿鑿してはいけない。踏み込んではいけない――残るべき謎だ。そう解釈した。


「しかし嫌がる理由がそうだとしても、少しは優しくしてあげなよ。アレでも、命を張ってキミを守っているんだから」


 重度のロリコンなんだから、手を出される心配はないんだし。

 彼がそう言うと、椿は口をへの字にして渋い面で答えた。


「よくネットで見かけるモノクロ画像に似てるのよ、アイツのシルエット」

「モノクロ画像?」

「海外の公園で遊んでる子供達の背後に立つ、黒いノッポの影の奴。あぁ、思い出すだけで気持ち悪い。あの画像が合成でも、アイツを見たらリアルにいるんだって、はぁ……」

「……それについてのコメントは控えるよ」


 八手が苦笑した直後だった。何かが割れる小さな音が響いた。

 何、今の。そういうつもりで椿は彼を見た。

 彼は人差し指を立てると、彼女の腕を握り、腰を屈めて部屋の扉のほうへと歩いた。部屋――おそらく病室だったこの場所の外には、まだ人型恐竜は来ていない。彼は脱出経路を確認しつつ部屋に戻った。。


「ヤナギから聞いたよ。キミはトラップを作るのが上手いらしいね」

「え、そんな、それほどでも……」

「何か良い策はあるかな?」


 こんなことで褒められたり頼られたりするのは、正直あまり嬉しくはなかったが、「うーん。じゃあ、ライターあります?」と提案してみた。

 八手は首をかしげた。

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