〔七‐1〕 変態狂想曲
飛山椿は、枕元に置いてある目覚まし時計に目をやった。午前七時、五分前。段々と睡眠時間が長くなってきている――戻ってきていると言ったほうが正しいか。
早河誠が姿を消してから患っている不眠症も、先日から次第に快方へと向かっている。
誠がいなくなり、誠のことが気になり、誠の気持ちが想像でき、と言いつつも容易に――軽率で手前勝手な解釈だけでは想像できず、仄暗い穴蔵で膝を抱える彼を思うと胸が詰まりそうになり……と、同じ不安ばかりが、一度考えつくと頭から離れなくなって、昼夜問わず、何をしていても、していなくても、頭の中を旋回し続けていた。
そんなリフレインの連続のような日々から、遠ざかっている気がする。
分からないことばかりで、手がかりがなくて。そのストレスを色んな人にぶつけてきたが、まるで解決には至らなかった。
むしろ自分の状況を悪くしていた。自分自身を、追い詰めていた。自分独りではネガティブな思考で頭を重くするばかりでどうしようもなく、まるで麻薬中毒者のように、一度マイナスへ向いたベクトルの針を自力で正常に戻すことは不可能だった。
それを先日、その矢印を全くの別方向へ切り替える出来事が起きた。
「アンタ、また人の家に勝手に……」
「どうも、ツバキさん。お加減は如何ですか?」
部屋の端に、枝垂れた落葉樹が突っ立ている。
この夏場に暑苦しいトレンチコートとむさくるしいドレッドヘアー。いやに長身のコイツ――柳と自称するナナフシのような男と出遭ってしまったがために、余計なストレスが増えてしまった。きっと睡眠時間が戻ってきているのは、この男のせいでかつてないほど疲れを覚えて、脳そのものが休まないとやっていけないほどに逼迫しているからなのだろう。
実際柳と話すと、精神だけでなく、体力までも削がれていく気がする。
「どうって、ご機嫌はナナメで、寝覚めは悪くて吐きそうよ」
「二日酔いですか? 未成年なのにいけませんよ、飲酒なんて」
「えぇそうね、ある意味二日酔いよ。いや、もう三日酔いよ。アンタと顔を合わせると生理中みたいになって反吐が出る」
「それはそれはご苦労様です」
この柳という男は、Mr.昼行灯と痛々しい名を名乗る謎の老人の部下である。探偵を謳う彼らは、早河誠の捜索を任せてくれと打診してきた。自分達は秘密だが公的な機関なんだと。
椿はそれを信じたわけではない。
しかしどこか、肩の荷が下りたような心地良さを覚えたのは事実だ。かと言って警察を――弟切刑事を当てにしていないわけではない。
だが現実的に、誠へ近付けたような気はしていた。それがもしかすると、不眠症改善への決定打となっているのかもしれない。
ただ、この事実を認めてしまうと、柳がつけ上がりそうで、おくびにも出さなかった。
「グラタンは美味しかったですか? 先程キッチンまで降りましたが、まだ微かに香りが残っていました。私もあのチーズが焦げた特有の香ばしい香りは嫌いではありません」
「何だか凄く不味い物を食べたような気になってきたじゃない」
「心外ですね」
もうほとんど定番の挨拶になってきているようで、それさえも気持ちが悪かった。
おはようと言われたら罵って、こんばんはと言われたら人格を疑って、さようならと言われたら存在を否定する。そんな定番が……アレ? これ、イジメじゃない? 気持ち悪いっていうか、自分がまるでとてつもなく悪いことをしているように思えてきてしまった。
椿はベッドの上で上体を起こしたまま深く息をつくと、「で、何の用。マコトが見つかったのかしら?」
「いいえ、まだ」
「じゃあ、何よ。レディーの寝顔見て、鼻息荒くしに来ただけ?」
「まさか。アナタのような行き遅れに興味はありません」
「はぁ? アンタ、私の年齢知ってるでしょう。どういう感覚してんのよ」
花も恥じらう一六歳。高校二年生。クラスでは美白総理と呼ばれ、街を歩けばモデル事務所から夜のお仕事まで、幾度もスカウトされた経験がある美少女。そんな彼女の部屋に侵入しておきながら、何もしないでいられるわけがどこにある。
椿の自惚れた瞳に、柳はふぅーと肩をすくめた。
「私にとって、女性の旬は九歳まで。頑張りに頑張りを重ねて大目に見ても十四歳が限度。それ以上は無理です」
「気色悪っ、いつの時代の貞操観念!? 私だって薹は立ってないわよ!」
「薹が立ってない……? 立ちまくりじゃないですか。程よく膨らんだ胸、くびれた腰、突き出たお尻! 全て第二次性徴への移行が完了している証じゃないですか! それで薹が立っていないなど、おこがましいにも程がありますよ!!」
アナタのその身体のドコに欲情しろと言うのですか!?
柳はそこまで言い切った。
コイツは保父さんにも小学校教師にもさせてはならない。椿は本気でそう思った。あと少し、傷付いた。そんなに魅力の無い身体をしているのだろうかと、身体のラインを確かめながら、少し……。
「アンタのとこは一々思春期をそう言わないと気が済まないわけ!? あのお爺ちゃん? あのお爺ちゃんの教育の賜物なの!?」
「勘違いしないでください。私と御頭首とでは価値観がまるで違います。そもそも解りません。どうしてあんな、化粧などという蛮行に及ばなければ人前に出られない連中と、愉しく酒を酌み交わせるのか……全くもって理解しがたい!!」
オールチェンジですよ!! ですよ!! ですよ……!!
エコーをかけてまで断ずることか。これは許せない。女として、許せなかった。
「化粧をしなくてはならない私達の気持ちが、アンタなんかに解ってたまるか!」
「この際だから言わせていただきます。皆さんのせいで、化粧の低年齢化が急速に高まってきているということを御存知ですか。世界の食糧事情や経済危機よりも、あれほど嘆かわしいことはないでしょう。何が口紅ですか、何がファンデーションですか。玉のお肌を大事にしてくださいっ、後生ですからぁっ!!」
性的描写の排除を目論むくらいなら、一四歳以下の化粧こそR指定すべきだとも、柳は切実に叫んだ。わんわんと号泣までして、ベッドに顔を伏せてマットを叩いた。
本当に、神経を疑ってしまう。ただのロリコンかペドフィリアか分からないが、ここまで来ると不憫だなと、椿は思った。
「もう何でもいいわ。私に危害を加えないというのが判ったから、それで」
「その物言いもどうかと思いますが、まだアナタは勘違いしていますね」
「何がよ」
「私は別に、幼女を襲うつもりはありません」
「当たり前よ! そんな重度の性犯罪者と会話してるなんて人生の汚点になるから!」
「最近の自称ロリコンは何かを履き違えています。ペロペロしたいだのクンカクンカしたいだのと、ただの気持ち悪い性対象倒錯者に成り下がっています。アレでは、ダメだ……!」
「アンタも相当ダメだから。というか何が違うの。ロリコンも倒錯の一種でしょうよ」
「大違いです、怖がらせてどうするんですか! いいですかよく聞いてください、この年増」
「と、年増ぁっ!?」
「我々に課せられた使命は、遠くから、あるいはすれ違い様に、彼女らの笑顔に真摯に応え、微笑み返すことでしょう!?」
「知らねぇよ、バーカ。そもそも、ロリコンの語源知らないけじゃないわよね!?」
「それでも、ハンバート教授は間違ったのです。彼女らは、穢れた我々が手を出していい領域にいないのです、聖域なんですよ!!」
「穢れてるのは自覚してるんだ、そこは褒めてあげるわ」
「我々は全ての幼き無垢な存在を主と崇め、敬い、奉るべきなのです。彼女らに手を出す連中は全員死刑ですよ死刑!! 死んじまえばいいんだ、あんな糞ド変態共はぁっ!!」
お前が言うんだ。言っちゃうんだ。
目を覚ましても続く悪夢に、椿は眉間を揉んだ。
「それで、一体何なのよ。アンタ、私に逢ってから、私の質問にまともに答えてないわよね。馬鹿にしてんの?」
「馬鹿にはしていません。蔑んでいるだけです、女として」
「そのネタはもういいっつってんのよ!」
柳は気難しい顔をして、口を真一文字に結んだ。
「何よ、早く言いなさいよ。そろそろナナさんが上がってきちゃう時間だから」
「ナナさん? あぁ、あの行き遅れの家政婦の……」
「…………」
「まぁ、何と言いますか、元気ならそれで構わないんですよ」
何だその、一人暮らしの娘を心配する、不器用な父親のようなセリフは。
「元気じゃなかったら、どうなのよ」
「いえ、我々は一般人と顔を合わせる機会がほとんどありません。被害者家族や関係者ともなれば、尚更です。ですから、警察すらも手を拱く事態であることを知ったアナタが、ショックのあまり、自殺などしてしまわないか。それが、心配で」
その言葉を聞いた椿は、彼の胸倉を掴んで言った。
彼女の剣幕に、彼も生固い目で応えた。
「舐めないで。私は誠が帰ってくるまで諦めないから。アンタらが裏切らない限り、私は彼を待ち続ける。彼の居場所が判れば、すぐにでも飛んでいくわ。私が死ぬときは、彼を殺した相手を殺して、彼の跡を――追うときだけよ」
重いなと、柳は多少の罪悪感を覚えた。それを勘繰られる前に、身体を透過させ、彼女の手から離れた。
「そう言えば、その服も見えているのに突然触れなくなるのね。身体もそうだけど、どういう仕組み?」
「禁則事項です」
「何よ、フェアじゃないじゃない。こっちは3サイズまで調べ上げられてるのよ。ちょっとは教えなさいよ」
「アナタは、自分の恥部を赤裸々に、細部に至るまで如実に言い表し、レリゴー的なありのまま精神で他人へ伝えることができますか?」
「ゴメン、そこまで言った!?」
言えないなら言えないでいいのに、どんな表現で拒否してくるのだ。朝からいやに疲れる。
「……では、そんなに知りたいのなら、ヒントを一つ」
「うん?」
柳はそう言うと、やおら彼女の机の上に置いてあるシャープペンシルを手に取った。彼はそれを、自分の長い髪の毛の、毛先に近付けた。彼はわずかに目を閉じる。すると、彼の髪の毛がペンを貫通した――かのように見えた。
ペンから手を離す彼に、「何、それ。絡まってるだけじゃないの?」螺旋状の髪の毛が無数に寄り集まり、太い毛を形成しているドレッドヘアーは、一度絡まれば離れられないツタ植物のようだ。それに、ペンがぶら下がっている。
柳はハサミを拝借すると、ジョリジョリと髪を切った。
その落ちた髪を誰が掃除すると思っているんだ。それより何より、陰毛に見えて仕方ないんですけど!
ツバキが寒気を覚えていると、彼は毛の絡まったペンを差し出してきた。
「ひっ!」
「例えばですね、私は肉体だけでなく、髪の毛もホラこのとおり、物質を透過させることができます」
「だ、だから何よ」
「よく見てください。この髪の毛は現在、ペンの中を貫通しています」
クリアなボディをしているそのペンだから余計に明白だった。確かに髪の毛は一本一本ペンの中を貫通している。あの柔らかい物質が、プラスチックを見事に。
「と言うより、この接触部分は同化しています。毛髪を構成するケラチンやメラニンなどの硬質タンパク質が、人体のそれと関わりない人工物質であるプラスチックと物の見事に融合しているんですよ」
椿は唖然として、固まってしまった。
「私はこの身の形をそのままに、透過能力を自在に操ります。先程は、髪の毛がペンを通過している途中に能力を解除したのです」
「そ、そんなこと、どうやってやるの? 猫なんかが尻尾を振る感じ、とか……?」
「ほぉ。それはとても良い表現ですが、どちらかと言えば、息を止める感覚に近いですかね」
柳はそう言うと、不敵に笑った。
「な、何がおかしいのよ」
「いえね、このペン、今にも動き出しそうじゃありませんか」
笑顔のまま、毛むくじゃらのそれを彼女に抛った。
「いいいいやぁああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
かの“G様”とご対面したときに似た戦慄を覚えた椿は、ベッドから転がり落ちてしまった。しかしペンはマットを跳ね、偶然か、彼女に迫ってくるのだった。
柳は、いつも気丈な彼女が、必死になって逃げ回る様に肩を震わせていた。
「アンタっ、アンタ殺すわよ!」
「ツバキさん? 今、痴漢に出くわしたような声が聞こえましたが……」
部屋のドアにノック音が響き、家政婦の菜々の声が飛んだ。
椿はドキッとして、柳のほうを見た。だがすでにそこには彼の姿はなかった。自慢の透過能力で音もなく逃げたのだろう。
散々好き放題やっておいて、どうして自分ひとりがドギマギしなければならないのだ。こういうのも、“やり逃げ”と言うのだろうか。
椿は不平もそこそこに、急いで言い訳を繕った。
「あ、大丈夫よ、ナナさん。ちょっと変な虫が入ってきてただけだから」
「そ、それは大変です!」
「へ?」
ドアの向こうでガタゴトと物音が鳴る。部屋の前には、収納棚があるのだが――
「突貫します!」
「と、突貫って!?」
菜々の声に続き、ドアが飛ぶように開いた。同時に、ダイハードばりの激しい飛び込みで部屋に押し入り、必要もなく横に転がってから、掃除機を狙撃用ライフルのように構えた。
「え、掃除機?」
彼女はヘッドを取ったノズルを銃口代わりにし、部屋中に顔を回らせた。するとベッドの傍の黒い物体が目に止まり、それを“宿敵・コードG”と認識するや、ライフルのスイッチを入れて叫んだ。
「退くんだよっ、死にたいのかっ!」
「ちょっとっ、キャラ変わってない!? どこのロボットアニメ!?」
「捕らえる……!!」
菜々は銃口を“G”に向けた。するとはじめ宿敵はカーペットにしがみついて粘っていたが、凄まじい吸引力にあえなく敗北し、鈍い音を残して粉体分離器の中に拘束された。
しかし菜々の追撃は止まらない。彼女はどこで拾ってきたのか、ガスマスクを被ると、左手に持った細長い缶をシャカシャカと振った。
「生ある刹那のうちに、私に出遭った不運を悔やみなさい!」
「何そのセリフ、中二臭い!!」
拘束するくらいなら誰にでもできる。だがそれでは、相手の息の根までは止められない。何と言ってもあの“G”だ。想像を絶する生命力と繁殖力を有する、地球史至上最悪の雑食性生命体は、密閉された塵芥の中でも生き延びる術を持ち合わせているに違いない。
だから――「落ちろおぉっ!!」彼女はスプレー缶の噴射口をノズル内部に向け、引き金を引いた。さらに掃除機を再起動させることで、殺虫成分を有したエアロゾルが粉体分離器へと充分に吸い込まれ、監獄の中にいる“G”から、たちまち命を殺ぎ取っていった。
事を終えた菜々は、ガスマスクを脱いで決め台詞を一つ。
「必殺技とは、こういうのを言うんです」
一仕事終えた後の清々しい汗が、彼女の笑顔を一層輝かせていた。
「ふぅ。しかし早朝からツバキさんの寝込みを襲うとは、大胆不敵とはこのことですね」
「どこでこんな駆除の仕方覚えたのよ。妙に憎しみが篭もっていたわよ」
「それはそうですよ」菜々は器内にいる黒い物体を蔑視し、「私、虫が死ぬほど嫌いなんです。足が五本以上ある生物は、全て隈なく滅びてもいいと考えています」
うわぁ、と椿は絶句した。彼女、この手のタイプだったか……。
「私もたまにそう思うことあるけど、今は大丈夫よ。ありがとう、心配してくれて」
「ツバキさん、よろしいんですか?」
「いいわよ。変な声出しちゃってゴメンなさい」
無機物に対して、みっともない真似をしてしまった自分が恥ずかしい。
椿は空笑いの後、クローゼットを開いて洋服を選んだ。
「いえ。大阪から帰ってきてから、ご様子が……」
椿が家に帰ったのは一昨日の夜だ。昨日は朝からストーカーの件について事情聴取を受けてくると言って警察署に行ったのだが、昼過ぎには帰ってきていた。
早河誠が失踪してからは、そんなことは初めてだ。日中から夜まで、学校帰りであったとしても、捜索に勤しんでいた。
心配そうに見つめる菜々を、椿は優しく抱きしめた。
「少しね、冷静に考えてみようと思ったの。だからしばらくは、ゆっくりするつもり」
「力になれないかも知れませんが、お悩みがございましたら何でも相談してくださいね?」
「うん!」
二人は微笑み合った。
その様子をのぞき見ていた柳は、床下から透過させていた頭を引っ込めると、壁をすり抜けて外へ出た。路地裏には、粗樫が待機していた。
「アラカシ君、問題はありませんか」
「あの娘が元気なん見たら分かりますやん」
「まぁ、そうなんですが……」
「何や煮え切らへんなぁ。そんなに心配やったら、すぐにでも代わりますよ」
「別に、彼女の傍にいたいわけではありません。ただ、彼らは何故、我々を襲撃してきたのだろうかと、気になりまして」
「それやったら尚更、爺ちゃんトコ帰ってください。ツバキちゃんは俺の部隊が面倒見ますから」
「それも、そうですね……」
二人は飛山の家を見上げた。東から照り差す太陽が、屋根に光の筋を刻んでいた。