〔六‐5〕 Second-Attack
八手が知る限り、青木ヶ原に人知れず佇むこの屋敷を攻めてきた者はいない。
Mr.昼行灯の部下となり、この屋敷のあるゆる場所を出入りする許可を得られるまで随分な時間を要した。一度信用を得ると、屋敷と屋敷に出入りする者のことを調べられるようになり、この奇妙な集団の歴史も知ることができるようになった。しかしどんな文献を漁ってもそれを仄めかす記述は一つも見受けられなかった。
だから何が起きても大丈夫。柳が何かに不安を覚えていたり、それが幾人もの部下に雰囲気一つで伝わっていたり、女中の姿がなかったとしても、全然問題ない。
なんて、そんなことがあるわけないと八手は湯に浸かりながら嘆息を漏らした。
こんな如何わしい集団を囲っている屋敷の文献に真実が載っているとは思えなかったし、柳や部下や女中が一つの意思の元でそれぞれに動いていることが気にならないわけではなかった。
むしろ気になりすぎて眠れなかったし、眠れなかったからこんな時間に風呂に入っているし、何て時に帰ってきてしまったんだと自分の間の悪さに後悔してしまった。
八手は檜の湯船に肩まで浸かると、ぼんやりした目で天井を眺めた。ここはMr.昼行灯の部下の中でも一部管理職の者しか使えない大きな浴場である。湯船に溜められているお湯は天然温泉で、効能は疲労回復はもちろん、切り傷や火傷、皮膚病や動脈硬化などの予防も期待される。特別何かが劇的に治癒できるというものではないが、富士の麓というだけで八手も妙なありがたみを感じて浸かっていた。
カーテンのように垂れ下がって見える湯気の先を追っていると、梁の一部が光っているのが判った。目を凝らすと、ゆっくりと一定の間隔で明滅を繰り返しているのも把握した。
また一つ嘆息を漏らした。この豆電球の光は、この湯船のこの位置からしか見えない仕組みになっている。そして光が示す意味とは――
「当て推量と心配りが日本人の心情だと言うならば」
八手は風呂から上がると、手渡された白いタオルで陰部を隠し、憮然とした態度で続けた。
「いい加減説明してほしいもんだな、ヤナギ」
「風呂上りにそんな不愉快そうな顔をする人を初めて見ましたよ」
「だから、心配りが足りないんだよ。状況が読めないから出るに出られなくて、危うくのぼせそうになった」
柳は笑って誤魔化した。そのヒョロリと細長い体躯をトレントコーチが隠していた。
八手は頭を振って、やだやだと大きな更衣室を闊歩した。棚から自分の着替えを掴むと、「その腕の傷と関係があるんだろ」と問いただした。
「まぁ、関係はなきにしもあらず」
「濁すなよ」
「ハッキリとしたことは分かりません。というか、現状、分からなくなりました」
「あのなぁ、ヤナギ。情報のエキスパートとして、何よりお前の先輩として忠告するぞ」
「窮鼠です」
「は?」
「早河誠の幼馴染の少女、飛山椿が何者かに狙われている虞があるのです」
「……おい、ヤナギ」
呆気に取られていた八手は、今日一番嫌そうな顔で言った。
「説教モードの俺はどうしたらいいの」
唸り声が、密林に佇む巨大な日本家屋を包囲する。草花や落ちた枝葉を踏み潰し、飢えたように垂涎しながら、ゆらりゆらりと近付いていく。
門前には火が灯り、邸内にも淡い光が滲んでいる。
ある者は正面から。ある者は裏口から。ある者は垣根を上って。ぞろぞろぞろぞろと、無数の足が踏み入っていく。
一匹が障子を破ると、一匹は襖を潰して屋敷の中に闖入した。
人の臭いがする。舌なめずりが、止まらない。
「なるほど、予兆はあったわけか」
八手は柳の後を追って廊下を渡っていた。夏場とは言え、頭をろくに乾かす暇もなかったから湯冷めしそうだった。
「はい、〈細田トラップ〉に何者かが引っかかった形跡がありました。ですから襲撃を受ける可能性は充分にありました」
「〈細田トラップ〉っていうのはアレだろう、早河誠の名前を含む卒業名簿を売り捌いていた細田という担任教師が使っていたPCの痕跡だろ」
「はい、架空の、ですが」
「えっと、教師そのものが、だっけ?」
「そうです。細田も、卒業名簿の売り渡しに利用していたコンピューター環境も、名簿を買い取っていた業者も、業者のメールボックスにある名簿も、全て架空の物。我々がでっち上げたものです。クラウドコンピューティング上のセキュリティは最も高いものを設定していたのですが、敵はそれを足跡一つ付けずに|侵入〈ハック〉した模様です」
「つまり今回の敵は、かなりのハッカーだと。ん、待てよヤナギ。だとするとトラップにかかったかどうかなんて分からないんじゃないのか、普通」
「業者のPCに何らかの通信量の上昇があった場合、それを外部から秘密裏に計測できる装置を取り付けていたのです。今回はそれが作動したので警戒することにしていました」
なるほどとアゴに手をやって頷いた彼は、「それでそのツバキちゃんって子はどういう子なの、可愛いの?」と話頭を転じた。
「私の趣味ではありません」
「ロリコンに訊いた俺が馬鹿だったよ」
途端、柳が足を止め、振り返り、拳を振り翳した。
何、地雷踏んだ? 今の地雷だったか!?
八手は驚いて何もできず、ただ彼の一撃を恐れて後ろに倒れることしかできなかった。そんな彼の視界が天井に向いた頃、柳の拳の進路は廊下と水平になり、彼に向かって飛びかかろうとする何かとてつもなく大きな物を殴り飛ばしていた。
あえなく腰と後頭部を立て続けに打った八手だったが、痛みよりもやはり驚きの方が勝って、呻いたのも束の間すぐに柳が殴ったものへ視線を向けた。
「何だ、アレは……?」
「人型の恐竜としか説明できません」
「恐竜?」
八手は暗がりに目を凝らした。庭の石灯籠を根元から折るような格好で倒れるその人間には見えない化け物は、確かに柳の言うとおり、人型の恐竜でしかなかった。布で身体を隠している、尻尾のない二足歩行の爬虫類だ。
「アレ、恐竜って爬虫類だっけ?」
あまりの状況にパニックになりかけている八手を庇う格好で、柳が躍り出た。
「飛山椿は、少年の存在履歴を消去中のエリア――大阪に向かいました。我々はそれを何とか止めようと試みたのですが、彼女が泊まっていた大阪のホテルに、コレが現れました」
「倒し損ねたのか」
「いいえ、コレとは初めてです。最初に手合わせした恐竜は殺し、ここで解剖しました」
「なるほど、それは素晴らしい」
話が生々しくなるや否や、八手は慌ててオーバーなリアクションを取った。
「ではヤナギ、さくっと片付けてくれ。ジュラシックパークでおネンネしたくはないからな」
「同感です」
樹海の中、クロジャイは黒いポールを見つけては破壊を繰り返してきた。パーラがコレのせいで《千里眼》を使えないと述べていたからだ。昼間は上手くいっていた。そのお蔭で忌々しい〈ドレッド・ゴースト〉が住む屋敷の正確な位置も、屋敷の主がMr.昼行灯というふざけた名前の老いた指揮官野郎だということも判明した。
しかし驚いたのは、ドレートがMr.昼行灯を知っているということだった。自分達の能力を買い、あらゆる面で惜しみなく金や兵器、技術や知識を与えてくれた科学者が、その名を口にしていたことを彼は覚えていたのだ。
Mr.昼行灯。この老人は実名の無い組織――ネイムレスに対し資金援助をしている男だとドレートは言う。ネイムレスと言えば、彼らの世界では噂の種としてしばしば登場する裏世界の警察組織だ。自分達こそ、普通の人間には見えない場所でこそこそと動き回っているくせに、しかも話によればアメリカ合衆国大統領を手玉に取っているというのに、武力でもって同胞を皆殺しにしているクレイジーな連中なのだ。
Mr.昼行灯はそんなイカれた軍隊もどきに金を与える資金源、生命線だ。
クロジャイはやはり、ドレートの考えに賛成せざるを得なかった。いずれその軍隊とは正面から戦うことになるのだから、ここでその生命線の一つを切っておけるのは好都合なのだ。
「パーラ、これでよく見えるだろう。中はどうなっている!」
今の今まで不通だった量子通信が回復した。やはり黒いポールがパーラに対し、何らかのカウンターになっていたようだった。
『クローン達はすでに突入しているわ。だけど……』
「どうした!?」
屋敷の中には、十を超える人型恐竜――クロジャイ・クローンが侵入しているはずだ。
しかし、『正対しているのに、クローンには見えていないみたいなのよ……っ!』
「〈DEM〉か!」
〈DEM〉。
それはネイムレスが独自に開発した、“完全なる隠密装置”の略称だ。
Mr.昼行灯の部下達は、その機能の不可視機能だけを搭載した大きな盾の陰に隠れることで、自身を背景と同化させ、クローン達の視界から姿を消していた。左手に盾、右手には拳銃か、あるいは刀。彼らは盾を押し付けるようにして狼狽えるクローンを一匹ずつ包囲すると、一斉に盾の隙間から攻撃した。屋敷の至るところで銃声や、断末魔の叫びが連続した。
突然受けた攻撃に、クローンは身悶えてのた打ち回った。しかしすぐに立ち上がり、雄叫びを上げる。鼻息を荒げ、戦う……もしくは喰らおうとする意思は微塵も失せていない。
「心臓を刺しても死なないぞ!」
「腹を刺してもダメだ!」
動揺する部下達をよそに、クローンの背後から、陰気な顔をしたドレッドヘアーの長身男が現れた。彼は、昨夜倒した、一体目の恐竜の腕をナイフのように扱い、その鋭い爪でクローンの首を掻っ切った。
肉の混じった血飛沫が、暗い客間を赤く染めた。
「狼狽えなくていい。頚動脈を狙いなさい。心臓は首の下だが、皮膚が固い」
「ヤナギさん!」
Mr.昼行灯の右腕にして、随一の殺し屋である柳の登場に、一同は歓喜した。部下達は教わった弱点を突き、クローンを次々と仕留めていった。
しかしクローンも野性の勘で〈DEM〉に順応したのか、臭いで敵の位置を把握し、反撃を開始した。人間共の足を捥ぎ、内臓を抉り、頭蓋を噛み砕いた。
血みどろの戦闘の形勢は五分と五分――いや、柳が凄まじい勢いで覆していった。
その様子を八手はこっそりと陰から見守っていた。そして庭の端で倒れる生首と胴体を見た。柳の“真の姿”を見たのは久しぶりだった。
『またあの男、〈ドレッド・ゴースト〉だわ。どうするの、Mr.昼行灯も車で逃げているわよ』
『クロジャイ、聞こえているな。撤退だ』
聞こえているかというドレートの問いに、クロジャイは答えなかった。
答えられなかった。
涙が止まらない。我が分身がむざむざと殺されていく。まるでゴミのように処理されていく。血肉を分けた分身達。愚かな知性でありながら、忠実に、従順に、命令をこなす愛らしい子供。
それが、下等な連中に殺されていく。
「オンル、イパー、マンディー、ファスゥ、アルン、プーロ、ヒスリ、イエジン……」
悲鳴が消えるまで、クロジャイは地面に頭をこすりつけていた。
しばらくした後、パーラは愕然としたのだった。車で逃走しているかに見えたMr.昼行灯が、新富士駅近くのナイトクラブで豪遊していたのである。
豪胆極まる行動を聞き、さしものドレートも閉口した。