〔六‐2〕 老婆心
「ここ、富士の樹海の中なのね。少し、怖いわ」
飛山椿が連れ去れた屋敷は小高い丘の上にあるが、樹齢千年もザラではないような太い原始林が屋敷の中庭にも聳えているので、その広大な敷地を無理なく覆い隠していた。屋敷を囲む石垣はもはや飾りでしかなく、屋敷の外の足場の悪さが最大のバリケードの役割を果たしている。
屋敷の御頭首――Mr.昼行灯なる老人の寝室には、絶妙に計算されたように生い茂る木々の隙間から、暖かい光の筋が幾重にもなって射し込んでいた。縁側に立つ椿は、その光を手で遮光していたが、視線を下ろすと見える森の奥のあまりの暗さに、ぶるりと肩を震わせた。
彼女の細い肩にMr.昼行灯は手を置いた。そして縁側に座るよう促した。するとタイミングを計っていたかのように女中が現れて、盆に載せて運んできた湯飲みと茶菓子を二人の間に用意した。
「ありがとう」と椿が言うと、女中はしっとりとした笑みを返して去っていった。椿にはその表情がひどく機械的で、殺風景に見えた。
「気を揉まんでいいよ、嬢ちゃん。世間に流布されておる樹海にまつわる話のほとんどは、その見た目のおどろおどろしさを誇張されたものばかりだ」
「と、言うと?」
「例えばだな、磁場が強いという俗説は真っ赤な嘘だ。確かにこの樹海の地層は、貞観の大噴火で冷え固まった火成岩によってできておる。そこに含まれる磁鉄鉱が多少の磁力を放っておるが、コンパスの針を明後日の方へ向けたり、ましてや電子機器を狂わすほど強くはない」
「そうなんだ……。じゃあ、自殺志願者の話も?」
青木ヶ原の樹海と言えば、毎年自殺者が後を絶たないことで有名な、福井県の東尋坊や高知県の足摺岬に並ぶ名所である。
「アレは噂が噂を誘起させた、悲しき負の連鎖というやつだ。著名人が書物にそう記せば、読者はそうなのだと勘違いする。電波に乗せて喋れば、視聴者は根拠もなく信じる。そこに先の強い地場の話が絡むと、行方を暗ませたい犯罪者や失踪人が、まるで誤った解釈で“山猫軒”の注意書きを読んでしまった猟師のようにここへ足を踏み入れ、自然を甘く見るからその命を粗末にしてしまう」
「死が、死を招いてしまうってこと……?」
「そうだねぇ。嘆かわしいことではあるが、こればかりは全ての人民が叡智を手にせん限りは、永遠に止める術は無い。早河誠に関しても、同じじゃよ」
小首をかしげる少女に、老人は告げた。
「不用意な思い込みが、嬢ちゃんを危険に晒してしまう。あの坊主は今、常識の範疇にはおらんということだ」
「…………」
「しかしそうとは言え、すまんのぉ、嬢ちゃん。ヤナギの阿呆が手荒い真似をしてしまったようじゃ」
「許すって言えば嘘だけど、少しは許容するわ。それに私も怪我させたから、お互い様」
湯飲みを片手に語らう二人は、まるで祖父と孫娘のようだった。
「ところで、お昼お爺ちゃんはどうしてこんな場所に住んでいるの?」
椿は、Mr.昼行灯と自称する老人を、“お昼お爺ちゃん”と呼ぶことに決めた。間違っても、“Mr.”などとは付けたくない。
「ココは儂の生家だ。しかし儂も若い頃はよく、こんな陰気臭い場所を敬遠して、華やかで賑わいある都会へ逃げ出したもんだ。だがのぉ、都会も好かんかった。他も同じだ、ココ以外の場所は全て好かん」
「どうして?」
「否応無しに、自らの責務の重さを思い知らされる」
「探偵のお仕事ですか」
「当家のお役目は、人民の最後の砦――希望となることだ。無論、能否様々あるが、それでも儂は、外の世界へ逃げるたびに、そのお役目を担わなければならないと自覚させられたのだ」
老人は、彼女に向けて言葉を添えた。
「人には役目がある。それは生まれながらの天命でもあるが、状況から生じる自然的な命運でもある。儂には儂の、嬢ちゃんには嬢ちゃんの、今現在においての――役目がある」
「……命運、役目」
「儂が引き受ける事件には、死という究極の危険が付きまとう。儂らがこうして事件の被害者やその関係者と腹を割って話し合うのは初めてでの。だからしっかりと忠告を聞いておくれ」
椿は拳を握った。
唇を、歯を、噛んだ。耐えるために。耐えて、誠に会うために。
「木に縁りて魚を求むようではいかん。儂らに任せ――刻を待ちなさい」