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ネイムレス  作者: 吹岡龍
ネイムレスSB【待ち人ラナウェイっ】
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〔五‐4〕 信じるな

「……ふにゅふにゃ」


 モフモフする。ふんわふんわ。あったかくて、「むふぅー。お布団きっもちぃ~」お日様の香りが、荒んだ心に染み渡っていく。

 飛山椿は、鉄アレーのように重い目蓋を薄く開いて、日本家屋特有の梁が剥き出しの天井を仰いだ。

 子供の頃。幼い頃。まだまだ今よりも未成熟で、手足も舌も短くて、歩みも言葉もたどたどしかった頃。早河誠の家でお昼寝をしたことがあった。何度も、あった。

 誠の祖母は、朝に干した布団を椿と誠にそっと掛けてやっていた。

 椿は、今自分を包んでいるこの布団は、その時の物と同じだと夢現に思った。鼻腔をくすぐるこの香りは、どんなアロマにも勝るとも劣らない癒やし効果を齎してくれているに違いない。

「お婆ちゃん……むにゃむにゃ」と呑気な寝言の直後、隣で何かがモゾッと蠢いた。


「……んぅ?」


 寝ぼけ眼を左へ動かす。白い布団が、すぐ隣で小高い山を作っている。


「んんん?」


 妙な熱も伝わってくる。椿は、スリープ状態継続中の頭ごと左に向けた。大きい何かが、布団の中に――いる。しかし彼女はジッとそれを見つめると、「ナナしゃん、ここ私のベッド。ナナしゃんの部屋向こう、離れ……」彼女は家政婦の名を呼び、目元を擦りながら白い山を揺さぶった。

 ぐらぐらと揺れ動いたそれは、やがて黒い茂みを露わにした。

 もぉ、ナナさんったら。いくら男と縁がないからって無駄毛の処理を怠るなんてレディー失格だゾ♪

 椿はまたそれをジッと見つめた。脛毛まみれのナマっちろい足だった。肌のハリは皆無で、皮膚が垂れ下がっている。

 何も考えが浮かばない中、椿の頭は機械のように無感情に動いた。目の前に足があるということは、つまりこちらの足下に頭があるということだ。椿は赤ん坊のように掛け布団の上をハイハイして、白い山の中身をゆっくりと拝見した。

「うげ……!?」と絶句した。

 そこには足と同じナマっちろい肌だけがあった。現実逃避をしたくて、ナナさんは出家したんだと思い込みたかったが、太く厳しい眉毛の下で濁った双眸がギョロリと動いて失神しそうになった。


「おう、しっかり目覚めたかいの、嬢ちゃん。昨夜は中々激しくて、儂も腰が痛いわい」


 大きい何かが身体を起こした。それは畏れ多くも後期高齢者――禿頭の男性だった。

 飛山椿、十六歳。花の高校二年生。

 見知らぬお爺ちゃんと、一つ同じ布団でオネンネしちゃっていました♪


「ハアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッッッッッッッ!?」


 椿は頭を抱え、(そら)を仰ぎ、可憐な口元を戦慄(わなな)かせ、あらん限りの声を張り上げた。

 天地を揺るがす大絶叫を聞きつけて、着物姿の男が二人、襖を開けて入ってきた。


「うおっほー! 二千字の超絶シャウトとは朝っぱらから元気やなぁ、ツバキちゃん」


 眼鏡をかけた関西弁の青年は、椿のことを知っているようだった。

 当然ながら椿の方は、そんな彼に目を向けたまま固まるのみ。誰だコイツという思考は皆無で、私は見知らぬ男達に囲まれて何をしているんだということばかり頭の中で巡らせていた。


「二千字ですか。もしもこれが小説賞への投稿作でしたら、審査員への無謀な挑戦か、奇をてらい過ぎた結果のとてつもない愚行かのどちらかでしょうね」

「確かに二千字つったら、掌編小説書ける字数やから、文字数制限されてる賞ではかなりの損失ですねぇ」

「とは言え、アラカシ君。これは現在、小説投稿サイト“小説家になろう”限定で公開されている小説ですから、何をどう書こうが作者の自由ですがね」

「せやかて先輩、あんまジユージユー言うて好き放題やっとったら、読者も離れてまうんちゃいますか?」

「そこは気にしなくていいでしょう。元々愛読されている方などいませんから」

「そうなん!?」

「作者の自己満足ですよ」

「何か切なくなってきたんやけど!」

「そんなことは作者が一番よく分かっていますよ。ですからホラ、“~巡らせていた。”以降、地の文が一切挿入されていないでしょう? 涙で滲んで書けないんですよ」

「ホンマや。俺らの会話、プロットのまんまや……切ない!」

「ですから、刺激してはいけません。彼の努力が報われる日が来るのを、我々は温かい目で見守り続けるしかないのです」

「了解しました、先輩」

「歯痒いですが、我々にできるのはこれしかありません」

「えぇ……」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「……あの、先輩」

「何ですか?」

「いや、作者がイジけて地の文書かへんから、会話の落とし所が見つからへんのやけど」

「そうですね。これでは私が、今の会話中に全裸になって踊り狂い、目も当てられないほど汗だくになっているということが皆様に伝わりません」

「なってへんやろ!? 滅多なこと言うてさらに読者減らすなや! 今が作者の大事な時期やって分かってるやろ!」

「ですが、私は今は着物姿であるものの、普段のコートの下は真っ裸ですよ」

「何ちゅうド変態設定! これじゃあ読者も増えへんわ!」

「そうなると思いまして、サービスカットをご用意しました。女性の皆様ごめんなさい、男性諸君ご覧ください。今現在、飛山椿さんは布団の上であられもない姿で――」

「なっとらんわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」


 柳の顔面に椿の飛び蹴りが炸裂した。だが彼はそれをさらりと半身を開いて躱した。


「あ、地の文復活したやん」

「危ないじゃないですか、美白総理(笑)」

「笑うな、変態幽霊ストーカーストリーキングナナフシ!」

「何や学名みたいやな」

「自己紹介が遅れてしまいましたが、私は変態でもナナフシでもありません。私の名は柳です」

「そんなことどうでもいいわよ! 素直に当たって死になさい!」

「何ですか、美白総理。アナタがちゃんと狙えば済む話じゃないですか。しっかりしてくださいよ、総理。アナタが証明なんだからー、アナタが証明なんだからー」

「るっさい! ティーン世代がそんな古い時事ネタ知ってると思って……」


 言いかけて、椿の目に三角巾が飛び込んだ。それは自身が首から提げている物とは違う。正面にあるそれに首をかしげていると、「ペアルックですね」とそれの主――柳が、にやりと口角を上げて笑った。

 言下、椿の踵が彼の腰に食い込む。参考動画として紹介されそうなほど、見事な回し蹴りである。

 彼の不意を突けたのか、今度は直撃の感触あり。彼はブーメランのように身体を曲げ、襖を破り、壺を割りながら、屋敷の奥へと吹き飛んでいった。


「ぬああぁにがペアルックよ! 仮に私の小指の赤い糸がアンタと結んであったとしても、そんな物は指ごと切り落としてやるわ!」


 彼を怪我させたのは他でもない椿本人だが、わずかに抱いていた罪悪感は露と消えていた。


「な、何という方だ。この私に、こう何度も攻撃を加えるとは……。それに、自ら進んで指を詰めようだなんて、やはり並々ならぬ覚悟をお持ちの――」

「何寝言ほざいてんのよ、切り落とすのはアンタの小指に決まってるでしょ。そして赤い糸は、誠の指に結び直して……ウヒヒっ」

「そんな血まみれの糸っ、誰が好き好んで自分の指に巻きつけんねん! 何なんっ、最近の女子高生って、こないにえげつないこと平気で言えんの!?」

「もうっ、そんなのはいいから! とにかくココはドコで、私はどうして眠ってて、貞操は守られてるのかって訊いてるのよ!!」


 柳は腰を押さえて立ち上がり、朦朧とした目を椿に向けた。


「まったく、これだから二桁の猿は嫌いなんです。動物園じゃないんですよ、ここは」


 対する彼女は畳を踏み鳴らし、「答えないと、もう一発見舞うわよ」と恐喝するが、「やらせへんぞ!」と粗樫が真剣な面持ちで立ちはだかった。

 彼女に尻を向けて、であるが。


「どうしてもやる言うんやったら、俺に蹴りを入れろ。いや、入れてください! おみ足バッチコびひぃっっ!?」


 椿はお望みどおり、間髪を容れずに彼の顔面へ膝を入れた。目にも留まらぬスピードで彼の正面に回り込み、髪を掴んで引き寄せた上で、である。

 それは行方知らずの誰かの動きに似ていた。


「ひ、膝は、反則やん……?」


 メガネが割れて、粗樫もノックアウト。椿の一人勝ちである。決着を告げるゴングが鳴った気がした。


「何よココ、変態の巣窟!?」


 嘆く彼女とは裏腹に、「巣窟などではありません」と柳は落ち着いた声音で答えた。その目にはもう、冗談は一切孕んでいない。


「ここは、富士の樹海に佇むお屋敷です。そしてこの場は、我らが“御頭首”の御前」

「は? 樹海? 何を言って……」


 よく見るとここは、〈流花灯籠〉と(しょ)された掛け軸が飾られた床の間だ。高そうな壺や置物が置かれた“違い棚”がある、時代劇で見るような古い和室である。

 襖を静々と開け、楚々とした和服姿の女が三人ほど入ってきた。彼女ら――女中は、彼らが暴れた形跡に口を押さえることも、目を剥くことすらしなかった。顎を引いたすまし顔で、淡々と“御頭首”の部屋から余計な物を片付けていく。壊れた襖を取り外し、割れた壺の欠片を丁寧に拾い集める。のそのそと“御頭首”が布団から這い出てくると、待っていましたとばかりに布団を畳んで運び出していく。最後に、金の刺繍入りの高級そうな黒い座布団を一段高い上段の間に敷き、下段の間には色違いの白の座布団を敷いた。それらの手前に、受け皿に載せたおしぼりと緑茶の入った湯飲みを置いた。

 女中らが引き上げていき、庭の方から鹿威しがカンと涼やかな調べを響かせる。

 柳は呆然自失する椿の横に立ち、揃えた指先でもって彼女を白い座布団へ促した。


「お当てください。如何ほどのお客人であろうと、“御頭首”への無礼は断じて許しません。郷に入っては――解りますね?」


 椿は強気な眼差しの下で息を呑みつつ、「……誰が、許さないのよ」


「私をはじめとする、我らが“御頭首”の百を越える部下が、です」

「な、何よ、急に怖い顔しちゃって……」


 決して怖気づいたわけではない。屈したわけではない。

 椿は自分にそう言い聞かせ、白い座布団に腰を下ろした。しかれども、どういうわけか足は崩せなかった。

 柳は将軍に仕える老中かあるいは小姓のように、上段の間に一番近い下段の間に座した。そして椿に背を向けながら着物の帯を確かめる“御頭首”に、動く左手のみを突いて、額が畳に触れるほど深く頭を下げた。俗に言う、平伏である。


「御頭首、お早うございます。この度はお騒がせして申し訳ございません。全ての責は私柳にございます。どうぞ何なりと、ご処分をお申し付け下さいませ」

「朝早うから堅苦しいのぉ」


 丸い顔に深いシワ、髪は後頭部にだけ残り、髭は無く、雄々しくも垂れ下がった眉毛の下にはアンニュイな両眼が薄く開いている。

 彼が、ナナフシ男の“御頭首”。推定年齢は、八〇代後半か……?

 椿は冷めた目で彼らのやり取りを眺めた。


「ヤナギよ、精進せい。それを処分とする。励めよ」

「は!」


 柳はほとんど畳に向かって、恭しく受け答えしていた。

 そんなにもこのお爺さんに頭が上がらないのだろうか。

 椿は、よっこらせと黒い座布団に腰掛ける老人に、「あ、あの~」と力無く問いかけた。


「何かのぉ、嬢ちゃん」

「私、どうしてここにいるんですか? 記憶が無いんですけど」

「覚えとらんのかい? 昨夜はあんなにも楽しい時間を共に過ごしたというのに……」


 老人はニコニコして言い放つ。

 動揺を隠し切れない椿は、「ウ、ウソ、私、まさか本当に……!?」と慌てふためいた。

「嘘ではありませんよ」と柳は言い、「私もあんなにも激しい光景は初めて見ました。あんな……激しい寝相の悪さは」と、彼女に蔑むような視線を送った。


「はい?」

「ホンマに覚えてへんの、ツバキちゃん。自分、この爺ちゃんをボコボコにシバこうとしててんで」


 止めんのごっつ大変やったわー。

 粗樫は彼女の隣で胡坐(あぐら)をかくと、手足の生々しい青アザや切り傷の痕を彼女に見せた。


「わ、私がそんなはしたない真似するわけないじゃない!」


 満面に朱を注いで反論する彼女に、「証拠映像ぉー」と粗樫は、懐からスマートフォンを取り出した。大画面液晶ディスプレイを彼女に向けてから、ブラインドタッチよろしくの器用さで、数ある動画の中から一つをタップ、再生させた。


『ツ、ツバキさん! ちょっと危ないですから!』


 柳が映っている。彼は布団の上で上体を起こした椿に、両手を向けて必死に宥めようとしているようだ。

 対する椿は、彼の制止に耳を貸さず、枕をブンブンと唸るほど振り回したかと思えば、次には格闘術カポエィラかブレイクダンスのように逆さになって、蹴り技を披露した。

 それが老人の顔面や腹に当たり、彼を庇う柳にも直撃している。


「……ねぇ、関西弁の人。アナタ、大変だったとか言うけど、楽しそうに撮ってるだけじゃない」


 動画から、うひゃひゃひゃと品の無い笑い声が響いている。


「先輩がボコボコにされてる絵面なんてそう拝めへんからね、つい愉しんでもうたわ」

「最低ですよ、アラカシ君」


 柳の一言に、「アンタが言うな、変態」と椿はすかさず切り替えした。


「エエでエエでそのツッコミ! タイミングといい、冷徹な口調といい、完っ璧や!」

「孤立無援ですか……」


 肩を落とす彼をよそに、「嬢ちゃん」と老人が声をかける。


「はい」

「儂らのことは、何と聞かされておるのかのぉ。この変態から」

「御頭首までっ!?」


 何とも腑抜けた声だ。こちらまで力が抜けていきそうになる。

 いけない、心を張り詰めろ。ここは犯罪シンジケートの根城かもしれないのだから。

 椿は今一度背筋を正して答えた。


「探偵、と伺っております。嘘か誠か、政府でもごく一部しか知らない秘密の組織だとか何とか。そんな子供騙しが私に通じると思っているんですか。どう見てもヤバイ、ヤクザ屋さんじゃないですか、“御頭首”さん?」


 老人の目は細くて、どこを見ているのか見当がつかない。辛うじて顔の動きで、今は屋敷の中を見渡しているのだと判別できる。実際、彼は言う。


「この屋敷を見て察しがつくかと思うが、儂の血筋は古くてのぉ。家宝の文献によれば、屋敷は宝永の富士の噴火から十余年が経ってから、血に至っては室町から続き、以降今で言う警察や探偵のようなことを生業としてきたようだ」

「同心とか岡っ引よりも古いということですか? 信じ難いんですけど」


「無理に信じずともよい」と老人は椿の心情を汲み、穏やかな口調で、「真実とはいついかなる時も、人前には素直に顔を出さんものだ。この場で真実を握る儂らは、言葉で伝わらぬのなら、その証拠となる物品でしか、嬢ちゃんに納得してもらう術が無い」


「証拠の、品……?」


 老人が粗樫を一瞥したように見えた。

 何故か柳とは違って椿の背後で突っ立ったままの彼は、「どーぞご覧くださ~い」と、分厚いファイルと写真を、彼女の前に並べた。ファイルの表紙には、“早河誠の拉致誘拐に関する報告書と、それに関連し得る事例”と記されている。

 開くと、誠の出自やら事故当時の状況などが詳細に記された資料が挿んであった。写真の中の誠は、愛想笑い一つしていない。不満そうで、不服そうで、悲しそうで、辛そうで――今にも、泣き出しそうになっているの押し隠している顔だ。

 椿は、膝の上で握っていた拳をさらに硬くした。



「……何、コレ」

「そこに写る少年は、五月の暮れに忽然とその姿を消しました。彼の名は、早河誠。アナタと同じ高校に通っていた、アナタの探し人ですね?」

「何でアンタ達が、こんな……」


 警察――刑事弟切達でも、早河誠に関してやっとこさ入手できた資料は、A4用紙たった一枚分の調書と、椿が隠し撮りした写真が一枚だけだ。

 それを、国の行政機関を差し置いて、彼らはいくつもの情報をその手に握っている。


「アンタ達が盗んだのね!?」

「とんでもない。我々は探偵ですから、どんなに困難な事件でも、全力を尽くせばこの程度は調べ上げることができるのです」


 信じられないという目を向けられた柳は平然と続けた。


「我々は以前にも、似たように人が何の前触れもなく失踪するという事件があることを知っています。被害者家族は存じていないでしょうが、その捜査のほとんどを警視庁の一部の機関が牛耳り、非公開で独自の捜査を続けているのです。その機関の外注先が、我々ということです」


 椿には彼らの嘘を暴く材料が無かった。早河誠のあらゆる個人情報を消し去った何者かに関する何らかの情報が一つでもあればよかったが、弟切はそれを得られなかったのだ。

 彼女は罵倒した気持ちを呑み込んで、柳の話に合わせた。


「拉致問題ってわけじゃないのね」

「あちらは至極国際的な問題です。しかし彼に関しては枠の外、無関係であると我々は考えています。ある種、国を超越した、一つの教義からなる――テロルのようなものです」

「テロって。そんなものにマコトは関係しているの?」


「そう考えておる。違ったら、ゴメンね」と老人は舌を出した。


「いや、ゴメンねじゃないわよ。何このお爺ちゃん、真剣なのかボケてんのかどっち?」

「寝ボケとるよ」


 ギャグにもなっていない返事に椿は顔を引きつらせた。何だこの爺さん、腹立つ。


「警察はアナタが失踪したと思い、行方を追っています。しかしアナタのご両親には連絡が行かないでしょう」

「失踪、ちょっと待ってよ。私……あれ、ねぇ、アレから何時間くらい寝ちゃったの」

「丸一日といったところですかね」


 椿は愕然としてしまった。いくら眠らされたからと言って、それに極度の睡眠不足だったからと言って、丸一日もこんな得体の知れない場所で呑気に寝てしまっていたとは。


「確かに失踪ね。もしかして私が公園に警察を呼び出したから余計に大事になってる?」

「いかにも」


 頭を押さえる彼女だったが、懸命に状況の把握に努めた。


「私的には全くもって不要な話なんだけれど、どうして警察は連絡しないの」

「警察は、アナタの失踪の責任が警察自身にあると思っているからです」

「は?」

「正しく言えば、警察はアナタが大阪行きを決行した要因が、アナタが懇意にしている刑事――弟切警部にあると考えているのです」


 開いた口が塞がらなかった。どういう理屈で、どこでどう間違えればそんな結論に至るのか全く分からなかった。


「話すと長くなるので割愛しますが、警察はアナタが死亡した状態で発見された場合、全ての責任を警部一人になすり付けようか、それとも警察そのものが知らぬ存ぜぬを通そうか思案しているようです。何故だか分かりますか、いえ、アナタならお解りでしょう」


 椿は柳の顔をジッと見たが、視線を落として呆れたように首を振った。


「父が怒るから? ありえないわ」


 鼻で笑うように続ける。


「あの人は、まぁ母も含めてだけど、確かに人の親という認識はあるのかもしれないわ。でも怒るのだとしたら、どの面さげてそんなことできるのかしら。私、まともに愛されたことなんて一度も無いのに。赤の他人に大事にされたことのほうが多いくらいよ」

「アナタが家庭環境でご苦労されていることも存じています。ですが、これから起こりうる事態にアナタの感情なんてどうでもいいのです」


 彼の冷淡な物言いに、椿は屹然と立ち上がり、声を荒げた。


「アンタみたいな奴が私の何を知っているって言うの!! 知ってるって、どうせマコトの調査資料と同じで文字の羅列の上でしか知らないんでしょう!! 誰も私達のことを本当に解っている人なんていないっ!! 二人のことをちゃんと見てくれた人は、もう……!!」


 彼女の家政婦である菜々は、彼女のことは知っていても早河誠についてはよく知らない。しかし過去には一人だけいたのだ。二人を知り、二人を愛した人が、たった一人だけ。

 立ったまま俯き、畳に大粒の涙を落とす彼女を、粗樫がゆっくりと座らせた。


「言葉が過ぎたのは謝ります。しかし、アナタの父宗光氏が激怒すれば、果たして警察に任せきりにするでしょうか。きっと何らかの方法を駆使して真実を暴こうとします。そこに早河誠や、彼の失踪の起点となる市ノ瀬総合病院、その病院と癒着している警察、またアナタが私の忠告を無視して大阪に来てしまったこと、それら全てが白日の下に晒されることでしょう。責任の所在を問い質された警察は落としどころを求めるはずです」

「それが、ひっぐ、弟切さんなのね」


 椿は揃えた膝の手前に置かれていたお絞りで涙を拭った。


「そうです。ただし警察が考えているそれら最悪のシナリオとは違う状況が、今ここにあります。解りますね、アナタが何の問題もなく息をしているということです」

「っていうか、アンタ。私を悪者にしてるけど、そもそもアンタが私をこんな辺鄙(へんぴ)なところに連れてきたから死亡説みたいな流れになってるんでしょう」

「辺鄙とはのぉ……」


 老人は苦笑して頭を掻いた。その様子が渦中の弟切の癖に似ていて、何としても彼を救いたいと思った。


「私が生きているということを証明すれば、弟切さんは助かるのね」

「はい」

「なら、電話をかけるからちょっと待ってて」


 椿は立ち上がり、部屋の隅に置かれたスーツケースの傍に置いてあったスマートフォンを手に取った。起動してみると、アンテナが立っていなかった。


「先輩が言うたやん、ここは富士の樹海――青木ヶ原。近くに電波塔も立ってへんから通話もメールもネットもできへん」

「どこの原始時代よ! 未開の土地よ! まぁいいわ、電話ができないんならさっさと私を東京に帰して! 大丈夫安心して、ここのことは誰にも言わないし、アンタ達の存在も他言無用、お口チャックで墓場まで持っていくから!」


 そこにいる一同は、揃いも揃って何も言わず、また何のサインも示さず、彼女にあの白い座布団に戻るよう求めていた。

 椿は深い深い息を漏らして、足早に所定の位置へ戻った。


「警察はアナタの失踪を公にはしません。アナタの死体が見つかるまでは関与しない方針です。自ら火に油を注ぐ者はいませんからね」

「つまり、猶予があるし、私も生きているし、焦る必要は無いと」

「ご名答。ですがアナタは今夜にでも東京のご実家の方へお返しいたします。家政婦の方はそのつもりでグラタンをご用意しているはずでしょうから」

「盗聴してたんだ」


 謝らず、目を閉じるだけの柳の態度に、椿はいよいよ腹を立てる気力も失くした。


「ご実家に帰ったアナタが翌日すべき行動は分かりますね?」

「弟切さんに会いに行く」

「そうです。警察署で会って、談笑でもすればいい。それだけで彼を見張っている公安の刑事も安堵し、上層部に気持ちのいい報告書を提出できるでしょう。そしてついでに大阪府警にも謝罪の一報を入れておいたほうがいいでしょう、それが宗光氏のご息女としての誠意であるはずです」


 椿は頷かなかったが、反論の余地はなかった。いかなる理由があっても、迷惑をかけた事実は変わらないからだ。


「まさかアンタに説教されるとは思わなかったわ」

「それはどうも。ただ肝心なことを忘れていただいては困るのです」


 言葉を一度切る柳のおかげで、外の小さな音が耳朶に触れた。蝉が鳴き、木々がさざめき、川のせせらぎがあらゆる不浄を洗い流していく。そこへ、カンと鹿威しが静寂を切り、彼女の目的を目覚めさせる。


「マコトね」

「はい。色々と申し上げましたが、これまで私がアナタに対して取った行動により、アナタが私を信用できないというのは解る話です。しかし私としては泣き寝入りをしていただく他になかった。これまでの被害者の方にもそうしていただきましたから」

「どうして?」

「アナタのように大々的に動かれると、犯人を刺激することになるからです。過去にそれをしてしまい、犯人を捕らえたものの、誘拐された人々は全員死亡したというケースがありました。我々は二度とそのような悲劇を繰り返したくはありません」

「善意でやっていることが逆に被害者を苦しめることになるということね」

「想像すると、恐ろしいでしょう?」


 考えたくもないことだったが、確かにそうだと思わざるを得なかった。もしもこの柳という男が誠誘拐の犯人だったとしたら、自分はみすみす誠の寿命を縮めていることになっていたかもしれない。


「でもね、分からないの。マコトが私の目の前にいなくて、犯人からの声明文とか、電話越しのマコトの声とか、テレビ越しのマコトの映像とかそういう物が一つも無いから、アンタ達の言うことが本当なのか嘘なのか、判断がつかないのよ」

「嬢ちゃん、言ったろ。信じずともよいと」


 老人は真剣な様子で続けた。


「コイツの身体を見たろ。近づく者が全て敵に見えるときに、あんなモンを見せられて信用できるわけがねぇ。逆に言えば、恐怖を植えつけるには持って来いの能力だ」

「せやな。先輩は変態になるべくしてなったみたいなとこあるからな」


 粗樫はケラケラとせせら笑った。


「やめてくれませんか、その言い方。私はただ、感情を素直に表現しているだけです」

「素直過ぎんのよ」


 素直に能力を使い、素直に家宅侵入して、素直に風呂をのぞく。正直な人が好みと言う人は、認識を改める必要があるのかもしれない。人間、隠すべき本音はあるものだ。


「恥識欲が、ムラムラと騒ぐのです」

「誤植にも程があるわ! 恥識人なんて、ただの犯罪者になるから!」

「俺が中学の頃、猥褻物陳列罪をワイチンて略してました」

「今その話必要!? もう略称の方が卑猥じゃないの!」

「私が中学生の頃は――」

「一々しゃしゃり出てくるんじゃないわよ! アンタの中学時代なんて気持ち悪くて直視できないから!」

「戦争は、怖かった……。戦後は、辛かった……」

「ごめんなさい! 平成生まれでごめんなさい!」


 暴言・隠語・謝罪と、様々な感情が飛び交う中、またもや女中が部屋に入ってきた。おしぼりと湯飲みを取り替え、老人の好みなのだろう、美味しそうな茶菓子を並べる。

 彼女が再び下がってから、「嬢ちゃん」と調子を変えずに老人は続けた。


「早河誠を、好いとるのか?」


 唐突に話頭を転じられた椿は困惑したが、ジッと見つめる彼の視線を真摯に受け止めた。


「……はい」


 この想いに、一片の嘘も、迷いも無い。この気持ちは紛れもなく、本物だ。

 粗樫が口笛を鳴らして茶化す中、老人は茶を一口含むと、誠の写真を一枚手に取った。しばらくそれを眺めると、裏向きにして畳の上に置き直した。


「儂らは最悪の出逢いを果たしちまった、それなのにこんな話を信じられるわけがねぇよなぁ」

「はい」

「だったらよぉ、嬢ちゃんは儂らを信じるな。ただし儂らは誠意を見せる。その写真の小僧を連れ帰った時に初めて、嬢ちゃんのステキな笑顔を見せてくれればいい」


 年の功とでも言うべきなのだろうか。老人の言葉が素直に身に沁みて、また涙が溢れそうになってしまった。

 すんでのところで椿は堪えた。


「……いくらお支払いすれば宜しいのでしょうか」

「お門違いだよ。儂らは警察の協力をしておるだけだ。鷹は飢えても穂を摘まん。人様から金を毟るような真似はしておらん」

「だからと言って無償だなんて、そんな割のいい話、ボランティアと詐欺以外で聞いたことがありません」


 父に頼めば、おそらくは何とかなる。そうして借りたお金を、後で自分の稼ぎで返せばいい。椿はそう考えた。

 しかし、「儂は、都合の悪い時だけ他人に頼ろうという輩は好かんぞ」と老人の見透かしたようなセリフに椿は口を閉ざした。反駁は、できない。


「嬢ちゃんは何もせんでいい。金の繋がりは根深く残る、ロクなことにはならんのだ。それに、身銭を切らん者もまた詐欺師だ。その点、嬢ちゃんは見込みがある。どんな形であれ、人の道義というものを果たそうとしている」

「…………」

「儂らも同じだ。どんな手を使ってでも、この血に課せられた責務を果たしたい」

「……責務」

「それに無償と聞いて、ホイホイ信じる奴の気が知れ――」

「御頭首」


 柳が深い彫りの奥で何かを訴える。

 老人は嘆息を漏らし、「儂らは、日本警察の最後の砦だ。その存在は極秘だが、公的な立場でもある。嬢ちゃんの依頼料は、すでに微々たる税金で賄われておるから安心せい」と言って、赤坂の御用地にて毎年二回催される園遊会に参加する彼の姿を映した写真を、彼女に見せた。

 合成写真の可能性だってある。参加すれば必然的に名望ある家柄だという話にもならない。しかし椿には、これが何よりの証明――葵御紋の印籠のように見えてしまった。


「嬢ちゃんはそのままでいい。甘い話は信じるな」


 椿は、「はい、信じません」と言いながらも、柳がやったように左手を突き、深々と頭を下げた。彼女の肩は凍えるように震えていた。


「マコトのこと、後生ですから、どうかよろしくお願いします。彼を、助けてあげてください」

「承知した。この儂、Mr.昼行灯が、身命を賭して早河誠を連れ戻してやる」


 え、うっそ、ダッサぁ~。英語と日本語のミスマッチなんてレベルじゃないよコレ。っていうか、昼行灯って頼りないんだけど、大丈夫なのこれ……!?

 椿は冷や汗を垂らしながら下げた頭をしばらく上げられなかった。

 そんな彼女の胸の内を見抜いた粗樫が、「この爺ちゃん、昼は寝てばっかやけど、夜はエラいハッスルするんやで。クラブのネーちゃんもメロメロや」


「下ネタぁっ!?」

「恥ずかしいのぉ」


 Mr.昼行灯は、頬を赤らめた。

 やっぱりここはお屋敷でも何でもない。ただの変態の巣窟だった。

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