〔五‐2〕 公安トリオ
「それで、飛山椿とはどういったご関係ですか?」
「コレは何だ、事情聴取か。それとも尋問か」
刑事弟切もまた、意思とは拘らず、車内に身柄を拘束されていた。灰色のバンの後部座席は暗色のカーテンによって薄暗く、フロントガラスの向こうの景色も、運転席と助手席の間のシフトレバーに跨る男によってほとんど隠されていた。
いつものように街中を闊歩する度に尾行てくる公安警察を振り払った後のことだった。弟切は勝ち誇ったように人混みの中を歩いていた。切らしたタバコを買うために、コンビニへ向かおうと大通りから脇道に入った。そして夏の陽気から逃げるようにコンビニに入ろうとしたその時、背後で急停止したこの車に引きずり込まれてしまったのである。
車はどこかの地下駐車場に止まったようだった。弟切は最初は動転したものの、拉致を決行した犯人達の顔を見ると冷静に対処した。両脇と前部座席で視界を塞ぐ男の三人だ。いずれも夏の盛りだというのに生真面目にジャケットを着用して、四角い眼鏡に七三分け、没個性的だ。
「どちらにしろ令状がなければ任意だろうよ。刑事がマヌケなことやってんなよ」
人の自由を奪う。法治国家でこれを行なう場合、それに必要な理由を記載した令状が必要となる。それは裁判所によって発行されるものであり、警察などの捜査機関、あるいは裁判所そのものが対象に対して強制処分を促す目的で行使される。
つまり、警察機関がいかに怪しい者を取り締まるにも、捜査令状や逮捕状が発行されなければ、その行為に強制力は及ばないということだ。すなわち、男達が弟切に対して行なっているこの行動は、彼の任意でない以上違法の範疇であるということだ。
しかしそんなことは公安警察に属する男達には分かりきったことで、それでもやらなければならない行為だった。
「警部、我々も困っているんですよ。そしてその困りごとの一番の種はアナタなんですよ」
「事情も話さねぇ野郎共が偉そうに人様から情報引き出そうってか」
「勘弁してもらえませんか。アナタの入れ知恵でしょう、飛山椿が大阪に行ったのは」
左の男が肩をすくめ、右の男が弟切の肩に手を置いた。弟切はそれをすぐに払い除けた。
「ご存知ですか、警部。飛山家のご令嬢が大阪でしでかしたことを」
「あん?」
「ほぉ、ご存知ない。あの社長令嬢はですね、大阪でも警察を食い物にしているんですよ」
不意に過るのは、昨朝の椿からの電話だった。彼女は確かに大阪に行くと告げていた。
「大阪府警からクレームが来ましたよ。大阪は吹田市の万博公園に不審者が出たから捕まえてくれって通報を受けて駆けつけてみれば、それらしき人物は見当たらないし、公園入り口の改札スタッフや警備員、監視カメラを調べてもそれらしい人物は見当たらなかった。それどころか通報した本人の姿すら無かったんですよ」
「何だ、何の話だ」
「大阪府警はこうも言いました。通報者の電話番号を調べたら契約者は飛山椿という名前で、しかもあちらが内緒で、分かりますね、アナタがしているように内緒で名前から個人情報を調べてみましたらあの飛山宗光のご令嬢だったんですよ」
正面の男が初めて口を開き、嫌な笑みを浮かべた。
弟切は事態を把握するために黙ることしかできなかった。
「そしてそんなお嬢様が何故大阪にいるんだってことになったから調べてみたら、公園の近くの高級ホテルに泊まっていたと言うではありませんか。そのホテルに訊いてみると一人でお泊りで、大阪府警が弄ばれたその日に宿泊期間一杯を待たずにチェックアウトしたんですと」
「我々は驚きましたよ。大阪と言えば、アナタが飛山椿から取った調書によればあの早河誠が幼少時代を過ごした地、しかも住所はまさに万博公園のすぐ近く。飛山椿は早河誠を捜して大阪に行った、違いありませんね」
「回りくどい連中だ。だったらどうした、俺には関係ない」
弟切は狭い場所に連れ込まれて苛立つロートル刑事を演じた。しかし男達は彼が作りたいペースなどには乗らず、よどみなく舌を動かした。
「では現在、飛山椿の行方が分からないことを伝えても関係がないですね」
「彼女のGPSが、いた形跡がないはずの万博公園入り口での信号を最後に途絶えてしまったということも関係ありませんね」
我慢できたものではなかった。弟切は右の男の首根っこに太い腕を押しつけた。そしてカーテン越しの窓ガラスに押しやりながら、左の拳を握った。
右の男は苦い顔をしていたが、「殴るんですか? ただの刑事が、公安を? しかも、どういう理由の下に?」と平静を装って彼に考えさせる時間を与えた。
弟切の両目が揺れていることに気付いた左の男が彼の拳を宥め、正面の男が彼の着衣の乱れを直し始めた。そしてネクタイを整え、肩を二度ほど叩いてから言った。
「警部。警部ね、もうすぐ退職じゃありませんか。二年なんてすぐでしょう。カワイイ部下の二人も心配してくれていたじゃありませんか。あまり粗野な振る舞いばかりをしていては、彼らにも、そして幼いお孫さんにも示しがつかないでしょう」
弟切は本当に堪忍袋の緒を切らしそうになったが、何とか鼻息を荒くするのに留めてみせた。
「私たちはね、お二人が心配なのです。とりわけ飛山椿は、今や日本を代表する一大企業のご令嬢です。彼女にもしも何か不吉なことがあれば、この国は悲しみに包まれてしまいます」
「それがもしも事件に巻き込まれたなんてことになれば、警察は隈なく捜査しなければなりません。そして見つけ出した接点に、弟切警部、アナタのお名前が並ぶのは火を見るよりも明らかです」
「テメーら、何考えてやがる……!?」
「心配していると言ったのです」
動転するロートル刑事に、公安警察は悪魔のように囁いた。
「ここでイイ案があります。早河誠の捜索を放棄するのです。調書も何もかも廃棄して、飛山椿との接点もことごとく断ち切ってください。そうすればアナタは白も同然、もちろん私達がバックアップいたします」
「早河誠の捜査は続ける。飛山椿に何かがあれば俺が全ての責任を取る。それで満足だろ!」
「分かっていませんねぇっ!」
正面の男が身を乗り出し、長い足で弟切の顔の横――背凭れに革靴を潜り込ませた。
「そんなことをしてみなさい、我々は飛山宗光を完全に敵に回すことになるんですよ。あの男は資産こそは世界においてはもちろん、日本においてもビリオネアとしての地位を磐石なものとはしていないが、その持ち前の求心力で今や政財界との強いパイプを持ち、海外の重大企業との関係も根深い。飛山宗光に睨まれるということは、日本の経済を揺るがし、そして海の向こうの巨大な国々との関係を拗らせるだけの要因を作ることになるんです!」
男達の顔は笑っていたが、にわかに焦っているようにも見えた。
「そして何より、あのような女子高生が不幸に見舞われたとなると、警察の信頼は地に落ちます。あの女がどれだけ警察や病院でトンチキな言動を繰り返していたとしても、その警察と病院が早河誠のせいでネンゴロである事実が世間にバレることがマズい以上、誰もあのイカれた女子高生を悪者扱いできないんです」
「何しろあの娘さんは、学校でもご近所でも評判が良かったらしいですからね。あの容姿だ、彼女の葬式には著名人のそれのように多数の参拝客が訪れることでしょう!」
「いやいやそんな話より何より、警察が犯してはならないミスを招いたという事実は変わらないのです! 弟切警部、アナタのせいでね!!」
「上は、焦ってんだな」
三人の荒い鼻息を身近に感じ、嘲笑ってみせた。
「泳がせておけと言われていた昨日までとは大違いですよ」
「そもそも警部、早河誠が実在したと本当にお思いなんですか」
「どういう意味だ」と答えつつも、弟切はトンチキだかイカれてるだかと散々な言われようの女子高生に、自分も似たような質問をして怒らせたことを思い出した。
「ですからあのパラノイア……失敬、飛山椿の証言を信じるのかと訊いているんです」
「何言ってるんだ、テメーら。早河誠がいたことはツバキちゃんだけじゃねぇ、高校の同級生からも証言が取れてるじゃねぇか。どっかの誰かに個人情報や証拠の写真やら何やらを消されるまではそんな馬鹿みたいな聞き込みすらする必要がなかった」
「情報や証拠の紛失は我々の及ぶところではありませんよ。たとえ市ノ瀬総合病院に泣きつかれたのだとしても、そんなことまでできやしません」
公安は自己保身に走ったが、弟切にはそんなことは分かりきっていた。この連中が役所で早河誠の情報を調べ、それが消失していることに驚いていたのは知っていたからだ。
「じゃあ、誰の仕業だって言うんだ」
「それが分かったら、我々もこんな意味の分からない状況に巻き込まれてもいないし、そもそも飛山椿も一人で大阪に行くことはなかったでしょう」
「……公安っつうのはお喋りだな」
弟切は左の男を押し退けるとドアを開けて外に出た。
公安の刑事達はすぐにドアを閉めたが、ずっと弟切の正面にいて彼の視界を遮り続けた男が助手席の窓ガラスを開けて言った。
「くれぐれもご自身でお覚悟をお決めください。我々に強硬手段などを使わせたりはしないでくださいね、警部殿」
男は敬礼すると、車を走らせた。排気ガスが弟切の身体を押し退けて、彼をわずかによろめかせた。咳き込む弟切は、意外と礼儀が通っているのか、それともやはり失礼な連中なのかが分からぬまま、バンが去っていった方向に爪先を向けて歩き出した。
どうやらタバコを買う余裕すら無いらしい。