〔四‐4〕 しがない悪役
「んむわあわぁわぁ~~~~~」
「何てアクビですか、アラカシ君」
「徹夜やねんからしゃぁないやんけ、アホボケカス~」
「眠いからと言って、年上に対してタメ口と悪口を織り交ぜるとは感心しませんね」
「へいへい、ヤナギ大先輩の言うとおーりぃ~」
粗樫は、緑茂る桜の木の上で、栄養ドリンク片手に項垂れている。
自分達が使用した催眠アロマ対策の薬の効果もあり、昨夜は一睡もできなかった。夜通しホテルの周辺を警戒し、ホテル内の客を全員起きないように監視してもいた。かと言って、寝かせるだけでは良くない。従業員は彼らの定時に起こさなくてはいけないし、警備員の記憶も簡単な催眠術で操作しなくてはならなかった。
またいつ獣人が襲ってくるかと考えると、一瞬足りとも気が抜けなかった。一般人が被害に遭うのは、望むところではないのである。
『対象、到着しました。まもなく入園する模様です』
通信が入り、柳は粗樫の傍から離れた。ここは、万博公園の中である。
粗樫は対象の入園を双眼鏡で確認した。対象はゆっくりと歩いている。右腕を例によって三角巾で吊り、左手でスーツケースを牽いている。入り口正面の野原に聳える白いオブジェが、両手を広げて対象を出迎える。二手に分かれた道を向かって右へ進み、そのまま写真の裏に記した指示どおり、オブジェの裏手を目指しているようだ。
バッタが跳ね、蝶が舞い、鳥がさえずる。空には雲一つなく、強い光が燦々と降り注いでくる。対象――飛山椿は、国内最大級のオブジェの裏手に到着した。
白いボディに金色の仮面。腹には浮き出た顔、背中には紺色の顔。これを椿は、人間だと認識した。それぞれ時間を表すというが、これは人間の醜さを伝えているのだと思った。
仮面を被り、決して腹蔵なく語ることのない、表裏を宿した醜い人間という生き物へのアンチテーゼだと。
「昨夜はゆっくりと眠れたでしょう」
異物を見上げていると、さらに奇妙なものが塔の背中の、紺の顔から現れた。上半身だけが壁から飛び出している。さながら幽霊、丸っきり幽霊の――アイツだ。
「変態幽霊ストーキングナナフシ男……」
「…………」
清々しいほどの酷い言われように、柳は返す言葉を失くした。静かに頭を引っ込めると、次には彼女の目の前――地面からゾンビのように這い出てきた。土は、ひっくり返っていない。
人間離れが過ぎる芸当だったが、椿は後ずさることはなかった。
日差しの下で見る彼の顔も、それはそれで不気味だった。それはおそらく目元の深い彫りと背の高さ、そして意図的にそうしているのか、少し前のめりな姿勢のせいかもしれない。他にも、ケチならいくらでも付けることができる。中でもドレッドヘアーは見た目から分かる不潔さがあるし、長い手足はやはりスタイルが良いと言うよりナナフシのようで鳥肌ものだ。
あぁイヤだイヤだ。
椿はこれからコイツと言葉を交わさなければならないことに途方もない嫌悪感を抱いた。
溜め息をつく彼女に、「それにしても今のアナタの格好……」と柳が言った。
「何よ」
右腕が怪我をしているから、着られる服には限りがある。だが、オシャレを怠っているわけではない。ストーカーに指摘されるほど、変な格好ではないはずだ。
「いえ、その怪我が治るまでは、くれぐれもレディーススーツに袖を通さないようお願いします。あと、できればその右手で死者を呼び出したりは、決して……」
「意味不明なこと言ってないで、さっさと本題に入るわよ」
北の広場から吹く風が、対峙する二人の間を駆け抜け、オブジェに当たって舞い上がった。
椿はポケットから写真を取り出した。
「アンタの指示どおり、こうして荷物をまとめてホテルをチェックアウトしてきたわ。フロントの係員に不思議な顔をされたわよ。右腕を骨折している可愛らしい女子高生が一人でスイートルームを使っているってだけでも普通じゃないのに、宿泊期間を短縮して出ていくなんて失礼な子供だと思われたかもしれないわ」
「可愛らしい、ねぇ……」
柳は肩をすくめた。その動作に苛立った椿は、「言うとおりにしたんだから、さっさと私から奪ったメモリーカードを返しなさいよ」と彼に写真を掲げた。
「そんなにあのデータが必要ですか」
「当然よ。アレがなかったら、マコトの情報を集められない。それを解っているからアンタもカードを奪ったんでしょう。ご丁寧に、私のスマフォまで弄って!」
「それでも私にとっては意外でした。アナタのように強情な方は、どのような条件にも乗ってこないと思いましたから」
「ついでに私にも訊きたいことがあったから来たのよ」
「訊きたいこと?」と柳は首をかしげた。
「アンタはマコトの何なの。マコトを攫った犯人? それともただ単にマコトの失踪を利用して、私とお喋りがしたいだけのストーカー? それに、それにっ、どうして目が覚めたら私はバスローブじゃなくてネグリジェを着ていたの? もしかしてっ、アンタが……!?」
動揺する彼女を、柳は高らかに笑った。彼女は汗ばむ夏だというのに寒気を覚え、自身を両手で抱きしめた。
「ご安心を。着替えについては女性に任せましたから」
「女性……!? アンタ、一人でやっているんじゃいの!?」
柳は答えなかった。
椿はいよいよ後ずさり、乾き始めた喉に生唾を流し込んだ。
「どうして私を殺さなかったの」
「質問が多いですね」
「アンタが謎しか残さないからよ」
「それもそうですね」
「答えなさいよ」
「……誰もアナタの死を望んでいないからですよ。それにそんなことは私の仕事ではない」
「仕事? どういう意味よ、それ」
一拍置いて、柳は口を開いた。
「交換条件です。メモリーカードを返してほしければ、早河誠の捜索を私に任せ、アナタは大人しく身を引いてください」
「捜査? は……?」
椿は混乱した。何を言っているのか分からなかった。男の口振りはまるで刑事のそれだった。弟切と同じ、刑事の。
「警察だとでも言うの? もしかして、公安……!?」
「探偵です、有体に言えばですがね。しかし秘匿性の高い機関でして、我々の存在は警察においても、そして政府においても極々一部の人間しか知りません」
「秘密の組織だとでも言うわけ? そこにアンタや、私の着替えを担当したって女もいるってわけ? そんな与太話、誰が信じるって言うのよ!?」
「信じていただくほかないのが現状です」
「そもそもアンタが探偵? アンタみたいな、変態ノッポが?」
「口の悪い女性を、日本人男性の八割は嫌うという統計がありますが」
「るっさい! 嘘つきよりかはマシよ!」
「信じていただけませんか」
「信じられるわけないじゃない! そんなに言うなら、証拠を見せなさいよ!」
柳は違和感を覚えた。一度冷静になり、彼女の言葉を反芻した。
さっさと本題に入ろうと言いながら、何かと質問が多い。話の流れはスムーズとは言えないまでも自然だと思えるが、彼女はどうしても話を終わらせようとしない。それはメモリーカードを返してほしいだけか、それとも……ん。彼女の目が、揺らいでいる? 左、右……、何を見て――
「!」
柳の視界の端に、光が明滅して見えた。粗樫が伝える発光信号だ。
そうか、彼女は警察を呼んだのか。なるほど。それはそうだ。自分を捕まえさえすれば、情報はいくらでも聞き出せるということか。事前にスマートフォンで警察に通報しておいたのか。内容はどうせ、園内にストーカーがいるとか、不審者がいるとか、そんなところだろう。
闘雀、人を恐れず。
柳は不敵に笑った。
「仕方ありませんね。本当にままならなくて困ります。やはり、強硬手段です」
男が視界から消えた。草花が風で揺らぎ、光が風浪を照らす。
ここだ!
椿は三角巾に隠していたフォークをさながら刀のように抜き、腰を捻って、背後に迫る黒い影を刺した。
「っ!」
腕に激痛が走る。
油断した。ルームサービスのフォークをくすねていたということか。もっと監視を強めておくべきだったか。それに何より、ナイフとフォークの二種類の食器からフォークを選ぶところが、彼女らしいと言うか、何と言うか。
「ツバキさん」
柳は久々に自分の赤い体液と対面して苦笑した。
フォークを硬く握って、腕へ押しやり続ける彼女の肩を、ぐっと掴んだ。彼女は震えている。息が荒い。今更人を傷付けたことに恐怖しているのか。
何とも、いじらしい。
「人に会ってもらいます」
「わ、私は、ただ……」
「ご安心ください。アナタは、間違ってなどいないのですから」
「え……?」
「ですが今は、再び、お眠りなさい」
また甘い香りが脳に染み込んでいく。
ぐったりとした彼女を柳が背負ったところで、「先輩っ、刺されたんか!」と粗樫が駆けてきた。
「そんなことより、早く逃げますよ。警察などに見つかったら、御頭首に何とどやされるか」
「聞いたな、車回しとるやろうな! 〈忌避装置〉も解除や、総員引き上げんぞ!」
イヤフォンマイクで部下に令する粗樫が椿を預かり、二人は広場の裏口を目指して走った。
途中、フフッと柳はほくそ笑んだ。
「久々ですよ、痛みを感じたのは。しかし、彼女の覚悟は素晴らしい……」
粗樫は彼女に目をやった。彼女の手は、柳の血で赤く染まり、目尻からは一粒の涙が零れ落ちていた。彼は頭を掻き、「何か俺ら、悪役みたいッスね」
柳は冷然とした顔を擡げた。
「悪役ですよ。巨悪と戦う、ただのしがない悪役です」
高いフェンスを軽々と乗り越えた彼らの背中は、深い木立の中に消え入った。