〔四‐3〕 アナタの味方
椿は洗面台の前に立ち、腰から上が映る鏡をぼんやりと眺めた。朝九時のことだ。
髪はボサボサで、目尻から目頭までは目ヤニで汚れているし、ネグリジェはだらしなくはだけている。そもそもネグリジェを着た覚えがないのは何故だろう、嫌な予感がする。
しかし、血色は明らかに良かった。昨日の朝よりも、一昨日の朝よりも、おそらくひと月前くらいには戻ったようだ。そして、目の下のクマも思いのほか薄くなっている気がする。念のために顔を洗うと、やはり思ったとおり、せいぜい徹夜明けといったくらいだ。
それは全て、何にも、誰にも、何より自分の細い神経にさえも妨げられず、熟睡できたからだろう。本当に久しぶりに、快適な朝だ。
白く柔らかい新品のタオルで顔の水滴を拭うとベッドルームに戻った。向かいのソファやテーブルがあるリビングルームまでを見渡すと、昨日の凶事がまるで嘘のように、その痕跡を一つも残していなかった。
足元のカーペット上に散らばった無数の写真も、彼女が投げた様々なアメニティグッズも、バスローブなどを汚した植木鉢の土や水も、全て椿がここに訪れた直後と変わっていない。植木鉢は元の位置に戻り、バスローブは使っていないもう一台のベッドの上に二つ並んでいる。アメニティもまた、まるで利用していないように元の数、元の位置にセットされている。
そう言えば。椿はぼんやりした頭のまま、あの変態男が鉢を抱えていた場所まで歩いた。そしてしゃがみ込み、ある物を探した。ソファーやテーブルの下を探したが、それは見つからなかった。もしかするとと思い、スーツケースの中身を漁った。しかし洋服やら以外に、目星の物は見つからなかった。ケースのポケットを調べると、写真もまた無くなっていた。
盗られたんだと、椿はようやく理解した。写真も、そして家から菜々に内緒で持ち出した護身用の三徳包丁も、あの男にとって厄介な物は全て奪われてしまっていた。
椿は思い立ち、スマートフォンの電源を入れた。電池は充電もしていないのに満タンになっていた。暗証番号を押すと、通話アプリのアイコンバッジに百を越える通知が表示されていた。恐る恐るアプリのアイコンをタップすると、案の定、不在着信の全てが菜々からだった。そして留守番電話も凄まじい数が入っていた。ちょうど今朝の六時ごろから三〇分ほど前まで引っ切り無しだ。
椿は戸惑い、気を落ち着かせる為に写真アプリを開いた。菜々に釈明の電話をかける前に、どうしても知っておきたいことがあったからだ。鍵を掛けていたフォルダをタップし、暗証番号を入力した。中には数十枚の写真データが保存されているはずだったが、全て失われていた。
血の気が引いてしまったが、まだ大丈夫だとスーツケースの中を再び漁った。しかし、どれだけ焦燥に駆られる心を落ち着かせてみても、ケースの中、あるいは化粧バッグの中、もしくは衣服の隙間やポケットの中に至るまでを捜索してみても、バックアップ用のメモリーカードが無くなっていた。念のために三つも用意していたのに、全て無くなっていた。
最後の望みとばかりに、彼女の視線はスマートフォンのディスプレイに戻った。クラウドコンピューティング・サービスに接続した。デバイス内の情報をインターネット上のサーバーに保存できるこのサービスに、椿は写真のマスターデータを保存しておいたのだ。だが、そこにも無かった。目当ての写真、早河誠に関するあらゆる写真が全て消失してしまっていた。
あとは自宅のパソコンの中だが、おそらくそれも望み薄だ。
犯人は判っている。椿の全てを知っていると豪語する変態男に違いなかった。
椿はベッドに腰掛けると、左に上体を寝かせた。しばらく真っ白な頭でスマートフォンのディスプレイを眺めていると、菜々から電話がかかってきた。椿は通話ボタンをタップし、身体を再び起こして、「もしもし」
『はぁーっ、ようやく繋がった! もしもしじゃありません、あぁ、菜々です! アナタの家政婦の! ご無事なんですね? お身体の調子はどうですか? 昨日の今日で、いえ、明後日ですか? ともかく、心配していたんですよ! 何か言ってください、ツバキさん!』
「ごめんなさい、ナナさん」
大人しい椿の声に、菜々は少し躊躇ったようだった。
『昨日は私、我慢したんです。アナタがそうまでして家を飛び出したのだから、何を言っても無駄なんだろうって。家政婦失格ですけど、それでもそう思って何もしなかったんです』
「うん」
『失礼ながらアナタのお部屋を調べたら、旦那様から頂いていた新幹線のチケットや、クローゼットに仕舞っていたスーツケースが無くなっていましたから、大阪に行ってしまわれたんだということも判りました』
「うん」
『追いかけようとも思いました。でも、私も旦那様からお家を守るよう仰せつかっておりますし、アナタのご性分を考えれば旦那様への告げ口をすべきでないと憚られましたし、アナタが引き返してくるのではないかと思い、昨日は買い物にも行かずに家でずっと待っていました』
「うん」
『ですから、ですからですね……。ご無事なんでしたら、連絡だけでも、一度だけでもいいのです、アナタからお電話を頂ければ、私は安心できるのです。ツバキさん、本当に大丈夫なんですね? 宿泊先のホテルに尋ねて、アナタがいらっしゃるのは分かっていますが、本当に大丈夫なんですね?』
「大丈夫だよ。ごめんね、本当に。迷惑かけて……」
椿は泣いていた。矢継ぎ早の菜々の問いに、まともに返事ができないほど、大粒の涙を流していた。鼻を啜るのを我慢するのが精一杯だった。
『何があっても私はアナタの味方ですから。アナタが思うように生きてください。ただ、私の気持ちも大事にしてください。今の私は、アナタ一人の家政婦でしかないのですから』
「ありがとう、菜々さん。大丈夫だよ、負けないから。どんなことがあっても負けないから。だから心配しないで。明日、帰るから。ごめんね……」
菜々は椿の声の震えに気付き、彼女が泣いていることを察した。気晴らしに、明日の夕飯は何がいいかと尋ねると、グラタンがいいと答えられた。夏なのにですかと失笑すると、菜々の料理でそれが一番美味しいからと言われてしまった。そこまで断言されては、菜々は腕を振るわずにはいられなかった。
しばしの談笑を終えると、椿は通話アプリを終了させた。左手で涙を拭い、ティッシュで鼻水をかんだ。また顔を洗わなければと思い、腫れ上がった目元に触れながら洗面所へ向かった。そこで廊下の先にある玄関ドアに白い何かを見つけた。暗いその場所に灯りを灯すと、ドアの白い紙がマグネットで貼ってあった。
椿はそれを手に取ると、そこに記された走り書きのメッセージを読んだ。眉間にシワを寄せた彼女は、紙を裏に向けた。写真だった。早河誠の写真だった。椿が昨日大量にばら撒いた写真だった。しかし裏にはメッセージ以外に何も書かれていない。椿の手書きによる、誠の個人情報や、椿の連絡先などは何も。
まだ終わらせなくて済む。泣き寝入りしなくて済む。そう思うと、椿に気迫が戻りはじめた。
するとお腹が減った。彼女はベッド横に備え付けられた内線電話の受話器を取った。
「すみません、朝食のルームサービスを頼めますか?」