〔二‐1〕 深海の獅子王
『早河誠を拉致してください』
男とも女とも判らない、機械で変えられた声が著名なオペラに彩られて残響する。
舞踏会でも催せそうな広い部屋。左右の壁には国立図書館にすらないような大きな本棚が何段にも高く高くぎっしりと積まれている。紙媒体の書籍が収まったそれは、“知の宝庫”という形容が適当だろうか。
部屋の唯一の出入り口――大きな扉からは赤い絨毯が伸び、その最奥にはたった一脚の椅子がある。肘掛けのついた背凭れつきの座面だけが宙に浮いているそれに、脚という単位が適応するのか甚だ疑問であるが、確かにそれは椅子に違いなかった。
何故ならその椅子には、一人の男が座っているからだ。
『日本の、東京都内の病院に入院している少年です』
本棚と絨毯、椅子、そしてそれに座る男。この広い部屋に、他に目立つ物があるとすれば、やはり最奥の窓ガラスだろう。一枚の、約二〇〇〇平米と巨大なそのアクリルガラスには歪みが見られない。人が望み、想像する、理想の平らなガラスである。そして透明度は光の屈折を許さず、外の生々しさを純粋に伝えている。
外に広がる、宇宙のように暗く、深い深い海の底の静けさを、何一つ偽ることなく。
『ボス』
その窓が、椅子に腰かける男を呼んだ。窓の一ヶ所だけは、まるでテレビやパソコンのディスプレイのような白い画面を映しており、黒のゴシック体英字で人名を記している。
〈BURGE〉。ボスに語りかける声の主の名だ。
『その少年はきっと、アナタのお役に立つことでしょう』
ロマンスグレーのオールバック、痩せ型、涼やかに足を組めるのは長い証拠だ。ボスは右手で頬杖をつき、左手の人差し指で肘掛けをトンと叩いた。血の通っていないような憮然としたその表情と態度がいつ誰に対しても変わらぬことから、部下からは“鉄仮面”と揶揄されている。
「失礼します」
女の声がして、扉が開いた。かっちりとしたレディーススーツを着こなす、眼鏡をかけた中年の女だ。スラリと伸びる足にはガーターベルトを履いているが、持ち前の美貌が年齢に負けていない。それ故に、決して緩むことも曲がることもない姿勢には息苦しささえ覚える。
「また聴いていらしたのですか」
あぁ。
ボスは鉄仮面を剥ぐことなく、そう一言答えると、肘かけの先端にあるタッチパネルをタップした。『お急ぎになられたほうがいい』とバーグが急かした直後、ガラスモニター上で再生データの停止マークが表示された。録音された物だったようだ。
「マコト・サガワのDNAから、因子の発現が認められました」
「……バーグの情報どおりか」
「はい、そのようです」
「センスもか」
「情報部の映像をメギィド博士らが解析した結果、過去のデータと多くの符合が見られました。《韋駄天》と見て、ほぼ間違いございません」
ボスがその鋭い瞳を五文字のアルファベットに向けると、女は続けた。
「バーグ。突如我々の秘匿回線に割り込み、情報屋を名乗ったのが昨年の一〇月。その情報に嘘偽りはなく、正確無比、そして誰よりも早く最新。ところが情報料はいらないと、まるでボランティアを気取る変わり者。我が組織のシステムを総動員しても逆探知が不可能なため、居場所のみならずその正体が男なのか女なのか、はたまた子供なのか大人なのか、存在の有無さえも疑わしく思えてしまう怪人物。唯一明確にしたのは、バーグという記号のみ……」
「メルセデス」
「はっ」
「シュテンには伝えたな?」
「はい。各部署上層部にも通達は完了しております、“リセッター”を除いてですが」
ボスが深い鼻息をつくので、女――メルセデスは改めて背筋を正して彼の言葉を待った。
「これより〈オペレーション:エンジェル・ヴォイス〉を発令する」
ボスの揺るがぬ眼光は、猛る獅子のそれによく似ていた。