〔四‐1〕 真夏の夜の狂気
新大阪駅から大阪市交通局が運営する市営地下鉄線に乗った。五駅先の終点で改札を抜け、大阪高速鉄道線に徒歩で移動した。日本跨座式モノレールに乗って門真市方面へ一駅行ったところで降りた。
大阪府北部――北摂の、かつて万国博覧会が開催された周辺地域。ここが早河誠が少年期を過ごした地である。
パチンコやゲームセンターなどの風俗営業がほとんど見られず、また風紀を乱すような若者が屯しそうな空間も少ないので、非常に穏やかな空気がその土地には漂っていた。
駅周辺は開発が進み、新しいマンションが次々と建てられている。一方、緩やかな丘の中腹に建てられたそこから南へ行くと、昭和、いやそれ以前から続く古い町並みが見られる。
飛山椿はまず、高速鉄道線と阪急鉄道線の二つの駅から成る、駅前複合商業施設で情報収集に努めた。施設に入るとそこは二階で、日本で最も有名なカジュアルショップが真っ先に目に入った。その隣には彼女の父宗光が経営する靴屋が並んでいた。それはスポーツシューズ以外の、カジュアルからフォーマルまで揃えたブランドショップで、これがまた高い評判を呼んでいた。それらを左に見て通路を行くと大きな本屋があり、店頭には新大阪駅で出逢ったギャル店員との交流のきっかけを生んだ、人気ファッション雑誌“カワE~♪”の最新号が売り出されていた。
三階にはスポーツショップが大々的に展開し、そこにはやはり宗光が心血を注ぎ込んだスポーツシューズがずらりと並んでいた。四階はオモチャ屋で、夏休みのためか、平日の昼間でも少年少女が人気ゲームやオモチャの前で談笑したり、親に買ってとせがんでいた。
エスカレーターで一階に降りると、スーパーがあった。施設内でも一際多くの人で賑わっていて、レジの店員達はとても忙しそうに見えた。
椿は思った。もしかすると誠はここを利用していたかもしれないと。利用していたに違いないと。だから彼女は聞き込みを開始した。呼びかけに応じてくれる人、ひとりひとりに写真を手渡して誠の知人に遭遇することを期待した。
この地域の人々は、新大阪で出逢った年配カラーギャング達とは違い、どこか上品だった。穏やかであり、またそれなりの気位を感じた。素っ気ない人もいたが、親身になって話を聞いてくれる人も少なくなかった。
全てのフロアで同じように情報収集を行なったが、大した成果は得られなかった。息子が、あるいは娘が同学年だという父母にも出逢えたが、子供達は彼らがかけた電話に対して知らないとばかり答えていた。施設の隅にあるクズカゴには誠の写真が何枚か捨てられていた。椿は込み上げる涙を意地で堪えると、それを拾い、めげずに行動を続けた。
「大丈夫。見つかる、絶対見つかる」
彼女は強かった。ギャル店員の言葉がさらに支えとなっていた。誠を見つけたら、彼女に礼を言おうと誓った。沢山の服を買って、彼女をもっと喜ばせようと思った。
施設から出ると、スーツケースを転がしながらモノレールの高架下を進んだ。夕方まで人通りの多そうな信号でティッシュ配りよろしくの格好で呼びかけ、コンビニやファーストフードショップを利用する同年代の若者や、部活帰りの中高生にも話を訊いた。だが、女子生徒はそれなりにイイ反応を見せてくれたものの、男子はカワイイだ何だと茶化すか、大して決まってもいない格好をつけるかのどちらかだった。
「ここ、地元ちゃうしなぁ」
一人の男子が言った。聞けば、彼らはこの近くの丘の中腹、急な坂道に建つ府立高校の生徒らしい。道路を隔てたところに中学校があるが、その中学に通う生徒のほとんどは校区外の高校へ進学するようだ。考えてみれば、その理屈はどこにでもあることだった。
つまり、誠の知り合いと思しき同級生は、この地域で見られる大多数の制服を着ていないということだ。これは大きなヒントを得たと椿は思った。
次いで、高級スーパーを見つけた。それは東京でも誠が利用していたスーパーだった。警備員の男性に話を聞いたが、見覚えがあるような気がするとは答えたが、確信は得られなかった。
ようやく誠が住んでいたとされるアパートの住所を訪れた。しかしそこにアパートらしきものは建っておらず、有刺鉄線に包囲された更地に、〈私有地につき関係者以外立ち入り禁止〉というお決まりの文句が記された看板が立てかけられていた。
立ち尽くしていた椿は、すっかり夜の帳が下りてしまっていることに気付いた。
明日また出直そう。椿は半分以下になったスマートフォンの電池を気にしながら、インターネット地図サービスを利用した。かつて村と呼ばれた古い住宅地に踏み入った。そこは駅前とは違って異様に暗く、独特の雰囲気を醸していたが、どこか東京の誠の実家周辺にも似ているような気がした。だからか、おどろおどろしいという気分には襲われなかった。
蛇のようにうねる狭い道を進み、住宅地を抜けると、長い坂道に出た。大きなカーブを描く上り坂の中腹に二つの学校があった。右は府立高校、左は中学校だ。彼女は明日、この中学を訪れようと計画した。誠の担任や、彼をよく知る先生に出逢えるかもしれないと思った。
坂を上りきると、ドッと疲れが彼女に圧しかかった。スーツケースの中の荷物に加え、ギャル店員の餞別もあって、それをまた利き手とは逆の手で牽き続けなければならないのだ、左半身の肩や足腰にかかる重圧と言ったらない。
父の秘書が予約してくれたホテルは、万博公園とその最寄り駅を東に見据える場所にあったのだが、その駅というのがモノレールで、彼女が降りた場所から一駅先にあったので、余計に疲れが溜まってしまった。
チェックインを済ませ、予約した部屋の鍵をもらった。そしてエレベーターで最上階に向かい、部屋に入った。そうして愕然とした。あの父親、いやあの秘書、たかだか女子高生二人に何て部屋を用意しているんだ。彼女が今夜、そして明日と泊まる部屋は、このホテルで最上級のスイートルームだった。
おかしな感じはしていた。チェックイン時、予約名を告げるとフロントの係員が一瞬だけ怪訝な顔をしていたのだ。きっと右腕のギプスが気になったのだろうと思っていた。さらにエレベーターで同乗した夫婦と思しき男女は、彼女が躊躇いなく最上階のボタンを押すと何やら耳打ち合っていた。
なるほど、こういうことか。そりゃそうだ、女子高生風情が高級ホテルの最上級スイートルームを使おうと言うのだ、しかも予約にあった二名ではなく、たったの一名で。
部屋に入ると、さすがはスイートルーム。花瓶に挿してある何でもない花さえ希少価値が高く感じてしまう。ご丁寧にもキングサイズのベッドが二台備え付けられていて、ソファーも著名な物が置かれていて、化粧台にはこれまた最高級のアメニティがサービスしてある。更衣室には大きな鏡があり、浴室の浴槽もまた広い。ホテルの一階に大浴場が用意されているらしいが、彼女はこちらを利用することに決めた。
辛い夏日だった。ギプスの中はすっかり蒸れてしまっている。椿はスーツケースを置くと、中から替えの下着を取り出した。寝巻きは、ホテルが用意したネグリジェを使い、シャンプーや洗顔料もアメニティから選ぶことにした。
更衣室の鏡の前に立つと、目の下のクマをひた隠しにしていた濃いファンデーションの層が薄くなっていることに気付いた。何て顔をしているんだろう。椿は嘆息を漏らすと、三角巾を外し、ギプスで固定された右腕を大きなポリ袋に入れ、二の腕辺りからゴムで止めた。服を脱ぎ、ランジェリーの一切も身体から剥がした。
素肌を晒した彼女はシャワーの蛇口を捻り、シャワーヘッドから放射されるお湯に右腕以外の全身を濡らした。
椿は浴室にもある全身鏡に自分の姿を映しながら思考した。自分はまだ、親の脛を齧っているのだと自覚した。どんなに誠を大切に思っていても、結局は一人で何も為せていないのだと。親の力も、他人の力も借りない。借りたくない。そう担架を切りつつも、使えるものは全て使っている。
自分は、誰かがいなければ、誠一人さえ満足に探せないのだ。
悔しかった。そうまでしているのに、何の手がかりも得られなかった今日までの行動が全て否定されているようで、とても悔しかった。
何より極めつけは昨夜のことだ。
“大阪には行くな”
ドレッドヘアーの男はそう言った。
“どこにも行くな”
洗脳するように重ねて言った。
“行けば、呪う”
殺意に満ち満ちた瞳で告げられた。
“お前の全てを、呪う”
あの男は、“人間ではない何か”だった。誠の行方を知っているかもしれない、唯一の手がかりだ。
負けたくないと思った。あんな得体の知れない何かの言いなりにはなりたくなかった。だから大阪くんだりまで来た。あの男は脅してまでここに来ることを拒絶していたのだ、必ず何かがあるに決まっている。
湯気が浴室に充満して、椿の全身は霞の中に消えていた。すっかり曇ってしまった姿見にシャワーのお湯をかけた。傷一つないような鏡面にスッピンの彼女が映った。白くハリのある柔肌に、バストに対してほどよい曲線を描くくびれ。そうした隙間、鏡にわずかに映る背景に、黒い何かが見えた。
「なるほどなるほど。出るところはちゃんと出て、引っ込むところはちゃんと引っ込んでいるんですねぇ~」
椿の肩に当たって後ろに跳ねるいくつもの雫を頭に浴びながら、黒い何かは口を利いた。
目を剥いて首だけで振り向いた先に、あの変態長身男がさも当然のようにしゃがんでいた。その視線は、彼女の肌理細かい肌と、持ち上がったヒップを精確に捉えている。それどころか、そんなアングルでは、青少年の方々へは、条例の有無に関わらず、倫理的に決して見せられないR指定のエリアまで、モロに、丸見えなのである。
ここで叫ぶ前に、飛山椿から関係者各位にお伝えしたいことがある。
ビジュアル化する際は、モザイクではなく、下半身全面カットでお願いしたい――以上。
「ぎゅあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
シャワーヘッドが第一投、左腕が唸る。続けてアメニティのシャンプー、リンス、石鹸、桶、椅子――と連投につぐ連投。絶叫も相俟って、さしもの男も狂気の沙汰と覚えたのか、ベッドルームへと逃げ出した。
「どっから湧いたっ、このド変態幽霊ストーカー!!」
「ふぅ。あれしきのことで取り乱すとは、存外、繊細な神経をお持ちなんですね」
「あの状況じゃあ誰だってこうなるわっ!!」
男はベランダを背に立って肩をすくめ、「私は忠告したつもりですよ、大阪には行くなと」気色悪いトレンチコートにかかった雫を払い、ついでに陰湿なドレッドを掻き揚げながら、そう言った。
椿は辛うじて羽織ったバスローブ姿で彼を睨みつける。その手にはアメニティの髭剃りが握られている。
「私、他人の言葉に振り回されたくないの。特にアンタみたいな、一方的に自分の都合だけを押し付けて、人を脅すような輩にはね!」
「そうやって天に唾するのは何かのプレイですか? あぁ、唾は“つばき”とも言いますし、やはりアナタはご自身に向かって唾を吐いたり、ご自身で投げたブーメンランに当たってみたりするのが大好きな生粋のマゾヒストなんですかねぇ」
言われて脳裏に蘇るのは、市ノ瀬総合病院のナース吉野の顔だった。彼女は椿にとって許しがたい相手だった。何故なら、夜勤中の彼女が居眠りをしてしまったせいで、当院に入院していた早河誠が消息を絶つ要因を作ってしまった可能性が高いからだ。
そんな彼女を、椿は糾弾していた。時も場所も選ばず、彼女の精神を追い詰めるほどに口撃し、当夜の行ないがいかに重大なミスであったかを骨の髄まで思い知らせていたのだ。
その行為自体、椿は何の責任も感じていなかった。当然の報いだとさえ思っていた。
それなのに目の前にいるこの男は、暗にそれを否定しているように告げる。
それにそもそも、何故この男は知っているのだろう。椿がこの二ヶ月にしてきた行動を監視していたとでも言うのだろうか。
「アンタ、何者なの」
「性懲りもなく罵倒してくると思ったのですが、歳相応には物事を合理的に考えられる頭をお持ちのようですね。そう、裸を見られてパニックになるのはレディーだけでいい」
「私もレディーなんだけど」
「こちらの話です、お気になさらず」
意味深長な自分の発言を肩をすくめるだけで打ち消した男は、椿との距離をそのままに、正面から彼女と向き合った。彼女の双眸だけに視線を注いだ。
「何者か。そんなことはアナタが知るべきことではない。私がアナタに知ってほしいのは、どれだけ強がってみせても抗えない恐怖のみです」
昨夜、全身を苛んだ感覚が椿を襲った。彼女は彼の二つの瞳と視線を交わらせた途端、その場から一歩も動けなくなってしまった。身体は震えるばかりで、肌は粟立ち、頭の先から順に血の気が引いていく。
この男が放つ恐怖という名の“殺意”に絡め取られていた。
「飛山椿、考え違いをしない方がいい。アナタをここに来させないよう釘を刺したのは――」
男は彼女が教えたはずもない本名を口に出すと、大きな室内を横断しはじめた。
ソファーに挟まれたテーブルに置いてあるハガキサイズの用紙の束を掴むと、佇立したまま動けない椿に向かってそれを放り投げた。用紙の束は空中でばらけ、落ち葉のように彼女の足下に散らばった。
「こんな物を配られると回収するのが一苦労だからです」
「コレ、全部昼間の……!?」
光沢紙に印刷された写真の表面にはいずれも早河誠の姿が写り、裏面には椿の手書きで彼の名前や特徴、そして椿の連絡先が記されていた。しかしそれらは新品ではなく、指や爪の痕が残っていたり、丸められたり折られたり、あるいはティッシュのようにグシャグシャにされていたり破られていたりもした。男が掴み、投げただけではそうはならない。手間を考えれば、椿がシャワーを浴びている間にこの部屋に侵入してきたのだろうこの男が、事前にそうした物を作って用意していたとも思えない。
これらの写真は間違いなく、男が言うとおり、椿が通りかかる人々に捜査協力を求めて配った写真だ。
「新大阪駅の服屋の店員から、高級スーパーの警備員に至るまで、全員から回収しました」
「びょ、病的ね……!!」
男は右の人差し指で、右目の下をなぞるような仕草をして、「アナタほどじゃありません」
カッとなった椿は、男による金縛り状態から全身の動きを取り戻し、左手に握ったままにしていた髭剃りを男に投げた。
それは彼女の予想よりも正確に男の顔面に飛んでいったが、男はそれを微動だにせぬまま鼻先に受け入れた。しかし、髭剃りは鼻先にもぐり込んだと思いきや、姿を消し、彼の背後の白い壁に当たって落ちた。
昨夜と同じだった。やはり間違いなくこの男は、物を透過することができる幽霊男なのだ。
「帰りなさい。ここで何をしたところで、アナタの行為は水泡に帰すばかりです」
「アンタが邪魔をしようって言うのね」
「憶測はお好きにどうぞ。ただし、アナタ程度がどれほど頭を悩ませ、どれほど可能性を突き詰めたところで、真実に辿り着くことなどできません」
「その真実というのを、アンタは知っているのね」
「そう思うなら、アナタはどうします」
「意地でも口を割らせるに決まっているでしょう」
「正気ですか?」
「気なんてとっくに触れてるのよ、誠がいなくなったあの日からっ!!」
椿が先に動いた。彼女は足元のスリッパを掴んで男に投げた。男はそれを難なく透過し、どうしたものかと肩をすくめた。しかし不意に閉じていた瞳を開けると、椿はとんでもないものを左手で掴んでいた。装飾用の植木鉢を片手で持ち上げていたのだ。
火事場の馬鹿力というやつか、アドレナリンで一杯になっているような真っ赤な顔の彼女は、バスローブやカーペットを鉢の中の土や水で汚しながら、円盤投げさながらの強引さで男に向かって投げ飛ばした。それがまた彼女の願いを聞き入れたように男への直撃コースに入った。
今度もきっと透過される。椿はフォロースルーで硬直する身体をすぐに動かし、スーツケースに手を伸ばした。家から持ってきた替えの服や化粧用品、ペットボトルや携帯食品などを掻き分けて、プラスチック製の取っ手を掴んだ。取っ手の先はタオルで包んであったが、スーツケースから取り出した頃には自然と解けて、銀色の光を天井に反射させていた。
末期だな、というのが男の素直な感想だった。刃渡り二〇センチメートルあまりの一般的な包丁――いわゆる三徳包丁を握る彼女の形相は、それほどまでに常軌を逸していた。あまりに猟奇的で、あるいは悲劇的で、煎じ詰めると壊滅的だった。
もうコレしかない。むしろこのような時のために隠し持っていた。そう思って凶器を手にしたのだが、椿は男の行動に我が目を疑い、判断を鈍らせてしまった。男が鉢を両手で抱えていたからだ。何故透過してやり過ごさない。そんなことが一秒間のうちに脳内を駆け巡ったが、彼女は“ままよ”という勢いに任せて男に斬りかかった。
男は鉢を盾にして防御することもできた。しかし彼は鉢に右腕を透過させ、彼女の左手を掴むと人差し指から小指までの四本の指を、強引に外側に開かせた。椿は包丁を落としてしまい、男に突き飛ばされるまで身動きを取れなかった。
男は足下に鉢を丁寧に置くと、自分の足下、彼女がいた足下、そして彼女のバスローブ、それぞれに付いた土汚れを見て嘆息を漏らした。
「まったく、誰が掃除をすると思っているのやら。やはりアナタは所詮、良家のお嬢様ですね。株式会社タラリア代表取締役社長飛山宗光、そのご息女――飛山椿さん」
突き飛ばされてわずかによろめいていた彼女だったが、姿勢を正すと男から距離を取った。
「父の名を出して、私が動揺するとでも思っているの」
「いいえ。アナタの性格は存じております。今のアナタが誰も信じていないことも、誰の犠牲も厭わないことも、“思い至った、たった一つのこと”にのみ命を懸けていることもね」
「だったら何よ。いよいよ私を殺すのかしら。正しくは、“呪い殺す”んだったかしら?」
「アナタはまさに、翼の生えた黄金のサンダル――タラリアを履いて自由に飛び回る、神話の神ヘルメースのようだ。確かにそんなアナタを黙らせるには、サンダルを奪って檻に繋げておくよりも、いっそ殺してしまったほうがいいのかもしれませんね」
男の静かな脅迫が、椿の全身を強張らせた。表情に出さないように努めたが、男のこれまでの言動や得体の知れない能力を前にすると、首筋を伝う汗を止められなかった。
真夏の夜のせいにしたかった。
「私はアナタのことを何でも知っています。身長、体重、スリーサイズ、手脚の長さや座高、生年月日、生まれた病院、血液型、平熱時の体温、血圧、体脂肪率、視力、聴力、筋力、さらには性格、思想、癖、趣味嗜好……。私はアナタのその薄っぺらい人間像を構成するあらゆる事柄を知り、またいかようにも操ることができます。真実と虚構を織り交ぜた情報としてね」
虫唾が走った。コイツはもう、ゴキブリやムカデ以下の不快害虫だ。
「引き下がるわけには、いかないのよ……」
「東京に戻り、アナタがかねてから望んでいたように、親の力は極力借りず、平凡な高校を卒業し、そこそこの大学に入学し、そこそこの自給のバイトを見つけ、そこそこの会社から内定をもらい、大学を卒業後はそこそこの会社でそこそこの社会人として生きればいいのです。巡り合う男性も、早河誠ではないだけで、容姿や性格や温もりが似ている人がいるかもしれません。もしかするとその男性は、早河誠よりも真剣にアナタを愛してくれるかもしれない。いや、その確率はきっと高い。何故ならアナタが探している早河誠という少年は、ずいぶんと暗く、刺々しく、近寄りがたいヒネた性格だったらしいじゃありませんか。そんな男が、アナタの望む人生に必要ですか? むしろ弊害になるでしょう。何故なら人間、そこそこの人生を謳歌するのも難しいものなのですから」
長い言葉が区切られると、「必要に決まってるでしょ」と椿は顔を俯かせたまま言った。
柳はそれを黙って聞いた。
「アンタは何も分かってない。どこからそんな情報を仕入れたのか知らないけど、誰も彼のことを分かってないからそんなことを言えるんだ!」
顔を上げた彼女は涙を流していた。きっと彼女の滲んだ瞳には、目の前の光景は映っていないと男は予想した。おそらく彼女の脳裏には、在りし日の早河誠や、彼との思い出が走馬灯のように駆け巡っているのだ。
「必要なのよ。彼じゃなきゃダメなのよ。そして彼にとっても私の他にいないのよ。彼、言ったもの。私じゃないとダメなんだって、私のことが、私を……っ、だから――っ!!」
気付いた頃には、椿は男に背後を取られていた。感情に任せて叫び続けるあまり、男の動きを見失ったのかもしれない。
椿の首に、男の二の腕が回った。もはや椿には抵抗することもできなかった。立っているのがやっとだった。しかしその足も、次の言葉を聞いた途端、力を失くしてしまった。
「お眠りなさい。アナタにはもう、できることが残されていないのだから」
甘い香りが鼻腔を支配した。男がつけている香水のそれかもしれなかった。それを知っても、もはや椿には反吐を吐くことすら叶わなかった。
倒れてはいけないと思いつつも、男の支えなしではこの姿勢を維持できない。意識が遠退き、どうしようもなく脳が閉じていく。
本当に、死んで――……。