〔三‐5〕 異世界・大阪
いかに疲れていようとも、いかに衝撃的な夜を体験しようとも、東から西への二時間半の旅を白河夜船で過ごすことはなかった。椿はなおも不眠症の心と身体を一体にし、日本第二の都市――大阪の地に足を踏み入れた。
彼女がこの一六年間で肌に染み付かせてきた気質とはまるで違う空気感が、新大阪駅のホームに降りてから早々に漂ってきた。特に、このホーム内で飛び交う関西弁、あるいは大阪弁のインパクトときたら、カルチャーショックさながらの凄まじい勢いだった。この空間、いや、このホームから外に出てしまえばさらに、標準語を耳にすることは皆無と言っていいだろう。
椿は多少の恐れを抱きながら、まずは階段に向かって歩き出した。
「何やアンタ!」
突然背後で発せられたその一言に、椿は両肩を震わせ、背筋はピンと伸びてしまった。気になって振り返ると、おそらく六〇代後半と思しき背の低い女性が椿を睨んでいた。
「へ、え、私……?」
「せや、アンタしかおらんやろ!」
年配女性の挑むようなセリフに、さしもの強気な女子高生も動転して動けなくなってしまっていた。東京ではまず遭遇しえない状況に不幸を覚えたり、今日一日の自分の行為を見つめ直して不備を洗い出そうと記憶を掘り返していると、「どないしたん、岡村さん」と別の声がした。見ると、紫色の髪にパンチパーマを当てた、これまたインパクトの権化のような年配女性が現れた。
私はいつの間にか海を渡って遠い国に訪れてしまったのか。もしかすると気付かぬうちに東京駅のホームで線路と線路を隔てる壁を通り抜けてしまい、異次元の新幹線に乗り込んでしまったのか。いや、そもそも東京駅にそんな場所があったか。分からない……。
混乱する彼女の瞳が現実世界を映した頃には、年配女性は影分身――もとい十人ほどに増えてしまっていた。うち半数は紫色のパンチパーマで、一人はレインボーに彩られていた。
「ほらコレ見てや、この子! 怪我してんのにこんなデッカイ荷物持ってこんな高い階段下りようとしてんねんで! 危なっかしぃて見てられへんわぁっ!」
「うわホンマや、アンタ何考えてんの!」
「あっちにエレベーターあんで、アレ乗り、アレ!」
椿にはもうどうすることもできなかった。スーツケースは池内さんに取られてしまい、紫さん一号には左腕を掴んで引っ張られ、レインボーさんが先導するエレベーターまで連行されてしまった。
「さっすが濱口さん、エエモン見っけたなぁ!」
「当たり前やん、アタシ目敏いからっ!」
ゲハハハハと彼女らは笑う。椿は顔を引きつらせるのが精一杯だった。
エレベーターが着くと、調子に乗ったレインボー濱口が一足先に動いた。ルールもマナーもへったくれもない様子で、下りようとする客達の間に割って入り、昇降ボタンの前の空間を陣取った。椿は年配の小人達に背中を押され、狭い空間に押し込まれた。エレベーターの扉が閉じると、「下へ参りまぁ~す」とレインボー濱口がおどけて見せた。
また笑いが起きる中、コイツこれがやりたかっただけだなと椿は口中で悪態をついた。するとまた岡村さんと目が合った。彼女は目を細くして言った。
「アンタ、その顔色何や! 気分でも悪いんかいな!」
「べ、つに、何も……」
「ホンマや、痛むんかいな。顔真っ白やで」
元からですけど何か、とは言えなかった。地元では一部の友人から“美白総理”というあだ名で呼ばれ、美容のことになるとカリスマ的な存在として祭り上げられているとはとてもじゃないが言えなかった。
「それにしても岡村さんもよぉ気付きはるなぁ」
「アタシも目敏いからっ」
「天丼かいな!」
またゲハハハハと笑いが起きる。もう耐えられない、このままでは大阪の毒気に脳が支配されてしまう。本当に顔色が悪くなりそうになっていると、神が助けの手を差し伸べてくれたのか、エレベーターが目的の階層に到着して扉が開いた。
年配女性達は我先にと這い出て、結局椿は最後に降りていた。そして周囲を見やると、彼女らの姿は無かった。
何だ、狸に化かされたのか。それとも年老いたティンカーベルの群れに幻を魅せられてしまったのか。
呆気に取られていると、「楽できたわぁ」という声が椿の耳朶に触れた。雑踏の向こうで紫とレインボーの集団が群れをなして歩いていた。
「あぁでもせんとエレベーター乗るんもキマリ悪いからなぁっ」
あの下卑た笑いがまた起きるが、それは椿が聞いた中で一番長いように思えた。
椿が立ち直るにはしばらく時間が必要だった。とりあえず改札を抜けたものの、平日朝の新大阪駅も中々の混み具合で、しかも東京とは逆の左側通行には違和感だけが募ってしまい、目的地への道順を見失ってしまった。
あぁどうしよう。迷子が続出するという東京駅や新宿駅でも迷ったことがないのに、一度違う土地に来たらコレだ。結局人間、慣れでどうとでもなるらしい。
椿はまず、どこか立ち止まれる場所を探した。大阪の人はせっかちだと聞くし、ただでさえこの混雑だ、怪我人だからと皆が皆気にかけてくれるわけではない。
椿は構内にある適当な店に入って人の群れから離れた。そしてあまり関わりたくないが、店員に目的地への道順を尋ねようと思った。どうやらこの店は服屋のようで、ちょうど椿のような女子高生向きのファッションを中心に取り扱っているようだった。椿は先程、年配のカラーギャング達に出す前に木っ端微塵にされた勇気を再構築ののちに振り絞って、背を向けて服をたたんでいる店員に声をかけた。
「あ、あの、ちょっとお尋ねしたいことが……」
「はぁ~い、いらっしゃ……」
「えっと、地下鉄に乗りたいんですけど……何か?」
振り返った店員はしっかりとアイメイクを施して大きく見える両目を瞬きした。そうして椿の顔、スタイル、服装をまじまじと眺めると、「チョーかわいい!」初対面の彼女の胸や腰や尻を馴れ馴れしく触り始めた。
当然椿は飛び退いて、小動物のような威嚇の視線を浴びせた。
「ごめんごめん、ハンパなく可愛かったから」
茶髪をほどよく盛り、軽く日焼けサロンで焼いた小麦の肌を可能な限り露出しているそのギャル店員は、ばつが悪そうに頭をかいた。
「ねぇ、トーキョーの人?」
「え、はい、そうですけど」
「せやんな、やっぱちゃうなぁって思ったんよ! なんて言うん、アカヌけてるってやつ?」
「そ、そうですか?」
椿は気を良くして、店員の前で少しポーズを取って見せた。するとそれが高印象だったらしく、店の服を着て写真を撮らせてほしいとねだられた。
「でも私、コレだから……」
椿は右腕を折ってからというもの、家にある気に入った服のほとんどを着れずにいた。だから、よく見ればタイトで可愛い服を取り揃えているこの店の商品のほとんどを着られないだろうと判断したし、また服を着替えるにはそれなりの時間がかかるので、用事がある彼女は断らざるを得なかった。
店員もすぐにそれを察したらしかったが、椿が着ているインナーに目を留めた。
「それさぁ、“カワE~♪”の最新号に載ってたタンクトップのイロチやんな?」
「そうですけど……」
「やっぱり! コレ、ウチも置こうと思っててなぁ、ちょうど明後日届く予定になってんねん! せやから上着とショーパンだけ店のヤツ着てくれたらエエから、ね、撮らせて!」
椿は急ぐということを断念した。自分はこんなにも押しに弱かっただろうかと溜め息が漏れてしまった。
上機嫌のギャル店員が見守る中、椿は自分に合いそうな服を選び始めた。これまでの人生、街を歩けば声をかけられたことはごまんとあった。しかし応じたことは一度もない。いずれも断り続けてきた。大阪に来た目的となる、彼女が行方を追う少年――早河誠のことを想い、彼が目にしてくれるかもと読者モデルの誘いを受けようと考えたことはあったが、どうもそうすることが誠への不義理をかけているようで断ったこともあった。
そして今も当時と同じ心境だった。彼の行方を懸命に追わず、こんな所で油を売っている。しかし、今度ばかりはココで撮った写真を誠が目にしてくれるかもしれないという淡い期待を抱いていた。誠が大阪で過ごした場所はもっと遠くだったが、それでも何かのきっかけになってくれるかもと願いを込めていた。
ギャル店員は褒め上手だった。不自由な右手の代わりに椿の着替えを手伝う間、彼女の容姿をずっと褒めちぎっていた。それでまた乗せられた椿は、意気揚々と狭い店内の通路や、通行人が少ないタイミングを見計らって店の前で何枚も写真を撮らせた。
「写真撮るの慣れてるんですね」
「ウチな、こう見えて読モの経験あんのね」
読モとは、読者モデルの略称である。
「最初は撮られてんの結構気持ちよかったんやけど、段々撮る方に興味沸いてもうてな。それで気付いたらカメラマンの弟子みたいなんやってる時期あってん」
「それでそんな立派なカメラを」
「そ。スマフォでもええんやけど、やっぱりホンマもんやないと出せへんリンジョー感があるんよねぇ~」
はい、これでオワリ!
デジタル一眼レフカメラから顔を離したギャル店員の顔は非常に晴れやかだった。この時久しぶりに椿は人のために良いことをしたような気分になった。
「確認してみる? コレとか我ながら結構可愛く撮れてんけど」
カメラに搭載されている液晶パネルに、ポーズを取った椿の写真が表示された。中々様になっていて、ギャル店員のポージング指導もあって格好良く、可愛らしく、何よりギプスで固定された右腕が見え辛いように撮影されていた。
「あの、ありがとうございます」
自然とそんな感謝の言葉が出た。ギャル店員は初対面の時のように一つ瞬きすると、やはり笑顔を覗かせた。
「何言うてんの、こちらこそありがとうやで」
椿は涙腺が刺激されるのを感知して、そそくさと店内の端にある更衣室に向かった。
カーテンの向こうに姿を隠す彼女に、ギャル店員は訊いた。
「大阪には何で来たん? 旅行? それとも遠距離恋愛中の彼氏に会いにとか?」
茶化すように聞こえたが、椿は着替えながら答えた。
「……人を、探してるんです」
「大切な人なんやね」
椿が頷いたのはギャル店員には伝わったようだった。
「ウチな、こう見えて人生経験ホーフでな。モデルやりーの、カメラマンのアシスタントやりーの、デザイナーやりーの、友達の誘いでクラブのホステスやったこともあるんよ」
突然の身の上話だったが、椿の耳にはじんわりと馴染んでいった。
「まぁそれが結局あんまり良くない店でな、軌道に乗りかけてたデザイナーの仕事にも影響出て失敗してもうたんやけどね。それでもまぁ、ウチ、アンタみたいなカワイイ子とか若い子を相手にすんの好きやから、今はこうして自分で店開いてるんよ」
「何が言いたいんですか?」
「うん? せやからな、人生何とかなるよ。どんなに辛くても諦めへんことが重要やと私は思うんよ。アンタも先にあるかもしれへん失敗よりも、今の努力を続けなアカンで。人生、過去でも未来でもなく、今が一番大事なんやから」
椿はカーテンを開けた。目が少し赤らんでいる。そして、目の下がうっすらと黒ずんでいる。
ギャル店員は彼女の抱えた何かを感じたが、すぐに笑顔で応対した。
「お疲れさん」
「私、頑張ります。諦めません」
「見つかるとエエね、彼氏」
「か、彼氏、彼氏じゃ……」
図星だと察したギャル店員は高らかに笑った。
この人には勝てないなと思った椿は、スーツケースのポケットから一枚の写真を取り出した。
「私が探している人です。ご存知ないですか?」
「うぅん、見たことないなぁ。っていうか、最近私女の子にしか興味が無くて、男の子に目向けてへんわ」
ごめんなぁと謝りつつ、彼女は写真の裏を見た。写真に写る少年の名前と特徴が簡潔に記されていた。彼女が女子高生にそれを返そうとすると、女子高生は首を横に振った。
「できればその写真をお店に置いてほしいんです」
「それは構わへんけど、アンタは困らへんの?」
「沢山刷ってあるので」
スーツケースのポケットには数十枚の写真が束になって入っていた。
店員はもう一度写真の裏に書かれた少年の名前を見た。手書きで記されていた。おそらく写真の束、一枚一枚にも同様に記されているのだということは明白だった。
「きばりぃや」
「き、きばる?」
「頑張れってことや!」
そう言ってギャル店員は大きな紙袋を彼女に差し出した。
「その身体で荷物嵩張るけど、さっきのモデル代や。持っていきぃ」
袋の中には、今し方撮影用に貸してもらった服に加え、他に何点かの商品が入っていた。総額十万円は下らないかもしれない。
「そ、そんな、悪いですよ!」
「ええから、持っていきぃな! 彼氏にその服着てるとこ見してあげ!」
椿は唖然としたが、ギャル店員の笑顔にまた負けて、笑顔を返した。スーツケースに乗せる形で頂いた紙袋を紐で固定した彼女は、実に気持ちよく店員に送り出された。しかし店から三歩ほど離れたところで立ち止まり、引き返した。そして凄まじい剣幕でギャル店員に肉薄して問い質した。
「あのですね、私の当初の目的からだいぶ逸れてしまったんですよ」
「うん?」
「地下鉄、どこ?」
ギャル店員は彼女に地下鉄への道順を教えてやると、遠退く彼女の後ろ姿を店先から見守った。時折振り返ってお辞儀をする彼女に、店員も大きく手を振って返した。その手には彼女からもらった少年の写真が握られていた。
女子高生の姿を掻き消した雑踏の群れが、店員の目の前に押し寄せてきた。彼女は店内に引っ込むように躱したつもりだったが、手元が誰かに当たってしまった。
ヤバっと内心呟いたのは、写真を落としてしまったからだ。店内を探したが見当たらない。店先に出てみると白い紙切れを見つけたので拾ってみたが、ただのレシートだった。
立ち尽くす彼女を一瞥して、眼鏡の若い男は颯爽と立ち去っていった。彼が着るパーカーのポケットには、紙くずのように丸められた早河誠の写真があった。




