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ネイムレス  作者: 吹岡龍
ネイムレスSB【待ち人ラナウェイっ】
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〔三‐2〕 ルビコン

 数日、都内某署所属の刑事・弟切は自宅には帰っていない。寝床は署内の仮眠室を使うこともあるが、ほとんどは自分のデスクに突っ伏すか、椅子の背凭れに身体を預け、顔だけを天井に向けてだらしなく開けた口でいびきをかくかのどちらかだ。

 朝の七時半ごろ、デスクに置いていた携帯電話のベルが鳴った。バイブレーション機能が設定どおりに起動し、その振動がデスクの天板を震わせると、弟切がそこに投げ出していた足を揺さぶり続けた。踵に突然走る奇妙な感覚と、夏だというのに軽快に響くクリスマスソングが広い刑事課の室内を騒がせるので、弟切は飛び起きるような格好になったのも束の間、椅子から転げ落ちてしまった。尻餅をつき、右肘を強打したので短い悲鳴が上がった。

 しばらくその場で胡坐をかき、肘を宥めてから、不意に刑事課長のデスクの方を見た。課長のデスクの後ろには窓があり、太い柱には四角いデザインの時計がかけられている。こんな朝早くに誰だ。愚痴が喉元まで出かかっていたが、デスクの上で一人震え続けながらクリスマスソングを繰り返し歌っている折りたたみ式携帯電話を手にとって開くと目を剥いた。慌てて横着していた身体を起こし、通話ボタンを押して応答した。


『寝てた? ごめんね』

「嬉しいねぇ。まるで恋人みたいに言ってくれるじゃねぇか、ツバキちゃん」


 電話越しの飛山椿の声はか細く聞こえた。昨日彼女は、情報交換のために落ち合った公園で喧嘩別れのようになってから、家の近くで変質者に襲われたと聞いた。早河誠の個人情報消失の件もあったのでタイムリーが過ぎると思っていたところだった。

 彼の心配を煽るように、彼女は彼の冗談をまるで気にも留めずに訊いた。


『昨日の件、耳に届いてるかな』

「……あぁ、知ってるよ。怪我は無いって話だが、大丈夫なのか」

『逃げるときに転んで、膝を擦り剥いたくらいよ』

「そうか、それはよかった。その、何だ。昨日はすまなかったな、あんな言い方しかできなくてよ」

『いいの、気にしてない。今日はそのことじゃなくて、今から私がすることを弟切さんにだけは伝えておこうと思って。留守番電話でも良かったんだけど、何となく声が聞きたくてね』


 これは若者言葉で言うところの“死亡フラグ”というやつか。冗談じゃねぇぞと、弟切は眉間にシワを寄せ、椿が言葉を継ぐのを待った。


『大阪に行くの。そこに何か手がかりがあると思う』

「待ちな、ツバキちゃん。それはダメだ」

『どうして?』


 椿の声は平然としていた。いつもの苛立たしい様子はなかった。


「キミを襲った変質者を捕まえた。今、署に繋いでる。今日キミには事情聴取を受けてもらう必要がある。家政婦さんから聞いてないのか?」

『……捕まえたって、アイツを?』


 驚きを隠せないようだった。弟切は彼女の協力者としてではなく、一警察官として言った。


「そうだ。キミを襲った変質者だ。キミの住まいの周辺にも立て看板があったんだろ、あの変質者だよ」

『アイツが捕まる? そんなこと、あるわけない』

「何を言ってるんだ、ツバキちゃん。絵に描いたようなデブの兄ちゃんだ。キミが逃げ込んだ早河家の庭先で倒れてたんだとよ」


 椿は少しの間、何も言ってこなかった。だが消え入るような声で、『そっか』と独り言ちたのが聞こえた。何を納得したのか弟切には興味が沸いたが、唐突に笑い出す彼女に息を呑んだ。


『ひとまず二、三日で帰ると思うから、その私を襲った変質者さんを捕まえたっていう刑事さんによろしく言っておいて。事情聴取は後で必ず受けるからって』

「待ちなって、ツバキちゃん」


 回線は途絶えていた。弟切は携帯電話を耳から離すと、再び椅子に腰を埋めた。うな垂れて頭をかいていると、背後に気配がしたので振り向いた。

 その凄まじい剣幕に怖気づいたらしい背後の若い男二人は、そろって一歩たじろいだ。二人のうちの一方が陽気に問うた。


「どうしたんッスか、弟切さん。目が血走って怖いッスよ、ハハハ」

深山(みやま)。それに霧島か」

「おはようございます、係長」

「何だお前ら、こんな朝早くから」


 刑事課に配属されて三年足らずの若い刑事、明るい方の深山と、賢い方の霧島は、ロートル刑事(デカ)の弟切のマヌケな一言に互いの顔を見合わせた。

 呆れた顔で霧島は言った。


「自分は先日のコロシの被疑者宅の張り込みから一時的に帰ってきたところで、深山は夜通しの聞き込みから解放されたところです。係長は何も知らないんですね」

「霧島、上司にその言い草は何だ。弟切さんには他の捜査があるんだ、仕方ないだろ」


 “ディスる”という若者言葉があるらしい。意味は、相手の行動や発言、あるいは存在自体を侮辱・侮蔑、さらに言えば否定するということらしい。語源は諸説あるが、いずれにせよ英語のdis――不・非から来ているとされている。

 弟切は今まさに、二人の若者にディスられたと感じた。霧島には確実に、深山には天然に。

 霧島は鞄を自分のデスクに置くと、ドリップ式コーヒーメーカーの電源を入れた。


「その捜査というのが自分には分かりません。早河誠という少年が失踪した、それは確かに事件ではありますが、上の決定を突っぱねてまで継続するほどのことでしょうか」


 行き詰っているんでしょう。

 霧島は眼鏡の奥の鋭い目で、弟切にそう投げかけていた。


「市民からの情報提供を待って、別の捜査に移れと言いたいのか」

「そもそも、個人情報が一切消失していて、大した目撃情報も無い、さらには少年を入院させていたはずの病院側も今では知らぬ存ぜぬの態度で、上もそれを認めている。所轄の一刑事がどうこうできるレベルの問題ではありません。そんなことは、私などよりも長くこの世界にいるアナタの方がよくご存知でしょう。ましてや、元捜一の敏腕刑事だったアナタなら」

「俺がこの事件を追う理由としてはそれだけで充分だ」


 捜一とは、警視庁刑事部捜査一課の略称で、主に殺人や強盗などの凶悪犯罪を担当する。ドラマなどでは高学歴のキャリア組の牙城とされているが、実際は叩き上げの刑事の中でも選りすぐられた人材のみが選出される。

 賢い男はロートル刑事のデスクに手をつくと、彼の耳元に囁いた。


「公安がアナタを四六時中監視しているんです。あと二年で引退でしょう、ご自身で引き際を汚してどうするんです」


 弟切は青年の目を見た。生固いそれは目蓋の下に隠れることはなかった。


「霧島ぁ。キャリアのテメーがどんな刑事生活を思い描いて、どんな引き際を夢見てるのか知らねぇけどな、こちとらテメーらヒヨッコ共に花束もらって破顔一笑で送り出されるような最後を考えたことなんて一度も無ぇんだよ」

「昭和の刑事ドラマがお好きなのは解りますがね――」

「昭和の高度経済成長が無けりゃあ、テメーらの今の生活が無かったことについて平成生まれはそれでも罵倒を続けようってのか?」

「懐古主義が言うじゃありませんか……!」


 睨み合う両者を宥めようと、深山が固い笑顔で割って入った。


「何だか論点がズレちゃってますよ、二人とも。ともかくですね、弟切さん。霧島はこれでも心配してるんスよ。霧島も、弟切さんには考えがあるんだから――」


 途端、三人は一斉に刑事課の外へ目を向けた。出入り口で人影が動いたような気配がした。

 弟切はこの若い二人組を気に入っていた。一人は活力に満ち溢れ、一人は冷静な判断力がある。そして何より、今のように勘が良い。

 公安だなと、三者三様に人影の正体に当たりをつけた。影はすぐに遠退いたが、間違いなく弟切を監視している人間だと判った。

 若い二人が未だあからさまに鋭い目を出入り口へ向けていると、ロートルは言った。


「命令だ。俺には関わるな。早河誠の件にも一切触れるな」


 彼の気迫に気圧され、二人はそろって顎を引いた。


「これは、俺のヤマだ」


 断じると、霧島は颯爽と部屋の外へ出て行った。深山も二人を交互に見やってから、霧島の後を追いかけた。

 一人に戻った弟切は、ギィと椅子を鳴らしてから嘆息を漏らした。今一度出入り口の外を一瞥した。おそらく椿との電話は盗聴されただろう。刑事課の中にも盗聴器や隠しカメラがセットされている可能性もある。

 霧島に言われるまでもなく、捜査は行き詰っている。あらゆる情報が何者かに封殺されている今、具体的な行動をとることはできないだろう。つまり、椿の期待に応えられないということだ。

 寝起きに椅子から転がり落ちた衝撃か、スチール製の事務机の引き出しが一つ半開きになっていた。“現場百遍”――何度も事件現場に通い、そこから事件解決の糸口を見出すという格言――を言い訳に、机周りの整理整頓を怠ってきた弟切は、そこに何が入っているのか、何を入れたのかを思い出せず、見知らぬ誰かの宝箱を覗き込むような感覚で引き出しを開けきった。

 そこには筆箱やら、溢れかえった鉛筆やらボールペンやらの筆記用具。何年も前に使っていたメモ帳に、新聞の切り抜きなんかも入っていた。そして、白い封筒が隠れるように仕舞ってあった。

 触ってから、思い出した。中身を取り出すと、思ったとおり亡き妻の写真が入っていた。四年前に末期ガンで他界した彼女が残した遺書も入っていた。生前、妻が封筒に遺書を入れ、弟切が妻亡き後に写真を同封したのだ。彼女の晴れやかな笑顔と、彼女の想いを綴った言葉とともに。

 弟切は違和感に気付いた。封筒にまだ何か入っていて、それがえらく立体的な形をしていたので手の平に出してみた。小さなサイコロだった。まだ年端もいかない息子に買ってやった流行のボードゲームに付属していた物だ。

 確かコレには。弟切は思い立ち、机の中をさらに漁った。そうして見つかったのは二つ折りにされた一枚のメモ用紙だ。無地のそれには、“おうとさ かつこい”と何かの呪文のような意味不明の一文が、まばらな大きさで記されていた。

 当時息子がイタズラか、ろくに家に帰れない父親に構ってほしいからか、スーツの上着のポケットにサイコロとこの手紙を入れていたのだ。外国人のほうがまだマシだなと、頬を掻いたのは懐かしい。

 そうやって、刑事という肩書きだけで尊敬してくれていた息子も、今では独り立ちして妻も子もいる身のようだ。と言うのも、彼が結婚したことも素っ気ない手紙で知らされたのだ。しかし怒ることはなかった。むしろ怒っていたのは息子のほうだったからだ。

 よくある話だ。弟切もまた、仕事一筋で家庭を顧みれなかった父親の一人だったのだ。父に愛想をつかした息子は思春期になると口を利いてくれなくなった。どちらが悪いというわけでもないのだろうが、親子である以上、家族である以上、こうした諍いは回避できなかったのだ。

 弟切はサイコロを右の人差し指と親指で摘み上げると、天井のライトに掲げて見せた。

 妻と、息子と、写真でしか知らない嫁と孫。そして、狂ったように一人奔走する少女――


「……ここが俺のルビコンか。いけ好かねぇな」


 ひっそりと笑うと、サイコロをポケットに突っ込んだ。

 誰か一人でも幸せにしてやりたいと心から願った。

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