〔三‐1〕 菜々
今朝も、愛らしい少女の声が弾まない。
彼女の代わりに主張する電話のベルが、やけに煩わしいほどけたたましく聞こえる。そんな丑三つ時のような不穏な静けさが、飛山家を包んでいた。それもそのはずだ。何せ飛山家は、今年二度目の不幸に見舞われていたからだ。
飛山家で家政婦として雇われている菜々は、まだ二六歳だがその仕事ぶりにはケチのつけようがない。飛山家が以前に雇っていたという女は横領に恐喝、職務放棄も甚だしい行為に明け暮れていたらしいが、それを抜きにしても菜々の手際の良さには目を瞠るものがある。
二四時までには床につき、早朝五時までにはこうして起きて家事を始める。家政婦としての知識も経験もなく、また家政婦の派遣会社にも所属していない完全なるアマチュアの彼女だったが、この五年以上の歳月をかけて独自のタイムスケジュールを作れるようになっていた。
雇い主である宗光から日曜祝日は定休日とされているが、宗光の娘――椿の世話をするのが好きだという彼女は、あらゆる時間を少女のために費やしていた。
飛山の邸宅は二階建ての母屋と一階建ての離れ、そして広い庭で構成されている。住み込みで働いている菜々には離れを宛がわれており、そこには邸宅一帯を監視しているカメラの映像などを管理するセキュリティールームも付随しているので、菜々にはそれの管理も任されている。彼女自身が護身術のような武道を嗜んでいるということはない。ただ、母屋で何かがあり、菜々が無事であった時に、警察への情報提供を任されていた。
宗光は彼女と契約し、離れを与えた時に言っていた。立場上、トラブルに巻き込まれることも想定している。いざの際には飛山家の名誉を守るための行動をしてほしいと。家と椿の安全の一切を任された菜々は、就寝前にはその日一日の監視カメラの映像を倍速で流し見るようにしていた。
そして昨日の夜のこと、菜々はいつものように寝巻きでセキュリティールームに入ると頭を抱えた。室内にいくつもあるモニターで、十を超える監視カメラが捉えた一日の映像を確認した。思わず口を押さえたのは、一九時ごろの邸宅前を捉えた映像を観たときだ。一人の少女が門扉の前で躓き倒れたのだ。椿だった。飛山家の一人娘、敬愛する椿嬢は倒れた身体を起こしつつ、悲愴な面持ちで家を見つめていた。高性能なカメラは彼女の瞳がおどおどと泳いでいることまで鮮明に記録していた。
菜々は眠れなかった。眠れるわけがなかった。やはりいつものように離れで安穏と眠ってはいられなかった。彼女は離れを後にすると、母屋の二階、椿の部屋に向かった。
ベッドの上、椿の目蓋は固く閉じられていた。安らかな顔と静かな寝息から、この娘は二ヶ月前のあの日から続く長い不眠の日々からようやく解放されたのだと思った。彼女の安息の妨げにならぬよう、菜々は一階のリビングにあるソファーで眠ることにした。
電話のベルで目を覚ました菜々は寝ぼけ目蓋をこすりつつ、壁伝いに玄関近くにある固定電話まで歩いた。光るディスプレイに見慣れない電話番号と現在時刻が表示されていた。いつもの起床時間より一時間も遅い六時過ぎだった。
しまった。アラームをセットし忘れたか。朝食の用意をしなくては。
菜々は小さな自戒を胸に受話器を取った。
「はい。もしもし、飛山でございます」
『おはよう、ナナ君。私だ』
「あ、おはようございます、旦那様」
電話の相手は当家の主、宗光による国際通話だった。彼は今、ニューヨークにいる。
家政婦が見えない主に深々と頭を下げていると、主はいつもの抑揚のない口調で問うた。諸々の事情は昨夜の彼女や刑事からの一報で把握しているようだ。
『ツバキの様子はどうだ』
「はい。お医者様のお話では、心労がたたって気を失っただけのようです。まだご本人とはお話しておりませんが、膝をすりむいている以外に大きな怪我は増やしておりませんし、熟睡されているようでしたので大事はないかと」
『変質者か。住まいを変えることも考えねばならんかもな』
「……お言葉ですが、変質者は捕まりました。そこまでする必要があるのでしょうか」
このひと月、飛山家のある丘の周辺では変質者が出没するという事件が起こっていた。若い女性が対象にされ、つけ回されたり、恥部を晒されたり、ついには襲われた者までいるようだった。変質者の特徴を記した看板がいくつか立てかけられていて、住民に注意を喚起していた。
変質者の容姿は、背が低く、小太りで、丸い顔の長髪男だった。その彼が、昨夜御用となる瞬間を菜々は目撃していた。古い一軒家の庭先に倒れているところを、刑事が叩き起こして任意で連行したのである。
その古い一軒家は早河という方のお宅だった。家長である老婆はすでに他界し、現在の世帯主は高校二年生の孫だという。しかし彼もまたどこかへ失踪していて、今は空き家同然の状態になっている。
そこへ椿は逃げ込んだらしい。早河少年が椿の意中の相手だというのは何度も聞かされていた。菜々は少年と会ったことはないが、写真では何度か拝見していた。少し翳がある以外に目立った印象を覚えない男の子だ。椿が彼の何を愛しているのかは不明だが、変質者に行き遭った彼女が彼の家に逃げ込んだのは、それだけ彼に助けを求めていたからに違いないと思わざるを得なかった。
『それは警察による今後の対応と、椿の意思を聞いたうえで私が判断する。警察は椿に事情聴取を求めているのだろう。あの子が動けるようなら必ず行かせてくれ。ここで無碍にすると、次に何かがあっても袖にされるからな』
宗光らしい物言いだと菜々は思った。
この男は人を操る方法を熟知している。もし引っ越しの話を椿に持ちかけたとき、彼女が必ずノーと答えることが解っているのだ。この父親は、娘がある少年に恋焦がれていることも関知しているし、少年が失踪したことにより警察とはあまり良好とは言えない関係を持っていることも把握している。今回は都合よく動いてくれはしたが、椿の態度次第ではこの付近の警察は必ず椿を警戒し、彼女の発するSOSには快く応じてくれない場合があるかもしれない。つまり椿が望むとおりにしたいのなら、彼女が礼儀の通ったか弱い市民の一人になる、あるいは演じる必要があるということだ。
警察も人だ。人であるから、箍が外れたときが恐ろしい。宗光はそう思っているのだろうと、菜々は彼の思考回路を分析した。
「かしこまりました、お伝えしておきます。何か分かりましたら折り返しお電話させていただきます」
『面倒をかける』
「とんでもございません。それで、次のご帰宅はいつ頃になりますか?」
『明日の飛行機で日本に帰るが、また懇親会やらスピーチやらとスケジュールが立て込んでいるからな。しばらくは家にはよらず、ホテルを転々とする予定だ』
「差し出がましいようですが、お嬢様のためにお時間を作っていただけませんか?」
それは菜々からの何度目かの要望だった。とくに椿が事故に遭ってからそれが強くなった。正確に言えば、椿とともに事故に遭った少年――早河誠が失踪してからだ。あの頃から、椿の精神が確実に狂い、不眠症に陥ってしまった。
宗光は一考してから応えた。
『……分かった、ナナ君たっての申し出ならば断れんな。週末に妻と帰宅する。しばらくは妻にも家にいるよう伝える』
「ありがとうございます。お嬢様もきっとお喜びになられます」
主が電話を切るのを待ってから、家政婦は静かに受話器を置いた。
天井を仰ぎ、息をついた。そのまま小一時間ぼんやりとしていたかったが、椿のために食事を用意しなければならなかった。菜々はリビングに向かうと、テーブルに並べられた昨日の夕食を見て足を止めた。昨夜はパニックになっていた。食品用ラップフィルムを皿の一つ一つにかけることさえもできていなかった。
自分は良いとしても、とても主の娘には食べさせられない大量の残飯に嘆息を漏らすも、菜々はすぐにそうしたネガティブな思考を頭から振り払った。椿が無事だった。それでいいじゃないかと。
炊飯器に入ったままの白米は使えず、冷凍庫に入れていたものを解凍して粥を作った。菜々はそれを茶碗によそうとトレーに載せて二階まで運んだ。
「失礼いたします。ツバキさん、入りますよ」
椿の部屋のドアを二度ノックして、ノブを回した。
それは昨夜、椿が事件に巻き込まれてから実に一二時間が経ったばかりのことだった。自室で寝ているはずの飛山家の一人娘が姿を消していたのだ。
「ツバキさん……!?」
菜々が呼びかけても少女の声は返ってこなかった。
ベッドは蛻の殻だった。開け放たれた窓からは朝焼けの空が広がって見えた。
この時、菜々はどこか理解してしまった。あの日、椿が感じた喪失感がどれほど苦しいものだったかを。
大切な人を想う気持ちは、誰にも抑えられないことを。