〔二‐3〕 呪言
庭先で声がしたが聞き取れない。あのナナフシ男が独り言を呟いているのかもしれない。きっとそうだと思った。対峙したときも、何やら呟いていたからだ。クスリの、それこそまた危険ドラッグの虜になっている輩に違いないと思った。
椿は唇を噛んだ。自分と誠を無理矢理引き剥がした挙句、勝手に息絶えたトラック運転手への恨みが一層強くなった。
彼女は暗く狭い空間で膝を抱えている。自分から発される鼓動と衣擦れだけが空間を支配している。だがふとそれに違和感を覚えたのは、さっきまで鼓膜を苛んでいた耳鳴りがはたと止んだからだ。
誠がいなくなったこの二ヶ月、椿は不眠症に陥っている。弟切には確実に、菜々や吉野など身近で顔をつき合わせている人々にはおそらく気付かれているだろうが、ファンデーションでひた隠しにしている目の下の大きなクマはそれが原因だ。耳鳴りも時折していたので、あまり気にしないようにしていた。この家に飛び込んでしばらくしてから再発したそれも、いつものことだと思って考えないようにしていた。
しかしこの家の中で起きた耳鳴りはいつものそれと違っていた。普段はキーの高い音が延々と続いているのに対し、ここでは高音から重低音へと起伏の激しい波が鼓膜を刺激していた。寝不足と激しい運動により頭がおかしくなったと思っていた。あまり長居したくないとさえ感じていた。だが、耳鳴りがぴたりと止むと不快感がすっと引いたのだ。
椿は思い立ち、ポケットからスマートフォンを取り出した。起動してみるとアンテナが立っていた。さっきまで断たれていた通話手段が回復していた。すぐに菜々に電話した。
「な、菜々さん……!」
『ツバキさん!? ツバキさん、ご無事なんですか!?』
悲鳴じみた彼女の声を聞き、椿はひどく安堵した。声を潜ませて応えた。
「私は大丈夫、安心して。でも、危ないことになってて」
『危ないって何がです、どこにいるんですか!?』
「マコトの……!?」
言いかけて、大きな音が鳴った。それはスピーカー越しの菜々の耳にも届いただろう。物が落ちたような音だ。
菜々の声がスマートフォンから漏れ出すが、椿は応えられなかった。光るディスプレイに照らされる自分の指が異様なまでに震えていることに気付いた。生唾を飲み下した椿は通話を切断し、電源も切った。バイブレーションさえ起動しないサイレントモードに設定している余裕はなかった。
再び周囲が暗黒に満ちると、椿は目を閉じ、全神経を聴覚に集中させた。そして脳裏に想像した。
今の音にはずしりとした鈍い音が混ざっていた。あのストーカー男は軒下から家への侵入を図ったに違いない。リビングの床板の一部は脆くなっていると家人に聞いた覚えがあった、それは見るとすぐに分かるくらいシロアリに食われてしまっていると。椿はそれをすでに確認済みだった。軒下からの侵入経路はその一つだけだったからだ。シロアリなどはいなかったが、確かに食い潰されていた。
男はその板を外し、畳を押し上げたのだろう。しかし思いのほか重くて上手く持ち上がらなかったはずだ。何故ならその畳の上――しかも縁に近いところには、椿によってダイニングの大きなテーブルの脚が二つ置かれていたのだ。
男は力任せに押し上げたことだろう。開いた隙間から何かがつっかえになっていることも分かっただろう。それがテーブルの腹であることも、畳の上で脚が邪魔していることも、きっと。だから男は勢いよく押し上げたはずだ。中途半端にすれば、畳が上がった拍子に二つの脚が斧のように振り下ろされるはずだからだ。勢いよく上げれば、テーブルの残る二つの脚で座ったようになるか、もしくは勢い余って後ろへ倒れるかのどちらかだというのは想像に難くないだろう。
しかしテーブルの脚は男へ振り下ろされたのだろう。それは残る二つの脚が椿によって取り外されていたからだ。組み立て式のそのテーブルは、ドライバーさえあれば簡単に解体できた。
男は地獄を見たはずだ。テーブルの脚だか縁だか角だかで頭を打ったに相違ない。きっと死にはしないだろうが、昏倒くらいはしたかもしれない。怪我を負って退却してくれたかもしれない。
確認に行くか? 椿は抱えていた膝を崩してみたが、次に耳に届いた音で思い留まった。
食器が割れる音がした。リビングから侵入した男が、今度はダイニングでトラップに掛かったのだ。
何故侵入する気になった。大なり小なり怪我を負っているはずなのに、正気がないとここまで無鉄砲になれるのか。考えても答えなど出ないが、今度ばかりは男も退散してくれるだろうと思った。
障子風の擦りガラスの引き戸を隔てたダイニングには直接的な凶器を仕掛けておいた。引き戸を開けると正面にテーブルがない代わりにキッチンが見える。そこには可愛らしいぬいぐるみが置いてあって注意を引くはずだ。男は引き戸を抜けるが、足元にいくつも張った釣り糸を踏み切ってしまったのだろう。すると左手に突っ立っていた食器棚が倒れてきたはずだ。その食器棚の両開きの扉はまたも椿によって取り外されていて、棚の中には皿やティーカップなどではなく、通常流し台の下にある収納庫に仕舞ってあるはずの数本の包丁を全て、男に切っ先を向けた格好で黒いガムテープで固定しておいた。
倒れる棚と、迫り来るいくつもの刃。男は急場の心理状態では、棚に対して後方に逃れたはずだ。しかしその足下には、棚から除けておいた何枚もの食器が並べておいた。それを踏み割って、転倒し、包丁や割れた皿で大怪我を負ったに違いない。今起きた音にはそれら全ての状況が表されていた。
男が致命傷を負っていても、椿には関わりなかった。あくまで正当防衛だったと言い逃れるほかに術がなかった。
今度こそこの暗く狭い空間から出て、男の様子を確認しようか。椿は右手のすぐ側にある襖を開けた。そこは一人部屋の押入れ、その下段だった。敷き布団や掛け布団に包まれた格好の彼女は身を乗り出した。が、すぐ下でギィと鳴った。京都の寺社や城の鴬張りの廊下ほど軽妙な音ではなかったが、二階にあるこの部屋――本棚や小さなテレビなどが置かれた“誠の部屋”へと通じる階段を上がるための廊下はそうした音が鳴るほど軋んでいた。奇しくもそれが鴬張り本来の機能を果たすことになったのだが、椿は二度もトラップを回避されたことへの動揺を強めてしまっていた。
悲観したのも束の間、だがと椿は思うのだ。男はこの階段を上がりきれないという確信があった。男が暗い階段を一段二段と上がると、各段に置かれた画鋲が靴底に刺さる仕掛けになっている。しかもその画鋲は黒いガムテープと接着していて、いくつかの画鋲を踏むと強力な粘着力で靴にへばり付くようになっている。男は慌てるだろう。そしてガムテープが階段の最上部から伸びていて、しかもそれが両足に行なわれるよう二本あると気付くだろう。そして脚を挙げて振り払うか、手にとって引っ張るかする。
すると、階段の上から音がする。それが今、椿の耳にも地鳴りとともに届く。ガタガタと凄まじい音を引き連れて何かが階段を滑り落ちる。その何かとは、この部屋で唯一足りない物――誠の勉強机だ。
男はガムテープを引っ張ることで、今にも階段を転げ落ちる格好の勉強机を支えていたストッパーを外してしまったのだ。机の幅と階段の幅はほとんど同じで幸運だった。男に向かって落ちる面――天板にも画鋲を設置しておいたので、机と衝突して壁と挟まれた男はきっと身悶えているに違いない。仮に躱したとしても、机が階段への通路を塞いでいるので、二階への侵入はできないだろう。
椿はようやく安堵した。三度目の正直が成ったのだ。これで心置きなくスマートフォンの電源を入れ直し、菜々に再度連絡できる。きっと心配しているに違いないし、警察まで動員して大騒ぎになっているだろう。椿はそうしてくれていると願ってもいた。両親と違い、菜々だけはそうした普通の人であってほしいと。
椿は再び押入れから出ようとした。しかしまた、あの音が鳴る。あの音が近付く。執拗に、執念深く、ギィ、ギィ、と音を鳴らして階段を一段一段いやらしく上がってくる。
押入れに引き返し、襖をしっかりと閉じた。脊椎反射のように、そうすることしかできなかった。
一度音が止んだ。耳を澄まして想像してみると、部屋の前まで男は来ているようだった。そして、ギニィー。まるでどこぞの淳二さんが大好きな怪談話を披露するときによく使う擬音のように耳につく音が空間を満たした。ドアが開いたのだ、男がドアを開けたのだ。
きっと襖を開けると部屋の中心にあの男が立っている。手足は長くも背丈も高い、ドレッドヘアーの彫りの深い暗い顔をした、夏なのにトレンチコートを着た陰湿な男が、満身創痍のていで独りの少女を探しているに違いない。
しかし違和感があった。また違和感があった。今日何度目の違和感だろう。あぁ三度目か。一度目は男と出逢ったとき、あの電信柱のところで。二度目はこの家に逃げ込んでから起きた奇妙な耳鳴りと居心地の悪さ。そして三度目は、この部屋の扉を開けたっきり、男が部屋に踏み入った様子がないこと。
それなのにすぐ傍に男の気配があるのは、何故――?
「みぃーつけたぁ~~~」
耳元で、後ろから声をかけられた。椿以外に誰も入れないほど、布団で密度の高い押入れの中、あの男の声と吐息が鼓膜を苛んだ。
椿は絶叫して押入れから飛び出した。開けっ放しのドアの近くまで四つん這いで逃げ出すと、押入れの方へ振り返った。しかし見えたのは、勢い余って拉げてしまった襖と、椿がいた形跡だけを残す布団だけだった。
はっとして、今度はドアへ振り返る。男が立っていた。椿は飛び退いた。そして護身用に台所から持ち出していた錐を男に投げた。それは見事に男の腹部へ突き刺さった。自分で投げたにも拘らず、椿はその光景を直視できなかった。
部屋は月光で照らされていた。あの日、誠がいなくなった日の夜に浮かんでいたものと同じ、弓形の月が部屋に微かな光を届けていた。
椿は目を閉じながら、その光が何かに遮られたことを感知した。恐る恐る目を開けると、男が突っ立ったまま、背を丸くして、椿を真上から見下ろしていた。いくつかの束になった髪の毛の先が、今にも椿の額に触れそうになっていた。その姿はさながら、枝垂れた柳。降り積もる雪にも負けぬ、風情ある樹木。しかしそのイメージはやはり、暗く、今のような夜にこそ映える。
この木のどこに、陽の印象があるというのか。
椿はもう呆然としていた。身動ぎすらままならない彼女は男の腹を見た。錐がなかった。男の腹から突っ立つ木製の柄が見当たらなかった。
「アンタ、何なのよ……」
男はニィッと口角をモミアゲの辺りまで引き上げて笑った。そして、「行くな」と告げた。笑う口元とは裏腹に、落ち窪んだ双眸に射竦められてしまった。
「大阪には行くな」
「え……」
「どこにも行くな」
大阪。何故それを知っているのか。その疑問も、男の目を見ていると、恐怖の方が先行して露と消えてしまっていた。冷や汗と粟立つ肌が止められない。
「行けば、呪う」
殺意をこの目で見た。初めて見た。憤怒や憎悪よりももっと単純な、〝殺す〟というその言葉の強さだけを押し付けられた。
彼の言う〝呪う〟とは、〝生かし、呪う〟ではなく、〝呪い、殺す〟ということだ。
「お前の全てを、呪う」
サイレンが聞こえる。それは男にも届いていたはずだが、しばらくの間、二人は見つめ合ったまま微動だにしなかった。先に動いたのは男だった。自然、天井を仰いだ格好のままの椿を置き、押入れの方へと歩き――開けっ放しの襖だとか、柱だとか、そんな物を全て気にすることなく透明人間のように、さながら柳の下にいるとされる幽霊のようにすり抜けて、その姿を消してしまった。
椿はようやく三度に及ぶ違和感のうち、二度の正体に気付いた。それは今の男の行動と、目の前――ドアの向こうの壁に突き刺さる錐を見て確信した。
あの男は初めから、電信柱をすり抜けて現れていたのだ。そしてこの部屋へは踏み入れず、いくつかの物を透過して押入れまで近付き、椿の背後から声をかけたのだ。
つまり、あの男は人間ではない。幽霊だとも断定できない。
“人間ではない何か”である。
それ以上、何も考えられなくなった。
早河家に突入してきた警察によって椿は保護されたが、彼らの問いに答える気力は残されていなかった。警察に同行してきた菜々が駆け寄ってきたところで、椿の中で張り詰めていた細い糸が、静かに切れた。




