〔二‐1〕 あの日、追憶
バスを乗り継いで地元へ帰った頃には、街灯がともる時刻になっていた。
飛山椿の住んでいる地域は、俗に言う“閑静な住宅街”というやつだ。そのキャッチコピーが、“静けさだけがとりえの、つまらない町並み”を意味する不動産用語だということを、どれだけの人が知っているだろうか。
椿はそれでもいいと思っていた。ひとふさの綿毛が落ちる音さえも聞こえそうな、しんとした空間には愛おしささえ覚えていた。
その住宅街は小高い丘の上にある。一戸建ての高級住宅が軒を連ね、フェンスの向こうに決まって見えるガレージには一台五〇〇万円はくだらない高級車が必ず鎮座している。
この少女は、さる資産家の娘である。アメリカの有名な経済紙における日本人の資産家ランキングで、ここ数年常に二〇位前後――純資産数十億ドルオーバーをマークしている飛山宗光の一人娘だ。宗光は多くの事業を抱える実業家であるが、代表すべき肩書きはスポーツメーカーの代表取締役社長というものだ。
宗光は一代で名声を築き上げた。ちょうど娘が五歳の頃――家族ぐるみで親交があった早河家が大阪へ越してしまった頃、彼は勤めていた国内最大手スポーツメーカーから独立してスポーツ用品店を経営するようになった。
赤門出身の彼はエリート街道を突き進んでいた。そのままメーカーに勤めて上を目指すこともできる男だったが、彼はそれを選ばなかった。彼が理想とする理念が、会社のそれとかけ離れていたからだ。
改革は痛みを伴う。仮に彼が代表となり、社の方針をコペルニクス的転回と言わないまでも、ひねった方向へ向けてしまうだけで、社というものは軋み始めるものだ。社員は歯車だからだ。それをするよう定められている。すなわち、それ以外をすると齟齬が生じてしまう。小さな歪みも、やがて大きな亀裂を生んでしまう。“慣例に従え”という言葉がそれをよく示している。
ならばと飛山宗光は独立した。自分の会社を作り、自分だけの方針を定め、その為の社員を集めた。普通、独立は今いる会社を辞めるだけなので容易いし、元手さえあれば会社を創るのも無理ではないが、仲間集めや商談の人脈を得るのは難しい。だから多くが失敗してしまう。
そこへ行くと彼は人望にも人脈にも恵まれていたし、学生時代から広く根を張っていたからその点で大した苦労は無かった。宗光は成人する前から社長になるべく動いていた男だった。
独立してから一年は各社スポーツ用品を扱うだけの用品店を経営した。地元に定着すると、次に友人のデザイナーにサッカーのスパイクをデザインさせた。
それが見事にヒットした。宗光の躍進は始まった。
学生時代の仲間を通じて、テレビやインターネットで宣伝させた。ファッションに飢えている若者はすぐに飛びついた。反面、プロは見向きもしなかったが、その理由は宗光も解っていた。機能性が乏しかったのだ。すぐにメーカーで得たノウハウを全て注いでプロ仕様のスパイクを作った。気付けば世界のプロがそれを履いており、年間最優秀選手が趣味で使っている映像がニュースに流れたので、それがまた大きな火を起こした。その選手が、「これは未来のデザインだ。あとは俺の足の形を取ってくれれば完璧だ」と頼んでもいない宣伝をしてくれると、熱はさらに高まった。
こうして飛山椿は、早河誠と別れたこの十年ばかりで、大手スポーツメーカーに勤めるエリート社員の娘から、世界を席巻する新進気鋭のスポーツメーカーの社長令嬢へと様変わりしていた。
家も引っ越した。この小高い丘は二段に分かれている。麓には古民家が密集して、中腹には富裕層と中流階層の一戸建て家屋が入り乱れ、頂上には超富裕層と呼ばれる純金融資産五億円以上の世帯が豪邸を連ねている。飛山家は、その豪邸の一つに住むようになっていた。
家族が裕福になる。それは途轍もなく良いことだと椿は思っていた。だが、そこに愛がなければナンセンスだということを知っていた。
椿は愛に飢えていた。父の仕事が活気に満ちると、妻も彼を支えようと方々へついていくようになった。家政婦を雇ったのはその頃だ。
一人目は愚かしい女だった。小学二年生だった椿の世話など一切せず、それどころか母が渡した生活費をほとんど着服し、それを黙っていろと脅し続けていた。
しかし椿は一枚上手だった。彼女は昔から度胸の据わった女だったのだ。家政婦の前では怯えたフリをして、警察に家の中を監視させていた。いたいけな少女を演じた彼女の熱意に、警察が動かされたのである。かくして女は業務上横領と恐喝の罪で御用となった。
もしかすると、それが椿の情操を危うくしたのだろう。幼くして逞しい彼女は、一人でも大丈夫だと両親に言った。新たに家政婦を、今度は評判の高い家事代行サービスを雇おうと考えていた彼らだったが、椿の強過ぎる態度に気圧されてしまった。
椿は一人になった。週に一度家に帰れるかという両親に余計な気を使わせないために、学校の先生や近所の人々にも強がってきた。授業参観も運動会も、文化祭も音楽会も、両親を呼び出すことはなかった。
それを、一人の老婆が救った。
麓から中腹へのなだらかな坂を上る。椿はふと思い立ち、おもむろに三角巾から右腕を抜いた。ギプスには古いお守りが巻きついていた。
あれは今と同じように、俯きがちに小学校から帰る途中だった。坂道で老婆が声をかけてきた。幼い椿は彼女を知っていた。遠くへ越してしまった最愛の彼の祖母だった。
彼女は手に持っていた饅頭の入った紙袋を椿に渡した。椿は断りきれず、家に持ち帰った。ちょうどおやつ時だったので、一つ頂こうと袋から饅頭の入った箱を取り出すと、何かが床に落ちた。それがお守りだった。綺麗な金と赤の刺繍がほどこされた紺色のお守りだった。
たまらず家を飛び出したことを、椿は今でも覚えている。門扉を抜けてつま先を向けたのは西の通学路ではない。東の道路の突き当たりにある公園、そこから下りる長い階段だ。丘の麓に直通するその階段を下りた先に老婆の家があった。
玄関のチャイムを何度押しても老婆は出てこなかった。肩で息をしていると、後ろから声をかけられた。椿は老婆を一目見るや、躊躇いなく抱きついた。
老婆は知っていたのだ。椿が一人で生きていることを。だからわざわざ丘の上の彼女の家に出向いたのだが、生憎彼女は留守だった。通学路を辿って行けば出会えると考えたのだろう、坂道を下りているとすぐに見つけることができたのは幸いだった。坂を下りきり、麓の道を沿ってようやく帰ってきたところだった。
それからというもの、椿は早河家へ頻繁に訪れるようになった。早河誠が大阪に行ってから、実に三年ぶりのことだった。
小学六年生になると、菜々が家政婦として住み込むようになった。彼女は宗光の親友の娘らしい。短大を卒業したものの就職活動に失敗したところを、花嫁修業の一環という理由で飛山家に雇ってもらったのだ。
椿は一人ではなくなっていた。いつしか早河家に寄る辺を求めることもなくなっていた。
中学三年生の秋口。早河誠が東京に帰ってきた。隣のクラスに転入してきた。
しかしその顔つきはかつての彼のものとはかけ離れていた。その理由を知ったのは、クラスで集めたプリントの束を職員室へ届けに行った時だ。教師達が話していた、早河誠の両親が海外で行方不明になったと。
恩を返す時だと思った。誠の祖母が与えてくれた無償の愛を、孫の彼に与えてやる時だと素直に思った。
また、ことある毎に早河家へ訪れるようになった。はじめ椿を毛嫌いしていた誠も、次第に、ほんの少しずつ心を開いていくようになった。それは祖母の力も大きかっただろう。
しかしそれが再び閉じたのは高校一年生の夏――今日から二週間後がちょうど一周忌だ。
椿は左手で触れていたお守りを三角巾で隠した。坂道を上った。愛おしく静まった坂道をゆっくりと上った。二ヶ月前のあの日も、誠と二人で上ったことを思い出しながら歩を進めた。
車道の方には、いつも彼がいた。仏頂面だったが、時折のぞかせる笑顔が大好きだった。
「私、大阪に行くから」
誰もいない道。誠の面影を脳裏に浮かべながら言った。
「そこで必ず、アナタを見つけ出すから」
事故に遭い、長い手術を終えて目を覚ました椿は、自分の容態よりも誠の身を案じていた。菜々は呆れつつも安堵し、状況を説明した。
医師にも説明を求めた。早河誠は全生活史健忘――記憶喪失であると診断されていた。しかも部分健忘で、自分に関することは何一つ覚えていない状態だとされた。
椿は一度だけ、誠の病室の監視カメラの映像を観たことがあった。彼は確かに自分の足で部屋から出ていた。まるで思い立ったように出ていった。
――もしも大阪での暮らしのみを思い出したとすれば。
椿は一つの希望を胸に予定を組んだ。大阪行きの予定だ。
椿には自由にできる金は少なかったが、親に、とりわけ父に頼めば、望んだものを何だって買うことができた。しかし彼女はこれまで多くを望んでこなかった。最低限の生活費と学費さえあれば生きていけるという考えだった。趣味嗜好に費やしたのは、簡単な化粧品くらいだった。金や物に依存して落魄れる前に、早河の祖母に心を救われていたからだ。
だがもう、限界だった。この現状を打開するには、これまで大したものを与えてくれなかった親の力を借りるほかなかった。
社会人になればすぐにでもこの冷えきった家庭から飛び出そう。その時突然困らないように、それまでなるべく親に頼らないように生きていこう。親らしいことはされてこなかったのだ、子供らしい真似は極力しないよう努めよう。そう思ってきた彼女にとって、この決断はあまりに屈辱的だった。しかし背に腹は変えられなかった。
大阪行きの理由はすぐに思いついた。高校の友人が、大阪を拠点に活動しているインディーズ・バンドのファンだということを思い出したのだ。ちょうど夏にライブイベントがあることも調べればすぐに分かったので、それを利用させてもらった。
ほぼひと月ぶりの、家族水入らずの食卓。椿は父に、友人とライブを見に行きたいと告げた。多少は身体のことを心配されたが、すぐに許可された。彼は秘書を通じて二人分の新幹線のチケットと、ホテルまで予約してくれた。
「間違ってないよね。マコト……」
椿は唇を噛んだ。
一つ目の坂を上りきり、人工的に切り崩された台地に出た。民家と街灯の明かりでアスファルトが光る床のように見える。椿は東西に走るその道を、自宅がある東へ進んだ。
道路の向かって左側を通る。すると頭の左上で、バシッバシッと何かがぶつかる奇妙な音が聞こえた。見上げた彼女の視界に街灯が映り――
「あ、カナブ……ンっ!?」
何度も弧を描いては、バカみたいに光へ突撃する猪のような昆虫。それが美しい緑色の翅を瞬かせる様子の――奥にある物を見て、椿は思わず立ちすくんだ。
「な……に……?」
街灯つきの電信柱のすぐ横手に、二枚のカーブミラーが設置されている。向かって右――家々の間にある下り階段からの、飛び出し注意の看板も立て掛けられているから、そのための物だ。
手前のカーブミラー。丸い凸面鏡の中心には、灯りに照らされた細い体躯の少女がいる。夜なのだから、光の下の彼女を漆黒の闇が包囲しているのは至極当然な光景だ。
それなのに彼女には、背後にある闇が、いっとう恐ろしく見えた。凝視していると次第に夜目がきいてきて、自分の後ろで等間隔に聳える電信柱の輪郭がハッキリと見えるようになってきた。そして、その柱の影に潜み、蠢く、何かも――
「……ぇ~」
奇怪な、声とも音ともつかない何かが耳朶に触れた。あれだけ吉野や弟切に噛みついていた椿だが、得体の知れない恐怖に肌を粟立たせるばかりだった。
ミラーに何かが映っている。それを直に見てしまえば、きっと腰を抜かしてしまう。
“逢う魔が時”とはよく言い過ぎだ。何かとんでもないものに行き当たってしまった。
「……ねぇ~~……」
声だ。今度はしっかりと聞き取れた。間違いない。故に、冷や汗が止まらない。鳥肌が静まらない。
“早河誠の失踪には、何者かが関与している可能性が極めて高い”
弟切刑事の言葉が脳裏に過った。彼の言っていることが本当なら、誠の存在をデータ上から消したように、誠の足跡を追う者もまた消してしまっても不思議はない。
震える手を握り締めた椿は、意を決して振り返った。およそ三〇メートル後方の電信柱を睨んだ。そして勢いを殺さぬまま、「誰! ストーカ――」
「かぁ~わいぃねぇ~~~……」
電信柱の影から、二メートル超の人間のような何かが、半身をのぞかせていた。そいつはニヤリと笑うと、こちらへ一歩、踏み出した。
「えっ、えっ、なに……!?」
全身が浮かび上がる。木の枝に擬態する昆虫――ナナフシのように手足も胴体もひょろ長い、想像以上に異様で、縦長の、人間だ。
そう、人間に違いない。違いないが、どこか普通の人間らしさが無いのである。それでも黒い長髪のドレッドヘアーに、目元のホリが深くて、外人のようにも見える人間。
その服装は、夏場なのにトレンチコート!
「もしか、もしかしてアンタ、そのコココココートの中って、中って……!」
男と思えるそいつは、たじろぐ椿へもう一歩にじり寄った。
彼女は冴え渡った女の勘か、はたまた野生的な脊椎反射で一歩後ずさった。
「ちょっ、来んの? 来ちゃうの!?」
「かぁ~わいぃねぇ~……、かぁ~わいぃねぇ~……」
そいつは椿の身体を舐め回すように眺め、ゾンビのようにヨタヨタとした足取りで接近してくる。そして街灯に充分照らされたところで、ようやく動きを止めた。
「な、何よ……?」
顔が明らかになった。やはり人間――男だ。何故か、違和感は、消えていた。
椿の問いに答えないその男は、おもむろに両手を動かすと、コートの襟元を掴んだ。
「ひぃぃぃっ!!」
ゾッとした。
気持ち悪い。
変態だ。
ド変態だ!
痴漢だ!
強姦魔だ!!
椿は相手の行動が――目的が達成される前に逃げ出した。脇目も振らずに、家路を急ぎまくった。
ヤバいヤバいヤバい! 我ながら語彙の少なさには情けなくなるが、この土壇場、焦眉の急も急過ぎる事態を前にしては、それくらいしか頭に浮かばなかった。全速力で逃走した。何処へ。今この状況で、自宅以上に安全な場所など他には無い。
「ぃねぇ~、走る姿もかぁ~わいぃねぇ~!」
まさかと思って振り返ると、男も全速力で彼女を追いかけていた。
「きゃあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!
ぎゃあーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!
いぃやああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
常軌を逸した悲鳴が、キャッチフレーズどおりに静謐な街に木霊する。しかしまるで明かりだけが残っているゴーストタウンのように無反応だった。
逃げる途中、電信柱に立て掛けられた〈チカンはアカンは名言。この辺、こんなん出まっせ→〉と記された真新しい看板が目に入った。矢印の先を辿ると、まるで写真かというくらいに精緻を極めたイラストが描かれていた。追ってくる男と見比べると……うん、一目瞭然♪
「クリソツじゃん! 遅いから! 今頃知っても遅いからっ!!」
「~わいぃねぇ~かぁ~わいぃねぇ~かぁ~わいぃねぇ~かぁ~わいぃねぇ~かぁ――」
「るっさい変態っ……ていうか誰か気付きなさいよ、乙女の貞操がピンチなんだから!!」
全速力の鬼ごっこはおよそ一分ほど続いた。
一つ住宅街を抜け、三叉路に差しかかった。
そこで椿の胸が急に重くなった。ギプスで固定されている右腕も、完治したはずの足首までもが軋み、途方もない激痛が彼女の全身を縛りつけた。
夜までには帰りたかった。日が暮れてからここを通りたくはなかった。左が上り、右が下りになっているこの三叉路に、暗闇の中で訪れたくはなかった。
ココは、この三叉路は、椿と誠が事故に遭った場所。春の暮れ、夕焼け空が帳を下ろした頃、二人はこの場所にいた。
話していた。お互いの気持ちを確かめ合っていた。意を決した椿の想いに、誠は真摯に応えようとしていた。
なのに、それなのに、突然射し込んだ強い光が全てを奪い去っていった。
二手に分かれた道の、いわゆる股となっているコンクリート壁の角は、現在も戦争の爪痕のように崩れた瓦礫が放置されたままで、事故当時の激しさをまざまざと物語っていた。事故は、本来こんな道を通るはずのない大型トラックによって引き起こされた。トラックは偶然にも三叉路の中心にいた彼女ら二人を巻き添えにして、この股に突っ込んで停止したのである。
道路にブレーキ痕は無く、トラックの運転席は車の衝突実験など非ではないくらいに粉砕していた。ドライバーは即死、原形を留めない肉塊になっていた。危険ドラッグと飲酒によるものが原因とされた。ドライバーは無免許で、身元を確認できなかった。DNA鑑定でも何者か特定できなかった。
また、このトラックを調べると、事故前日に盗難届けが出されていた。
言葉が出ないほど、理不尽なできごとだった。
「っ!!」
椿の視界が涙で滲んだ。
信っじらんない、私達が何をしたって言うのよ!
椿は改めて嘆きつつ、左の上り坂を選んで走った。
マンションの二階分ほどの高さまで駆け上がると、そこから先は丘の頂上――超富裕層が一際広い土地を所有している住宅地だ。椿の自宅は、その中ほどにある。
「もう少しっ、もう少しで……うっ!?」
悪寒がして、背後に視線を飛ばす。
すると追いかけてくる痴漢男の表情が、さっきまでの変態的な笑みとはどこか違った。不敵に口角を上げているように見えるのは錯覚か。
いや、と椿は察した。
家に逃げ込むということは、家を特定されてしまうということに他ならない。切迫した状況下の雁字搦めの発想が、緊急時における正しい判断を鈍らせたのだ。
だけどどうする、このまま家に逃げ込むか。しかし家を特定されたら、この先ずっと見張られるに違いない。それだけで済むなら対処のしようはあるが、家の中に侵入されたらどうする。菜々までをも危険に巻き込んでしまうのではないか。女二人であんな得体の知れない男に立ち向かえるか?
いいや無理だ、できっこない。
だって昔あったじゃない。ストーカーに一家が惨殺されたなんて酷い話、どこかで聞いたことあるじゃない……!
こんなことなら、男の使用人も雇ってもらっておくべきだった。
「きゃっ!」
椿は躓いて豪快に転んだ。衝撃が折れた骨に響いて、呻き声が漏れる。涙目で顔を起こすと、そこは自宅の前だった。一瞬思考が止まった。
どうする。
どうする!?
「最っ悪!」と椿は再び走る道を選んだ。この世で最も安全な場所が遠ざかっていく。
自己嫌悪でどうにかなりそうだった。あれだけ親の援助を、不器用な愛の表現を執拗なまでに断り続けてきたのに、こんな時に限って頑固だった自分を否定しようとしていた。
両親は確かに椿への愛の示し方を誤っていた。金というものの価値を教える為に、彼女に小遣いという物を与えなかったが、求めた物はなるべく与えてきた。それができたのは、彼女が幼いながらに利発で、すでに金の価値を理解していたからだ。
親から椿への教育は、椿が親を上手くコントロールすることであたかも成功しているように見えていた。椿自信も、同年代の子よりも大人だと思い込んでいた。だが結局、こうした事態に陥れば、金の力で解決できる方法を探してしまっていた。
本当に、最悪だ。
今まで強がってきた自分と、ろくでもない親と、家で待っているだろう菜々の顔が脳裏に去来した。そして最後に、少年と老婆の姿が見えた気がした。
視界の先に、木々に囲まれたフェンスが見えた。小さい頃によく遊んでいた公園だ。
椿に猶予は無かった。街灯に照らされる遊具は不気味だった。滑り台や“タコの山”の陰から、追跡者の仲間が出てくるんじゃないかと気が気でなかったが、それらを一息に走り抜け、右手に見える階段を目指した。
麓まで直通しているその階段は七五段ある。椿は手すりを頼りにしながら、一段飛ばしで降りきった。道路を隔てた先に、一際古い二階建ての一軒家がある。椿は脇目も振らずにそこへ逃げ込んだ。
玄関の鍵は――庭にある花壇の、手前右から三つ目のレンガの下だ。
“ココに隠してるってこと、誰にも言うんじゃないぞ”
あぁと嘆きつつ、椿は鍵を取り、固く閉ざされた家屋の玄関を開けて侵入した。古めかしい引き戸のドアなので、鍵を閉めるとつっかえ棒を差す用心は怠らなかった。加えて窓という窓、カーテンや簾がある箇所は全て閉じた。浴槽のゴム栓さえも締める用心さが必要だと思った。
暗い他人の家でこれだけのことをし終えると、ようやく激しかった動悸も落ち着きを取り戻してきた。家中を見渡した。庭に面した窓から街灯の明かりが射し込んでいたので、リビングから台所まではうっすらと把握できた。
空き巣に入られた形跡は皆無のようだった。電話機の近くにカレンダーが掛かっていたが、去年の八月から捲られた形跡がなかった。
いたたまれず胸に手をやっていると、突然酷い耳鳴りが彼女を襲った。頭を振って、ついでにあくびをするように口を大きく開けてみると、この家に住み着いた違和感を覚えた。
懐かしいという気分を感じない。独特のニオイがしない。まるで新居のように澄んでいて、澱みらしいものがなく、それなのに真綿で首を絞められていくような息苦しさがある。
家具はそのまま、台所のシンクには乾ききった水垢が残り、三角コーナーにも生ゴミはなく、洗い立ての食器が少ない光を弾いている。本棚には当然のように本が並び、タンスには洋服や着物がみっしりと納まっている。
あるべき場所にあるべき物がある。取り立てて変わった様子はない。違和感は所詮違和感でしかないのか。気のせいだったのか。
椿は疑念を抱えつつ、ショートパンツのポケットからスマートフォンを取り出した。
まずは警察に連絡して来てもらおう。不法侵入している事実は隠しようもないから素直に認めるとして、今はとにかく安全を確保する必要がある。次に菜々にも連絡しなくてはならない。もう一九時半だ、門限などないが、いつも一九時までは帰っているからきっと心配されている。
電源を入れて、暗証番号をタップする。ホーム画面が開くと、通話アプリを起動して一一〇番をタップした。玄関やカーテンの方を盗み見ながら、スピーカーに耳を当てる。
呼び出し音が鳴らない。不思議に思い、耳を離してディスプレイを見ると圏外と表示されていた。左上端のアンテナが一つも立っていなかった。これではメールすらできない。
東京のど真ん中で、基地局だって近くにあったはずだ。それなのに、何故圏外。
無線だからかと思い立ち、固定電話の受話器を取った。しかしこれも繋がらない、断線しているようだった。
ふと頭を擡げると、玄関の引き戸の擦りガラスを大きな影が横切って見えた。
やはりあの変質者が来ている。椿は再び忙しなく打ちはじめた動悸に逆らえず、その場に座り込んでしまった。孤立無援、逃げ場のない絶海の孤島で猛獣と対峙している気分だ。
だがと、彼女は深呼吸を一つすると、勝気な瞳を瞬かせた。独りなのは慣れていた。