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ネイムレス  作者: 吹岡龍
第一章【記憶の放浪者 -Memories Wanderer-】
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〔一‐4〕 覚醒

「せ、せっ!」と回転を続けるベルトコンベアの上を、苦しそうな息遣いが滑る。

 はじめは歩いているだけでよかった。ゆったりとして、自分の歩幅の感覚よりも少し広いくらいだった。それが次第に速くなり、ベルトの駆動音も甲高(かんだか)くなっていった。

 気付けば全力で走らざるを得なくなっていた。今ではコンベアの最前部に備え付けられた取っ手を命綱のように握って、ほとんど跳ねるばかりだ。


「きよっ、せっ!」

『マコト君。それはランニングマシンだよ、ちゃんと走らないと意味がないよ』

「速いんですよぉ!!」


 まるでギャグ漫画。走行中の車に掴まりながら、その高速に合わせて駆けているようなものだ。もはや自分の意思でリタイアすることは困難。手を離すか(つまず)いてしまったその瞬間、きっと遥か後方へ転がって大怪我を負ってしまうことくらいは、いくら記憶喪失の誠でも容易に想像できることだった。

 しかしこのままでは。

 誠は唇を噛み締め、次の右足の着地で行動に移した。ぐいと後方へ足が持っていかれるよりも早く膝を折り、コンベアを蹴り上げたのだ。その際、右へ身体を(よじ)って、取っ手から手を離した。すると案の定、身体はコンベアから飛び出して、ベタンと嫌な音を立てて床に落ち、転がった。

 腕やら背中やらを強打したが、それでもあのままコンベアの上にいるよりかは的確な判断だったに違いない。


『ハハハ、大丈夫かいマコト君? でもダメじゃないか、ちゃんと走らないと』


 えぇ……、何この人、怖い。

 顔を青ざめさせる誠の視線は、部屋の隅に設置されたスピーカーに向けられていた。スピーカーと言っても既存のそれとは異なっており、凹凸が少なくとても小さい物だ。誠はそこから清芽の声が発しているので、スピーカーだと認識することにしていた。

 清芽は傍にいない。この部屋に誠を入れるや、彼は何故か隣の部屋に隠れてしまったのである。


「走らないとって……。あんなの走れる人、いるんですか?」


 ランニングマシンの速度設定を見ると時速四五キロメートルと表示されていた。

 スポーツ選手、とりわけ陸上競技の中でもトラック競技と呼ばれる、走力を競う選手であっても、今のスピードに耐えられる者はきっと多くないはずだ。それどころか、人類全体を対象にしても一人や二人いればいいところだろう。


『仕方ないね。分かった、もっとスピードを落とすよ』


 話が噛み合わない。

 奇妙な違和感が誠の身体を固くした。


『ホラ、マコト君。トレーニングを再開しよう』


 促されるままマシンに乗ると、コンベアが再び稼働しだした。ようやく自分のリズムに見合った速度で走ることができると余裕が生まれた。周囲の状況を把握できはじめた。

 誠は一人で走っている。誰もいないスポーツジムのような広い空間で、清芽がどこから自分を見ているのかも分からない。監視カメラらしい物が見当たらないのだ。さっきの病室と同じ白い天井は、やはりそれ自体が光っているようだ。どういう仕組みなのかもまた、分からない。

 いつまで走ればいいんだろう。そんな呑気な思考の一方で、先程見せられたテロの映像が脳裏にじわりと広がった。

 首筋を汗が伝った。全身の至るところがまるで別の生き物のように脈打っているのが自覚でき、同時に額がまた(しび)れた。


“――彼女と”


 何だ、今のは。誠は無意識に片手で押さえていた頭を起こした。

 彼女って。今、彼女って言ったか?

 実視界と重なるように、忍び寄る親指や、対照的に離れていく小指を立てた誰かの白い腕が視えた。

 その時だった。

 部屋の外でドンと大きな音が一つ鳴ったかと思うと、次にはそれが連続した。凄まじい地鳴りがベルトコンベアまで揺らすので、誠は思わず飛び降りた。またぞろ転ぶように尻餅をつくと、今度は悲鳴が聞こえた。

 男の声。女の声。どちらも断末魔の叫びのようだった。

 それがいくつもするので、自然、誠の肌は粟立(あわだ)つばかりだった。


「な、何が……」


 ゆっくりと立ち上がった誠は、出入り口をジッと見つめたまま後ずさった。一歩、二歩と下がると背後で自動ドアが開く音がした。振り返ると、「マコト君、マコト君!」と清芽が叫びながら駆け寄ってきた。彼の表情もまた、途方もなく切迫していた。


「キヨメ先生、外で音が、悲鳴が……っ」

「逃げなさい!」

「え……?」

「連中が、テロリストが来たんだ! 逃げなさい、早く!!」


 思い出したように警報機が作動する。緊急事態発生だ何だと告げられると、それだけで誠の心臓は早鐘を打って止まらなくなった。清芽に背中を押されるまま、彼が現れた裏口へ走った。そこへ再三再四の爆音が轟くと、清芽が誠に覆い被さった。


「せんせ……!?」


 呻く清芽の口から赤い液体が溢れ出ていた。咳き込むと誠の顔まで飛び散った。身体の間に挟まった手の甲にもねっとりとした何かが付着した。清芽の腹に空いた小さな穴からも、大量の赤が止め処なく流れ出ていた。

 撃たれた。キヨメ先生が、銃で撃たれた。

 当惑する誠の視界に、開け放たれた表口方面の通路が映った。充満する白い煙がこのジムへと滑り込んで、見る間に視界を奪っていった。


「にげる……だ、……やく、にげ……!!」


 忙しない呼吸と鼻息を繰り返し、清芽はそう叫んだ。白衣の半分を染めながら懸命に立ち上がり、腰を抜かしたままの誠を強引に裏口へと押し出した。

 廊下へ転がり出ると、そこもまた白い煙で満たされようとしていた。膝を笑わせながら壁伝いに立ち上がった誠に、清芽はドア枠に(もた)れかかりながら言った。


「いきなさい」


 脂汗まじりに微笑む彼が一歩二歩と下がるので、自動ドアが閉じられていく。間際、その彼を誰かが背後から引っ張った。銃口が閃くや発砲――銃弾はドアの隙間を辛うじてくぐり抜けると、誠の頭のちょうど真上を撃ち抜いていた。

 身を竦ませている暇が惜しかった。誠は走った。ただひたすらに走り、迫り来る脅威に背を向けて逃げ出した。

 背後で銃弾が鳴り響く。今さっき通り過ぎた場所に着弾したのが分かる。ドンムーだか、チキンだかと上手く聞き取れない静止を呼びかける複数の声が彼を責め立てた。

 誠はこんな光景にどこか覚えがあった。何かの映像で見た覚えがあった。その記憶から、追いかけてくるのは外国人のテロリストだと判断できた。自分のことはロクに思い出せないのに、何故かこういうつまらない知識だけはしっかりと憶えていた。

 降伏して助かる見込みが想像できず、とにかく逃げることだけを考えた。前も後ろも世界は白く、煙の洞窟に迷い込んだようだった。闇雲に走っていると左肩が壁にぶつかって、そのままそれを伝った。

 まだ遠くから怒声と銃声が木霊(こだま)している。床は揺れ、天井も軋んでホコリが落ちてくる。

 誠の神経は衰弱しきっていた。今回のことだけでなく、最初の病院で目覚めてからずっとだ。笹野先生や、彼に付き従う少し疲れた顔のナース、警察を名乗る人まで現れて、色々と矢継ぎ早に、のべつ幕なしに質問された。

 その度に――分かりません。何も分からないんです。ごめんなさい……。

 たった三日で、それが口癖になってしまった。

 本当に分からないから仕方がないと思う反面、何故分からないんだと苛立(いらだ)ちを隠せなかった。自分は自分のことを知らないのに、他人は自分のことを知っているという奇妙さが怖くて、病院から宛がわれた個室から自ら出る勇気はなかった。面会謝絶にしてもらって、知り合いを名乗る男女が部屋の外で諦めて帰るのを何度も聞いた。

 そんな中、一人だけしつこい人がいた。一時間に一回、自分を訪ねてきた。声で、女の子だと判った。どういうわけか、耳に馴染む声だった。

 誠は悩んだ末、明日その子に会ってみようと思って眠りについた。

 そうしたら、ここにいた。

 そうしたら、こうして逃げている。

 どうしたら、こんなことになってしまうんだ。


「誰か……!」


 彼女に会おうとしたのが良くなかったのか。いや、そんなことは関係ないはずだ。どうなろうと、変わるわけがない。今更、変わるわけがない。


「誰か、助けてよ……っ!!」


 無性に、彼女に会いたくなった。自分を知るという、声しか知らない彼女に会いたくなった。手を伸ばした。この混乱から救い出してくれそうな、彼女の手を求め、伸ばした。


「キミっ、コッチよ!」


 突如煙の中から現れた白い手が、彼を右へと引っ張った。壁にぶつかって顔を上げると、ポニーテールにインテリ眼鏡をかけた綺麗な女性が彼の手首を掴んでいた。


「ア、アナタは!?」


 問うと女性は眼鏡のブリッジをこれ見よがしに中指で押し上げて、「私はココの研修医よ」と答えた。清芽と同じ白衣を着ている彼女は、①と表記されたボタンを押して微笑んだ。

 誠が無理矢理に連れ込まれた場所はエレベーターのようだった。扉が閉まり、最下階を目指して降下した。

 彼女はハンカチを取り出すと、誠の顔や手にこびり付いた血を拭った。


「怪我はしてないのね」

「これ、これ全部、キヨメ先生の……!」

「キヨメ先生、亡くなったの?」

「銃に、銃に撃たれて、それでもボクを逃がしてくれて……。あんなに、あんなに優しい人だったのに、どうして殺されなきゃいけないんですか!」

「人が死ぬところを見たの、初めて?」

「そりゃそうですよ! ……っ、いや、分かりません、思い出せません……!!」


 誠は悔しげに歯を噛むと、頭を抱えて座り込んでしまった。


「安心して。このまま下まで降りたらちゃんと逃げられるから」

「ホントですか?」


 年相応とは言い難い、か弱いばかりの瞳を向けられた研修医の女は思わず、「か、カワイイ……!」


「え?」


 怪訝な顔をされ、「いえ、何も」と平静を装って女は答えた。


「……大丈夫ですか、何だか鼻がやたらとヒクヒクしてますけど」


 女は咄嗟に指摘された箇所を手で覆って、背を向けた。ハンカチで思う存分鼻をかみ、「えぇ、必ず」と涼やかな目で告げた。しかしその鼻の下は、ハンカチで拭ったばかりの誠のものか、それとも彼女のものか判別できない大量の血で真っ赤に染められていた。

 その様子が少しおかしくて、誠は場違いにも吹き出してしまった。女はポケットに入れていたコンパクトミラーで自分の顔を確認するや、「アラやだ、私ったら!」と頬まで紅潮させて化粧を直した。

 不幸中の幸いと言うべきか、エレベーターは途中で止められることもなく一階に辿り着くことができた。ドアが開く瞬間には緊張を覚えたが、視界に広がる薄暗い空間に人の気配らしいものは感じられなかった。

 それでも誠は女の背中にピタリとくっついて、そろそろと大きな物陰に身を隠した。そこは随分と天井が高い空間で、伝う壁も巨大なコンテナのそれだと分かるや、倉庫だと解釈できた。

 しかし不思議でならなかったのは、そのいくつも連なるコンテナの中身だ。どれもこれも金属の資材が収納されているのだ。鉄板やら鉄の棒やら、一体全体これらが病院でどのように使われるというのだろうか。

 女はその用途不明の資材から、野球のバットよりもいくらか短い鉄パイプを選び、護身用にと誠に渡した。


「い、いりませんよ、そんな物騒な物……」

「火を()うは(すい)を取るに()かず、ってね。人の力を当てにしていちゃダメ。自分の身は自分で守るものよ。それともキミは、女に守られて何とも思わないの?」


 本来ならばプライドを揺さぶられる挑発的な一言だが、誠にはそれが一切通じなかった。今の彼には、男だ女だという性差など微塵も考えに及ばないのだ。何故なら彼は、自分自身を憶えていないからだ。

「とにかく、持っていて」と女は無理矢理彼に鉄パイプを握らせた。ひんやりとした感覚に身震いしている暇すらなかった。女は彼を引っ張って碁盤目状に配置されているらしいコンテナ群の小道を抜けていった。

 不意に妙なニオイが鼻腔をくすぐった。コンテナ通りの先から漂ってきているようだった。爽やかさの中に多少の生臭さが入り混じるそのニオイには覚えがあった。

 途端、額が痺れた。視界を何かが過った。

 絵の具を落としたような鮮やかな青。真っ直ぐに伸びる灰色の足場。幾羽もの海鳥が空を旋回するそこは、波止場と呼ばれる場所か……?

 誠を現実へ引き戻すように、「このまま走れば船はすぐそこよ」小道から、大通りに飛び出した矢先のことだった。


「船?」

「と言っても、潜水艦だけどね」


 じゃあ、このニオイは海の……。

 いや待てと、鈍った思考を叩き起こした誠は、彼女のセリフを早くも反芻させた。潜水艦だって……?


「テロリストはきっと最上階から来たから、潜水艦で逃げれば助かるわ」


 誠は女から離れた。訝る目を向ける彼に、「……どうしたの?」と彼女は問う。


「せ、潜水艦なんて、どうして持ってるんですか」

「さぁ、どうしてだろうね」


 彼女の微笑はとても美しかった。だけど光の加減か、それとも一度覚えた不信感からか、急にそれがとてつもなく恐ろしいものに思えてならなかった。


「答えてくださいよ! どうして潜水艦なんて――!?」


 再び大きな音が耳を打った。途端に目の前の情景がガラリと色を変えた。ドロリとした原色に近い赤が広がっていた。またさっきと同じように、広がっていた。


「探したぞ、マコト・サガワ」


 棘のある男の声が耳朶に触れた。誠と向かい合う女の真後ろに立ち、彼女の肩越しにそう言って、鋭い眼光を突きつけてきた。


「え、あ……」


 女はゆっくりと膝をつき、地べたに寝そべって動かなくなった。また白衣が赤く染まった。目の前で、こんな短時間に、二度も。

 動転する誠に、「選ばせてやる。道は三つだ」と三白眼の銀髪男は言った。北欧系の顔立ちから流暢な日本語を発した。


「戦うか、逃げるか、それとも素直に投降するか」

「何、を……?」

「二度も言わせんな。さぁ、よく考えて選べよ」


 分からなかった。この現状を理解できなかった。夢ならば早く醒めてほしかった。

 ハンドガンを持つこの男はこう言うが、いずれかを選んでも殺されてしまう気がしてならない。手に持ったままの鉄パイプでどうにかできるわけもない。

 額を通じて頭が痛む。軋むように痛む。いつもこうだ。深く考えようとするとこうなる。今解った。朝起きると額が痛むのは、昨日のことを思い出そうとするからだ。昨日とは過去、過去とは記憶だ。痛いのは嫌だから、記憶を取り戻したいという意欲が湧かなかった。

「とっととしろよ」と放たれた銃声が誠を現実に引き戻した。足下に深く突き刺さった金属の塊が一筋の白煙を上げていた。それはすぐに消えてしまったが、彼をつまらぬ願望から隔絶させるには充分だった。

 誠は怯える瞳を男に向けた。恐ろしい熱を帯びた銃口がこちらを睨んでいる。引き金を引くだけでその銃はさっきのように火を噴くのだろう。目にも留まらぬスピードで空間を貫く鋭い金属は、あらゆる人を目の前で息絶える女のようにするのだろう。

 やはりどう考えても殺される。しかし逃げるほうがいくらかマシなような気がする。右にも左にも逃走ルートはある。コンテナ群の隙間を縫っていけば振り切れるかもしれない。


“いきなさい”


 清芽の言葉が不意に呼び覚まされる。あの時、誠は“行け”と言われた気になっていた。しかし今は“生きろ”と言われた気がする。

 あぁ、生きたい。死にたくない。ワケも分からぬまま、何も分からぬまま、自分を疑いなく心から早河誠なる男と思えぬままには、死にたくない。

 誠は乾いた喉を生唾で潤した直後、左に走った。コンテナの隙間に向かって腕を振り、足を素早く交互に動かした。

 すると、「あークソが」と落胆するような声が鼓膜を打ち、振り返った直後、足下が大きく揺れて転んでしまった。忙しない地鳴りが全身を苛んで、コンテナもミシミシと音を立てた。

「何が起きたのか教えてやろうか」と男が言った。彼は無防備にも地べたに座り込んだままでいる誠の胸倉を掴むと、元の広い路地へと連れ戻して突き飛ばした。

 受け身も取れずに尻餅をついた誠は鉄パイプを手放してしまった。男はそれを遠くへ蹴り飛ばし、彼に一枚のフィルムを見せた。A4サイズの有機ELフィルムだ。それは一つの映像を再生していた。前から後ろから迫り来る爆炎や粉塵から逃げ惑い、呑まれ、悲鳴の後に息絶える人々の姿が映っていた。


「何の映像か、分かるか?」


 頭を擡げる誠の目に、男が握るスイッチが留まった。絵に描いたような手の平サイズで筒型の、ノック式のスイッチだ。男がそれをこれ見よがしに押すと、フィルム上で爆発が起き、こちらにも震動が伝わってきた。


「ま、さか、今……?」


 誠の足下に、男はスイッチを抛った。


「俺はそこに映っている連中と約束していた。賭け、つってもいい。テメーが大人しく投降すれば、連中を助けてやるってな。だが、テメーは逃げちまった。抗うでもなく、白旗を掲げるでもなく、背を向けて逃げちまった」


 開いた口が塞がらず、愕然とするばかりだった。

 フィルムは黒を映している。さっきの映像は、おそらくこの施設に設置されていた監視カメラが捉えていた映像だ。しかし今は爆風に曝された人々諸共沈黙してしまっている。

 自ら悲劇を引き起こしたにも拘らず、もう早々に興味を失くしたようにフィルムが捨てられる。男の手元からひらひらと落ちたそれは、吹き荒ぶ潮風に絡めとられて彼方へ消えていった。


「テメーのせいだぜ」

「ち、ちが――」

「何が違う。テメーが自分の命欲しさに敵前逃亡なんて愚劣な選択をするから、こうなっちまったんじゃねぇのか」

「何なんですか……!」

「はぁ?」

「そんなの、理不尽じゃないですか! 殺したのはアナタだ、アナタ達テロリストだ!」

「そうだ、殺したのは俺だ。だが、テメーも手伝った」


「違うっ!」と誠は目の前に転がるスイッチを拾い、男に投げ返した。

 狙い通りか、偶然か、それは男の顔面へ直進したが、寸前で受け止められた。そして男はそれを握り潰した。スナック菓子をそうするように、容易く粉々にした。


「極限だな」

「ひ、他人事みたいに……っ」


 未だに立ち上がれない誠だったが、懸命に男を睨んでいた。男はそんな彼から目を逸らさず、「そりゃそうだろ。テメーがどうなろうが俺には関係ない」と開き直った。


「理不尽なのは俺じゃねぇ、世界だ。テメーが突然記憶を失ったように、状況は唐突に変わって、俺達を強引に呑み込んでいく」

「アナタにボクの何が解るんですか!」

「解りゃあしねぇよ。だが現状で一つ解んのは、その理不尽を押し退けるには、テメー自身が行動を起こさねぇといけねーってことだ。違うか?」


 抗うんだよ。

 悪魔のような暗い眼光を突きつけられ、全身が怖気立った。

 男が手を伸ばす。爪先から徐々に影を落としながら近付いてくるそれから目を離せずにいると、急に額が疼いた。

 また痛む。軋むように痛む。

 しかしこれは今までの比ではないし、自分の意志で能動的に生じさせてしまった痛みでもない。勝手に、オートに、意思とは関わりなく生じる病のような痛みだ。

 男の右手が、誰かのそれと重なっているように見えた。途端、痛みが激しさを増し、電流か、虫のような何かが、自由気ままに脳内でのた打ち回っているような激痛が走った。



――――夕日。三叉路。女。閃光。親指……?――――



 規則性のない、断片的なスライドショーが脳裏に浮かんでは消えた。


「マコト・サガワ、テメーのせいで何人が死んだんだろうな」

「ボクじゃないっ!!」


 男の責任転嫁も甚だしいセリフに誠は憤った。男の手を振り払い、殴りかかった。

 しかし彼の拳もスイッチ同様男には届かず、それどころか腕を捻られ、返り討ちにされてしまった。コンテナの壁に押さえつけられると、男は嫌味たらしい口調で囁いた。


「それでも俺達の目的がテメーである以上、テメーのせいなんだよ」

「ボクが、目的……?」

「あぁ、そうだ。テメーを探して随分骨を折った。ニュース、観ただろ」


 清芽は言っていた。テロリストは誰かを探していると。


「まさか、東京を火の海にしたのは……!」

「そうだ。テメーのせいで――テメーを匿う連中のせいで、あの街は灰になった」

「ひ、人違いでしょう……!? ボクが何だって言うんですか!」

「んなこと聞いたら、死んだ連中も浮かばれねぇだろうなぁ。特に、子供だからって理由でお前を逃がした連中はよぉ。大人の義務だとか思ったんだろうが、ハンッ、その犠牲に見合ってねぇだろ、さすがにコレは」


 分からなかった。急に分からなくなった。知っている大人の顔を、一〇人も思い出せない。その中に、子供を守る大人――親と呼べる人の顔はなかった。


「……そのまま抵抗するなよ。そのまま、死んだ連中の想いを蔑ろにしろ」


 笹野先生やナースは頼りなかったけど、とにかく自分を心配してくれた。だけど、欲しい温かさではなかった。事務的(ビジネスライク)に職務をこなしているだけとも思えた。

 清芽先生や研修医の女性は何を考えているのか分からなかった。この病院と称されながら潜水艦を保有しているという謎めいた施設で働いていることが不信感を募らせるのだろうけれど、もっと重大な何かを隠されているようで、どうしても信用しきれなかった。


「ただのゲームのつもりだったんだが、イマイチ面白くもない結末だったな」


 ぼんやりした頭に、不快な単語が響く。

 ゲームって、どういう意味だ。


「そういや、あの医者はやたらと五月蝿かったな。腹撃たれたくせにいつまでもテメーのことを気遣って。庇ったところで何にもなりゃあしねぇのに、うぜぇったらなかったぜ」


 思い出す。あの時、清芽が“いきなさい”と言った時、彼を後ろへ引っ張り、誠に向かって発砲した者の顔を。それは間違いなく、この銀髪男のものだった。

 瞬間、何かが勢いよく膨らんだような音が鳴り――弾けた。

 同時に、男の腹に巨大な鉄の塊のようなものが飛び込んだ。凄まじいスピードで突進してきたそれの正体を確かめたのは、向かいのコンテナの壁に背中を打ちつけてからだった。


「テ、テメー……!?」


 一体何が起こった。気付いたら、ガキにタックルされていた。

 男は衝撃で自分の形に大きく凹んだコンテナの壁に身体を支えて立ち上がった。口から溢れそうになった血反吐と胃液を意地で押し戻すと、少し離れて倒れる誠を睨んだ。


「何っ、しやがった……?」


 男は腰を落として身構えた。その手に銃はなく、ボクサーのように空の拳を握っていた。体勢を維持したまま、膝をついて肩で息をする誠へにじり寄った。


「来いよ。俺もこんな面倒はさっさと終わらせてーんだ」

「ボクは……」

「ようやく覚醒したんだろ!? 力、見せやがれぇっ!!」


 ボクは――死にたくない。

 顔を上げた誠の目は血走っていた。燃えるような真紅に染まっていた。

 その目を男は知っている。何度も何度も、いくつもの映像データを漁って見返した。白目まで真っ赤なその双眸に、何度憧れと悔しさを滲ませたことか。

 一瞬、刹那――七五分の一秒と計り知れないほど短い時間と言える出来事だった。

 男は優れた動体視力を持っていた。犬や猫を凌ぐ嗅覚と聴力を備えていた。しかし誠の動きは、彼のそうした超越的な感覚機能が万全に働くよりも遥かに速かった。

 辛うじて男が捉えた誠の姿と言えば、随分と遠くに蹴り飛ばしたはずの鉄パイプを拾って飛びかかってくる様子だった。


「きゃっ!?」


 爆発でも起きたような凄まじい突風に曝され、銃殺されたはずの女が悲鳴を上げた。彼女はコンテナの縁に掴まっていたが、耐え切れずに手を離してしまった。まるで高層ビルから落ちるように地面と平行に飛ばされる彼女だったが、太い腕がそれを阻止した。


「リーダー!」


 丸坊主の巨漢は彼女の肩を抱き、姿勢を低くした。すると正面から巨大なコンテナが飛来した。左手には女を抱き、右手と両足は地面から離せない。これは身を挺するほかにないと思ったそのとき、黒い巨人が彼らの前に躍り出た。

 巨人は右手をコンテナに翳した。するとコンテナに大穴が空いた。次には穴の縁の辺りが黒ずみ、火の粉を散らせ、燃え、最後には跡形もなく灰になった。


「ウヌバ!」


 女の呼び声に、ウヌバという巨人は会釈だけを返した。突風がようやく止むと、彼女は口から垂れる血糊を拭って唖然となった。

 整然と並んでいたコンテナ群が、今のそれと同じように見るも無残な有様で吹き飛んでいたのだ。トラックのように横転していたり、脱線した電車のように他を巻き込んでくの字に折れ曲がっていたり、墓標のように串刺しになっていたりと落花狼藉の有様だ。


「う、ウソー……。チョー有り得ないんですけどぉ……」


 まるで爆心地の様相を呈するその中央に、男と誠が倒れていた。二人は気を失っているだけのようだった。誠の手には熔けたように反り返った鉄パイプがしっかりと握られていた。


「《韋駄天(いだてん)》。まさか、また逢えるとは……」


 女の傍で、丸坊主の巨漢がそう呟いた。


「リーダー、何で泣いてるんですか……?」


 巨漢は答えぬまま、その厳しい頬に大粒の涙を伝わせていた。


挿絵(By みてみん)

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