〔一‐4〕 刑事、弟切
日課。毎日、決めて行なうこと。
市ノ瀬総合病院を退院してからの椿の日課は、その病院へ再び訪れることだった。
定期健診も関係なく、毎日欠かさずそれを行なうのは、骨折の原因となった交通事故で共にトラックに撥ねられて入院した少年の消息を確認するためだ。
二ヶ月前、春の暮れのあの日――かの少年が姿を消した朝のこと。少年の病室に踏み入ろうとした椿の視界をさえぎった吉野は、何度もごめんなさいと言っていた。
椿にはそれが響かなかった。吉野の身体が小刻みに震えていることさえ、彼女の途絶えた感受性の一切に触れることはなかった。
その日から、椿は変わった。彼の行方を追うために、やれることを全てやってきた。その過程で他の誰かが傷付こうが構いはしなかった。
やがて日課ができた。病院で彼の帰りを待つこと。そしてもう一つ、目の前に佇む大きな秘密の箱で、捜査の進捗を訊くことだ。
「今日も来たの、ツバキちゃん」
中年男が、よくやるねぇと感心するように笑った。年季の入った面構えからは、Vシネマの俳優のような渋味と凄味が滲み出ている。
「執念深くてスミマセーン、弟切さん♪」と椿は陽気な笑顔を返した。
都内の警察署に彼女らはいる。人の出入りが存外多く、その中には手錠をかけられた人の姿も見えた。
異様だった。そういう光景がではなく、それが当たり前に見えてしまうことがだ。
罪を犯した者。それに関わったと思われる者。そんな彼らに翻弄された者……。
真否は定かではないが、彼らの数だけ事件が現在進行形で起きているのである。大なり小なり、程度は様々あるに違いないが、事件というものは確実に存在しているということを、如実に表している光景だった。
しかし今の椿は、それを日常の空気として、その細い身体にまとっていた。彼女もまた、事件の関係者になってしまっているのである。
刑事弟切は彼女を待合用のソファに座らせると、「そう清々しく言われると余計に怖いよ」と冷えた缶ジュースを差し出した。何故用意されているんだと、猜疑的な視線を送る彼女に、「そろそろ来る時間だろうなってな」とも言い足した。
彼から缶を受け取った椿だったが、プルタブに指をかけることもなく、座席の左隣に置いた。さらに視線を素早く左右に回らせてから問う。
「毎日は毎日ですけど、時間は毎回違いますよ。長年の刑事の勘ってやつですか?」
「どうかねぇ。俺のカワイ子ちゃんレーダーが錆びついてなかったんじゃねぇのかな」
顔に似合わぬ軽口だが、椿は目立った反応を示さない。
「学校はどうしたんだい」
「もうとっくに夏休みですよ」
「オジサンみたいな仕事してると、季節なんて暑いか寒いかでしかねぇからな」
「んなワケありますか」
「ホントだよー。そのせいで女房にはえらく怒られたもんだぜ。息子を旅行に連れていけなかったり、クリスマスプレゼントを用意し忘れたりな」
「ついでに結婚記念日なんてあったことさえ忘れちゃったりして?」
「そうそう。あの時は命の危険を感じて、ひと月帰れなかったねぇ」
空笑いを返す椿の目元に、弟切は手を伸ばした。親指で彼女の右目の下を擦った。
椿はひとつ遅れて彼の手を振り払うと、すぐにポーチからコンパクトミラーを取り出して顔を見た。ファンデーションで厚く隠した目元のクマが、うっすらと露になっていた。
「まだ眠れないのか」
「何すんのよっ、こんなのセクハラよ……!」
「しっかり食って、しっかり寝ろ。じゃねぇと、お前が先に死んじまうぞ」
「だったら!」
椿は一つ叫ぶと、深呼吸をしてから、「彼、見つかりました?」とうそ寒い笑顔で小首を傾げた。
右の親指に残るファンデーションのパウダーから全身へ恐怖が迸った。弟切は息を呑んで、この支配から逃れる術を探した。
「あ、生憎、行き詰っていてねぇ……」
「ノンキャリの警部程度じゃ、お話にならないってことかしら」
「言ってくれるねぇ、お嬢チャン。最近の子供はこれだからイヤになる。インターネットで検索して、一秒やそこらで答えが出ることに慣れちまっているのかねぇ。いいかい、果報は寝て待てとは言わねぇが、事件ってのは無理難題だ。一つ一つを念入りに捜査していかなくちゃあ真実には辿り着けるもんじゃねぇ。それをしない輩が冤罪だ、自白の強要だなんてマヌケな真似を助長しちまうんだ。知恵の輪ってのがあるだろう、あぁいうふとした拍子で解け――」
シューっという場違いな音が一帯を切り裂いた。そこにいた不特定多数の視線は、壁から浮き立つ柱の角に注がれていた。ジュース缶がものの見事に突き刺さっていた。噴き出た炭酸ジュースは、たまたまそばを通りかかった婦警の顔に降り注いでいた。
三〇メートルほど離れた場所で起きたその騒動の犯人は、刑事を見下ろして言った。
「捜査の責任者を呼びなさい。このままじゃ埒が明かないわ」
「この所轄じゃあ、俺がその担当刑事なんだよね」
「警視庁の捜査本部が立つほどじゃない小さな事件だから、ロートルの刑事一人に任せておこうってそういう話ですか。冗談じゃないわよ、他の事件と同列にしないでよ!」
「そういう物言い、不謹慎だからよそ様ではやめときな。顰蹙買って、つまらんトラブルに巻き込まれるよ」
「二ヶ月もあって大した成果を出せないダメ刑事が、偉そうに説教なんてしないで!」
「世間の全てがキミ一人の為に動くわけじゃねぇ。世の中、持ちつ持たれつってやつだ」
弟切は親指で眉毛を払ってからそう言った。
「やっぱり、大人って信用できないわね」
椿は軽蔑の後、踵を返した。
去り行く彼女の後ろ姿に、「ったく、健気だねぇ……」弟切は肩をすくめると、通路の突き当りにあるトイレへ向かった。
少しチビったのは内緒だ。
その様子を影から監視している三人組がいたというのも、内緒である。