〔一‐3〕 天使の失態
都内某所、市ノ瀬総合病院。
今日も気立ての良さそうな白衣の天使達が甲斐甲斐しく働いている。吉野もその一人だったが、表情には時折影が差していた。
それを助長するのは、院内で持ち切りのとある噂だった。面白おかしく脚色を重ねられて怪談話へと化けたその噂は、患者から患者へと語り継がれていた。
今もまた、一つの病室前の廊下を通りかかるとその噂が鼓膜を苛ませる。
突然いなくなったんだよ、重病人がさ。
一人で? 自分から?
誰かに連れてかれたんだってさ。
だとしたら誰に。何の為に。
知ったものかと、吉野は自分でも気付かないうちに止めていた足をまた歩かせた。同時に、私が知りたいくらいだと口中で呟いた。
まとまった休暇が明けてもなお立ち上り続ける噂の煙だったが、いつしか真実の輪郭に触れようとしていることに吉野は少しばかり辟易していた。
ふた月ほど前のあの日、病院は真実を隠そうと躍起になっていた。単純な話、患者が失踪してしまうような病院という悪評を回避しなければならなかったからだ。一昔前では七五日で消えると喩えられた噂話も、インターネットという数と記憶の暴威の前では数十年の禍根を残すに相違ないのだ。
そう、病院は数と記憶を恐れた。しかれども吉野にとって数など恐れていなかったし、日々曖昧に薄れていく不特定多数の記憶など相手にもしていなかった。
「お久しぶりです。最近見かけなかったから、逃げられたのかと思いました」
吉野が心底から恐れていたのは、たった一人の、何よりも深い想いだった。
「こんにちは、ヨシノさん。今日もイイ天気ですね」
背筋が粟立つ。一息に痺れて固まる身体では、振り返るのに随分長い時間が必要だった。
後ろに、少女が立っていた。羨むほどの透き通った白肌の美少女だ。ゆるくウェーブのついたショートボブはいかにも今時だが、一度も染めたことがないと分かる自然の黒が意志の強さのようなものを滲み出していた。
彼女を一目見た途端、病院側が事実無根・荒唐無稽・流言飛語と言い張ってきた噂の煙が吹き飛んでしまった。代わりに、可憐な瞳に滾る怨念めいた炎が、真実の輪郭を浮き彫りにした。
そうして、思い知らされる。あの日吉野が犯してしまった罪の重さを。咎人は火刑に処されるべきなのだと。
「つ、ツバキ……ちゃん」
飛山椿は笑った。ひっそりと、仮面のように嘯いた笑顔を見せた。
表情を取り繕うこともままならない吉野に、「現実から目を背ける為のリフレッシュ休暇ですか、ずいぶんなご身分ですね」
そんなんじゃない。吉野の胸には反駁の火が灯りかけていたが、「何かに逃げれば、忘れられる程度のことなの?」と椿が矢継ぎ早に問うた。
「私は忘れないわよ。“彼”のことを、あの日のことを、アナタがしたことを、私は何があっても忘れたりしない」
「ツバキちゃん、聞いて。私も忘れてなんかないの、本当よ」
「黙りなさいよ」
今にも爆発しそうな怒りを湛えた眼光に、吉野は再び二の句を奪われた。
椿はちらと視線を外した。吉野が今の今まで押していた医療用具を運搬用の台車を見て、「お仕事、忙しそうですね。昼間からそんなに張り切ってると、また同じことになっちゃいますよ」
「っ!」
「二度目の失態なんか、市中引き廻しのうえに磔獄門したって足りないですよ。そうでしょう、ヨシノさん?」
あてつけがましくも、言い返せない強烈なセリフだった。
それでも椿は、執拗なまでにニコリと微笑んで、「ここ数日、聞けませんでしたね」
椿が次に言い放つであろう言葉が、吉野の脳裏を掠めていった。それは彼女にとって何よりも恐ろしい常套句。情け容赦なく奈落の底へと突き落とす、静かなる鋭鋒――。
「“彼”、帰ってきました?」
返す言葉が見つからない。
まるで喋られなくなる魔法でもかけられてしまったかのように、開いた口から声が出ない。金魚のように訳もなく口を開閉していると、次第に頭が回らなくなり、暗く澱んだ感情だけが胸の内を支配していった。
窒息しそうな気分だ。
そこから逃げ出そうと、「ご、ごめんなさい……っ」とようやく搾り出した自分の言葉に、吉野は絶望した。自分がしでかしたたった一つのミスが、とてつもない重罪だったのだと思い知らされた。
「答えになってませんよ、それ。どうして謝るんですか?」
蛇に巻きつかれていくような誘導尋問に、吉野は抗えなかった。
「わ、たしが……私の不注意で、“彼”が、部屋からいなく……なるのを……止め――」
「そうですよ。だから、そのことから絶対に逃げないでくださいね」
眩暈がした。吉野は腹の底から込み上げてきた不快感に口を押さえた。
不意に見た椿の目が、彼女をさらに射すくめる。
目尻に、涙が溢れてきた。
二ヶ月前、当院の十二階。最も西にある個室。一人の少年が入院していた。その彼が、突然いなくなった。入院して四日目の朝に発覚した。
その日の夜の当直医は一人、看護師は二人の予定だったところ一人が病欠でやむを得ず一人に。誰も代理を買って出なかったのは面倒なだけだった。予定があるのでと言う、同僚のナース達の白々しい態度に嫌気が差しつつ、吉野は一人一階のナースステーションで夜勤業務にあたった。
薄暗い院内は確かに不気味だ。廊下の奥も、階段の踊り場も、閉じているエレベーターのドアさえも、闇という闇に恐れが蠢いているように見えるのだ。だが勤続三年にもなると人の感覚は慣れてくるようで、実証されていないものよりも、患者達の容態が急変することに恐怖を覚えるようになっていた。
この病院の非常口は一階の警備室で電子ロックされている。何らかの警報装置が作動するとはじめて開錠されるシステムになっているので、手動で開けることはまず困難な作りとなっている。しかし事件当夜、どの警報装置も誤作動すら起こしていなかった。そしてどの非常口も開いた形跡がなかった。
一般用と関係者用、二つの出入り口が存在する。しかし一般用の出入り口は夜間の開放はされておらず、また関係者用の出入り口はスタッフのIDカードを利用しなければならないし、当夜利用した者はいなかった。
そして何より、どちらの出入り口を目指すにしても、一階のナースステーションの前を通る必要があった。だからその日、一人で夜勤にあたっていた吉野の責任は重大だった。
だが吉野はナースステーションを空けざるを得ない時間があった。院内の見回りである。それも重要な業務の一つだった。
少年の個室には監視カメラがあった。個人情報やら肖像権やらに過敏なこのご時勢に珍しいことだが、セキュリティ強化のモデルルームとして、集音機能の無いカメラが部屋の一角に設置されていた。その映像記録を見れば、彼女が見回りをしている時間、少年は確かにベッドで寝ていた。
吉野が失態を犯したのはナースステーションに戻ってからだった。連続勤務の疲れか、それとも夜が明ければ休暇を得られることへの気の緩みか、彼女はあろうことか居眠りをしてしまったのだ。少年が病室を出たのはその時だった。彼は監視カメラに目もくれず堂々とした足取りで、何の着替えも、何の躊躇いもなく、夜明けを目前にして部屋から出ていったのだ。
個室であることが災いしたのか、朝の回診時間まで誰もそのことに気付かなかった。吉野でさえも、ほんの少しだけ寝ていただけだと思い、気にも留めていなかった。
愕然としたのは、少年の担当医だった笹野に呼び出されてからだった。
「あの日、一般出入り口横の警備室にも、新人の警備員が一人で夜勤していた。でもその男は今行方を暗ましている。その無責任な男にも落ち度はあるけれど、仕事中に惰眠を貪っていたアナタの方が重罪よね」
右腕を三角巾で吊るした女子高生がひっそりと告げる。吉野が涙を頬に伝わせても、少女は決してその冷酷な瞳を揺らがせることはなかった。
そこへ、「アナタねぇっ!」数名の同僚が吉野を庇って、椿を取り囲んだ。
物々しい雰囲気に、患者も医師も注目していた。
「彼女の気も知らないで、そんな風にネチネチと責め立てて!」
「子供だからって大人が黙って聞いてると思ったら大間違いよ!」
成人した女達が、口々に女子高生を非難する。
しかし女子高生は、一対多数のハンディキャップを物ともせず、「皆さん、何言ってるんですか……?」と臆面もない佇まいで相対した。
椿のただならぬ様子に、ナース達は思わず腰を引かせた。
「こっちはアナタ達の為に手加減してるんだから……っ」
一堂を睨み回し、最後にその視線は吉野を穿った。
「職務怠慢、管理不行き届きでこの病院のスタッフ全員を訴えたっていいんですよ。知ってるんだから。アンタ達が彼女一人に夜勤を押しつけたことも、病院が事実を隠蔽しようとしていることも、警察にその手伝いをさせてることも、全部!」
「勝手なこと言わないでよ!」
「そうよ、そもそもあの男の子が勝手に失踪したんでしょう!? “記憶喪失”だったんだから、情緒不安定だったろうしぃっ!」
それは禁句だった。白衣の天使が言うべきセリフでもなかった。
椿は空の左拳を握り締めた。フーッと息を荒くして、大きな歯軋りを鳴らす。
何よ、言い返しなさいよとナースの一人が煽る。
それが最後の引き金になったか、椿は彼女に肉薄した。その一連の動作のまにまに左手を振るいかけたが、誰かに止められてしまった。振り返った椿の目に映ったのは、首を横に振る熟女――ナース長の姿だった。
「アナタ達、こんな所で何をやっているの。私達に油を売っている暇がある?」
「でもっ、この子がまたヨシノちゃんに言いがかりを――」
「大人のクセに、自分のこと棚に上げないで!」
椿の怒号に、ナース長は嘆息を漏らした。顔を俯けたままの吉野を一瞥してから、彼女は椿に言った。
「飛山さん、ここだけの話、彼の件についてはコチラに責任があります。ですから私共も、彼の安否について対岸の火事でいるわけにはいきません。吉野も責任を感じ、この数日間は有休を取って彼を捜していたのです」
弱々しい瞳と、厳しい眼光がかち合う。
吉野は顔を俯けながらも、余計なことをベラベラと垂れ流す上司を静かに睨んだ。
「そんな彼女を口撃し、精神的に追い込むようならば、私共としましても法的措置に出ざるを得なくなります」
「そういうこと言っちゃうんだ? だったらやってみればいいじゃない。私だって相応の準備はできてるんだから」
ナース長の脅しにも、椿は一切動じなかった。それどころか彼女が履くショートパンツの左ポケットからスマートフォンを取り出して、誰かに電話をかけた。
「こんにちは、先日お電話させていただいた飛山椿です。はい、失踪事件の。いえいえ、こちらこそお世話になりまして。はい。事件の記事の件、どうぞ進めていただいて結構です。病院の方々は態度を改めていただけないようなので、私も決心がつきました」
記事って。
ナース達は困惑した。吉野は膝から崩れ落ちた。ナース長は椿の左手に手を添えて、落ち窪んだ目を泳がせた。
「申し訳ありませんでした。私共にも生活があります。ど、どうか穏便に……」
椿は不気味な笑顔のままゆっくりとスマートフォンを耳から離し、その画面を彼女らに見せた。ホーム画面を表示しているだけで、誰にもダイヤルはしていなかった。
「でもね、準備ができてるのはホントですよ。私が今みたいにある人にゴーサインを出したり、一定時間電話をかけなかったりしたら、即座に記事は全国に拡散されるの。今の時代、情報の発信源は新聞やテレビだけじゃないですから」
週刊誌は挙って取材を始めるだろう。インターネットの匿名掲示板や、短い文章を掲載できるミニブログアプリケーションでは特に関わりない人々が悪意なく、そして理性もなく、病院が隠蔽していることを万人に拡散するだろう。
「臭いものに蓋しておいて、都合のいい時だけ人を助けてるような顔しないでよ」
吉野は胸の前で両手を握り、ガクガクと肩を震わせていた。
それでも椿は悪びれもしない。取り囲むナース達を押し退けてロビーへ向かった。ナースからの束縛が解けたところで、彼女は振り向いた。
「許さないから。彼がいなくなった原因を作った人も、それを隠そうとしているこの病院のスタッフ全員も、絶対に許さないんだから」
そう吐き捨てて、椿はようやく病院から去っていった。
「何よ、あの子!」
ナース達は口々に言った。一人暗い面持ちの吉野を慮ってのことだろう。
「ヒステリック、マジうざい」
「そもそもツバキって名前、病院ではヤバイよねぇ~」
「そうそう、縁起悪す――」
「やめてください!」
吉野の声に一同は驚いたものの、「ちょっ、何で庇うのよ」と折角の好意を無碍にされた気分になった。
しかし吉野は違った。自分を執拗に面詰する彼女を受け入れていた。彼女の顔から、目元から現れる苦しみの深さを、日々目の当たりにしてきたからだ。
「私、彼女の気持ちが分かるんです。入院中、彼女はずっと彼の話をしていたから」
確かにこの二ヶ月間、椿には精神的に追い詰められてきた。
だが、あの事件が起こる前――入院して四日が経つまでの椿は、どこにでもいる普通の女子高生だった。恋愛が命で、それさえしていれば何が起きてもどうとでもなると本気で信じている一六歳の女の子だった。
「告白の返事を早く聞きたいって、そればかりで。私も知りたかったから、彼女を励ましていました。だけど、当の彼は事故の後遺症で、記憶喪失になってしまっていて……」
彼。
椿が好きだと言う、彼。
椿と共にトラックに撥ねられて入院し、泣きっ面に蜂と言わんばかりに記憶を失ったという――彼。
「それでも彼女はめげずに、怪我した足を引きずって、面会謝絶の扉の前で彼の名前を呼んでいました。そんなに好きだった人が突然いなくなって、その原因が私の不注意にあるのなら、私は責められて当然なんです。逃げちゃいけないんです。受け入れないと、いけないんです……」
それに、私には心当たりが……。
吉野はつぶやいた。え、と同僚が聞き返すも、「いえ、何でもありません。さ、気を取り直して仕事しましょう。患者さんが待ってます」
彼女は少し頼りない足取りで、患者達に会釈しながら通路を行く。
彼女の頭には、ある一人の男の存在が浮かんでいた。その男も、彼の失踪事件を機に、彼女の前から姿を消していた。その男について他のナースに聞いても知らないと言われるばかりだった。
しかしあの男は確かに、この病院の入院患者だったはずだ。カルテは見当たらないが、それでもあの男は、この病院にいた。
もしかするとあの男が、彼の失踪に関わっているのではと思えてならなかった。




