〔一‐2〕 飛山椿
玄関の上がり框に腰掛けて、白とネイビーの味気ないスニーカーを履く。
主の娘が左手だけでそれをする様子を、家政婦の菜々は静かに見守っている。よしなどと娘がそれとなく合図を送ると、菜々は娘が首から提げている三角巾のベルトの長さを調節した。
飛山家の娘――椿が事故に遭って二ヶ月が経過していた。中型のトラックに撥ねられたのである。トラックはそのまま壁に激突し、運転席は跡形もなくひしゃげていた。運転手は当然即死。それでも車内の痕跡や血液を検査することで、運転手が危険ドラッグのアルコール割りをしていたことが明らかになった。
何よそれ。病院でその事実を聞かされた椿はそう吐き捨てていた。確かに、これ以上なく迷惑千万な話だった。
椿は右腕の骨を折っている。前腕の尺骨を三ヶ所と橈骨を二ヶ所――粉砕骨折だ。折れた骨のいくつかが皮膚から飛び出してもいたので、細菌の消毒を加えた大がかりな手術が必要だった。よく調べれば右の足首にもヒビが入っていたが、それはひと月の入院期間のうちに完治する程度だった。
菜々は今でも思い出す。目の前にいる少女が意識不明の重体として救急車に担ぎこまれる様を。血塗れの右腕、頭部や口からも血が出ており、可憐な姿が見る影もなかった。
アレはもうダメだろう。文字どおり満身創痍の椿に対する心ない野次馬のセリフを素直に受け入れてしまうほど、彼女の容態は深刻で、絶望的だった。
「聞いてる、ねぇ?」
青白く、かつ赤色で彩られた顔で失神している椿の顔が生気を戻してそう問いかける。
我に返った様子の家政婦を見かねて、「今日も夜までには帰るからって言ってるの」
「あ、はい、かしこまりました」と菜々は頼りない返事をした。
椿は左手を挙げた。菜々はその手を握ると、彼女をゆっくりと立たせた。
「しっかりしてよ。疲れてるんだったら休んでてイイんだからね」
「ツバキさん、私よりもアナタの方が――」
菜々の唇に、椿は人差し指を立てた。なぁにと小首を傾げる彼女の目は山なりだったが、決して微笑んではいなかった。
椿は壁にかかっている鏡で髪を整えた。菜々はその行為の本当の目的に気付いていたが、今の人差し指の熱を思い出すと考えるのをやめた。
もはや誰にも、今の彼女を止めることはできない。彼女の瞳や脳裏に張りついている事件が解決されなければ、彼女は動き続けるだろう。心身を犠牲にし続けるだろう。
こうして玄関を出て行く彼女の背中を見送ることしかできないのは、菜々が彼女と同じ女性だからだ。
行ってらっしゃいませと家政婦が深いお辞儀をして送り出す。
椿は門扉を抜けた。刺すような陽気に眩暈を覚えた。




