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ネイムレス  作者: 吹岡龍
ネイムレスSB【待ち人ラナウェイっ】
46/167

〔一‐1〕 覇道をゆく者

 二〇一X年 七月末。



 姓をブラウンという一家が日本に入った。

 長期の観光目的。家長とされる男は、国際空港の入国管理局員の問いにそう答えると、柔らかく笑ってみせた。

 金髪に青い目、四角い顔をした恰幅のよい夫。同じく金髪だが“狼の目”とも呼ばれる琥珀色(アンバー)の瞳をサングラスで隠す丸顔の妻。仲の良さそうな八歳と六歳の姉弟はずっと手を繋いで離さない。

 真面目な入管局員の一人である日本人の男は、まだ小さな姉弟がぼうっとした眼差しを彼に向ける中、今一度手元の公文書に目を戻した。パスポートにもビザにも不備はなく、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国――つまりイギリスからも彼ら一家の身元を保証する判が押されている。金属探知機でのボディチェックやX線で荷物の検査をしても、他の凡とした観光客同様、危険物らしいものは持っていなかった。気になることと言えば、妻がサングラスを取って顔を見せる際に、少し煩わしそうにしたことくらいだが、ノーメイクだったのが原因らしいので無視できるレベルだ。

 姉弟が揃って振り返り、手を振って両親の後についていく。入管局員は次の旅行者の相手をした。それでもどこか姉弟の様子が気になって目をやった。

 イギリス国籍のその一家は、すっかり雑踏の中に消えていた。




 ハネダ空港の国際ターミナルビルを出ると、駐車場の指定された場所に黒いMPVがエンジンをかけたまま停まっていた。イギリス人でMPVと言えば、国鉄の多目的車両の略称であるが、ブラウン一家の国籍は皆バラバラだったうえに誰もイギリス国籍ではなかったので、その六人乗りのトールワゴンを見ても混同することはなかった。

 ブラウン一家の家長は運転席のドアを二回ノックして、「待たせたな」四〇代後半の外見にそぐわぬ若いトーンで言った。MPVのドアというドアには色つきのフィルムが貼ってあり中が見辛くなっているが、確かに男の大きな上体が運転席にあるのが見てとれた。

 鈍い音が鳴り、助手席と後部の二つのドア・ロックが一斉に解かれたのが分かった。一家はごく自然な様子で乗り込んだ。

 冷房がかかっていることに安堵したのか、ふぅと後部座席の真ん中に座った妻が息を漏らした。彼女の両脇を姉弟が埋め、助手席に家長が座ると、運転席の男は全てのドアを再びロックした。


「暑かっただろう」

「外に出て五〇ヤードほどしか歩いていないのに汗をかいたわ。噂には聞いていたけれど、この国の夏は想像以上ね」


 運転席の男は一家全員それぞれに五〇〇ミリリットルのペットボトルを手渡した。


「アラ、気が利くわね。クロジャイ」


 クロジャイという男は、女の微笑みに嫌な顔をした。そそくさとした様子でブレーキペダルを踏みながらシフトレバーをDレンジまで引いた。そうやって車を走らせる所定の手順で手足を動かすことに余念がなかったのは、助手席の男の視線が面倒だったからだ。

 家長のブラウン氏は笑っていなかった。妻にクールな優しさを向けるクロジャイに嫉妬していた。


「よくも堂々と人の妻に手を出せたものだな、クロジャイ」

「水を渡して労っただけだ」

「二足歩行を覚えたワニのような顔をしてナイスガイを気取る、その向上心は認めてやる。ワニの分際で車の運転まで覚えたのだからな。だがな、パーラは私の妻だ。今後彼女への接触は私の許可なしでは認めん」

「お前はこの女のマネージャーか何かか。この女のこととなると冷静さを欠くのはお前の悪い癖だ」

「夫だと言っている」

「ねぇ、ドレート」


 後部座席に座るブラウン夫人ことパーラが助手席の嫉妬深い男に声をかけた。「何だいハニー」などと言って意気揚々と振り返る彼ブラウン氏ことドレートの顔に、彼女はふた口ほど飲んだペットボトルの水をぶちまけた。

 びしょ濡れになった彼よりも車のことを気にかけるクロジャイを無視して、パーラは言った。


「私、まだアナタと婚約すらしていないのよ」

「ならば今しよう、すぐにしよう。式は盛大に挙げよう、ハネムーンはどこに行こう」


 パーラは肩をすくめると、自らのデコルテに指を這わせた。そして肌を二、三度払った。すると皮がめくれた。彼女はそれを指先で抓むと、顔までゆっくりと引っ張り上げた。表皮の下には、真皮と呼ばれるコラーゲンに富んだ結合組織層が現れることはなかった。剥がしたそれは特殊メイクで使われるラテックスやシリコン由来のような軟質の変装素材――通称〈カム・スキン〉だった。カツラまで付属されていて、頭部全てから剥ぎ取ると目だし帽のようになった。それを足元のビニール袋に捨て、ソフトタイプのカラーコンタクトレンズも外した。現れたのはほとんど白に近い灰色の虹彩をもつ瞳だった。

「もう取るのか」とドレートの忠告も無視してクロジャイが問う。

 パーラは丸く纏めていた栗色の髪をほどくと、また一つ、解放されたように息をついた。「この暑さでしょ、肌がかぶれちゃうわ」と艶やかな瞳で答えた。素顔の彼女は、アゴのすっきりとした美女だった。それもおそらくハリウッドでも通じるほどの、絶世の美女だ。


「今日も綺麗だよ、パーラ」

「その顔で言われても、ちっともセクシーじゃないわ」


 それもそうだと、ドレートも彼女のように首の下から顔に貼りついた〈カム・スキン〉を剥いだ。姉弟も彼らに倣った。

 ドレートという男は赤い髪を逆立てた美男だ。その容貌は狡猾な印象も同時に与える。恰幅のよさは、茶系のジャケットの下に身につけた肉厚の〈カム・スキン〉で補っていた。瞳の色はくすんだ、というよりも濁った黒に近い青色だ。

 変装中、姉弟の顔はそれぞれに違っていたが、実際には全く同じ顔をしていた。彼らは異性一卵性双生児だった。しかも幼く見えるだけで本当は二人とも一一歳だ。揃って栗毛の下の瞳は美しいグリーンで彩られている。

 顔や年齢だけではない。観光客のブラウン一家を名乗って日本に訪れた彼らが、出入国の際に各国税関職員に提示した証書の一切は偽りだった。しかし彼らはこの日本国の憲法、刑法第一七章で定められている〈文書偽造の罪〉における、一五五条〈公文書偽造等の罪〉などに該当する犯罪を犯してはいない。懲役、最高十年に処されることもない。

 彼らが使ったパスポートは紛れもなく本物だったからだ。イギリスに実在するブラウン一家になりすまして入国したからだ。つまり彼らは、旅券法第二三条第一項――“罰則”について定められている〈他人名義の旅券又は渡航書を行使した者〉に該当し、五年以下の懲役もしくは三百万円以下の罰金に処され、またこれを併科することとなる。

 しかし彼らはそんなものを恐れていなかったし、危惧すらしていなかった。

 イギリスに実在していたブラウン一家を人知れず惨殺し、彼らになりすまして公然と彼らの家を出て、こんな日本くんだりまでやってきたこの連中に、不法入国程度の犯罪など大したリスクにはならなかった。

 こうして日本に侵入し、空港の敷地内から出てしまえばこちらのものだった。安全に侵入できるパスポートを破棄して、自分達の顔写真が貼られていながらその個人を示す証書の内容がデタラメな偽造パスポートをそれぞれに持つようにした。

 ブラウン、もといドレート一行は、イギリスのロンドン・ヒースロー空港に足を踏み入れる前から、日本の入管を運営している法務省のデータベースへ不正にアクセスしていた。不正プログラム――いわゆるマルウェアを電子ネットワーク上で用い、ドレートら全員の身元が確かなよう、過去に渡航歴があるよう、膨大な個人データの一つとして新たに書き加えていた。さらにイギリスの入管に対しても同様のデータ改竄を行なっていた。

 ならばブラウン一家を惨殺する必要があったのかという問いはクロジャイがした。彼は人殺しを善しとしない繊細な心の持ち主などではなかったので、殺すという行為そのものに抵抗はまるでなかった。彼が気にかけたのは手間だった。


「ドレート。アナタから正式にプロポーズをされたら、私はすぐにでもキスを求めるけれど、アナタはいつまで経ってもそれをしてくれないでしょう。そんな意気地なしと式だのハネムーンだの楽しめるとは思えないわ」

「……気が熟していない。万事万全ではない、という話さ」


 こうした話をするのは、ドレートの口癖だ。彼は完璧主義者なのだ。

 彼らが日本・イギリス両国に対して用いたマルウェアは、未だ世界中のハッカーが生み出したことのない高度にして精巧なもので、決して足跡が残らない素晴らしい武器だった。かてて加えて、偽造したドレートらのパスポートも本物そのもの、遜色ない見事な出来栄えだった。これを入管職員に提示しても難なくパスできただろう。

 しかしドレートがそれをせず、ブラウン一家になりすましたのは、彼らの素顔が一度でも人の目に触れてしまうことを警戒してのことだった。

 膨大なデータの一つであるうちはいい。悪目立ちしたときが厄介だと考えたのだ。これから行なうことを鑑みれば、日本の警察よりも“厄介な連中”の介入を想定しておく必要があったからだ。

 “厄介な連中”が気付くよりも早く目的を達成する。そのためには“安全な入国”は必要不可欠だった。


「浮ついた話はもういい。ドレート、こうまでして手間をかけたからには最後まで抜かりなく頼むぞ」

「クロジャイ、せっかちなのは相変わらずだな。私達より先に入国して三日、独りになって自分を見つめなおすこともできなかったのか」


 クロジャイは短気な男で、未だ不慣れな左側通行の国道を安全運転で走らせていると、ハンドルがひしゃげるほどに握り潰してしまっていた。とてつもない怪力である。


「貴様の命令に従ってアングラのホテルを借り、王に関する情報を洗っていたんだぞ。それなのに貴様ときたら労いの言葉一つなく――」

「アハアハ、おこなのー?」


 ほとんど棒読みのように、しかし笑顔で後部座席の少女が言った。バックミラー越しに映る双子の姉は邪気の欠片もないようなエメラルド色の瞳に疑問符を浮かべていた。


「ディオラ、“おこ”とは何だ?」

「ジャポンのギャルってヤング・コミュニティーが使ってる少数言語マイノリティ・ランゲージでー、“ちょっと怒ってる”って意味だよー」

「ディオラったら、相変わらず物知りなのね」


 パーラが褒めると、ディオラと呼ばれる少女よりも先に、その弟が鼻高々に言い放った。


「当然ですよパーラ様。何たって、この僕のお姉ちゃんなんだから!」

「何故お前が自慢する、ディアベス。まるでお前こそが優秀であるかのような口振りじゃないか」

「黙れよクロジャイ。お前は運転だけしてればいいんだよ、木偶の坊」


 可愛らしい顔が一転、辛辣無残な顔つきと言葉遣いの双子の弟――ディアベスは、クロジャイの座席を後ろから何度も蹴りつけた。

 クロジャイは子供のやることだと我慢していたが、あまりにも執拗だったのでバックミラーをわざわざディアベスに向けて睨みつけた。まるで今すぐ人を食い殺さんとするその眼光に、ディアベスは暴れさせていた足を止め、パーラに抱きついた。


「ぱ、パーラ様怖い、助けて!」

「クロジャイ、大人げないわよ」

「パーラ、悪いが俺の隣にいる男の方が大人気ないはずだ」


 助手席を見ると、パーラの豊満なバストに顔を埋めて離れない少年の後頭部を、閻魔のごとき形相で凝視するお婿さん候補がいた。


「アハアハ、激おこスティックファイナリアティぷんぷんドリームだぁー」

「何言ってるのか分からないけど、不思議ね、何となく解るわ」


 血の涙を流すんじゃないかというくらいにひどく血走った彼の双眸に、パーラもクロジャイも頭を抱えずにはいられなかった。何せ、この完璧主義者で嫉妬深く大人げない男が、これからこの世を支配するため、覇道を歩もうと言うのだから。


「ドレート。再会の余興もこの辺にして、本題にうつりたいのだが」


 そう言ってクロジャイは片手でハンドルを握りつつ、一枚の写真を皮ジャケットの胸ポケットから取り出した。ドレートはディアベスを睨み続けながらそれを受け取った。


「それが唯一の手がかりだ」


 どうする?

 そんな問いを含んだ一瞥を、ドレートは一笑に付した。

 愚問だったと再確認したクロジャイは、国道一三一号線を黒いMPVに走らせた。

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