〔一〇‐4〕 名も無き新人類
パルクールを少しでも齧っておいて良かったのかもしれない。
目にも止まらぬ高速で踏み切り、高層ビル一つ軽く飛び越えるような走り幅跳びをした誠は、REWBSの行軍をいとも容易く跨いで彼らの背後にある厚い隔壁を抜けた。
打って変わって狭く入り組んだ一本道の通路を、用心を繰り返しながら進むと、突き当たりに一際怪しい扉を見つけた。それは半開きで、備えつけられたテンキーも機能していないようだった。
誠は恐る恐るそれを潜った。明るく広大な空間に出た。マリアナ本部基地の訓練場以上に広大な空間だ。この場所にどれだけの資金が投じられたのかが一目で解るほど、潤沢な設備に溢れている。壁一面を埋め尽くすコンピューターらしきこの機械の群れが全て〈ユリオン〉なのだろうか。それとも碁盤目状に仕切られたブース一つ一つに設置されたデスクトップ型PCがそうなのか。
どれだけ想像を巡らせて見ても、機械に詳しかったような過去を思い出せない誠には徒労もいいところ。今は〈ユリオン〉であるか否かを知るための証拠や証言を何かや誰かから得ることが先決だ。
静まらない動悸が神経を追い詰める中、「お前が来たのか」と枯れた声が耳朶に触れた。
身を竦ませた誠は正面を向いた。するとこの区画の最奥、丸く巨大な舞台のような場所の縁に、白衣を着た白頭翁が腰かけていた。
青白い顔を湛える彼は片手で顔を覆いつつ、独り言ちた。その袖は顔色とは裏腹に真っ赤に染まっていた。
「非論理的だと笑えばいい。しかし私は産まれて初めて、“運命”を信じてしまったよ」
首をかしげる少年に、「セイギ・ユキマチの呪いか……。フッ、科学者失格だな」彼は自虐すると、重い身体をゆっくりと立たせ、舞台の中央に据えられた一台の筐体に触れた。
「奴らめ、ついにこの私さえもダシに使いおった。悪い予感がして駆けつけてみればこのザマだ。一体どこへ持ち去りおった、“アレは、私の物”だぞ……!」
「アナタがメギィド博士、ですか!?」
叫ぶように問いただす誠の声が空間に木霊した。
間を置いて、「ホッホ。いかにも」と答える白頭翁――メギィドに、「ユ、〈ユリオン〉っていう機械を、その、止めてくださいっ!」と誠は威嚇する小動物のように訴えた。
「止める? 私の〈ユリオン〉をか? それはできん相談だな、マコト・サガワ」
メギィドは、厳しい眼光を少年に突き刺した。
動けなくなった誠だったが、耐え、顎を引き、問うた。遠く離れた二人は互いに〈MT〉の指向性マイク機能を使い、微かな息遣いまでその耳で拾っている。
「ボクを知っている……。本当に、ボクらを裏切ったんですね」
「ボクら、か。日本などという平和ボケした小国の単なる一市民だったお前が、よくもそう容易くあの組織へ入隊する気になったものだ」
「……容易くなんかありません。こうすることが、誰かの役に立つと思えたんです」
「ヒーローを気取りたい年頃でもないだろう。現実を見たまえよ、少年」
「何なんですか、アナタは。見ましたよ! 嫌なものを、沢山見ましたよ!」
「果たして、本当にそうだろうか。実際は、自分を律するので精一杯ではないのかな?」
メギィドは依然として目の色を変えない。明らかに自分よりも劣ったものを見る目だ。
彼は性根の悪い人なんだと、誠は感取した。
「私には解る。お前が自身の存在を肯定させるために、“人間”を諦めたということが。そうすることが、最も容易な逃げ道だったのだろう」
心得顔で告げるメギィドを、誠は即座に否定した。
「そんなことはありません! ボクはっ、コレが最善だと思って――!」
「違うな。親だけでなく、記憶さえも失ったお前は、本能的に拠り所を求めたに過ぎん」
ぴしゃりと言い切られ、心臓が跳ねる。どこか言い当てられているような気がする。
「それは当然の、生理現象のようなものだ。だから自らを咎めることはない。お前だけでなく、全てのヘレティックがそれを乗り越えて生きているのだからな」
人は、あまりに残酷な現実を直視すると、思わず目を背けて見ないようにする。
しかしそこで理性が働き、現実に順応しようとする。それはやがて、それまで正確だった感覚を麻痺させ、抗いようのなかったことなのだという諦観へと落着させる。
「しかしそれが真実正しいと言えるか? 何故我々だけが、これほど苦しい選択を迫られなければならないのだろうか……」
やる方ない怒りが、メギィドの中で沸々と湧き上がってきた。
この苛立ちをぶつける相手にこんな少年は相応しくないが、夢の成就を目前に“裏切られた身”としては呑み込んでばかりはいられない。
「その答えはとうの昔に出ている。覚醒の予兆もないノーマルが、彼らから進化した我々の台頭を本能的に恐れているからだ! 人類の異端者である、我々をな!!」
何だ、何の話をしているんだ。誠は渇いた喉に、生唾を流した。
「エリ・シーグル・アタミの素性を知っているか。彼女は元々孤児だったわけではない。赤外線を目視・把握できるために、それを知った親に恐れられ教会前に捨てられたのだ」
孤児だったことは聞かされている。だが、今の話は知らない。そんな理由だけで、お腹を痛めて産んだ実の子を捨てるのか?
「ウヌバという青年は、子宮の内側から母を焼き殺してこの世に生を享け、産声と共に父を氷漬けにした神の子だった」
あの寡黙で純朴な瞳をたたえる巨人が壮絶な過去を抱えていることに、誠は打ちひしがれてしまった。しかしメギィドの話すことを嘘だと疑う自分がいる。それを見透かしたように、メギィドから誠の〈MT〉に第一実行部隊隊員のプロフィールが送りつけられてきた。
彼が情報部から盗み出した、組織構成員の表世界から“消されたはずの過去”が。
「お前達を束ねるドウジ・シュテンも曰くつきだ。後天的な覚醒因子の発現によって力の制御ができなかった彼は、夜道で若い女を強姦していた男を、原形を留めぬほどに嬲り殺したことから人里を追われている」
鬼になった彼は、“憑き物”を落とすために京都へ逃げ落ちた。もしもそこで雪町セイギに出逢わなければ、彼はあの大江山で、現代に生きる鬼として一生隠れて過ごしていたかもしれない。
誠は耳を塞ぎたくなった。目を背けたくなった。これまで彼らに言ってきた身勝手が首を締め上げてくるようだった。
「そしてケン・ユキマチは、そんな表世界での暮らしや、そこで辛酸を舐めながら生きていたヘレティックの葛藤を知らずに、あの海底基地の中でのうのうと生まれ育った、純粋なヘレティックのサラブレッドだ」
誠は我に返り、やおら頭を擡げた。
「ボスや秘書官のメルセデスにも、相応の過去がある……」
拳を握り、強い眼差しを老人に向けた。
「全ては、そう、世界を二分せざるを得なかった全ての要因は、ノーマルの狭隘な心が生み出したエゴによるものだ。奴らの常識から外れ、人としての道をも外れた我々は、閉塞感を抱えながら人生を送らねばならなかった。私はもう、そんな名も無き生涯からは決別したい。だから〈ユリオン〉を完成させ、自らの存在を世に知らしめねばならん!!」
許せない相手だと思った。組織を裏切って、こんな所でコソコソと凶悪な兵器を製造しているこの男は悪い輩なのだと結論できた。
「本来“〈ユリオン〉は私の物”だった。奴らに掠め取られたアレは私の、“我ら”の最高傑作だった。アレは、我が人生そのものだ!」
「……らって――」
「ネイムレスの行ないは間違いなのだ。ヘレティックを束ね、ノーマル共に反旗を翻すのが本来あるべき姿のはずなのだ。それを下等生物共のために滅私奉公するなどは――!」
「だからって、何だって言うんですか」
瞋恚の目が、老人を射竦める。
「何……?」
「そんなに名前が大事ですか。功績が大事ですか。生きた証が大事ですか。そんなもののために、どうして普通に生きているだけの人が迷惑を被らないといけないんですか。今ある繋がりを大事にしないで得たものなんて、必要ないじゃありませんか!」
「……勘違いするなよ、少年。これはエゴではない。〈ユリオン〉の開発と使用は、ヘレティックの総意なのだ。高慢な貴様ら組織が、“国境無き反乱者(Rebel without borders)”という不名誉な名を与えた、一万を越える名も無き新人類のな!」
「だとしても、それはエゴだ。くだらない僻み根性を盾にした、くだらないエゴだ!!」
メギィドの顔が歪んだ。唇を開け、歯軋りを立てている。
「アナタはノーマルに認めてもらいたかっただけなんだ。でも、きっと頭が良過ぎるから、嫉妬を買われて生き方を変えなくちゃならなかったんだ。そんなのは可哀想だって、間違いだって、ボクも思いますよ」
変わったところがあるから爪弾きにして、邪魔だから排斥して、不自然だから無視をして……。そういう排他的な主張がまかり通ってしまう世の中は、間違っている。
だけど――
「知ったような口を利くな!!」
「だけどそれを理由に怨んで、こんな馬鹿な物を造っているんじゃ同情なんてできやしない。アナタが引き合いに出したエリさん達は、それでも“世界のため”に戦っている。今だってボクをここへ走らせるために、身体を張って道を拓いてくれた。殺戮兵器なんかを造っているアナタなんかとは全然違う、本当に優しくて良い人達なんですよ!!」
「記憶もない空っぽな貴様に何が分かる!?」
「記憶がなくたって、それくらいのことは解ります!!」
「賢しいかと思えば、やはり子供か。都合の良いことしか受け入れようとしない。現に見よ。貴様は自らの意思と言いながら、奴らに言われるままに《韋駄天》を利用されている。真実心優しき者共ならば、貴様のような世間知らずの小僧を戦場に送り込みはしない!!」
不意に、清芽の顔が浮かんだ。彼は、彼一人だけは、何一つ迷うことなく、誠を戦場から遠ざけようとしていた。アレが本当の、あるべき優しさなのだろう。
しかし、だからと言って――
「奴らは殺人鬼だぞ! 目的のためならば手段を選ばん、奴らこそ冷酷な殺戮兵器だ!!」
第一実行部隊の面々が、それぞれの方法で誠を気にかけた事実は変わらない。
「アナタみたいに他人を思いやれない人がいるから、そうならざるを得なかったんだって、何で分からないんですか!? あの人達は、アナタ達(REWBS)の被害者なんですよ!!」
「新時代の芽を悉く潰してきたあの組織の何を解れと言うのだ! 組織さえなければ、世界は間違いなくより良き未来を手にしていた! 私の生み出す科学によってヘレティックは市民権を得て、迫害の対象にならずに済んだかもしれんというのにっ!!」
永い戦いだった。孤独な戦争だった。
早ければ第二次世界大戦中には成就していたはずだった。しかし組織に勘づかれたのが運の尽きだった。開発しては襲われ、実験しては逃げた。老いさらばえていく生物としての宿命に抗うために、自らを被験体に不老不死の実験も行なった。コインの表側でいくつもの若い命が消えていく中、このつまらない世界に変革を齎すために寿命を延ばし続けた。
〈ユリオン〉が完成すれば、世界から戦争を取り除ける。愚か者共に力の差を知らしめ、二度と争えぬよう牙を捥ぐことができる。それを完成させられるのは世界で自分一人。やらなければならなかった、何を犠牲に払っても。
「嘘をつかないでください!!」
「!?」
「アナタの本性は暴力的だ! 組織があってもなくても、〈ユリオン〉で世界を支配するつもりだったはずだ! そうじゃなきゃ、ノーマルを下等だなんて罵ったりしない! アナタに任せてしまったら、選りすぐられた生命しか残らなくなる!!」
水かけ論にメギィドは眉間を揉み、深く唸った。
「愚かしい。実に愚かしいぞ、少年。優良種が次代を担うのは、当然の摂理だろうに」
「愚かなのはアナタです。片意地を張って、過ちを認められないアナタのほうです」
「……所詮は野性的因子の申し子か」
このままノーマルに任せておいては、“終末の日”は回避できんというのに……。
口惜しそうに天井を仰いだ老人は、すっかり履き潰した革靴で床を鳴らした。
「〈ユリオン〉は大義を成し得るための要だ。たとえ“奴らに奪われた”のだとしても、私は生きて、この手でアレを完成させなければならない。解るか、少年? それが私の存在意義なのだ。私の〈ユリオン〉が、ヘレティックの尊厳と可能性を世界に提示しようというのだ! 何人たりとも、この私の邪魔はさせん!!」
「ボクは戦いたくなんかないんです。でも、戦いが存在しているのに、それを止められる力を持っているのに、目を背けるなんてこともできないんです。だからアナタが戦うと言うのなら、ボクはそれを止めるために戦わなくちゃいけない。記憶を取り戻すことを二の次にしてでも、そうすることが、今のボクの存在意義だから……」
誠は〈エッジレス〉を引き抜いた。両手で構え、ぐっと腰を落とし、半身を開いた。
「人が人を殺すところなんて、もう二度と見たくないんだっ!!」
メギィドは咄嗟に空の右手を突き出――
両足に力を込めて床を砕き蹴った―エリから教わった〈エッジレス〉の使い方は一つ―《韋駄天》を本気で使えば腕の振りはずいぶんと遅いものになる―だから振り抜きは相手との相対距離が縮むより早く行なわなければならない―地面を蹴ると同時―むしろ蹴るよりも先に振り始める―誠はその習いを思い浮かべつつメギィドの傍らにある筐体へ突撃した
――ヂシィッ――
――フォロースルーの途中、誠がメギィドと、ひいては筐体と肉薄したその時、〈エッジレス〉の切っ先が何かにぶつかった。目の前で光の膜が散らばった次の瞬間、今のスピードのベクトルが丸々逆転されたように弾き返された。
吹き飛ぶ彼を尻目に、メギィドは悠然とした足取りで舞台から降りていく。
「フフ、いくら記憶喪失と言えども、サブカルチャー大国で生まれ育ったのなら予想はつくだろう。そう、ビームバリアーだ。いかに貴様が超音速の脚力を持っていようとも、高密度の光の壁が相手では太刀打ちできまい」
舞台を包囲するようにバリアーが出現しているようだ。ほとんど不可視だが、時折プラズマが青い光を上げている。
「自慢話をさせてもらおう。表世界では未だに実用化の兆しが見えんこのビームバリアーを製作したコンピューターこそが、〈ユリオン〉なのだ」
突き飛ばされ、仰向けに倒れた誠は、ろくな受身もとれずに後頭部を強打した。すると脳の前頭葉辺りに、後頭部から跳ねた血のように赤い何かが張りついて、広がって見えた。
「このビーム偏光技術と〈オリハルコン〉の鎧、さらには〈AE超酸〉があれば、核兵器もそれが齎す放射性降下物すらも恐るるに足らん。核の傘も無用の長物、常識が変わるのだ。私の科学があれば、世界から戦争を失くすことさえできるのだよ!」
メギィドの勝ち誇ったような声が鼓膜を打つ。
「さらにな、〈ユリオン〉はこんな物まで提案した。産みの親である、この私にだぞ!?」
赤い視界――舞台が競り上がり、四本の太い足で立つ、頭のない亀のような円盤型の巨大ロボットが映る。全長は約八〇メートル、先の戦車など軽く踏み潰せるほどの巨体だ。
脳裏に主張する赤がやがて黒くくすんでいくと、何も聞こえなくなった。
「貴様らが制圧した中国の山岳基地で造らせていたのは、コレのコア・ブロックと駆動ユニットだ。まだ試作段階だが、島の偵察に充てていたEATRとはワケが違う。名は、〈ユリオン・チルドレン〉――!!」
――――そうだ、思い出した――――
ボクはあの日、トラックに轢かれてなんかない。
普段ならあんなにも大型の車が走らないような閑静な住宅街に、あのトラックが突っ込んできたんだ。ちょうど三叉路の真ん中にいたボクは、誰か――女の子と喋っていた。
夕焼けが滲みゆく、一日の別れ際。でも、その日はいつもと違った。
彼女はボクに、何かを言ったんだ。だからボクも何か応えようとしたら、そこへトラックが来た。
ボクは彼女の肩を突き飛ばした。彼女を助けるために、そうしたんだ。そうすることしかできなかったんだ。
トラックがボクらを隔てた。ボクは尻餅をついて倒れた。
そして、あの“黒い手”が伸びてきて――――……
「……――――帰らなきゃ……」
ゆらりと立ち上がった誠の眼は、まるでルビーのように鮮烈な紅色を帯びていた。
血走ったその双眸にメギィドは戦慄し、たじろいだ。この眼は――この威圧感は――
「セ、セイギ、ユキマチぃっ……!?」
馬鹿な、何故重なる。奴は死んだ。確かにあの日、“私の目の前で息絶えた”はずだ。
奴の息子ならいざ知らず、何故赤の他人の少年が、こんなにも……??
「……ボクは、記憶を戻して、彼女のところへ帰るんだ。ボク一人でも戦えるように、彼女を守れるくらいに強くなって、帰らなきゃならないんだ……っ!!」
彼の声が耳を劈いた頃には彼の姿は消えていた。周囲に目を配らせるが、どこにも彼の姿はない。ふと正面に視線を戻すと、凄まじい剣幕で〈エッジレス〉を突き立ててバリアーへと突進する少年がいた。
怖気立つメギィドは、ゆっくりと後ずさり、「む、無駄なことを」と絞り出した。
「警戒態勢中の〈ユリオン・チルドレン〉は常時バリアーを起動させている! いくら貴様が超音速で駆けずり回ろうとも、このバリアーに死角はない!!」
彼はグローブもない素手で〈MT〉を操作すると、この区画の隅に用意していた隠し通路への扉を開いた。さらには〈ユリオン・チルドレン〉を遠隔操作した。彼の手には、グローブと同じインターフェースが埋め込まれていた。
巨大な〈チルドレン〉は彼の指示に従った。彼が通路へと逃げ込むと、まるで門番のように扉の前に立ち塞がった。平らな甲羅にいくつもの穴が空くと、そこから無数のホーミングミサイルを射出した。弾頭のシーカーが誠を目標の熱源と認識すると、彼へ真っ直ぐ飛翔した。
誠は駆けた。冴え渡った頭でミサイルが自分を追っていると解り、すぐに離脱した。
ミサイルはあえなく誰もいない床に次々と着弾する。〈チルドレン〉は再び誠の現在地を確認し、ミサイルを撃った。その瞬間、誠は見た。ミサイルの射出時に、〈チルドレン〉の周囲で青い光が溶けたのを。
死角がない? 冗談じゃない。その“矛盾”、〈エッジレス〉で突き破ってやる。
〈チルドレン〉がバリアーを発生させ、攻撃時には解除されると察してからの彼の行動はさらに速かった。
誠は我を失っていた。まるで覚醒因子に操られているように、生存本能に導かれるように、戦闘行為に身を投じていた。闘雀人を恐れずか、今一度ミサイルをやり過ごすと、あろうことか〈チルドレン〉の目の前にその姿を晒した。彼の挑発に応じたのか、〈チルドレン〉が第三射を放ったその瞬間、縦横無尽に駆け巡る赤い軌道が巨体を包囲した。
あらゆるセンサーを駆使しても、赤い轍を描く少年を捉えるには一歩遅れていた。騒がしい駆動音が亀の焦りを正直に表していた。
苦肉の策、あるいは奥の手か。〈チルドレン〉の甲羅から見慣れないシルエットの兵器が姿を現した。爪を寄せ集めたような銃口に光が産まれたその瞬間、誠のすぐ横を光の帯が駆け抜けた。光の軌道は地面に、そして背後の林立したコンピューターに、果ては天井にまで深く鋭利に刻まれた。
レーザー光線か。バリアーに用いた光線を偏光したか。いや、その逆か。誠はすかさず〈MT〉を操作して、検索をかけた。冴えた頭は、すぐに答えを導き出した。
雪町セイギ。組織の英雄にして、《韋駄天》の前発現者。彼の死因は、誠が思ったとおりだった。彼はレーザー光線と見られる攻撃を受け、両足を切り落とされ、脇腹を裂かれて死亡していた。《韋駄天》の治癒能力であっても、その致命傷を癒すことはできなかったらしい。
“その両足を根元からバッサリ切り落とせばいい”
ケンの言葉が蘇った。英雄の息子がそんなセリフを口にした。
父親の名誉を守るために、息子は口を穢したのだ。それがどれほどの苦しみであったか。どれほどの悲しみであったか。どれほどの覚悟の表れだったか……。
誠の赤い双眸から、一筋の涙が零れて落ちた。
雪町セイギがどのような人物だったかは知らない。しかし酒顛達が尊敬し、ケンが愛したくても愛せなかったその男は、決して殺されていい男ではなかったはずだ。“世界のため”に必要な人物であったはずだ。人を殺め、支配するためにしか利用できない兵器に、科学者に、奪われていい存在ではなかったはずだ。
第二射の充填が開始されている。誠の足は、すでに動き出していた。
〈TARGET-LOST〉――遂に〈チルドレン〉の全てのセンサーが誠を見失った。瞬間、巨体が前のめりに転倒した。脚部まで滑り込んだ誠が〈エッジレス〉によって左前足を圧し折ったのだ。
「邪魔をするな」
心火を映す赤い眼球を煌かせ、〈チルドレン〉の蜘蛛の複眼のような無数のカメラレンズに〈エッジレス〉を突き立てた。
「託されたんだ。“オレ”がやらなきゃならないんだ」
知ったことかと亀は甲羅から再びミサイルの射出シーケンスに入った。加えてレーザー機銃のみならず、重機関銃を起動させ、全ての照準を誠一人に集中させた。
レーザーポインターが細い体躯を赤く彩っていく。〈チルドレン〉が放つ無機質の殺意を受け止めて、誠は一歩踏み出した。
力強いそれは床を砕き、辺りに凄まじい突風を巻き起こした。飛翔するミサイルも火を噴く銃口も、光の帯でさえも、すでに疾走した彼の残像を食い潰すだけだった。
時が止まったような感覚にある早河誠の額と脳裏、そして右手の小指にはほのかな熱が宿っていた。それは今し方仲間達から託された想いだけではなく、名も知れぬ少女との契りによるものでもあった。
――帰るんだ。
記憶の部屋は錠を下ろされている。それでも固く閉じられた扉の隙間からは記憶の雫が漏れ出している。小指でそれを掬い上げた。涙のように温かい雫だった。
誠は駆けた。
少女のもとへ帰るため、決して足を止めなかった。
それが今の彼にできる、全てだった。
息が切れる。足がもつれる。
フットライトだけで照らされる薄暗い通路を、メギィドは懸命に逃げていた。
後方の闇と、前方の小さな光。遠ざかる恐怖と、近づく希望と思えば、薬漬けの老体もどこか軽く感ぜられた。
ふと笑みを零すと、若い男女の悲鳴が思い出された。
出張のため、入国審査を経ずにフロリダの東海岸に到達した直後のことだ。人目に触れぬ内に、煩わしい二人の護衛も、連れてきた三人の部下も護身用にと持たされていた銃で撃ち殺した。“本当の部下”に事前に用意させていたヘレティック製のハリアーⅡに乗り込み、この島へと飛ばせた。
銃を突きつけた時、彼らは何故だと何度も問うた。
護衛を撃つと、まずはベルノードを殺した。彼は化学の分野で面白い発想を持っていた。女などに現を抜かしていなければ、もっとその才能を活かせたに違いない。
次にサーシャに死んでもらった。美しい顔を血で濡らしている様は妙にそそるものがあった。研究生活のために封じてきたリビドーが刺激され、思わずその唇を貪った。彼女は機械工学に長けていた。
最後にマルコを撃った。何度も何度も撃った。彼は兵站部技術開発課の中でも飛び抜けて優秀で、全ての分野に精通していた。それでも自分よりも劣っていたが、日頃からその若さ故の快活さは脅威だと感じていた。何より、UAVのブラックボックスにかけていた何重もの封印の悉くを解除したのは彼の力があればこそだった。
彼さえいなければ、こうまで追い詰められることはなかったと思えば業腹にもなる。
三人とも非常に優れた科学者だった。《ギフテッド》の名に相応しい若者達だった。故に禍根を断つため、死んでもらった。
全ては〈ユリオン〉のため。我が夢の成就のため。
早河誠は組織を裏切ったことを知っていたようだった。焦らず〈AE超酸〉を持ち出していれば、死体を抹消できていたはずだった。そうすれば“連中”だって見放したりはしなかったかもしれない。
そもそもはバーグの出現が歯車を狂わせた。バーグが早河誠の拉致など求めなければ、こんなことにはならなかったはずだ。
光が近づく。メギィドがそれを自らの手の内に手繰り止せんと腕を伸ばしたその時だった。背後の、固く閉じたはずの扉が音を立てて壊された。
振り返り、〈MT〉の暗視機能でよく見れば、早河誠があの《韋駄天》特有の生理学的反応らしいルビーの瞳をたたえて、こちらを真っ直ぐ睨んでいた。兵士になったばかりのはずの彼が、あの〈チルドレン〉を単身で黙らせたらしい。
〈MT〉で、監視カメラを積んだNAVを動かし〈チルドレン〉の状況を確認した。全ての足が半ばまで裂かれていた。さらには設計当時から懸念していた、下腹から見える動力パイプを分断されていた。
何より脅威に感じたのは、〈チルドレン〉の装甲材に使っていた世界最高硬度の合金である〈オリハルコン〉が、その一〇分の一程度の硬度である〈アダマンチウム〉製の〈エッジレス〉で破壊されたという事実だ。
自分が生み出した最高の金属が、赤の他人のくだらないそれに敗れたのだ。
全ては、《韋駄天》が齎したこと――
「ば、化け物か……っ!?」
罵られる誠は、熱の篭った頭で叫んだ。
「〈ユリオン〉は何処にあるんですか!?」
老骨に鞭打って逃走を続けるメギィドは、「知らんよ!」と答えながら指を鳴らした。
走れば体力を消耗する。それはセンスと呼ばれる超能力であっても同じことだ。誠は全身を苛む激痛に屈し、片膝をついた。
直後、彼の背後で〈チルドレン〉が息を吹き返した。身動ぎし、狭い通路の入り口にその巨体を捻じ込んだ。腰を抜かした格好の誠だったが、今更何ができるとそれを睨んだ。
できる。そんな風に答えられたような気がした。〈チルドレン〉が赤く輝いた。瞬く間に膨張するその光は誠諸共包み――
背後で起きた赤い化学反応にメギィドは狂喜した。振り返ると、そこ一帯が同心円状に溶けてなくなっていた。〈チルドレン〉に仕掛けていた〈AE超酸〉が起動したのだ。
「フハハハッ、悪いなケン・ユキマチ! “《韋駄天》殺し”の業は、この私が引き続き背負わせてもらう!」
爆風に背中を押される中、〈AE超酸〉の発明者は両手を広げ、時折興奮する自分を戒めるように頭を押さえ、この言い知れぬ喜びを全身で表現した。
「愚かしくもドウジ・シュテンは豪語していたがな、来るべき新時代に相応しいのは、身体機能の異常発達などではない! 私の脳にはノーマルや武闘派共にはない、大規模な余剰領域が付随されている! 解るか、神のみぞ持つことを許された力の奔流だ! これこそが今日まで不可能とされてきた理想の全てをこの世に創造できる、高次元の頭脳だ!」
出口を示す赤い常夜灯が見えた。
「そうだ、私は異端者などではない!」
ここを抜ければ〈DEM〉搭載艦に乗って逃げ延びることができる。ここを抜ければ――
「私はっ、私がっ、私こそがっ、〈恵まれ(ギフテ)っぶふぅっ!?」
何かにぶつかって、鼻が潰された。尻餅をついて、顔を上げる。
途端、記憶が呼び覚まされた。二〇年以上も前、裏世界で広まっていたある噂があった。
“――彼を見たら最期”
“――光を得たルビーのように輝く瞳と出逢ったら諦めろ”
出逢ってはいけない赤い眼光がそこにあった。直上から降り注いでいた。
逃げなくては。諦められるものか。
私には約束がある。果たすべき約束が――
「降伏してください。〈ユリオン〉なんて物は、この先ずっと必要じゃないんです!!」
誠は〈エッジレス〉の切っ先を哀れな老人に向けた。彼は無傷だった。正しくは、負った手傷のいずれも全て、《韋駄天》の副次効果である劇的なスピードの治癒能力によってたちどころに回復したのである。
狼狽えるメギィドだったが、往生際悪く白衣からピストルを取り出して撃った。
覚醒因子が活性状態にある今の誠の目には、そんな動作は止まって見えた。引き金が引かれる前に回避し、すぐにメギィドの背後を奪っていた。
遅れて引かれたピストルの銃口から集束された光が放たれて、〈オリハルコン〉製の壁を焼き切った。
「わ、私は、私はまだ、殺されるわけにはいかないっ!」
「ボクは、誰も殺さない。皆と約束したんだ、人殺しにはならないって……!!」
ハハッとメギィドは笑った。悲壮な顔をしながら誠を否定した。
「無理だなっ。貴様はすでに、ここの者達が死に逝く様から目を伏せてきたのだろう!」
「だからこそボクは、あの人達に人殺しを止めさせるために走らなくちゃならないんだ」
「詭弁を言ってなぁっ!」
再び銃口を向ける老人の手を、〈エッジレス〉が叩き折った。
絶叫がトンネル内に充満する中、誠にはどうしても訊いておくべきことがあった。
「ケンさんのお父さん、組織の英雄、雪町セイギさんを殺したのはアナタなんですか」
「だったらどうしたぁっ!!」
「そんなアナタが、どうして組織に潜り込めたんですか」
「話すことではないな!!」
「〈チーム・イクス〉という部隊がアナタの人体実験の犠牲になったというのは――」
「大袈裟なのだよ、貴様らは!!」
青筋を立てる誠に怯えつつも、メギィドは舌を動かした。
「使い古された論理には、得てして真理が秘められているものだ。犠牲失くして、繁栄など決してあり得んのだよ!」
「アナタはどうかしている……。ヘレティックのためと言いながら、その同胞さえも自分の研究成果に利用し、使い捨てるなんて。正気の人間のすることじゃない!」
「人間ではないからなぁっ! それに私にとってあの組織など、一実験施設でしかなかった。敵兵士をどう扱おうが勝手だろう!!」
誠は〈エッジレス〉を醜い男の首筋に押し当てた。
「それがアナタの本心なんですね!?」
「き、貴様が羨ましいよ、マコト・サガワ。本心からそう思う……!」
「何?」
「記憶喪失、結構じゃないか。私もそのように便利な障害を患いたいものだったよ。そうすれば日々、メルセデスをはじめ、私の過去をセンス一つで暴ける連中の影に怯えなくて済んだというもの……」
メギィドは〈エッジレス〉に押しやられ、仰向けにさせられた。赤い眼光が迫り、「アナタにボクの何が解るんだ!? ボクは好きでこんな風になったんじゃない!!」
「貴様にも私を理解することなどできはしない。私は“あの日”、死ぬはずだった。“奴”に唆されさえしなければ、こんなつまらん結末に付き合うこともなかった」
「“奴”って誰だ!」
「知れば地獄を見ることになるぞ。それは“終末の日”への第一歩だ。“奴”が求めているのはそういう世界だ!!」
互いの鼻息が交じり合う。怒りから噴き出すそれが空間に残響する。
最中、メギィドの〈MT〉に通信が入った。指をわずかに動かして応じると、変声機を通した声が呼びかけた。
『博士、今日までご苦労様。二重生活は如何でしたか?』
「誰だ貴様は……? バーグ、いや、“奴”の仲間か」
『もう誰でもいいじゃないですか。どうせアナタはそこで死ぬんですから』
「まさか、私にも“アレ”を仕掛けておるのか!?」
『当然じゃないですか。ご自分だけ特別だとでも? 冗談にしては面白い』
「誰と話しているんですか!」
誠の声を聴いたか、通話相手は、『もしかしてお取込み中ですか? てっきり逃げ果せているものとばかり……』
「私の〈ユリオン〉を何処へやった!?」
『だから、今から死ぬ人に話すことはないですって』
「イイ度胸だ。こうなれば捨て鉢だ、貴様らを組織に売り渡してやろう!」
『ご存知ないんですか? “アレ”の起動条件は、“秘密の暴露”です。特定の情報を敵に話そうとすれば、その際に発する特有の脳内物質が引き金となり、裏切り者を死に至らしめるのですよ。アナタ方のような手足を縛るのに、これほど都合の良いセンスはない』
「ホッホ、勝負をしようか……?」
『ホント、今日はどうしたんですか博士。面白過ぎるじゃないですか』
メギィドは青白い顔を誠に向けた。冷汗交じりの笑みを浮かべ、「マコト・サガワ、よく聞け!」と彼の腹を蹴って押し倒した。震える膝を立たせた老人は、白衣の内ポケットから注射器を取り出した。
「概ね貴様の言うとおりだ! 私はただひたすらに世界が憎い! 〈ユリオン〉を、“彼女”を奪ったこの世界がどうしようもなく!!」
「“彼女”……?」
「かつて私にも守りたい人がいた。私が貴様に抱いた共感や嫉妬に嘘偽りがなかったということだよ。ホッホ、野性的直感も馬鹿にはできんな」
「メギィド博士、アナタは……」
「ノーマルもヘレティックも私にとってはどうだっていい! “彼女”と交わした“約束”、そのたった一つだけが、私の“真の存在意義”だった!!」
男は注射器の針を自らの胸に突き刺した。内用液を体内に流し込みながら、焦燥に濡れた瞳を少年に向けた。
「“あの日”、私を唆したのはっ!」
男の腹が、足が、肩が、こめかみが、別の生き物のように大きく脈動しはじめた。
しかし男は耐えられると思った。最後の手段として調合しておいた薬の効果によって、たった一言を告げるくらいの猶予は稼げると。
「そそのっ、かしたのはぁっ!!」
『あ、言いそびれていました』
男の喉が破裂した。馬鹿なと動転していると、『“アレ”の起動条件には、“発動者の任意による起動”というのもあるんですよ。しかも、部位も、範囲すらも選択できます』
膝から崩れ落ちる男だったが、何とか倒れぬように最後の力を振り絞った。
『つまりですね、こういうこともできるんです。すみませーん、次は耳お願いしまーす』
「な、あ……」
『〈ユリオン〉、存分に使わせていただきますね。では、サヨウナ――』
両耳が弾ける音に紛れ、小さな爆発音が聞こえた。赤い水溜りに、〈MT〉の破片が浮かんでいる。
朦朧とする意識の中、不意に見えた懐かしい人に手を伸ばした。彼女は、幼くも美しかった彼女は、八〇年の刻を経ても尚、男の記憶の中で鮮明に息づいていた。
羨ましかった。記憶喪失の少年が、心の底から。できることならやっていた。人為的に記憶喪失を行なえるのであれば、失う記憶を選別できるのであれば、これほどご都合主義なこともないだろう。
でも、できなかった。全てを投げ打ち、“悪魔”に縋ってでも夢を果たそうとしたが、手段を選んでしまっていた。愛する“彼女”を忘れる勇気だけは持てなかった。
「……!! っ、っ……!! っ!! ……っ!!」
少年は〈エッジレス〉を手放して、男の手を握った。
柘榴が割れた。また目の前で、惨たらしく耳につく音で割れた。
固く握り合った左手だけが、人らしい形を残していた。
疲れ果てた少年は昏倒した。
無意識に涙が零れたのは、分かち合うことができなかったからだろうか。