〔一‐3〕 記憶の虜囚
「博士、始まるようです」
部下からの耳打ちに、博士と呼ばれる白頭翁は安楽椅子の上でわずかに口角を上げた。窓の向こうに茫洋と広がる大海を眺め、コーヒーで目を覚ましているところだった。
「上手くいくでしょうか」
「可能性はゼロに等しい。しかし件の情報屋はえらく自信があるようだ」
「何者でしょうか、気になりますね」
博士は答えず、また一口含んで、ミルクと砂糖でほどよく和らいだ苦味を舌の上で転がした。
部下は一礼すると踵を返した。彼の背中がドアの向こうに消えると、博士は細めた双眸を再び窓に向けた。くっきりとした水平線で分かたれた二色の青が美しかった大パノラマはすっかり消えてなくなっていた。代わりに表示されたのは、人体のCGモデルである。各部に注釈があり、起立した博士はそのうちの一つに触れた。
窓ガラスの映像は彼の指示に応じ、新たな映像を表示した。〈Profile of Makoto Sagawa〉と題されたその個人情報には、学生服を着用した少年の証明写真が添付されていた。
博士はその容姿から視線を転じ、国籍を確かめた。
「日本人……」
カフェインの大脳皮質への作用か、思考が冴え、脳裏にいくつもの言葉や情景が駆け巡っていく。その内の一つがいやに彼を苦しめて、年老い凝り固まった表情をわずかに歪ませた。
過去に縛られている。その事実が彼から平常心を取り上げようとしていた。
いいや違うと反駁の暗示のつもりで残りの一口を飲み干した。鼻から抜けていく香ばしい香りで動悸を抑え込む最中、少年が患う機能障害に目がいった。
「共感、いやむしろ嫉妬というものか」
堪らず、自嘲した。久しく覚えていない感情だった。