〔七‐4〕 約束
《高精度透視》。
それが清芽ミノルのセンスである。レントゲンやCTのような、X線を用いた断層撮影をせずとも肉体の隅々まで透視できるそのセンスは、彼の外科医としての能力をより引き立たたせている。
彼の腕の中、メルセデスは上体を起こすと一点を見つめてぼんやりと呆けていた。
「脳に異常は視られないが、安静にしたほうが良い」
「ご、ご心配なく、キヨメ先生。一年振りでしたので加減を間違えてしまっただけです」
我に返った彼女は、掴んだ情報を整理するように深く目を閉じてから酒顛を見た。息を呑む彼は未だに誠を拘束し続けている。彼女はその太い腕に触れ、「……シロ、ですわ」
その一言で、臨戦態勢に入っていたケンがそれを解き、ウヌバも炎と氷を鎮めた。
何が起きたのか分からなかった誠だったが、「良かったわね、マコっちゃん!」とエリが嬉々とした面持ちで抱き締めてくれるので、自分にとって喜ばしいことだと理解できた。
「で、どんな味だった?」
「と、トラウマの味です……」
「まぁ、イイ表現♪」
メルセデスが美人だったから良いものの、もしそうではなかったり、同性であったりすれば、トラウマどころか再起不能。首を括ってもおかしくないほどショッキングな出来事だったに違いない。
軽くパニック状態にある誠は、非常に運の良いことなのだと思い込もうとしていた。
そんな彼の目を覚まさせるかのように、「シロには違いありませんが」とメルセデスは言葉を濁した。その煮え切らない態度に、「何よー。まだ何かイチャモンつける気ぃー?」とエリはじっとりとした目を向けた。
「ですが、こんなにも空っぽな頭を覗いたのは、ナマケモノ以来ですわ」
この時の誠の心境を漫画やアニメとして表現するならば、用いられるオノマトペは“ガーン”だか“ズゥーン”だかになり、その情景描写には頽れる誠に黒い雨が降り注いでいるような縦線を、上から下へのハイトーンのグラデーションが彩るのだろう。その様子をエリとケンが遠巻きに眺めながら失笑している図というのは、おそらく二コマ目だ。
そんな不憫な彼を、「ごめんなさいね」とメルセデスは抱き締めた。さっきまでの“つっけんどん”の態度はどこへやら。捨て猫でも拾ったかのように、慈愛に満ちたその瞳は潤んでおり、運命の出逢いでも果たしたかのごとく頬を染めている。
「早っ、ツンデレ早っ!」
「先程から喧しいですわね。この子に妙なことを吹き込んだら承知しませんわよ!」
ねー? と淑女は誠に同意を求め、首を傾ける。
彼が彼女を多重人格の持ち主だと思い、戦慄したのは想像に難くないだろう。
「何自分の子供みたいに言ってんの、この年増!? マコっちゃんはね、これから某梨の妖精をも超える組織のイメージキャラクターとして売り出すんだから、そっちこそそのガッチガチの性格うつさないでよねっ!」
「いや、梨のアイツは非公認だろ」
「お黙りっ、ぼくさーケン! アンタはこのイヌ耳でもつけて全国スパーリング行脚でもしてろっ!」
「ウマいこと言ったみたいな顔してんじゃねぇよ! せめて着ぐるみ用意しろや、中の人全面に押し出すゆるキャラなんて聞いたことねぇわ!」
まさしく犬も食わない痴話喧嘩で騒がしくなる中、「あの、メルセデス、さん」と誠は尋ねた。すると彼女は居住まいを正して応じた。
「……私のセンスは、《メモリー・ハック》。私の傷口を他者に舐めさせる――つまりは粘膜と接触させることで、他者の記憶や知識を閲覧できるのです」
「記憶や知識……。ど、どうだったんですか! ボクの記憶は視れたんですか!?」
メルセデスは頭や耳を両手で押さえ、「さ、騒がないでください、頭に響きます!」
「マコト君、落ち着こう。彼女は逃げも隠れもしないよ」
清芽らしい優しい口調で諭された誠は、正座して彼女の口が開くのを待った。
メルセデスは一つ溜め息を漏らすと、彼の不安げな瞳を覗いた。
「裕福には見えない。けれども特別貧しいわけでもない、日本国のごく普通の家族。私にはそのような光景が視えましたわ。アナタの視界を借りてご両親を視れば、どれだけ幸せに満ち溢れていたかということも窺えました」
派手なシャツを着る男女の姿が遠退いていくと、次に映ったのは日本の学生服を着た女生徒だ。容姿は分からない。しかしガールフレンドだろうというのは想像に難くなかった。彼女は誠に未練を持たせるのを良しとせず、「同世代らしき異性が視えましたが、心当たりは?」と言葉を選んだ。
一考するものの、やはり彼は覚えがないらしい。もしかすると病室を何度も訪ねてきた少女がそうなのかとも思ったが、確信を持てなかった。
「アレは祖母でしょうか、病院で息を引き取られたのですわね」
「そうなのか、マコト?」
その話は酒顛の耳には入っていなかった。昨日の誠は、帰りに一言も語らず、ただひたすらに膝を抱えて顔を埋めていた。だから酒顛達は、彼が組織に参加すると言ったことが信じられなかったのだ。
「はい。まだあやふやですが、あのお婆さんがボクの祖母だという認識は、あります」
「おそらく時系列で言えば、その後に異性との記憶がありますわ。そして、そして……」
メルセデスは額を押さえた。誠も思い出そうとすると同じようになり、互いに眉間に深いシワを寄せた。
規則性のない、断片的なスライドショー。
そんなものが、両者の頭に過り――「“黒い手”。アレは、何ですか? そこから記憶らしいものが途切れて、次に視えたのは日本の病院のベッドです。それからの記憶は我々が見聞きしたものばかりで、バーグと思しき人物は見当たりませんわ」
「分かり、ません。思い出そうとすると塞き止められるんです。そして頭が痛んで――」
「そう、塞き止められる感覚ですわね。こちらに向かって伸びてきた、あの“黒い手”そのものですわ」
「よく分からないけれど、その“黒い手”というのが記憶喪失と関係しているのかな?」
清芽の問いに、二人は揃って首を横に振った。言葉にして答えたのは、メルセデスだ。
「断ずるのは早計ですわね。しかし彼が巻き込まれた事故は、単なる交通事故ではない可能性が高いように見受けられます」
「事故……事故……。ダメだ、まだそれがよく分かりません」
「焦ることはないさ。記憶を取り戻せるということは解ったんだ、これから時間をかけて解決していこう」
はいと清芽に答えた誠は、酒顛に向き直って、「バーグって、誰なんですか。それに、〈ユリオン〉っていうのにも、ボクは関係があるんですか?」
「マコト・サガワ。それについては入隊手続きの後にしましょう。ボスの許可と書類を取りに行きますので、ここでお待ちなさい」
メルセデスは威勢よく起立するも、立ちくらみで踏鞴を踏んだ。酒顛がそれを支えると、二人は部屋を後にした。
「……入隊、するのかい?」と清芽は、座ったままの誠に問うた。
「キミはまだ子供で、重い障害を患っている身だ。考え直せないかい?」
「ありがとうございます、先生。でも、もうボクには、これくらいしか選べませんから」
「そんなことはない。戦わなくとも、僕やメルセデス君の助手になることはできる。他にも組織には沢山の仕事がある。戦うことだけがヘレティックの全てじゃないよ」
「それじゃあ、この足は役に立ちません」
「その足は戦いにしか使えない、本当にそう思うかい? それは、兵士の理屈だよ」
「兵士の……?」
「そうさ。キミも昨日理解したはずだ。裏世界も血で血を洗う争いに満ちている」
生臭い血と、硝煙と、そして吐瀉物の臭いが鼻腔に呼び覚まされる。
「ヘレティックのセンスと呼ばれる力が、その特異性から兵器に転用されるのは仕方がない。だけど僕らは兵器そのものじゃない、血の通った人類の一流れだ。それなのにキミは今、自らを力という寂しい単位に規定しようとしている。それは――不幸だ」
業を背負うには若過ぎる。人を殺めてしまってからでは遅過ぎる。
清芽は、軽率な誠に思い留まってほしかった。
全てのヘレティックが戦いに――殺しに慣れてしまった時、ヘレティックは名実共に怪物へと成り下がるだろう。そのような未来には、光も、正義もない。
「約束、できますよ」
誠は落ち着いた声を清芽に届けた。その真っ直ぐな目は、清芽の懸念を穿ち、心から抜き取ろうとしていた。彼は小指を立て、「殺しません。誰も、殺したりしません」決意が潰えることのない光の泡になって、彼の双眸で瞬いている。
センチメンタルだとは解っている。それでも彼と雪町セイギを重ねてしまう。面影ではなく、彼と同じ――青臭く高潔な意志が、そうさせる。
「ボクは、目を背けて逃げることのほうが、卑怯だと思うんです」
雷を打たれたような衝撃を受けて、押し寄せる戦慄に目が眩みそうだった。
しかし、そんなことは二〇年以上も前に嫌というほど自覚している。他人の死を理由にして、前線から逃げ出したあの時から、ずっと……。
ただ、「そうだね、そうかもしれないね」そんなことが、彼から自由意志を剥奪していい理由にはならない。現実逃避した自分が、他人を縛るなど滑稽な話なのだ。
「辛いことがあれば、いつだって、何だっていい。すぐに話してほしい。記憶のことについても、引き続きサポートさせてもらうよ」
二人は小指を絡め、クラシカルな約束を交わした。
彼の、夢物語のような抱負が叶うはずがないことを、過ちの日を回避できるはずがないことを、解っているのに口を拭う自分はどうかしているのかもしれない。
しかし清芽には、口を挟んでいい資格が一つもなかった。
情けない自分には、少年一人を薫陶できるほどの徳がない。
清芽は指を離すと、少年に背を向けて立ち上がった。「ありがとうございます」と邪気の欠片もない笑顔でそう言われると、“卑怯”な自分が疎ましく思えて仕方がなかった。
去り際に、若い兵士達に一瞥をやった。彼らは快く首を縦に振って見送ってくれた。
どこか寂しげに見えた清芽の背中がドアの向こうに消えると、誠は立てたままの小指に目を落とした。ワケもなく差し出していたが、未だに残る熱には、とても大切な何かが残した懐かしさがあるような気がした。
彼の背中を見つめるケンの耳に、小さな機械音が聴こえた。転がる壷の中に盗聴器を見つけ、メルセデスの二段構えにほとほと呆れ果てつつ、握り潰した。
掃除をしよう。
ケンがそう思ったのは、言うまでもない。
「ご自愛ください、メリーさん」
「その呼び名は止しなさいと言っているでしょう」
メリーと呼ばれるその女は、肩を貸してくれている巨漢の腕の皮を抓った。
「これから半年、アナタはセンスを使えない。アナタというカードを切るには、まだ早過ぎたのではないでしょうか」
「去年発動した時、キヨメ先生は年に一度にしようと仰いましたわ」
センス《メモリー・ハック》は精神と肉体を蝕むほどの、強烈な反動を伴う。何故なら、他者が知覚した――見たこと。聴いたこと。触れたこと。嗅いだこと。味わったこと。話したこと。思ったこと――五感だけでは語り尽せない感情や思惑や欲望など、一切合財の膨大な情報を、その身一つで瞬く間に受け止めなければならないからだ。
下手を打てば自我を失うこともある。他者に成りきってしまうこともある。
若い頃は有り余った体力と好奇心から、それらを毎日のように受け止めていたが、今ではもう、このように一度やるだけで歩くこともままならない。
清芽はその理由を、歳を重ねるごとに低下する体力と、逆に蓄積されていく経験と知識、そして狭隘になっていく精神にあると述べている。死の危険があるとして、去年になって半年に一度という制限から、年に一度とステージを引き上げられた。
「私も命懸けなのです。特に先程は、彼がバーグの手先である可能性がありましたから余計に肝を冷やしました。ですからアナタも妙なことを考えないように願いますわ」
もしもあの少年がバーグの尖兵であったら、彼はその足でたちまち一同の知覚から消え、彼らに反撃一つ許さぬまま惨殺していたことだろう。そしてその留まらぬ殺意はボスにも及び、物の数分で、この基地を沈黙させていたことだろう。
そういう理不尽な力が、《韋駄天》にはある。
「これで、〈エンジェル・ヴォイス〉は遂行できたということでよろしいですか」
「……えぇ。ですが監視は続けてください。彼は引き続きアナタ方に預けますが、それは《韋駄天》の暴走を止められる可能性があるのがアナタ方しかいないからです」
よろしいですわね。
メルセデスの強い眼差しに、「了解しました」と酒顛は笑顔を見せた。
それでも彼女は余計に深まった謎に苦心しているような複雑な表情を浮かべた。
気を紛らせようと、「メリーさん、太りました?」
彼女の目が光った後、巨漢は独り、しばしの沈黙を余儀なくされた。