〔七‐3〕 博士の采配
兵站部研究区画の中枢に、第一技術開発室はある。
「メギィド博士、サインをお願いします」
実行部隊と違って、まるで危機感のないような背広を着るその男は総務部の所属だ。彼はメギィドに一枚の有機ELフィルムを提示した。メギィドが所定の手順でサインを済ませると、彼は足早に去っていった。
その様子をこっそりと覗いていた清芽ミノルは、「渡米されるのですか?」と如才ない笑みで尋ねた。
「ホッホ、そうなのだ。航空宇宙の国際討論会がフロリダであってな。以前から決めておったのだが、中々許可が下りんでヤキモキしておったところだ」
組織は原則として表世界との接触を禁じている。
しかしそれは個人の独断による接触についてであって、メギィドのような有識者が組織の展望を計るために行なう――あくまで仕事、あくまで出張であれば罪に問われることはない。今のように事前の申請が不可欠だが、組織の規律を守るために必要な措置と言える。
上層部の厳正なる審議の末に、出張を認められたらしい彼は胸を撫で下ろしていた。
「ご出立は、いつ?」
「明後日だ。マルコとベルノード、サーシャも連れていく。期間は一週間だ」
渡米の許諾を得られたのだと知った三人の若者達はハイタッチを交わして喜んでいる。
「では、メイサン君が代理責任者ですか」
「じ、自分では力不足ですよ」と、八の字の眉毛がデフォルトのメイサンという青年は現れた。彼はしきりに目を泳がせて、「ま、マルコさん。残っ、残って頂けませんか?」
しかし当のマルコは、「嫌だね、俺だって偶には外の空気を吸いたいんだ」と指の一つ一つにリングを嵌めた大きな手で彼の要望を突っ撥ねた。
「そ、そんな、そんなの自分も同じですよ。荷が重す、重過ぎます……」
けんもほろろに断られたメイサンは頭を抱えた。
「この市場調査が年に一度できるかできないかという貴重な機会だというのはお前も知っておるだろう、メイサン」
「で、です、ですが、お三方までお連れしなくても……」
「彼らを連れていくことは随分と前から決めておった。次期責任者であろうマルコには明確なビジョンを、彼ら二人にはそれを支えてもらうための共通認識を養ってもらいたいと思っている。そのためには、数字の羅列から成る仮想空間から得た情報だけでなく、現実世界の実際的な最高水準を的確に把握することが急務なのだ」
「メイサン君。何も留守中、全ての責任をキミが背負い込む必要はない。微力ながら僕もサポートさせてもらうよ。いや、僕だけじゃない、残った皆で助け合おうじゃないか」
研究者一同が笑顔で親指を立て、メイサンを勇気づけた。彼はそれでも自信なさげに肩を窄めていたが、その表情はどこか安堵しているように見えた。
「メイサン、留守を頼む。お前ならやれる。何せこの私が一目を置いているのだからな」
「ほ、本当、ですか……!?」
あからさま過ぎてお世辞にもならないようなセリフに妙な食いつきを見せるメイサンの意気に押され、メギィドは苦笑した。
その程度で感涙してしまう純情な彼に皆が唖然としていると、「俺の留守中、ファンクラブのことは頼んだぜ」とベルノードが言った。
「そ、そんな。自分は四番じゃないですか……」
些細なことにまで彼が狼狽していると、清芽の〈MT〉の着信ベルが鳴った。応じると、慌てた様子のエリの声が響いた。
「どうしたんだ、落ち着きなさい。……分かった、すぐに向かうよ」
清芽の表情が険しくなったので、「どうかされたんですか?」とサーシャが訊いた。
「メルセデス君が倒れたらしい」
どよめくラボで、マルコは逸早く気付いた。
「あの人が倒れたってことは、“アレ”を使ったってことですか?」
「そうらしい」と答えた清芽は、メギィドに一礼してから飛び出していった。
いつしかラボは、メルセデスの安否よりも失神の理由について喧々諤々(けんけんがくがく)と意見を交わし盛り上がっていた。しかし、「さぁ、諸君。UAVのブラックボックスの解析を続けるぞ」とメギィドが鶴の一声をかけると、一同は素直に作業に戻った。
間に合うか。
しきりに耳元に手をやる彼の独り言を聴いたメイサンは、彼の出張までに終わらせんとばかりの気迫でキーボードを叩くのだった。