〔一‐2〕 早河誠
肌で判るほどに清潔なベッドの上、白いばかりの天井は光って見えた。煤けた様子もないそれをぼんやりと眺めていると、「目が覚めたかい」と男の声が耳朶に触れた。
朝は頭が重い。少年がそれを知ったのは、昨朝のことだった。特に額の奥が妙にピリピリと痛む。錆びついて軋むように、痛む。
右手で顔を覆うようにしてから目を擦り、左手をついて上体を起こした。そこでようやく気がついた。昨晩まで寝ていたはずのベッドとはまるで違う。シーツも掛け布団も、清潔なだけでなく随分上質で心地好いことに。
周りを見れば尚更、一目瞭然だった。
昨日までも病院の個室で寝ていたのは確かだが、その内装とはまるで似ても似つかない。今いるここは、花瓶に挿された一輪の赤い花だけが際立って見える、真っ白というよりもまっさらな、とても簡素な一室だった。
「気分はどうかな」
起き抜けから早々面食らっている少年に、また男が声をかけた。
首を左にひねると、眼鏡をかけた優男が椅子に腰かけていた。白いシャツに青いネクタイ、白衣を羽織って、首からはこれ見よがしに聴診器をぶらさげている。端正な顔立ちから推し量るに、年齢は三〇歳前後に違いないだろう。
「アナタは……?」
少年は問いを搾り出した。
質問に質問で返す彼に嫌な顔一つしなかったその男は、短く笑ってから答えた。
「僕はキミの新しい主治医――清芽ミノルだ。そしてここはキミのプライベートルーム」
飾り気のない部屋を今一度見渡す。プライベートルームと言われてもすぐに実感を得られなかったのは、少年の感性が正常な証だったのかもしれない。
主治医を名乗る清芽というこの男は、「キミの名前は?」と如才ない笑みで問う。
「早河……誠、という名前“らしい”です」
誠少年は俯いて答えた。
自覚の薄い不明瞭な物言いに、「憶えていないのかい?」
「色んな人に訊かれましたけど、何も、思い出せません」
つまり、答えた名前も憶えていることを話しているのではない。知らされて、知っているだけだということだろう。
「間違っていますか?」
「いいや。キミは正真正銘、早河誠君本人だよ」
「よかった……」と心底から安堵した顔は目も当てられなかった。動揺する清芽だったが、椅子に深く腰を埋めて、「年齢は?」と何事もなかったように続けた。
「えと……分かりません」
「一六歳だよ。鏡は見たことがあるかい?」
「鏡、ですか?」
「キミは自分の顔を思い出せるかな。例えば、髪の色」
「……黒です、多分」
「自信を持って答えてごらん。瞳の色は?」
「く、黒……茶色、です」
「輪郭はどんな形かな」
誠は首をかしげて本気で悩んでいる。清芽が触ってみなよと促すと、初めは恐る恐る人差し指で顎のラインをなぞり、最後には両手で目や鼻の場所まで確認した。
「先生と同じような形をしていると思います」
「そうだね。僕とキミの輪郭は似ている。日本人らしい丸顔だ」
清芽がニッと笑うと、誠の表情から緊張が解けた。そして彼は手鏡を少年に渡した。
「そこに映っているのはキミ――早河誠君の顔で合っているかな?」
「……はい、コレはボクです」
誠の目に光が差したようだった。
清芽はまた微笑むと一冊のファイルを開いた。誠が中身を覗き込もうとすると、彼はそっと閉じてから言った。
「カルテは読んだよ。記憶喪失、確かなようだね。でも、安心しなさい。キミは自分の顔を思い出した。治療の第一歩としては上出来だよ」
「はぁ」と誠は浮かない返事をする。現状を理解できているかは不明な表情だ。
「記憶を失ったきっかけが何だか知っているかい?」
「事故に遭った、という話ですか? トラックに撥ねられたとかって……」
「そう。それも思い出せないかな」
「はい、全く。気付いたら病院にいました」
「なるほど」
「ところで、ここは何処ですか? 昨日とは違う部屋、ですよね」
誠は不安げな眼差しを清芽に向けた。
「あぁ、すまない。実は急を要することで、キミの同意を得ないままこちらの病院に移ってもらったんだ」
「病院を……? 夜のうちにですか」
「笹野先生」
「え……」
「キミが入院していた市ノ瀬総合病院で、キミを担当していた先生だよ」
誠の脳裏に、焦げたカマボコのような口髭を蓄えた医師の姿が過った。確か、アレが笹野先生。困ったねぇ、どうしようかねぇと、明確な治療方法を見つけてくれなかった、白衣を着ているだけのお爺さんだ。
「あの人は僕の恩師でもあってね。実は昨日、記憶障害を専門に扱っている僕に連絡があったんだよ、この病院で治療できないかとね」
清芽は笑みを絶やさずに続ける。
「本当は色々な手続きを経てからこちらへ移ってもらう手筈だったんだけど、事情が変わったんだ」
誠はぼんやりとした顔で小首をかしげる。しかし、清芽の次の一言で、その目は大きく開いたまま固まってしまった。
「テロが起きたんだ」
「テロ……? テロって、え?」
「大量に死傷者が出たんだ。周辺の大きな病院はなるべく多くの人を受け入れなくてはならくてね、市ノ瀬もその一つだったから比較的健常なキミにはこちらに移ってもらった」
清芽はタブレット型PCを彼に見せた。ディスプレイ上にニュース動画が再生され、そこかしこで炎と黒煙が立ち上る夜の東京は新宿区の様子を報道していた。
緊急速報と銘打たれたテロップは、確かに同時多発的にテロが発生したと伝えている。
「ど、どうしてそんな、テロだなんて……」
上手く言葉が出ない。動転する誠はテロップの“死傷者”という文字に釘付けになった。
「誰がこんな酷いことを?」
「分からない。だけどインターネット上でこんな話が出回っているんだ。“テロリストは誰かを探している”って。それがどんな人物かは分からないけど、テロを起こしてまで探しているんだから、きっと重大な何かがあるんだろうね」
さぁ、診察しようか。
そう言って清芽は聴診器を耳にかけた。
「どれくらいの方が亡くなったんですか?」
「さぁね、情報が交錯していてよく分からないよ。この規模だ、一〇〇〇人で済むかどうか」
ハイ、大きく吸ってー吐いてー。誠の胸に聴診器を当てて心臓や肺の音を聞く。リズムは速いが、妙な翳りは聞き取れない。おそらくテロの話を聞いて恐怖を覚えたのだろう。
「マコト君。テロも心配だが、キミはまず自分のことを第一に考えるべきだ」
「ボク、どこか悪いんですか? 確かに何も憶えていないですけど」
「いいや、キミは何の怪我もしていない。それは笹野先生も驚いていたよ。僕が言っているのは、他人の身を案じていられるほど健常じゃないということだよ」
清芽はカルテと同じファイルに挿んである事故現場の写真を見た。トラックが三叉路の股にある石塀に突っ込み、運転席がなくなるほどひしゃげてしまっている。周囲は、血の海になっている。
誠に見せて反応を窺うことも考えたが、それは今でなくてもできると判断し、そっとファイルを閉じた。
「笹野先生の所見どおり、キミは全生活史健忘の部分健忘――つまり自分に関わることのみを忘れ、それ以外の常識的な知識のみを憶えている状態のようだね」
「……先生。これからボクはどうすればいいんでしょうか」
「それは、記憶を取り戻すには――ということかな?」
「よく分かりません。きっとそうしたほうがいいんでしょうけど、意欲が湧かないんです」
少し鬱に近い症状が見てとれる。もっと錯乱しているほうが自然な気さえする。
伏し目がちの彼をジッと見つめた清芽は、おもむろに席を立った。
「運動しようか」
「運動?」
「そう、身体を動かすんだ。幸いどこにも怪我はないのだし、安静にしているばかりじゃあ気が滅入るだろう? どうせできるなら、元気が出ることをしたほうがいい」
誠の手を取り、有無も言わさぬまま外へ連れ出した。