〔五‐3〕 その一歩
――――地上までの距離に憎しみさえ覚える中、誠もまた思い出していた。
ケンとの決闘から一夜明けた今朝のこと。誠はエリから敗北の事実を知らされた。
『今日はお出かけするから、またコレに着替えてね。着方は分かるよね?』
彼女は笑顔で戦闘服を手渡した。外で待っているからと言って誠の病室から出た。
彼はしばらく立ち尽くした。自由を失った、こんな物騒な場所から飛び出せる千載一遇のチャンスをみすみす逃してしまった。こんなことなら、ケンに言われたとおり両足を切り落としていればよかったかもしれない。しかし――
『できるわけない、ボクに。そんな勇気、あるわけない……』
泣き伏せる少年の様子を、エリは《サーマル・センサー》で透視していた。淡く光る天井を仰いでいると、大きな影が横切った。正面に見えるアクアリウムを、リュウグウノツカイの類が通り過ぎたようだ。
『ねぇ。アナタがもし、願いを一つだけ叶えてくれる龍だったら、私は何てお願いするべきかな?』
リュウグウノツカイの類は何も告げぬまま、青黒い世界に消えていった。
エリは待ちぼうけを食らった。壁に凭れかかっているのも飽きてストレッチをしてみた。片足を上げて、その踵を壁につけたりして。実行部隊の同僚が通り過ぎると、軽く談笑した。皆それぞれに多忙のようだった。しかしこの本部にいる間は、どことなく漂うのどかな雰囲気に身を任せていられた。
『エリ、まだか』
酒顛からの通信だった。
『もうすぐです。時間、まだ余裕ありますよね』
『ケンの奴は痺れを切らして行っちまったよ』
『ホント、ヤな感じ』
『エリ。この作戦の後、話がある』
『この基地に“伝説の樹”なんて植えてませんから、告白は成就しませんよ』
『ケンのことだ』
頭を擡げるエリの脳裏に、病室の情景が浮かび上がった。誠が着替え終わって出てくる。エリは通信をカットして、現れた誠を笑顔で迎え入れた。
『うん、馬子にも衣装ってこのことだね♪』
誠は察知した。これは取り繕ったものだと。だがそれを指摘しないのは、もうどうなってもいいと自暴自棄になっているからだ。
エリは彼を連れてエレベーターに乗った。こうして狭い空間に二人きりでいると、あの偽テロ騒動を思い出す。当時はこんなことになるとは思ってもみなかった。
息苦しさから、『出かけるって、どこに行くんですか』と誠は問うた。
『戦場よ』
彼女はたった一言、そう答えた。
誠は腰を抜かしかけた。後ずさって目を白黒させた。『じょ、冗談ですよね……!?』と問い質すが、彼女は背を向けて、両開きのドアを見つめるばかりだった。
戦闘服を着せられた。その時点で気付いておくべきだった。でも、疲弊した誠の頭はもはや自分の見ていることも、聞いた言葉も、投じている行動すらにも、考えがまるで及んでいなかった。
チャイムが鳴ってドアが開いた。エリがカゴから降りると、待機していたウヌバという黒い巨人が彼女に何かを差し出した。赤く細長い、ゆるやかなカーブを描く物を二本だ。彼女はそれを慣れた手つきで両腰に一本ずつ差してから振り返った。
『アナタには現実を見てもらわなくちゃいけない。この世界の現実を。私達ヘレティックの、現実を』
それは刀だった。朱塗りの鞘に納められた、二振りの日本刀だった。
『行こう、マコト君』と酒顛ドウジが言った。自動で閉じようとするエレベーターのドアを押さえ、ずいと身を乗り出した。
このままではマズいと思ったのだろう、誠は酒顛の手を剥がそうと躍起になった。酒顛は何も抵抗しなかったが、決してドアから手を離そうとはしなかった。誠は必死の思いでエレベーターの閉扉ボタンを連打した。しかし――
『指紋を認識できません。データバンクに登録されていない可能性があります』
無感情な機械音声のアナウンスを聞いて、誠はその場に頽れてしまった。
『中途半端にはできない。ケンの奴はそう言ったよ』
酒顛は静かに語りかけた。
『我々もその意見に同意した。キミは世界を知るべきだ。しかと目の当たりにしてほしい、そうしてから選んでほしい。その足で進むべき道を』
『選ぶって。ボクにはもう、選択権はないんでしょう!? 昨日の勝負に勝てなかったんだ、自由になるには勝つしかなかったのに!』
『ではどうする! キミは死ぬまであの病室に引き篭もっているつもりか!?』
一喝した。酒顛は二の句が継げない誠の目をジッと見据えた。
『強くなれ、マコト。キミのその足――《韋駄天》にはそれができる』
『いだてん……?』
『釈迦の遺骨――仏舎利を盗んで逃げた捷疾鬼という足の速い鬼を、それ以上の俊足で捕らえたという神の名だ。組織はかつて、キミと同じセンスを持っていた男を知っている。彼は我々の歴史上最も強い男だった。世界を救った、英雄だった』
酒顛は生固い瞳で震える少年を捉え続けた。
『強くなって、もう一度アイツに挑め。俺達が恐れてしまうほど強くなれば、お前が表世界に帰っても、誰も手出しはできんだろうさ』
『チャンス、貰えるんですか……?』
是が非でも戻りたいらしい。
面白いと、酒顛は素直にそう思った。その反面、このままではいけないとも思えた。
『俺が責任を取る。それが、お前の拉致を担当した俺の償いだ』
エリは言っていた。拉致などという卑怯な真似はしたくなかったと。話し合ってから連れてきたかったと。命令で、仕方なかったと……。
動悸が激しい。それが妙に頭を冴えさせて、一つの想像を閃かせた。
この酒顛ドウジという男は、組織の意思に背こうとしているのではないか。それはきっと、重大な刑罰を科されることなのではないか。
『だがマコト、これだけは知っておいてくれ。責任を負おうとしているのは、アイツも同じだということを』
『ケンが、ですか?』
エリの問いに酒顛は答えなかった。
『その代わりと言っては何だが、キミも無責任な真似はしないでくれ』
『ボクが無責任って、何です』
思わず問い返していた。反抗心からではなく、ほとんど鸚鵡返しに近かった。
『キミが表世界に戻って、REWBSに殺されるのは構わない。だがその過程で、何の罪もないノーマルを巻き込むような真似はしないでほしい』
エリにも忠告されていた。偽テロ騒動の寸前に清芽ミノルから見せられた、東京でテロが起きたという偽映像についてだ。REWBSはそれを現実にしてしまう連中だと……。
あの時は組織こそがREWBSなんじゃないかなどと問い詰めていたが、こうして同じ言葉を語るエリや酒顛の目からは一切の嘘を感じ取れなかった。
自分達こそ正義だという色で満たされていた。
『すまない。本当にすまない』
酒顛は唖然とする少年に深く頭を下げた。そして跪くと、少年の肩に手を置いて言った。
『だが理解してほしい。俺達ヘレティックは、ノーマルのルールには従えない――異端者なんだ』
今ここで答えなんて出るわけがない。正義の所在を確かめることはできない。
では、どこで答えは出るのだろう。
そう考えると自然思いつくのは、皮肉にも心底関わりたくないと恐れていた、“戦場”に他ならなかった。
一朝一夕で臍を固めることなどできない。だが現実を、ともすれば“真実”をこの目で確かめたくて、誠は自分の足で――切り落とすこともままならないヘレティックとしての象徴で、狭いカゴから踏み出した。
“その一歩”がことのほか大きな意味を世界に齎したのは、随分と先の話だ――――