〔五‐1〕 Recollection-2
――――生活費はアレで足りると思うから、大事に使いなさい。
パステルカラーのマニキュアを主張させる細い人差し指が、小さな卓袱台を指していた。そこには茶封筒が一封置いてあって、中には銀行から下ろしたばかりのピン札が納まっていた。一〇人もの福沢先生を拝んだのは初めてのことだった。
並んで置いてある預金通帳と判子のことを言っているのだろう。無駄遣いはするなよと笑みを覗かせたのは男だ。
見慣れた男女が玄関先に立っている。彼らはペアルックのアロハシャツと短パンに、頭にはサングラスなんかもかけた格好で、これまたド派手で色違いのキャリーケースを足もとに並べていた。
普段からオシャレをしない人は、こうした過ちを起こしがちだというイイ例だった。
『なぁ、ヨーロッパに行くんだよな? パリとかフィレンツェに行くんだよな?』
呆れた様子でそう問いかけられると、『何か問題でも?』と男女は欧米気取りで肩をすくめた。
ふざけた彼らに息子の名前だけは言うなよと釘を刺すも、彼らは何がダメなのだとふざけるばかりだった。きっと、夫婦水入らずの海外旅行に浮かれていたのだろう。
夏の終わり。彼らは一週間家を空ける。その間、中学生かつ受験生である息子は留守を任された。
異論などなかった。いつもそれぞれにつまらぬ日常に追われていて、そんな中で商店街の福引きで一等を当てたのだ。たまには羽ぐらい伸ばさせてやろうというのが、一人息子ができるせめてもの親孝行だった。
早朝からくだらぬ話をした。耐震構造や防音処置なんてあったものではない古い木造二階建てのアパートではさぞや迷惑だったろう。
最中、父は言った。唐突に、隆とした態度なものの、息子の気持ちを顧みないように、大人の都合を嬉々として口にした。
『父さんまた、異動になった。東京だ。ポストも給料も上がるんだ。部長だぞ、部長』
母も息子も驚いていた。『さすがは私の旦那様!』と母はすかさず父の細い身体に抱きついた。一方、息子は一歩後ずさって顎を引いた。
『帰るって言うの、今更……?』
『良い頃合だし、家も買おうと思う。マコトは覚えていないかな、昔住んでいたお婆ちゃんの家。あの近くに良い土地が見つかったんだ、そこに僕ら三人の家を建てよう』
『キャーッ、マイホォームッ!!』
ハグの次はキス。息子――誠の前で恥ずかしげもなく、母はすっかり舞い上がっていた。
『ハハハ、だからマコト。お前は東京の高校を受験しなさい』
『勝手なこと言ってんなよっ、なぁっ!?』
憤慨する誠に目を丸くした母は、眉を顰めてから言った。
『マコト、何怒ってるの? アンタだって東京に帰りたいって、よくグズっていたじゃない。×××ちゃんと離れ離れはイヤだぁーって』
『それはもっと小さい頃の話でしょ!? 今じゃこっちのほうが友達多いんだよ!』
ようやく慣れてきたのに。向こうもこちらの言葉遣いに慣れてくれていたのに。
完成間近だったパズルを、物の見事にひっくり返された気分になった。
『じゃあアンタだけ、この狭いアパートに残るの!? 今日までセコセコとやりくりしてきたのは全部この時のためだって、アンタも解ってるでしょ!』
解っている。知っている。
父は大手グループ傘下の中小企業に務めるサラリーマン。
母はスーパーのレジ打ちなんかをしている非正規雇用労働者。
息子は地元の公立中学校に通う普通の受験生。
大阪に越してきて八年ほど経つが、経歴が変わったのは息子――早河誠だけだ。
他はあまり変わらない。大阪での、厚かましい人々に囲まれた生活に慣れたくらい。
そのくらい。その程度。引っ越したての頃を思えば、随分落ち着いたものだ。
せせこましいこの部屋で、三人は慎ましく暮らしてきた。
母は早朝から弁当と朝食を、パート帰りでどんなに疲れていても夕飯を作ってくれた。
父も仕事で疲れているのに、母の愚痴をよく聞いて、マッサージなどをしていた。
誠だって、料理はできないが、掃除や洗濯は進んでしていた。
そういう風に、早河家の歯車はスムーズに回っていた。
きっと稼ぎが特別少ないわけじゃない。おそらく高校の費用とか、将来への貯蓄とか、それこそマイホームの資金のために節約を重ねてきたのだろう。
そういう二人の意図を、誠は知らないわけじゃなかった。
でも、それとこれとは別問題だ。子供にも子供の、譲れない事情がある。
『マコト、お前には苦労をかけている。すまないと思っている。だから上司と話してきた。次の転勤からの三年間――お前が高校を卒業するまでは異動させないでほしいと』
『そんなの口約束だろ! そんなワガママ言って、心象悪くしてたら世話ねぇよ!』
『マコトっ、口の利き方!!』
『うるさいっ!!』
ついカッとなった母は、反抗期の息子に手を上げようとした。
誠は身体を強張らせたが、父が止めてくれた。彼は誠の頭に手を置いて、優しく撫でた。
『解った。もしもその三年の間に異動が決まったら、その時は僕一人が行く』
『単身赴任ってこと? そんなの私が嫌よ!』
本当にグズっているのはどちらだろうか。母は口を尖らせて父を困らせた。
父も呆れるほど頑固で、『家長としてマイホームは買う。そこに家人がいないのはおかしいだろ』と理屈を並べ立てて、彼女を宥めすかそうとした。
けれど、『大黒柱がいないほうがもっとおかしいわ』と彼女は引かなかった。
『僕の母さんも歳だ。あの人は強情だから、昔みたいに一緒に住むつもりはないだろうが、もしもの時には誰かが傍にいてくれないと困る』
『そんなこと言われたら、何も言えないじゃない。ズルいわ……』
『すまん』
母と、姑に当たる父の母――いわゆる誠の祖母とは悪い仲ではない。東京で暮らしていた頃は、よく二人で買い物に出かけていた。両親を知らない母にとって、祖母は肉親代わりだったのだ。だから母は、祖母の世話をするのに然程の抵抗はないようだった。
『マコト、お前もよく考えておいてくれ。進学のこと、将来のこと、友達のこと、生活する環境のこと。お前にも色々とあるだろうが、しっかりと自分で決めてくれ』
『勝手だよ、そんなの……』
『どうしても決められない時は、僕を殴ってくれていい』
そう言って、痛みに強いとは思えない貧相な頬を向けた。
人差し指でそこを指して妙にアピールしてくるので、『今でもいい?』と誠は拳を構えた。海外旅行などという、いかにも楽しそうなイベントへ逃避行される前に、思いっきり発散しておきたかった。
しかしそれを阻止したのは、やはり母だった。
『ダーメ。せっかくのヨーロッパを、顔の腫れた人となんて一緒に歩きたくないわ』
場違いなアロハシャツ姿でよく言ったものだった。母親譲りの不貞腐れ方で、『何だよ、それ』と誠は俯いた。
しょうのない子ねと呆れる母だったが、ふと右手首に巻いた腕時計を見ると、『あらイヤだ! お父さん、飛行機乗り遅れちゃう!』と慌てて玄関を開けて、キャリーケースを運び出した。
『ホントだ。マコト、カギ頼んだぞ』
『ホォラ、お父さん急いで急いで!』
そそくさと出かけていく二人を、誠は呆然と眺めていた。
アパートの階段を降りて公道に差しかかったところで、母が振り返って手を振った。
『マコトっ、中間試験だからって気を抜いちゃダメよ! じゃあね!』
声が大きいぞと彼女を窘める父も、にこやかに手を振っていた。
誠は独り取り残されてしまう不安を押し隠しながら、如才ない笑顔で手を振り返した。
いってらっしゃい、気を付けて。
そのたった一言を伝えられなかった。
早朝でなければと悔やんだのは、それから七日後のことだった――――