〔一‐1〕 下弦の月
〔一‐1〕 下弦の月
二〇XX年某月某日、未明。
「ねぇ、リーダァ」と、戦闘服を着たポニーテールの若い女が猫なで声で呼びかけた。
一七〇センチメートルと女性にしては高い身長と、凹凸の少ないスタイルがスレンダーな印象を際立たせる。鼻筋がとおった美形、清らかで理知的な外見の二一歳だ。
しかし残念なことに、彼女に第一印象どおりの性格を期待するのは得策ではない。
「どうした」
リーダー。つまり部隊長と呼ばれた丸坊主の巨漢は、壁に備えつけられた縦座席に腰かけて目蓋を閉じていた。
今から部隊を率いて、ある作戦を遂行する。作戦前は決まって気が立つ性分なので、なるべく瞑想でもして心を落ち着かせているのだ。
それを破る彼女の声で現実に戻る。茶色の瞳が、くすんだ視界のちょうど正面に立つ彼女をとらえる。爪先から順に上へと視点をスクロールしていき、途端――う。
「鼻血出ひゃった。ティッシュちょーらい」
恥らいながら彼女は手を差し出す。確かに右の鼻から鮮やかなヘモグロビン色の液体が唇に向かって垂れていた。猫なで声というよりは、鼻声だったらしい。
「何をしているんだお前は、こんなときに……」
嘆息を漏らしつつ、リーダーは腰に帯びたポーチから鼻紙を一枚取り出した。パルプのような既存の原料を用いていない薄いフィルムだ。
「これから夜這いするんだなぁーって考えたら、つい♪ ウヘヘ」
女は赤らめた頬を両手でおおい、クネクネと腰を動かせた。リーダーからフィルムを受け取ると、その恥じらいを疑うような大きな音を立てて鼻をかんだ。フィルムは鼻血の水分を吸って、ビー玉ほどのサイズまで小さく丸まって固まった。女はそれを隅に置いてあるゴミ箱へ投げ捨てた。
「夜這いじゃない。保護だ、保護。何度言えば分かるんだ」
困った様子で頭をかくリーダーに、「オブラートに包む必要なんてねぇよ」と棘のある言葉を投げ入れたのは、銀髪の青年だ。ウルフカットに三白眼、白い肌から高い鼻がそびえる白人系の顔立ちだが、話す言語は彼らと同じ日本語である。
「こんなもん、拉致以外の何もんでもねぇ」
「違うわよ! これは夜這いなの!」
「黙ってろよ変態は!!」
女はプンと頬をふくらませて断言した。
「この作戦は間違いなく夜這い。若い男の子の寝込みを襲って、イケナイ場所に連れ出すの。そうとでも思わなきゃ、やってらんないもん」
やってられない。
確かにそうだと、リーダーはまた深く息をついた。妄想をふくらませて鼻血まで出す神経は理解に苦しむが、今から行なうことはお世辞にも人に褒められるものではないから、別の理由や方法をこじつけでもしなければ、良心の呵責に耐え切れない。
「まぁ、分からんでもないがな」
「えっ……」
同調する彼に対して、女が口元を隠したまま固まる。「今度は何だ」と問うと、「リーダーって、そんな顔の上にイイ人いないと思ったら、まさかそんな趣味を……っ!?」巨大ロボットをラジコンのコントローラーで操作する少年の姿が、彼女の脳裏によぎっていた。
「違うっ、そっちのケはない!」と慌てて弁明するリーダーの傍ら、青年が話題を戻した。
「オッサン。正直なとこ、アンタはどう思ってるんだ。分からなくもねぇって、その本音を聞かせろよ」
オッサン呼ばわりされる、歳のわりに老けた顔のリーダーはしばらくしてから答えた。
「お前達も気付いているとおり、この作戦は異例中の異例だ。今後、このように意義が不確かな作戦が立案・決行されることはないだろう。私情をはさめば、あってはならないとさえ思う」
だったら。
一同はその一言を辛うじて呑み込んで、リーダーの言葉に聞き入った。
「しかし俺達は何だ。フリーランスのルポライターでもカメラマンでもない。命令のために命を賭す一兵士だ。違うか?」
「今回はその命令ってのが間違っているかもしれねぇ。俺達が動くことで禍根を残すことになるかもしれねぇ」
「お前らしい、“世界のため”を想っての発言だな」
青年は不機嫌そうに目を逸らした。
彼の成長を感じ、リーダーは続けた。
「そろそろいいかもしれんな」
「何が?」
「建前はやめにしよう。俺もお前達が求める“本音”でお前達と向き合うこととする」
空気の変わり目を察して、一同はあごを引いた。
「俺達は確かに兵士だ。命令に従い、遂行するだけの生き物だ。考えるのは上の仕事で、俺達は手足となって動くだけ。身を投じた任務がどれほど非道なものであっても、結果として“世界のため”になるのならば目を瞑ってきた……」
兵士の、ジレンマだよな。
リーダーは自らの言葉さえも噛みしめるようにつぶやいた。その目には彼が見て、経験し、遂行してきた様々な任務が去来しているようだった。
「任務とはそういうものだと諦めて、自分を納得させている兵士がほとんどだろう。疑問や怒りを覚えても、命令に逆らえる者は一握りだ。そういう連中は馬鹿だ、身の程知らずだと虚仮にされる」
わずかに俯けていた顔を上げた。居並ぶ部下達を見渡して、「そこで俺は考え方を改めた」と白い歯を見せた。
「全てを背負おう。俺は心からそう思うようにした」
「全てって、どのくらい全て?」
女が小首をかしげて問う。
青年の鋭い双眸もリーダーの言葉を待っていた。
「言葉のとおりだ。俺達の行動理念も、上からの命令も、それを遂行するにあたって起きた不始末も、全てだ」
「そいつはつまり――」
「この任務、これから起きるだろう不幸の責任全てを、俺は背負う」
やっぱりそういう人なんだという考えが部下の腹の底へと素直に落ち、広がっていった。
全員、彼に拾われてここにいるようなものなのだ。どれほど小さく、細い縁の糸も、この男は決して乱暴には扱わず、その身なりからは想像もつかない慎重さで丁寧に手繰り寄せてきたのである。
口先だけではないことはすでに証明されているようなものだった。
「命令だったから仕方がない。それを言い訳にして、それだけで終わる者は兵士ではない。ただ都合が良いときだけ武器を握る快楽殺人者だ。人類は頭の良い生き物だ。責任の取り方を考えられる知恵を持っている。お前達はどうだ、まさか生半可な気持ちでこんな場所に来ているんじゃないだろうな?」
リーダーはにやりと口角を上げた。
「愛する世界に命を懸けろ。産まれた責任と覚悟を胸に」
語ったセリフの一切は、ある人からの受け売りだった。その人の代わりにこれらのセリフや生き様を後世に伝えることが自分の役目だとリーダーは感じていた。
青年は気付いていた。親代わりであるリーダーから、セリフの主のことをよく聞かされていたからだ。
目を閉じて咀嚼した彼は、その青い瞳に小さな炎を揺らめかせた。
席を立つ彼は、リーダーを見下ろして告げた。
「言いたいことは解った。どっちつかずじゃねぇ、むしろ何があっても受け止める覚悟がアンタにはあるってことなんだな」
「そうだ」
「なら、俺も腹をくくってやる。俺はこの任務に反対だが、遂行してやる。その責任ってやつも、俺なりにとってやる。場合によっては――」
「言うな。それこそが、俺の役目だ」
ブザーが鳴った。
『現在、トーキョー湾上空。目的地到達まで、まもなく一分を切る』
彼らは輸送機に乗って空を飛んでいる。正規の軍用機ではない、彼らが着る戦闘服同様、この世に存在し得ないフォルムの機体だ。それを操る機長からのアナウンスを耳に、リーダーは重い腰を上げた。
「さて、お前達。雑談もそこそこにして――行くぞ」
リーダーは青年の肩に手を置き、女の頭を軽くなでた。そしてもう一人、彼よりもいくらか大柄な、巨人という形容が似つかわしい黒人のたくましい背中を叩いた。
彼に続き、一同は機体の後部ハッチで横に並んだ。
「対象、どんな子かなぁ。カワイイ子だったらイイなぁ」
「現地に諜報員がいる。対象についての情報の一切は彼が握っている」
「彼って、フリッツ君?」
「そうらしい。彼は働き者だ、その上愚痴もこぼさん。お前達も見習え」
「チッ、またアイツかよ。情報部にはアイツしかいねぇのか?」
「フリッツ君ってば、私達の行く先々にいるもんね。専属なのかな」
「情報部の事情は分からんよ。〈HAL-F〉、スタンバイ」
一同は薄いゴム質の、黒いフルフェイスマスクをかぶった。マスクは目元すら空いていないが、彼らは実視界同然に周囲を把握できていた。
『天候、風速、高度、いずれもよろし。〈DEM〉は正常に稼働中。姿勢制御も良好。降下ルート上に障害物見当たらず。オールグリーン。ハッチ、開きます』
副機長の礼儀のかよった声が響き、緑色を灯していたランプが赤色に変わる。ハッチが開いて突風が滑りこむ。天井から垂れる吊り革を掴んでいなければ足をすくわれるところだ。
外は真夜中。見上げれば無数の星がまたたき、見下ろせば叢雲の切れ間から都会の夜景が光を生んでいる。
「第一実行部隊、〈オペレーション:エンジェルズ・ヴォイス〉を開始する。総員、心してかかれよ」
リーダーの合図に従い、あぁだか、はぁ~いだか気のない返事をして青年と女が躊躇なく飛び降りる。二人に続いて黒人が一歩踏み出そうとすると、「ウヌバ、お前はホント無口だな」とリーダーが笑顔を見せた。
ウヌバという名らしい巨人は、彼を一瞥したのも束の間、無言無表情で落下した。
「どうして俺の周りには、こんな変な連中しかいないんだ」
肩をすくめて愚痴をこぼし、リーダーも光の海へ降下した。
「アンタも充分変わってるよ」
機長のツッコミに、全くですと副機長がせせら笑った。
弓形の月が浮かぶ、春の暮れのことである。