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ネイムレス  作者: 吹岡龍
第一章【記憶の放浪者 -Memories Wanderer-】
18/167

〔四‐5〕 韋駄天

『総員に告ぐ、直ちに窓を閉めろ。これは命令だ、至急窓を閉めろ』


 酒顛の放送を聴き、「窓?」とエリのように首をひねる者は決まって若い連中だった。

 対して二〇年以上組織に身を置いている者達はその言葉の真意を逸早く察して、開放された窓という窓を全て閉め切った。


「《韋駄天》は音速を超える。衝撃波を予測すれば妥当な判断だ。さすがはセイギ・ユキマチの直属の部下だったことだけはあるな、シュテン」


 感心するメギィドに酒顛は答えず、誠を見下ろした。

 衆目が集まる中、「もう引き返すなよ。その意気で殺しにこい」とケンは得意気に声を弾ませた。

 しかし誠は握ったままにしていたハンドガンを手放すと、周囲に散乱している武器を見渡した。銃器や手榴弾から、世界中の刀剣、(むち)やモーニングスターまで、ありとあらゆる禍々しい凶器が目立つ中、彼はあろうことかあの時と同じ鉄パイプを選んで構えた。


「そんなことはしません。降参してもらいます」

「悪ぃが生きてる内に、んな真似は絶対にしねぇよ」

「だったら気絶してもらいます、それなら一度やってるんですから!」

「ナマ言ってんじゃねぇよ、クソガキがぁっ!」


 駆けてくるケンに合わせ、誠は鉄パイプを両手で持って縦に振り抜いた。

 バカ正直な軌道を描くそれにケンが当たるわけもなく、軽く半身を開いて躱すと、再び誠の頬に拳を捻じ込んだ。倒れる彼をケンは嘲った。


近接格闘(HTH)は俺の十八番(おはこ)だ。早くその獲物を取り替えねぇと、記憶を戻すどころか顔腫らしたまんま逝っちまうぞ!?」


 その助言を振り払うように、目の前を鉄パイプが勢いよく通り過ぎた。

 誠は生まれたての仔鹿のように覚束ない足取りで立ち上がると、「ボクはっ、アナタを倒すんです!」気迫に満ちた双眸でケンを睨んだ。しかしその目はケンの求めているものではなかった。まだだと心中で思いつつ、ケンは誠の素人剣道に付き合うことにした。

「ようやく彼も火が点いたか」と酒顛は腕を組み、背凭れに腰を埋めた。


「これでお膳立てが済んだわけだが、果たして天才のアイツでも彼を止められるかな」

「天才って、そんなの言ってるのリーダーくらいですよ」

「そうかぁ? お前もよく知っているだろう、アイツの身体能力(ポテンシャル)は底が知れん」


 不服顔のエリに、酒顛は言った。


「アイツは二つのセンスを持っている。ネコに匹敵する《超聴力》と、イヌよりも優れた《超嗅覚》だ。通常、ヘレティックが複数のセンスを発現させるのは極めて珍しいとされている。これだけでも奴は、ヘレティックの中でも特別だと言える」

「まぁ、それはそうですけど……」

「しかし真に奴を評価するならそこは二の次だ。放たれた弾丸を正確に見切る動体視力と反射神経。獣のようにしなやかで、かつ強靭な肉体。状況を正しく認識できる判断力。全てがノーマルの非ではない」


 ノーマルとヘレティック。外見は等しく人類と言えるが、やはり覚醒因子の有無が、遺伝子上全く異なる生物として両者を区別している。

 メギィドは言う。


「覚醒因子の恩恵はセンスを授かることだけではない。肉体がセンスのために自滅しないよう、ノーマルのそれよりも強く優秀な細胞や筋繊維へと変化している。だが、全てのヘレティックがスーパーマンのような筋骨隆々の身体になれるわけではない。先天発現型にしろ、後天発現型にしろ、通常それぞれのセンスを発動するために必要な肉体構成のみが強化、あるいは付随されるのだ」


 エリが思い出す。


「昔、トレーナーに聞きました。ノーマルよりもヘレティックは筋肉がつきやすいけど、トレーニングをしていなかったら外見と同じでほとんど差がないって」

「そんな中、ケンは特殊だ。恵まれた体格、知性を生まれながらに獲得していた。奴こそが、本物のヘレティック――新たなる人類の先駆者だと、俺は信じている」

「人の遺伝子は強い肉体を求めた。人類は今後、人口増加による苦境に立たされる。人が人そのものを疎む時代が到来するのだ。もしも遺伝子にすら先見の明があるならば、彼のような者が現れても何ら不思議ではない。環境に適応できない弱者は淘汰され、強者がだけが生き残る。それがこの世の理だ」


 それ故に歯痒いと、メギィドは続けた。


「ヘレティック研究において彼ほど理想的な被験体はいない。協力を取りつけられんのはとても残念だ」

「どうして協力しないんですか、アイツ」

「私は嫌われておるんだよ、彼に」


 そう言いながらも、メギィドは笑っていた。過去を振り返る度に背筋が震える。彼はケンに殴られかけたことがあった。辛うじて酒顛に止められたが、あの時の彼の目は殺意に満ち満ちていた。

 メギィドのお墨付きを得ても尚、エリの彼に対する評価は低かった。彼女が見ているのは、彼の肉体ではなく、性格だからだ。


『オラ、いい加減当ててみろ!』

『うああああ!!』


 モニターの中で、乱雑に鉄パイプを振り回す誠を、ケンはからかい、突き飛ばしている。

 その度にボロボロになっていく少年の様子に、エリは拳を握り、唇を噛んだ。

 もうこれ以上は見ていられない。いくら酒顛がケンの才能を買っていても、いくらメギィドが計器に目を凝らして《韋駄天》発動の瞬間を捉えようとしていても、あのいたいけな少年を傷つけていい理由にはならない。

 もう止めましょう。

 エリがそう言いかけたそのとき、「面白いことをやっているじゃないかぁぃ」一同の虚を突いて、地獄の底から湧き上がったような、ねっとりとした声が制御室で主張した。

 エリは、気付けばすぐ隣に佇んでいたその声の主を見て、全身から汗を噴き出した。

 縁の広いソフト帽を目深にかぶり、腰まで伸びるほどの癖のある長髪を揺らめかせ、トレンチコートに身を包んだ、全身黒一色のいかにも怪しい男が――そこにいた。

 いつの間に……。エリは自分のセンス《サーマル・センサー》を疑った。

 周囲の熱量を観測できるこのセンスはオンオフが自在であるが、識閾下(しきいきか)では時折発動し、他者の気配を感知している。しかしこの男はそのセンサーをかいくぐり、ここにいる。

 熱もなく、音もなく、一切の気配を打ち消して、突然世界に出現した。まるで、覚醒因子のように予兆もなく、突然に。

 一同が目を剥く中、「ゼツ、何しに来た」酒顛だけが微動だにせず、随分と冷ややかな口調でその黒ずくめの男――累差絶(るいさ ぜつ)に問うた。

 絶は長い前髪の隙間から覗く赤い唇を引き上げ、「相変わらずつれないねぇぃ」


「お前達が変り種を持ち帰ってきたと小耳に挟んでねぇぃ。アレがぁ、そうかぁぃ?」


 ケンと向き合う少年を眼下に見た。


「相変わらずの地獄耳だな。〈奈落(タルタロス)〉とはよくいったものだ」

「使えそうかぁぃ?」

「お前の考えるようにはならんさ。彼は、普通の子供なんだよ」

「そうかいそうかぁぃ、それは残念だぁ。だがぁ、あの“ジュニア”が自ら出張るとはぁ、どういう風の吹き回しだろうさねぇぃ」


 この男にだけは、まだ誠の存在を知られたくはなかった。酒顛は風の噂と(うそぶ)く彼を、すぐにでもここから排除したかった。

 絶は勘が良い。ケンとは違って、比喩的な意味で鼻が利く。そしてその不穏な見てくれからも分かるとおり、何を考えているのか全く読めない不気味さがある。入隊当時からの長い付き合いになる酒顛にも、彼の本音を一つも読み解けないほどだ。

 何より、組織の皆が口を揃えて彼を恐れ、危険視しているのは、彼が誰よりも残忍な性格を持っているからだ。一度敵とみなした者は、女子供であっても容赦しない。そして邪魔する者も誰彼構わず敵とみなす。たとえそれが、ボスであっても。

 そう。累差絶は一度、ボスを殺そうとしたことがあった男だ。

 そのボスの特赦により、〈タルタロス〉と呼ばれる移動型メガフロートへの永久駐留を命じられながらも、こうして自由の身でいられるわけだが、やはり当時の凶行について組織の構成員が赦せるわけがなかった。恐怖しないわけがなかった。

 そんな彼に、露見してしまった。誠という重大な情報が白日の下に晒されるのは時間の問題だと承知してはいたが、それでももう少し時間をかけたかった。

 それをボスも解っているはずだ。いずれ全ての基地に知らせるつもりだったろうが、今は情報統制をして様子を見る手筈だったはずだ。

 では何故、コイツがここにいる。組織で最も危険視されているこの男を、一体誰が本部に呼び寄せたというのだろうか。

 ポーカーフェイスを気取りながらも焦燥に駆られる酒顛の心情を知ってか知らずか、絶はうそ寒い笑みをたたえていた。

 そこへまた一人、男が入室した。ガタイの良い、短髪で四角い顔のアジア人だ。


「ラキぃ、お前もよく見ておけぇぃ。何かが起きるらしいぃ」

「はっ」

「そうなんだろぉぃ、“大江山の暴れ鬼”よぉぅ」


 酒顛は答えない。

 李螺葵(リー ラキ)という中国人名の男は、絶の隣に並んで観戦した。

 その背中にエリとウヌバが睨みを飛ばすが、彼らは眼中に置かなかった。彼らが漂わせる雰囲気には吐き気がした。微かに死肉の臭いが漂うのは気のせいだと思いたかった。

 エリ達が勘繰っていると、「何をしているんだ、キミ達は!」また一人、制御室に男が駆け込んだ。


「し、師匠!」


 エリが師と仰ぐ男――清芽ミノルは肩で息を切らしながら、そこに集う一同を見渡した。その目に真っ先に飛び込んだのは、「ゼツ……やはり来ていたのか」

 絶は肩をすくめると、その淀んだ瞳を再び誠に向けた。

 意味深長な態度の彼はさて置き、清芽は酒顛に声を荒らげた。


「聞いてないよ、話が違うじゃないか。ここまでさせて、どうなるものでもないだろ!」


 こうなることを分かっていたから、彼には今回の件を伝えていなかった。

 清芽は博愛主義者だ。こうした強引な手段には否定的だ。正確には、否定的になった。それは“ある出来事”がきっかけだった。


「彼は病人だぞ! それにまだ子供だ、それをあんな――!!」

「それではアナタにはあるのですか、あの少年をここに繋ぎとめておけるだけの言葉が」


 酒顛の言葉に、清芽は反駁できなかった。


「彼はただひたすら、表世界への帰還を願っています。そんな彼を幽閉し続けてみてください、最悪の結末が待っていますよ。それにこれは……」


 酒顛の目に男の背中が映る。


「アイツが命を懸けているんです。誰が邪魔をできますか」


 できるわけない。そして、させやしない。

 酒顛はこの遠い場所から、決闘の行く末を見守ることしかできなかった。

 あぁと頭を抱える清芽の怒りは白頭翁にも飛び火した。


「メギィド博士も、何をやっていらっしゃるのか!」

「キヨメ、少し落ち着きたまえ。ヘレティックがこの世界で生きていくことの厳しさを、あの青年自らが教えているのだ。水を差すような真似を、誰ができようか」

「しかし、セイギさんが生きていれば、こんなやり方は絶対に認められませんよ!!」

「死人はな、何の物語も語らんのだよ」

「生きていますよ、セイギさんは……」


 顔を顰める彼に、「生きているんです。セイギさんは、彼の中に」と酒顛は繰り返した。

 そのセリフに、絶が反応した。彼をここへ呼びつけたメールには、雪町セイギという名は一切出ていなかった。


「……酒顛、それはどういう意――」

「ん、来るかっ!?」


 酒顛は腰を浮かせて言い放ち、言葉尻を打ち消された絶は刮目した。

 訓練場の中央、顔を真っ赤に腫らしながら片膝をつく誠の姿がある。彼は荒い鼻息の後、ケンを凄まじい形相で睨みつけた。それはさっきまでの子供染みた怒りを通り越している。

 この空気だ。この空気に、俺は気圧された。

 ケンは後頭部の傷が疼くのを感じて歯軋りを立てた。対して、頬から首筋へ、冷や汗が滴り落ちた。


「そうだ、見せてみろや! 《韋駄天》!!」


 全ての感覚器を総動員して、誠の動向を何一つ見逃さないように注意を払った。


「う、あ、ああ、ああああっ!!」


 誠が獣のように呻いた。直後、轟音が高い壁をせり上がり、窓を震わせた。続けて砂埃が噴水のように吹き上がって、訓練場は一息に土色の霧に包まれた。

 その圧倒的な光景に、制御室も、通路から眺めていた観衆も、全員が度肝を抜かれて唖然となっていた。


挿絵(By みてみん)


「博士、今の映像をスローで皆に見せてやってください」


 酒顛の要望に応え、メギィドは手元のコンソールを操作した。観衆が釘付けとなっている耐圧ガラスに今の映像が再生された。

 それは〇コンマ以下の世界だった。唸っていた誠は突然思い立ったように右へ走り、瞬く間におよそ一〇〇メートルを渡った。勢い余って半円を描くように壁を走ると、鉄パイプを振り上げ、ケンを右後方から強襲した。

 対するケンも驚異的な反射神経を披露していた。先んじて右からの脅威を予測していたらしい彼は、すぐさま腰を落とし、腕を身体の前に十字に組んで防御の型を取っていた。

 奏功して――さらに速度と鉄パイプの振りの齟齬も相俟って、二人は肉体をそのままに激突するだけで済んだようだった。二手に分かれて倒れる彼らの光景は、やはりコンテナエリアでの再現と言えた。

 舞い上がった砂埃の正体は、誠が地面を蹴った瞬間に発した爆風によるものが大きいらしく、加えて高速で半周したことで渦を生んだようだった。


「これ、音速なの?」

「いやいや、秒速二〇〇メートル強がいいところだ。セイギ・ユキマチの公式記録が秒速約一五九九メートル――マッハ四・七とあるから、まだまだノビシロはあるだろうの。まぁ現状でも、両者の反射神経が神懸っているのは言うまでもなかろう」


 驚嘆のあまり辛うじて出たエリの疑問に、メギィドが淡々と答えた。


「うっそ。英雄って、マッハとか出してたの!?」

「エリ……、音速を超えるというのはそういうことだ」

「あ、そか。にしてもマコっちゃんもハンパないね、秒速二〇〇メートルって」


「全くだ」と酒顛は頭を掻いた。

 最速にして、最強。

 二〇余年前、組織の猛者達が口を揃えて言っていたことを酒顛は思い出していた。あれから何人が天に召されただろうかと思うと、寂莫(せきばく)たる思いが胸を締めつけるばかりだった。

 そうした彼のセンチメントをよそに、絶だけは(わら)っていた。長い髪の奥で、残忍な笑みを浮かべていた。

 最高のプレゼントじゃないかぁ。

 口中でそう呟きかけていると、清芽が身を乗り出した。


「二人とも立ち上がった! まだやるつもりなのか、マコト君は……!?」


 依然として砂埃は舞い続けている。視界不良である。しかし清芽は二人の姿を正確に視認できていた。彼にもエリと類似したセンスがあるのだ。


「このヤロー……、やりゃあできるじゃねぇかよ」


 粉塵が視界を支配している。まるで台風の目の中にいるようだ。

 ケンは鼻を啜った。しかしグルグルと回る塵芥のカーテンに阻まれて、さしもの《超嗅覚》が機能しない。ならば《超聴覚》はどうだと耳を澄ます。ごうごうと鼓膜を削るような風音に紛れ、衣擦れの音がわずかに聞き取れた。

 音源に目を凝らすと、人のシルエットが像を結んだ。鉄パイプを杖のようにして立ち上がる、早河誠の姿だった。

 ケンはだるさを覚える両腕を身体の前に構えた。まるで重機に力一杯殴られたようだった。折れてはいないが、ヒビくらいは入れられてしまったかもしれない。


「コレが、センス……コレが……」


 誠はいよいよもって自らのセンスを自覚した。

 興奮に歯止めが利かなくなった直後、足の筋肉が突然大きく膨らみ、ぐつぐつと沸騰したかと思うと、途轍もない激しさで弾けたのである。すると足がほとんど勝手に、発条(ぜんまい)仕掛けのロボットのように回転し、一息にケンとの間合いを詰めた。

 身体は固くなったような感覚を覚え、動体視力も通常より数百から数千倍と思える速さで機能した。自分以外の時間が止まったような世界を目にした。内臓では肺や心臓が奇妙な動きをした。少し吐き気がするのはそのせいかもしれなかった。

 濃い粉塵の中に人影を見て、勝てるかもしれないと、誠は素直に思った。次第に勇気が湧いてきて、この異常な環境で初めて笑みがこぼれた。


「仕返してやる」


 仕返して、帰ってみせる。

 その声が届いたのか、ケンは過敏に反応して腰を落とした。何やら身動ぎする影が正面に見え、慎重ににじり寄る。途端、地べたを激しく蹴りつける音が轟いた。


「調子……――


     後ろ―いや―左だ―粒子を跳ねのけて鉄パイプの先端を突き出しながら誠が飛来する―ケンは少し左へ傾いて見えたそれを左の拳でさらに左へいなす―パイプの脇が拳の甲を削り進む―軌道がわずかばかりズレて左頬を掠めていく―摩擦熱を感じるより速く短い時間―すでに振るっていた右の拳をクロスカウンターの要領で鋼鉄の懐に捻じ込む―衝撃で皮膚が破ける―筋肉が裂ける―神経が千切れる―骨が砕ける―それでも渾身の力で振り抜いた


   ――こいてんじゃねええええええええええええええええええええええええっ!!」


 右脇腹を殴られた誠は、バットを掠めた野球ボールよろしく、空中でグルグルと無数の回転を重ね、ついには特殊合金の壁に激突した。軌道を追って砲煙のような砂煙が綺麗な孤を描いた。ドスンと誠が地面に崩れ落ちると、また一つ大きな埃が舞った。

 壁にはベッタリと誠の血が張りついていた。

 まるでヘレティック同士の本気の実戦――殺し合いじゃないか。

 清芽がまたぞろ酒顛を責めようと顔を向けると、『ケン、やり過ぎよ!! 殺すつもりなの!?』エリが先に制御室に備えつけられたマイクに向かって叫んでいた。

 ケンが最も嫌いな音――女のヒステリックな金切り声がスピーカーから響く。左頬から滴る血を拭うと、血みどろの右手でおもむろに遠くを指差した。

 エリはコンソール上のボタンを押し、砂煙を排気させた。訓練場の端にだけ煙が充満して、ケンの示す方向が露わになった。

 誠が立っていた。血塗れの身体をひん曲がった鉄パイプで支えながら、辛うじて立っていた。しかし出血量に反して、傷がそれほど深くないように見える。


「怪我、してないの……? でも壁の血は、マコト君のよね……アレ」

「《韋駄天》の特徴の一つは、瞬間移動を思わせる超音速の脚力。一つは、センス発動中の皮膚と骨が鋼のように硬くなり、筋肉や内臓が柔軟になること。そして、劇的なスピードの治癒能力だ」


 酒顛に補足するように、清芽が続けた。


「あれからもう一度、セイギさんのデータを読み返したよ。あの人にもその能力があったが、それは《韋駄天》発動時だけだった。活性化した覚醒因子によって機能するんだ」

「そ、それってつまり、ほとんど無敵ってこと……?」

「そうとも言えんが、彼が不死身に近い暴走列車であるのは否定のしようがない」


 エリは辟易した。ケンの心拍が異様なほど上がっているからだ。

 あんな子供がケンをここまで必死にさせている。彼が傷をもらうのを見るのも久しぶりだったのに、これじゃあ――


「これじゃあぁ、どちらの力量が試されているのか分からないねぇぃ」


 絶は細く切れ長な双眸を目一杯開いていた。


「だがぁ……次で決まるねぇぃ。物足りないがぁ、“ジュニア”には後がないぃ」


 彼のセリフに応えるように、ケンはその場で地表スレスレまで股を割り、身を低くして上体を右に捻った。


「ちょっと待ってよっ、〈飆風(ひょうふう)〉までやる気なの!?」


 いくら何でもそれは誠が危険過ぎる。エリが再びマイクに口を近付けるが、酒顛に顎から頬を掴み上げられた。


「ひーはーっ!?」

「オオオアアアアアアアアアアアァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」


 誠が叫んだ。絶叫よりも野生的な、猛獣の咆哮のようだった。


「うっせぇっ!!」


 ケンが咄嗟に、上半身をギュルリと左へ回したその時、「酒顛ぅ。中々イイ見世物だったぁ。大切に育てることだねぇぃ」鈍い爆音の後、花火のように天井近くまで打ち上げられた誠を背に、絶と螺葵は制御室を後にした。

 落下した誠は不発弾のように粉塵を生むだけだった。衝撃は鋼鉄の肌と柔軟な筋肉が耐え忍んで、彼の身体を無残な有様に変えることはなかった。ただし出血は酷く、血だまりが広がっていた。


「い、生きてるわよね!?」


 すぐに訓練場へ医療部隊が駆けつけ、自らの血に溺れんとする誠の脈拍を確認した。両腕で大きな丸を作る彼らに、エリは深く胸を撫で下ろした。

「見損なったよ」と告げる清芽の辛辣な言葉に、酒顛は俯いた。


「僕は実行部隊のこういう強引な体質が許せなくて脱退したんだ」

「逃げた、の間違いではないのか?」


 白頭翁の正鵠(せいこく)を射た言に、「博士に解ることではありません」と清芽は背を向けた。


「私をこの立場に押し上げたのはアナタですよ、ミノルさん。アナタがあの時思い止まってくださっていれば、少しはその体質も改善できたはずなのです」


 酒顛は、あの時呑み込んだ言葉を、二〇余年経た今、告げた。

 すっかり険悪になってしまった空気にエリとウヌバがしどろもどろになっていると、『おい、データは取れたんだろうな!』とケンの割れた声が制御室に響いた。

 メギィドは慌てて応答した。


「あ、あぁ、礼を言う。このデータを基に新たな研究を始められる。彼のサポートに繋がる研究だ。しかしまだまだ実証できていないことがある。それをマコト・サガワに協力してもらえれば、きっとセイギ・ユキマチさえも超えて――」

『……けんな』

「んぅ……!」


 ケンは、鋭い糸切り歯を剥き出しにして憤慨していた。


『ふざけんなよ、このクソが。何浮かれてやがんだ。心が痛まねぇのか……!?』


 狼狽するメギィドに代わり、酒顛は激怒した。


「ケン、撤回しろ! 博士は一研究者としての意見を述べたまでだ。この方がいなければ、今日(こんにち)の俺達はなかった。お前のセンスを陰で支えてきたのは博士なんだぞ!!」

『学者だろうが何だろうが、知ったこっちゃねぇんだよ。メギィド(テメー)には前々から言っておきたかったことがあるんだ。忘れたとは言わせねぇぞ、“チーム・イクス”のことだ』


 ケンの姿が亡者のそれと重なって、メギィドはゾッと身の毛をよだたせた。


『今度また俺達ヘレティックをモルモットみてーにしやがったら、殺す……!!』

「ケンっ!!」

「い、いやっ。いや、良いんだ……っ」


 年老いた科学者は青筋を立てる酒顛を制止させた。「しかしっ!」と反論する彼をよそに、マイクに向かって青年へ伝えた。


「今の言葉、しかと胸に刻んでおく。すまなかった。だが、(くだん)のアレは事故だったということだけは解ってもらいたい」


 それでもケンは不満顔のまま訓練場を去っていった。


「博士、アナタが謝ることではありませんっ」

「いや、彼は正しい。私の口が過ぎたのだ。件の事故もそうだ。私自身がヘレティックであるというのに、研究に没頭するあまり大切なことを忘れていた。申し訳が立たん」

「最近の奴の口悪さは目に余ります。ハッキリと言ってやったほうが――」

「シュテン。私はセイギ・ユキマチを知らんが、お前達が語るその男ならば、きっと同じことを言っていたはずではないのか?」


 酒顛はグッと詰まった顔になり、語次を呑み込んだ。


「キミは英雄を相手に、今と同じ言葉で諫めることができるか。人権を軽んじた私が言うべきことではないが、個人や立場の違いで正しい物言いへの受け取り方を変えるべきではない」

「酒顛君、キミも間違ってはいないよ。ただ、彼の怒りはいつだって正当なだけなんだよ。そして彼はいつだって、言葉だけでなく、行動で示してきた」


 項垂れる巨漢を、清芽は擁護した。それまでの言い争いを抜きにしてこうした物言いができるのが、彼を博愛主義者と言わしめる材料の一つだった。

 そこへ、「持ち上げ過ぎな感じもしますけどねー」と女がせっかく鎮まりかけた火に油を注いだ。


「エ、エリくん……」

「だってー、私やウヌバみたいに、英雄さんのことを知らなかったら、やっぱり今の言い方は間違ってるように聞こえますもーん。ね、ウヌバー?」


 急に水を向けられた巨人は、「…ワカらン」と首を横に振った。酒顛とメギィド、どちらが正しいのかが分からないのか、そもそも言葉が分からないのか、どちらだろうか。


「ウヌバ。どんなに分からなくても、女子の言うことにはとりあえず相槌を打っとけばいいんだからね」

「こうカ?」


 彼は“相槌を打つ”という慣用句(イディオム)を思い出し、ぎこちない首肯をしてみせた。


「そう、それそれ。じゃないと彼女できてもすぐにフラれるよ」


 今度は“彼女”という言葉がピンと来ない。女友達(ガールフレンド)恋人(ステディ)という英語に直してみても、あまり具体的には理解できなかった。


「でもね、適当にやってばっかいると、話聞いてないじゃんってなるから気を付けてね」

「……?」

「相槌はね、適当にやるの。小さじ少々くらいの感じ」

「コさ……?」


 “小さじ”は知っている。しかし、“少々”とは何だ。どのくらいだ。


「もしくは小指の爪の甘皮くらい」

「コユ……アマ……??」


 ウヌバ、パンク状態である。自分の小指を眺め、何故かいきなり舐めはじめた。


「甘くなイ、甘くナ、アマカ……コツメ……!?」

「分からない? じゃあねぇー、ダウンジャケットからフェザーがぴょこんと飛び出してるくらいの――」

「やめてやれ。遊び過ぎだ」


 酒顛が親指で指すをほうを見ると、ウヌバは聖書――大型国語辞典を抱え、煙を上げてオーバーヒートしてしまっていた。


「酒顛君、さっきはすまなかった。キミにも考えがあるのは分かっているけれど、どうしても気持ちが高ぶってしまった」

「いえ、こちらこそ。手打ちにしましょう、ゼツとは違ってアナタとはそれができる」

「僕もそう思うよ」


 パンと一つ手を叩き、二人は和解した。

 にんまりと微笑んだエリだったが、彼女には気がかりがあった。


「ゼツって、さっきの人のことですよね。一体、何者ですか?」

「彼の名は累差絶。“更地のルイーサ”の異名を取る、組織の掃除屋だよ」


「あぁー」とエリは、右の拳を左の手の平に打ち鳴らし、いかにも合点がいった様子で頭の上に感嘆符を浮かべた。


私達実行部隊(アタッカー)の事後処理をしてくれてる作戦処理部隊(リセッター)ですか。どーりで気色悪い感じがすると思ったぁ~」

「まぁね。名目上は事後処理と言っても、実際は実行部隊の不始末から、捕らえたREWBSの処断までを一手に請け負う汚れ役だ。荒んだ仕事だよ」

「作戦区域内の敵基地施設や死体などの、裏世界に関する痕跡という痕跡を抹消。他は敵残存兵力の回収、尋問……。奴は、アレを好きでやっていると言うから驚きだ」


 酒顛は肩をすくめた。

 組織は、ここマリアナ基地を中枢として、世界各地に支部を置いている。各支部の活動の流れも、本部のそれとほぼ同じだ。情報部諜報部隊(ウォッチャー)が情報を得て、それを精査した司令部が作戦部実行部隊を使って何らかの任務を遂行させる。

 しかし実行部隊だけでは、表世界にその姿を晒しかねない。だから事前に現地で活動している諜報部隊と作戦処理部隊が彼らのバックアップをし、隠密行動におけるリスクを軽減するのである。

 ただ、実行部隊の活動中は、周囲への警戒に余念がない彼らでも、その性質は全く異なっている。実行部隊の作戦遂行・作戦区域からの離脱が確認されると、処理部隊は警戒態勢を解除し、作戦区域のあらゆる痕跡を消し去っていく。諜報部隊は処理部隊が引き上げるまで情報を改竄・操作し、全てを作戦前の見慣れた風景へと変えるか、事故や自然現象に見せかけて更地に変えるかして架空の事象を作り上げると、作戦は完遂となる。

 捕虜は、作戦処理部隊の拠点である移動式メガフロート〈タルタロス〉にて尋問を受けるらしいが、その末路までは酒顛らも知る由はない。


「昔は、俺と先生と、そしてゼツも同じチームを組んでいたんだがな……」

「うええっ、あの人も実行部隊だったんですか!? っていうか師匠、実行部隊にいたのは知ってたけど、やっぱり第一所属だったんですかっ!?」

「ハハハ。実はね、僕ら三人はセイギさんの部下だったんだよ」

「おかしいと思ったんですよ。私、〈清芽流〉の免許皆伝になったっていうのに、未だに師匠に一太刀も入れたことがないんだもん」


 エリは二刀流剣術の達人だ。使う刀が特殊とは言え、その高い技量で百を越えるREWBSを斬り捨ててきた実力の持ち主だ。その彼女でさえも、結局今日まで清芽を二刀のもとに切り伏せることは叶わなかった。


「エリ、それは当然だ。あのセイギさんに剣を教えたのも先生なんだからな」

「うえええええええええっ!? 何それ、初耳! エグいっ、エグいよ私の師匠!」


 驚きに驚きを重ねる彼女の目には、清芽に後光が差しているように映った。


「な、何なの師匠!? 剣もできて外科医としての腕も超がつくほど一流でって。アレですか、ジャパン・マネーキングのユキチ・フクザワ様の生まれ変わりか何かですか!?」

「いや、あの人の肖像は日本で最高額の銀行券ではあるけど、マネーキングではないよ」

「ふえええええっ、そうやって謙遜までしちゃうっ! 実力と見た目のギャップに加えてそんな謙虚な性格で乙女心バッチリ掴んじゃうなんて、ふえええええっ」


 と、そこでエリは一つ思いつき、急に冷静な口調で訊いた。


「あの、師匠」

「な、何だい」

「師匠って、どうしてそんななのに女性の噂がないんですか? ウチのリーダーならともかく、師匠なら女の一人や二人侍らせてても当然だと思うんですけど」


 頽れる老け顔の丸坊主巨漢を背に、「ええっと、それは、ハハハ、どうしてだろうね」と清芽は頬を掻いてはぐらかした。


「ふええええええええええっ! 私の師匠に男色疑惑発覚だよぉおおおっ!」

「エ、エリ君、誤解を招く推測は困るよ。僕だって女性に興味くらいあるさ!」

「いや、師匠。さすがにムッツリ宣言されても挨拶に困ります」

「えええええええええええええええええええっ!?」


 昔からこうだった。剣術指導の合間を縫っては、こうやって彼女に振り回されてきた。

 だが清芽は、からかわれるのには慣れている。年上の雪町セイギに教えていた時も、彼の戯言に付き合わされたのは良い思い出だ。

 彼の部下だったのは、表世界の年表で言えば湾岸戦争が終結した頃までだ。裏世界にとっても慌しいあの時代、今と同じく組織の一番槍として第一実行部隊は活躍していた。

 しかし、セイギはある任務中に殉死した。第一実行部隊のリーダーは、全ての実行部隊を束ねる総隊長職も兼任しているので、組織作戦部は実行部隊の再編成を余儀なくされた。

 酒顛はセイギの信念を受け継ぐべく前線に残り、絶はボスの暗殺未遂によって作戦処理部隊に転属、〈タルタロス〉への永久追放。そして清芽はショックの余り落胆していたが、衛生部医療部隊として多くの仲間を救ってきた。

 そうして刻が移ろい、再び《韋駄天》を持つ少年が現れると、引き寄せられるように、また彼らは一堂に会することとなった。

 運命めいたものを感じながら、清芽はおどける弟子の頭を撫で、言った。


「セイギさんは、僕達をつなぐ大切な糸だった。その糸が切れてしまい、今では物の見事にバラバラだ。特にゼツと話したのは、何年ぶりだろうか」

「師匠……?」

「酒顛君。セイギさんのことに限らず、その職には因縁があるだろうが、キミならば全うできるはずだ。僕が言うのはとても身勝手な話だが、これからも彼女達をよろしく頼む」


 頭を垂れる清芽の願いに、酒顛は最敬礼で応えた。

 絆を確かめ合う彼らの様子を、白頭翁は静かに眺めていた。まるでそこに存在しないかのように、ただひっそりと。

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