〔一〇‐4〕 SIDE:HERETIC
デヴォン島本部基地、兵站部第一技術開発室。
最高技術責任者代行を務めるメイサンを中心とした〈ユリオン〉ウィルス解析班は、熱に浮かされたように作業に没頭している。
情報部の報告が、彼らに大きな前進を齎していた。当該部署に兵站部顔負けの《ギフテッド》がいるとは聞いていたが、その才覚は想像以上だ。最新の情報を最速で得られる現地であるからこそできることか、ウィルスの性質をいち早く看破し、その性質を逆手にとってウィルス利用者の意図を捻じ曲げることに成功したというのだ。本部スタッフが〈ユリオン〉という巨大な障壁を前に立ち尽くしてしまっていたそのときに、その諜報員はたった一人で敢然と立ち向かったのである。誰にも妨げられずに拡散されるはずだった、組織にとってはもちろん、世界にとっては不利益以外のなにものでもない“真実”と呼ばれる情報を、その諜報員は即座に隠蔽することに成功してみせたのである。
もしも半年程前、その人材が兵站部に在籍していたとしたら、その者は間違いなくメギィドに目をかけられていたことだろう。そしてまた間違いなく彼に殺され、アメリカ南東の海岸で水死体として発見されていたことだろう。彼の存在を脅かす妬ましい才能として。
これを幸運と思えない者は、もはや兵站部には一人としていなかった。メギィドの失踪、そして彼に殺された三人の優秀な人材の喪失が同時に起きたことで、兵站部の技術力は極端に低迷した。責任者代行のメイサンも努力していたが、その弱気な姿勢が兵站部の士気低迷を誘引させることは避けられなかった。そんな矢先に兵站部に汚名を塗りたくった反逆者メギィドの忘れ形見たる〈ユリオン〉ウィルスが発生すると、彼に殺す価値もない無能と見なされたメイサンが奮起し、諜報員がウィルスの性質を暴くことに成功した。追い風に背中を押されたスタッフ一同は、持てる能力を全て注いで解析作業に勤しんだでいた。
「代行! “餌”の調理、完了しました!」
「ご、ご苦労様! わ、私の“トレイ”が完成したら、すぐに出荷します!」
メイサンは今年で二〇歳になる若者だ。才能だけが何より求められるこの裏世界においては、年功序列ほど無意味なものはないと言える。人間はもとより、彼ら異端者と比べて余剰の脳領域を有し、各学術的分野において類稀なる才覚を発揮できる《天才》もその例に漏れるものではない。よってメイサンが十代にして、組織兵站部の最高技術者に選定されているのは、彼が最も優秀な技術者・研究者であることに他ならない。
メギィドの策謀によって、兵站部の総合力は確かに落ちた。しかしそれでも、メイサン達は《ギフテッド》である。個々人ではメギィドに、ひいてはメギィドが生み出した怪物コンピューター〈ユリオン〉とそれが撒き散らした胞子には敵わないかもしれない。総力を結集させれば一矢報いることはできる。
今、兵站部は、メイサンを筆頭に誇りをかけて戦っているのである。
自分達をコケにしたメギィドの遺産を滅ぼさんと、〈ユリオン〉ウィルスを撲滅するためのワクチンを生成しているのである。
「ト、トレイに餌を盛り付けました! “パック”しますので、“発送”の手配をお願いします!」
そう言って、表世界で市販されている極めて一般的なUSBにワクチンを封入した。その間に、別席のスタッフがこれまた市販品の、かつこの基地のどのコンピューターとも接続されていないスタンドアローンのデスクトップPCを起ち上げて、インターネットの接続設定画面を開いて待機した。現在このPCはオフライン――つまり外部メディアを挿入しない限り、ウィルスに感染することはないオフライン状態にある。
メイサンからUSBを受け取ったスタッフは市販PCにそれを挿入し、ワクチンをインストールした。
「こ、こちら、へ、兵站部です。参謀本部、準備が整いました!」
〈MT〉のホログラム・モニター上に、メルセデスの顔が表示された。彼女は、『始めてください』とだけ応答した。彼の目配せに、スタッフは頷いた。オンラインに切り替わり、PCはインターネットを起動させた。
「た、ただ待っているだけでも、いつかは目をつけるでしょうが……」
「えぇ、誘惑します」
メイサンら兵站部と情報部の《ギフテッド》は、〈ユリオン〉ウィルスが暴飲暴食で無節操なことを知っている。PCからPCへ、サイトからサイトへ、メディアからメディアへ、蜘蛛の巣状に広がるインターネットという名の糸を渡り歩き、プログラムを食らっては増殖を重ね、知恵や能力を獲得し、より巨大で、より屈強なマルウェアへと進化していくその性格をすでに看破している。
だからいずれはこのPCへとウィルスは侵入を果たすだろう。しかしそうして生贄になる日を待っていられるほど、彼らには時間的猶予がなかった。
彼らはウィルスに接触するため、様々なインターネットサイトや広告にアクセスした。するとセキュリティ・ソフトどころかファイアウォールさえも組み込まれていないこのPCには、マルウェアがごまんと侵入し、PCに対して様々な攻撃を開始した。検知ソフトでPCの状態を監視しているメイサンは、テキストに羅列されたマルウェアの名称の中から、〈.code-y〉こと〈ユリオン〉ウィルスを検索した。
「は、博士、私は、私達は、みんなで、みんなでアナタを、止めてみせます……!」
スタッフ一同は深く首を上下させた。
マルコ、サーシャ、ベルノード。彼ら三人の無念を晴らし、彼らに恥じぬよう、世界のために貢献すること。それが兵站部の総意である。
そんな兵站部が短い時間で総力を結して作成したワクチンは、〈ユリオン〉ウィルスを除染する、あるいは滅菌してその存在をこの世から無くすということを目的としてはいない。端的に言えば、ウィルスにワクチンを食わせることで、そのウィルスの増殖プログラムを停止させるというものだ。件の諜報員が閃いたのと同じ方法――不利益なものを忌み嫌うこのウィルスの性質を逆手に、ワクチンを最も魅力的で、美味な食材として作成したのである。
功は奏した。
ウィルスは確かにワクチンを食らった。その性質を有意義なものであると認識するや、他のPCへの感染活動を見事に停止してみせたのである。その証拠に、別の市販PCと感染しているPCとを接続してみても、ウィルスに脅かされることはなかった。
「続けてワクチンをネット上に散布します」
「は、はい」
「ですが、しばらくはそれが限界ですね」
「ウ、ウィルスは、自身が、削除されることを、とても、恐れています。こ、これを、どのように、対処するのか。み、皆で、深く、検討しましょう」
同意してくれるスタッフの頼もしい顔を遠慮がちに見回してから、メイサンは一人、その場を離れた。気遣う彼らの声を背にドアの向こうへ隠れると、壁に凭れかかった。膝を折り、座り込み、項垂れてから目を閉じた。
真っ先に頭を過ったのはメギィドの顔だった。そして彼を囲むように立つマルコ達先輩三人が笑顔で手を振っていた。
“ファンクラブのことは頼んだぜ”
エリ・シーグル・アタミのファンを公言するベルノードの呑気な声が、未だに鼓膜にこびりついていた。
負けず劣らずアイドル的存在であり、兵站部一の才女だったサーシャの優しさには何度も救われてきた。
皆の兄貴分のようだったマルコは、極めて身近な目標であり、憧れだった。
そしてメギィドの背中はあまりにも遠かった。今もまだ、その背中に手が届かない。
尊敬していた。善悪は別として、皆のことを等しく敬っていた。
メイサンは精一杯強がって見せた偽りの自分に別れを告げて、大粒の涙を流した。
仮初でもいい。彼にとっては、四人の大きな背中を追いかけるばかりだったあの日々が何よりも幸せだった。
「情報部、〈シグナル・ブラック〉とは何だ」
怒気を孕んだ問いに、統合指令室の空気は凍てついてしまっていた。〈ユリオン〉ウィルスの増殖を阻止したとして、兵站部からの吉報に沸いていた最中のことだった。
組織に参画して三〇年余り、当初から相も変らぬギャバンの導火線の短さには、コイルもいよいよもって称賛を与えたいと思えてしまった。しかし考えなしにそんなことをすれば火に油、何かと理由をつけて暴力を振るわれるのは目に見えてしまっている。
喧嘩両成敗というのはよろしくない。また、ギャバンの秘密を暴くことも得策ではないとコイルは考えた。
ならば、「シグナル……何です?」などと、はぐらかさざるを得ない。
「しらばっくれるな……! ボスが言っていただろう、貴様にっ」
コイルは周囲を見渡した。浮遊する椅子に腰かけたり、地べたを歩き回ったりと忙殺されているスタッフの目が、二人に注がれていた。しかし視線をかち合わせまいと顔を背け、実質幹部クラスのみが二人の動向を見守っていた。
「作戦部の。何だ、何をそんなに鼻息を荒くしておる」
老齢の作戦参謀副長の様子から、彼をはじめ連中は何も知らないらしい。ギャバンも、偶然コイルとボスの会話を耳にして、その言葉の不穏さを警戒しているだけだろう。
では、そのボスの右腕――秘書官のメルセデスはどうだ。
コイルは背後から向けられる一際強い視線を感じ取った。
手段を間違えないように。
そんなことを言われているようだった。コイルも百も承知だった。決して彼女と目を合わさぬよう、ギャバンとのみ正対した。
「我々情報部における極秘作戦コード、それが〈シグナル・ブラック〉です」
「極秘作戦コードだと? 内容は!」
「……ボスの内偵調査です。バーグとの関係が始まった当初から、彼について様々な角度から調査を行なっていましたが、彼の背景は白のままでした。唯一見つけられた汚点は、表世界に家族を持っていたことだけ」
真実を包み隠さず教えれば、ここでの胸のつかえはとれるだろうが、その瞬間に情報部は立場を失ってしまう。誰もが情報部との関係を忌避し、いずれ組織は内部分裂を起こしてしまうだろう。
内偵が情報部の宿命だとは言え、それを無条件に受け入れられる者はそう多くない。人は誰しも、監視されることに抵抗がある。それはヘレティックでも同じだ。
「本当にそれだけか?」
「えぇ。私は部内でもごく一部の者達にその作戦を伝え、情報の取得を試みました。しかしボスご自身はそれを感知しておられました。私としてはそちらの衝撃があまりに大きい」
ここでようやくメルセデスを一瞥した。
彼女の瞳は、反射率が低い眼鏡レンズの奥でいつも怜悧なフォルムを崩していなかった。
女狐め。
口内で毒づく彼に、「彼は考えの全てを私にお話してくれるわけではございませんわ」と彼女は断言した。
「皆、お二人は一蓮托生だと見ていますが?」
「それどころか恋仲である、愛人関係であると下世話なことを仰る方もおられるとか?」
動じず、自らタブーを口にするメルセデスに、コイルは合いの手で問わなかった。
これ以上斬り込めば、彼女は必ず情報部の痛いところを突いてくる。〈シグナル・ブラック〉の対象がボスだけでなく、組織全てであり、また独自の表世界での諜報活動をも意味するという事実を。
ボスとメルセデス。二人は必ずそのことを知っている。
“必ずや、アナタを優位に立たせてみせましょう”
第一諜報部隊サブリーダー、エノロバ。
今作戦中に戦死したという彼の言葉が不意に蘇った。彼はコイルを次期ボスに推薦してみせると言ってくれていた。同じくあの座を狙うギャバンと何やら画策しているミーエリッキを口説き落としてでも、コイルをボスにしてみせると。
コイルは組織に改革を齎したかった。組織に参加して以来、情報部一筋だった彼は、組織上層部の緩んだ体制を知ると愕然とした。部下らには散々っぱら、表世界と縁を切れだの、裏世界で生涯を終わらせろだの、世界のために全身全霊を尽せだの、耳にタコができるほど同じことを何度も何度も念仏のように唱えてきたというのに、蓋を開ければ彼らこそにこれらの言葉が必要だったのである。
表世界で家族を持ち、裏世界はただの長期赴任先、幹部になれば基地内の座り心地の良い椅子に腰かけふんぞり返る。身を削るという言葉は右から左へ抜けていき、その癖口では、“世界のため”。上層部に認められた非公式の特権らしいが、そんなものは無用の長物、組織に属する以上は廃されて然るべき権利だ。
そうでなくては、連中の身から出た錆のために死んだエノロバ以下、全ての部下が浮かばれない。
しかしここは口を噤む必要があるらしい。辛酸を舐めなくてはないらしい。
「長官各位に要請します。この作戦が終了した暁には、近いうちに必ず、議会を開いていただきたい。そしてこの件についてよくよく吟味し、彼らスタッフ一同に恥じない結論を出すべきだと訴えます」
「……いいでしょう。ボスには私から強く打診しておきます。正直なところ、私も曖昧な状況を是としない性質でありますから」
致し方なかろうと、長官らが首肯する一方で、当のスタッフらはひそかに嘆息を漏らしていた。
作戦は今もって継続中で、議会どころか、バーグとの決着すらついていなのである。しかも現地を《千里眼》で観測している特務部隊〈サード・アイズ〉の報告によれば、あの早河誠が目も当てられない姿に変わり果ててしまっているという。温厚で、気弱で、人殺しを嫌悪するあの極めて普通の少年が、父母の仇に対して我武者羅な殺意を突き付けているようなのだ。
悲しいことだった。
浮遊椅子の上でまた一つ息をつくスタッフは、マヌケな上層部を見下ろした。その中で唯一睫毛を震わせる女性の存在に気付いた。
いつも気丈な彼女には似つかわしくないその顔色に、スタッフはどこか親近感を覚えた。
プリマスの外れ。廃墟の屋上に組織の輸送機が着陸してすでに二〇分が経過している。〈DEM〉を継続作動中のため、その姿は目視でも、あらゆる視覚補助機器を用いても確認できないが、確かにそこには空飛ぶ鉄の塊が座している。
それに乗ってやってきたのは組織の長――ボスだった。以前のバミューダ本部基地放棄騒動を除けば、ボス自らが表世界に、それどころか作戦区域に踏み入るのは就任以降初めての大事だった。
しかしそれは公式の情報である。実際は何度もお忍びで表世界に赴き、そこで築いた家族と幾度か会っている。妻はもう一〇年以上前に他界し、一人娘も三〇代半ばとそこそこの年齢だ。
その娘の子が今、目の前にいる。ちょこんと椅子に座り、鋭い眼光を祖父であるボスに突きつけている。彼女の名は、ノイン。コイルが情報部長官に就任してからは監視の目が強くなり、彼女と遭うのはこれで二度目となる。
「誰?」
刺々しく、それでいてまじまじと興味深そうに見上げてくる彼女に、「お前を迎えに来た」とボスは単刀直入に言った。すると彼女は眉を顰め、「誰って訊いてるの」と語気を強めた。
初めて逢ったのは彼女が産まれて間もない頃だ。度々行方知れずになるのだ、娘との確執は避けられなかった。しかし娘婿が仲を取り持ってくれて、ノインとの面会を許してもらえた。詫びと祝いのつもりで用意した花束と入れ替わりに腕の中へ納まった命の重みに、ボスもとい、ヴォルフガング・ソルスの目尻には涙が溢れていた。
それまで実の娘でさえもヴォルフガングは心ない人間だと思われてきた。感情が欠落し、あらゆることに無関心で、だから母を度々捨て、娘とも積極的に接しようとしなかったのだと。
しかし彼は臆病な男だった。命の重みを知る、温かい心の持ち主だった。それは母からもよく聞かされていたヴォルフガングの人となりそのものだった。
娘は彼と、そして愛する我が子を優しく抱きしめた。彼にも事情があるのだろう。だが、それでももう構わない。ノインのために涙を見せられる人ならば、それだけでいい。感情が昂ると鼻先を赤くするソルス家の血筋を見れば、そう思わずにはいられなかった。
メルセデスはその全容をよく知っていた。ボスの本性も、外にある家庭のことも。あらゆる事情の一切が、彼をボスとして確立させていることを。だから黙認せざるを得なかった。
「ノイン・グヴィナー、私はお前の祖父だ。ミアの父、ヴォルフガング・ソルスだ」
「ノイン……? アナタ、誰かと勘違いしていない? 私は“子羊”、〈アルパ〉の従順なる僕よ」
嘆かわしいことだ。
この目で直に見るまで、顔を合わせるまで、“洗脳”されているなどとても信じていなかった。何かの間違い、連中に脅されている程度だと思っていた。思っていたかった。
ヴォルフガングは彼女の頭に手を伸ばした。妻に、娘によく似たブロンドが雪を被ったような白に変わっていた。どれほどの苦痛を与えられればこうなってしまうのか、どれほどのストレスを受ければこんなにも……。彼女の痛みを少しでも感じたくて、彼は頭を撫でてやろうとした。
しかし“子羊”は過剰に彼を拒絶した。目を見開き、彼の手をいつしかの光景と重ねて振り払った。
彼女は他の連中とは違って拘束されていない。彼女一人だけ別室に隔離され、二人の監視がいる以外は肉体的には自由であると言える。それは現場の配慮だった。誰だって、子や孫が両手両足を縛られている姿など見るに堪えないものだ。
そんな気遣いを肌で感じる一方、ボスはメルセデスからの報告を思い出していた。それは早河誠の過去に関することだ。曰く、彼女はセンス《メモリー・ハック》で誠の記憶喪失の要因を目撃したらしい。それは親指だけが空いた黒手袋が頭に伸び、親指の腹が額に強く押し当てられる様だという。それは誠の記憶にトラウマとしてこびりついているようで、現に雪町ケンが伸ばした手に酷く反応していた。
さらにフリッツの証言と今まさに現場で明らかにされている事実が、ノインを襲った者の輪郭を浮き彫りにしていた。
ハノ。
バーグからそのように呼ばれる彼の協力者。《催眠》のセンスを持ち、対象の記憶を改竄できる恐ろしい男。フードを目深にかぶり、戦場から姿を消した、この一連の事件のキーマンとも呼べる存在。
もしも早河誠から記憶を奪ったのもこのハノであり、ノインもその毒牙にかかったのだとすれば、全ての事象が一つの線で繋がり、不愉快な真実を露にすることになってしまう。
〈アルパ〉を唆し、ノインをはじめとした組織幹部の身内を人質リストに記載し、今のこの状況全てを作り出したのが、脚本家バーグと演出家ハノであるという真実だ。
許すまじ、バーグ。許すまじ、ハノ。
ボスの中で沸騰した殺意を感じたか、ノインは悲鳴を上げて彼を拒絶した。椅子を投げ、転がる瓶を拾っては振り回し、尻餅をつくと壁まで後退った。
「ノイン……」
「来るな! 来ないで!!」
「ノイン、すまなかった」
「誰か! 神様! 聖プレマン!! 聖グレア!! 助けて!! お助けください!!」
「ノイン、もう大丈夫だ」
「助けて!! 死にたくない!! 地獄になんか堕ちたくない!! CV、CV助けてよ!!」
彼女の声は届いていた。諜報部隊に打たれた筋弛緩剤に悶えながらも、CVは彼女の悲鳴に反応していた。猿轡で封じられた口で呻き、涙を流していた。すぐにでも彼女の元へ駆けつけたかった。
あの狭い部屋。コンピューターに繋がれた機器の熱に囲まれた二人きりの空間。CVにとっては天国だった。背中合わせでも、愛する人といられることが何物にも代えがたい幸せだった。
一目惚れだった。鉄の箱で眠る彼女はまるでおとぎ話のお姫様のように美しかった。一回りも年下の少女を捕まえて恋だ愛だだの気色悪いものだが、それでもCVは彼女にハートを射抜かれてしまっていた。
だからより一層、任務に励んだ。彼女を守ろうと、神々の無理難題に応えてきた。
しかしもう、叶わない。彼女を助け出せない。
「何でいないのよ、CV! CV――っ!?」
途端、声が出なくなった。腕ごと抱き寄せられ、悲鳴の一つも上げられなくなった。
嫌だ。気持ち悪い。反吐が出る。こんな変態男、死んでしまえばいいのに。そう思ってもがきたいのに、指先一つ動かせなくなっていた。
ノインは開いた口を塞げず、辛うじて息した直後に懐かしいニオイを思い出していた。それは《ギフテッド》の驚異的な記憶力によるものか、それともこれさえもハノに捏造された記憶か、いずれにせよ彼女の脳はまだ物心つく前の、わずか生後数日に嗅いだ祖父のニオイを憶えていたのである。
「ノイン、一緒に行こう。もう一人きりにはしない」
「……い、嫌よ。私は神々に、神の子に……っ」
記憶と虚構が鬩ぎ合っていた。
だが、口とは裏腹に彼女の幼い両手は祖父の背中を強く抱き締めて離さなかった。
通い合う熱に、二人の鼻先がほんのり赤く彩られていた。