〔四‐3〕 虫の知らせ
「先生、薬の検品が終わりました。サインをお願いします」
衛生部医療部隊総隊長室。
組織の医療全般に携わる衛生部の中で、この総隊長職が執刀医の最高位となっている。
その座に着く清芽ミノルは、ナースからの報告書――有機ELフィルムを受け取った。フィルムをクリップ型のUSBで挟み、手の平をフィルムに押しつけた。するとフィルムは指紋と静脈を読み取り、事前にUSBにインプットされていた彼の遺伝子情報を受信した。彼本人であること確認したフィルムは、サイン欄に清芽の名を自動で記すと電源を落とした。
清芽はUSBを外すと、「ご苦労様、皆にも伝えておいてください」とフィルムを彼女に返した。「かしこまりました」と満面の笑みで頬を染める彼女から目を逸らし、また机上のディスプレイで停止させていた映像を再生させた。
そのあまりの没頭ぶりが気になって、ナースは彼の後ろに回りこんだ。医師と思われる偉そうな男が、ベッドに寝そべる女に何らかの処置を施している様子が映っていた。女の頭にはいくつもの電極が取りつけられていた。
「何の資料ですか?」
「あぁ、記憶喪失の治療法をね。組織もコレに関しては手をつけていなかったようだから、一から解決方法を探っているんだよ。資料集めには情報部にも手を焼かせてしまった」
「私てっきり、薬一つでどうにかできるものだとばかり思っていました」
「キミもすっかり組織に馴染んでしまったね。だけど気をつけなよ、僕らは完全じゃないんだ。いつだって不測の事態に備えておくべきだよ」
「はい、承知いたしました♪」
本当に分かっているのだろうか。彼女はあどけない笑みを見せると踵を返した。
組織の医療はほとんど完成されていると言っても過言ではない。彼女が言うように、表世界で難病とされている病やアレルギー、機能障害から瀕死の重傷でさえも、薬やワクチン、ロボット、あるいは清芽をはじめとするまさしく人間離れした医療技術を持つ医師達により、瞬く間に治療されていくのが組織の医療レベルだ。
だから彼女のように、死んでさえいなければ助かると思ってしまっても仕方がない。
しかしそんな中、記憶喪失については研究が進んでいなかった。それはこれまで組織が記憶喪失の患者を満足に取り扱った例がなかったということだった。
「あ、記憶喪失のマコト君って言えば……」と扉の前でナースが何かを思い出した。「彼が、どうかしたのかい?」と清芽が問いかけると、「えっと、でもコレ、言っていいのかな」と逡巡した様子で言葉を濁した。
「彼は僕の患者だ、漏れなく報告してほしい」
それでも悩んだ彼女だったが、「ただのデマかもしれませんが」と前置きして、「実は上の階で騒ぎになっていまして、何やらマコト君が決闘するとかどうとかって」
絶句した清芽はやおら立ち上がると、彼女に駆け寄って肩を掴んだ。
「決闘!? 誰と!」
彼の切迫した剣幕をどう捉え違えたか、「やぁんっ、ダ、ダメです、心の準備がっ」ナースは満更でもないような顔で猫撫で声を上げた。
「いいから答えなさいっ、場所は訓練じょ――!?」
甘い妄想の中にいたナースだったが、突然言葉を失う清芽の異変に気付いて動転した。
「せ、先生? どうかなさいましたか?」
「……この感覚、まさか“奴”が?」
まるで虫の知らせでも聞いたように、清芽は部屋を飛び出していった。