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ネイムレス  作者: 吹岡龍
第四章【死を招く怪人劇 -The unstoppable Burge's puppetry-】
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〔九‐5〕 Give it back to my ……

 息ができない。酸素を求めるたびに、口や喉に空いた穴からは鮮やかな赤が噴き出す。

 大きな杭で頸椎を射抜かれているからか、早河誠の身体は壁に貼られたポスターのように宙にぶら下がっている。

 霞む視界に憎い男が見える。彼は何やらペラペラと喋っている。ご機嫌な髭がやたらと目立っていて、見ていると苛立ちで頭がおかしくなりそうだったから、そっと目を閉じた。

 このまま意識まで、命まで、人生まで閉じていくのだろうか。汗が出るほど熱く、そして次第に冷えていく身体から感覚が失せていく。熱を籠らせてショートした頭が、額から伝わるチクリとした痛みに気付いたのはそのときだった。

 いいのか。

 それは声なのか。あるいは文字なのか。泡のように、煙のように、おぼろげに浮かんだこの問いに、誠は即座に答えられなかった。

 良し悪しで図れることなのか。諦めてはいけないのだろうか。

 もう、人生なんて終わっているじゃないか。

 優しく、愉快で、芯の強い両親は行方知れずのまま。

 自分を独りにしないでいてくれた祖母も静かに、厳かに、その命に幕を引いた。

 そして幼馴染の飛山椿。偽りない純粋な愛を伝えてくれた彼女も、この世にはいない。バーグ達の謀略で、もう――。


「ご……ぇん、ツ……ァキ……っ」


 ごめん。すまない。許してくれ、ツバキ。オレはもう、仇を討てない。

 早河誠は脱力した。センス《韋駄天》を解き、効能たる治癒能力を停止させた。無意識にしがみついていた生という名の細い糸から手を離し――『まだだろ!!』劈く声に聞き覚えはない。ただ、不意の驚きが、彼に今一度糸を握らせていた。


『彼女は生きている!!』


 その声に呼応するように、屈託ない笑顔を見せる在りし日の椿の姿が蘇る。


『ツバキ・ヒヤマは生きて、お前の帰りを待ち続けている!!』


 マコトと呼びかける溌溂(はつらつ)な声に何度も救われてきた。


『決して叶わぬと知りつつも、たった一つの希望をその手から零さず、祈り続けている!!』


 頬を染める彼女の瞳は愛を求めていた。


『お前の願いは何だった!?』


 帰りたい。そう願い、雪町ケンと決闘までした。

 一敗地に塗れ、現実を知り、ヘレティックとしての運命を受け入れた。

 それでも、そうだからこそ、飛山椿を守れるくらい強くなって、あの眩しい日々に帰ることを切望した。世界を守ることが彼女を守ることにも繋がると願って疑わなかった。


『お前に残された、たった一つの繋がりは確かに生きているんだぞ!!』


 物心つく前から知っている彼女。

 隔絶を経て再会した彼女。

 変わらぬ気持ちを抱え続けてくれていた彼女。


『いいのか!? お前は心に誓ったはずだろう、立てた小指に願ったはずだろう!?』


 右手の小指がピクリと跳ねる。


『その指に絡みついた赤い糸を手繰れ! 手繰り寄せろ!!』


 薄く開く目蓋の向こうに見えた。

 自分が、誰がどうやっても、切ることも解くこともできない腐れ縁のような、強く温かい真っ赤なしがらみが、小指に絡みついているのが確かに見えた。


『生きろ! 走り出せ!! 立ち止まるんじゃない!! お前に与えられた(センス)は、そんな姿を望んじゃいない!!』


 誰かが背中を押してくれた。振り返ると、眩むほどの光の中に男が立っていた。

 黒髪に赤い瞳、見慣れない戦闘服を着ている。ニッと笑みを浮かべて踵を返す彼は、“その足、託したぞ”と告げるように軽く手を振って消えた。その面影はどこか知り合いに、信頼の置ける仲間に、似ているように見えた。




 少女アリィーチェは走っている。

 その小さな身体と短く細い腕で、一振りの〈エッジレス〉を懸命に抱えながら闇夜を駆けている。

 助けになりたかった。姉を亡くし、自暴自棄になって安直にも復讐に奔ろうとした自分を諫め、道を示してくれた早河誠が窮地にあるなら救い出したかった。

 恩義だけかと問われれば、彼女はきっと黙り込んでしまうだろう。芽生えた感情を表に出すのを躊躇ってしまうだろう。

 初めてのことに違いない。

 それまで姉にばかり注いでいたものとは全く異質の想いに、彼女自身も戸惑ってしまっていることだろう。こんなにも胸を高鳴らせ、苦しさと()い交ぜになってしまうようなことがこの世にあることに。

 初恋である。

 疑いようもない、無償の愛だ。

 〈MT〉の位置情報から、誠はこの道の突き当り、大通りを右に行った先にいることは分かっている。しかし不自然だと思えた。音速を越えて移動できるあの誠が、しばらく同じ場所から動いていないのだ。

 死んでいないのは確かだ。もしそうならボディアーマーに搭載された〈AE超酸〉が彼を〈MT〉ごとこの世界から消し去っているはずだ。

 焦燥が彼女の視界を狭めた。足がもつれ、つまらないゴミに躓いてしまった。〈エッジレス〉が腕から離れ、一足先に大通りへ飛んでいく。身体はどうしようもなく地べたに吸い寄せられ、いくら手を伸ばしても〈エッジレス〉が彼女の手に戻ることは二度となかった。

 そう、二度と。




 第一諜報部隊のクートヘッドは熱核融合炉エンジン搭載型バイクに跨り、ニュージャージー州の沿岸を走っている。後部座席にはチーム・リーダーであるフリッツを乗せている。

 爆風を受けて満身創痍のフリッツだったが、さすがに組織の応急手当キットは優秀であり、全快とは言わないまでも立って歩ける程度には回復することができていた。

 二人が目指すのはやはりマンハッタンである。しかしハドソン川を横断する橋やトンネルは厳しい通行規制が敷かれており、それを掻い潜るのはもはや困難と考えられた。川を泳いで渡るような派手な真似は諜報部隊員(エージェント)として、またそもそもフリッツの体力的にも無理難題と言わざるを得ない。

 彼らは早々に諦めることとした。そもそも、戦闘員ではない彼らが戦場のど真ん中に突入しても何の役にも立たないどころか、足手まといになることは明々白々なのである。かてて加えて、マンハッタンに入ればクートヘッドのセンス《マルチ・テレパシー》が万全に働き、戦場全体を空間把握能力による索敵範囲に入れることが可能という、極めて小さな理由から目指していたに過ぎないのである。

 今、この距離でも《マルチ・テレパシー》は戦場に届き、フリッツの言葉を代弁して早河誠へ伝えることはできている。他にできることがあるとすれば、情報部のトップチームとして諜報部隊の指揮を買って出る程度である。

 そう思い、バイクを路肩に止めたそのときだった。クートヘッドの脳裏に戦場のイメージが浮かび上がった。

 黙りこくり、わずかに身震いしている彼の様子に気付いたフリッツは、「何かあったの?」と慎重に尋ねた。

 クートヘッドはヘルメットを脱ぎ、眉間を揉んだ。額に滲む汗を拭って、青褪めた顔を上司に向けた。

 部下の言葉に、フリッツもまた顔を覆った。


「すぐに調査隊を送らせよう。そうでもしなければ報われないじゃないか……」




 バーグ。彼の目は未来を視る。

 しかしそれは任意ではない。不意に、実視界を押し退けて未来が現れるのである。

 この状況も、すでに何度も視ている。そしてその後の展開も、訪れる結末も、全て知っている。


「終わりが近い。だからこそお前には絶望してほしいのだ」


 途端、凄まじい気迫に背筋が粟立つのも予習済みで、それは決して拭いきれない恐怖を心に刻み込むことも承知している。振り返ると、視界の左端に赤い轍を捉え、回避できない死という宿命をほんの少し先延ばしにされたという事実も把握している。

 早河誠を磔にしていたはずの建物が粉塵を散らして吹き飛んだ。爆風が、彼が超音速で脇を駆け抜けたために巻き起こった突風が、バーグをその場に縫いつけた。脱げたキャスケットを追いかけるように踵を返すと、大通りの遥か先に誠の姿を見つけて顎を引いた。

 少年の目は路地から飛び出てきた〈エッジレス〉を捉えていた。それが地面に落ちる前に拾い、振り向きざまに急ブレーキをかけた。

 互いに殺意を確かめ合ったのは、瞬き一つ許さぬほどのまさに刹那の内だった。踏み込んだそのときから早々に“音の壁”を突き破った誠の顔面は崩れ、治癒されたばかりの頸椎も軋んだが、人体という複雑かつ音速にはとても耐えきれないだろう構造をまるで無視し、造波抗力も空熱摩擦も驚異的な治癒能力や特有の肉体組成で半ば強引に跳ねのけて、彼はマッハ5という驚異的な速力でバーグに肉薄していた。

 圧縮された空気が誠の腰回りに溜まり、急ブレーキとともに拡散する。衝撃波と呼ばれるそれは、加熱した誠の肉体が齎す高熱を伴って、バーグの半身を焼きながら宙に浮かせた。すかさず振るわれた〈エッジレス〉は自由を失ったバーグの左腰に食い込み、大きく彼方へ薙ぎ払うに至った。

 それはジオに対して見せた攻撃を上方修正した、《韋駄天》における完成された技だった。《韋駄天》の前発現者たる雪町セイギは、これを〈烈風〉と名付けていた。

 いくつもの建物を貫きながらもバーグが辛うじて生きていられたのは、体内に生成した《念動力》による壁、言うなれば鎧のお蔭だった。しかしさすがは《韋駄天》、全ては無力化できなかったようで、バーグはドロリと濃い血液を吐き出した。肋骨も砕かれたか、立ち上がるにも《念動力》を使う必要があった。

 こうなることさえも知っている。しかし痛みまでは知らなかった。

 全く、面倒な話だ。

 バーグがようやく背筋を正した瞬間、再び身体が宙に浮かされた。背後に赤い瞳が張りついており、気付けば花火のように高空へ投げ出されていた。


「早河誠ぉっ!! 貴様に真の絶望を見せてやろう!!」


 宙に留まる彼の声は空間を広く揺らし、第一実行部隊をはじめ、マンハッタンにいる全ての者の注目を集めた。

 彼は左手を明後日の方向へ伸ばした。見上げる誠の視線は、自然と彼の示す先を追っていた。

 酒顛達はエンパイア・ステート・ビルの屋上、アンテナの付け根に佇んだままの直方体タイプの〈BB〉の挙動がおかしくなったことに気付いた。直立する棺桶のようなそれの蓋が開き、何やら白い袋が現れた。それはバーグの《念動力》によって宙に浮き、ビルのやや手前の空間に留まった。その様子は大通りにいる誠からもよく見えた。


「さぁ、よく思い出せ。貴様の絶望は、艱難辛苦(かんなんしんく)はいつから始まった……!?」


 彼のセリフを皮切りに、時間が遡行(そこう)していく。回復したばかりの記憶が次々と掘り起こされていく。

 マンハッタンでのこの出来事――――。

 ジョージ・グレアの怒り。

 隻眼男の横暴。

 アンディ・コープとの対面。

 〈アルパ〉の脅迫。

 ネーレイやファルクの墓前。

 アリィーチェの涙。

 ユーリカ・ジャービルの死。

 隻眼男への最初の一撃。

 ミシガン州南東部にあるゴーストタウン。

 カズンとの諍い。

 師セロン・ネーヴェマンを失うも、より強い覚悟を決めるウヌバ。

 ヘリで去っていくレーン・オーランド。

 命を投げ打つセロン・ネーヴェマンの背中。

 壮絶な過去を語るレーン・オーランド。

 射殺され、〈AE超酸〉によって跡形もなく消えるプラワット。

 白銀映えるカラコルム山脈。

 清芽ミノルの教え。

 それでもバミューダ基地に歓迎されない第一実行部隊。

 唯一笑顔で出迎えるセロン・ネーヴェマン。

 携帯電話越しに問いただすも、容赦なく切り捨てるレーン・ハワード。

 豪華客船〈ネオ・アルゴー〉号で再会し、正体を現すレーン・ハワード。

 別れ際に、友情の証として渡されたレーン・ハワードの携帯電話。

 第一実行部隊が居候するパリのベーカリー〈ペレック〉で世間知らずの態度を見せるレーン・ハワード。

 〈ペレック〉の看板娘シェイナ・ペレックに惚れられるレーン・ハワード。

 坂道を転がり落ちる乳母車と赤ん坊を共に救ってくれた、レーン・ハワード。

 立てた小指に返る仄かな熱。

 エリ・シーグル・アタミの優しい笑み。

 遺されたメギィドの手とその温もり。

 柘榴のように弾けるメギィド。

 〈ユリオン・チルドレン〉。

 第一実行部隊で重ねた小指と約束。

 雪町ケンに託された〈エッジレス〉。

 清芽ミノルとの約束。

 メルセデスの血の味。

 裏世界で、組織の一員として生きると固めた覚悟。

 目の前で次々に柘榴のように弾けるREWBSの人々。

 大笑いする雪町ケン。

 敗北の代償として連れ出された中国山間部のREWBS基地。

 銃を発砲する雪町ケン。

 決闘を申し込む雪町ケン。

 どうしても組織から出ていきたいなら両足を切り落とせと迫る雪町ケン。

 エリ・シーグル・アタミの謝罪。

 エリ・シーグル・アタミの柔らかい手。

 エリ・シーグル・アタミの壮絶な過去。

 突きつけられた事実。

 燃え盛るウヌバの腕。

 酒顛ドウジの熱く大きな手。

 テロリストを名乗る銀髪の男と、理不尽な要求。

 目の前で撃ち殺される女性研究員。

 テロリストから救ってくれた自称研究員という女性の柔らかい手。

 重傷を負いながらも身を挺してテロリストから逃がしてくれた清芽ミノル。

 主治医を名乗る清芽ミノル。

 知らないベッド。

 明日、いつもドア越しに声をかけてくれる少女と逢ってみようと考え眠りについた夜。

 何度も話しかけてくれる少女の声。

 耳打ち合う医師と看護師。

 重い頭と額に奔る熱。

 自分とその過去の忘失。

 知らない場所。

 知らないベッド。

 カイゼル髭の男の声。

 黒い手。

 フードの男。

 ハノ。

 殺意を露にするカイゼル髭の男。

 炎上するトラックの向こうに見える、投げ出された白い腕。

 二人に迫り来るトラック。

 眩しい光。

 告白に答えようと動き出す唇。

 飛山椿の真剣で、臆病な眼差し。

 飛山椿の告白。

 三叉路、二人の分かれ道。

 夜の帳が下り、くだらない言葉を交わす二人。

 スーパーで特売商品を選ぶ二人。

 独りじゃないと言ってくれた飛山椿。

 放課後、下足ホール。

 全てがくだらない、灰色の日常。

 漠然と過ぎ行く時間。

 事務的に片付けられていく葬式。

 天涯孤独。

 参列者の耳打ち。

 祖母の顔を隠す打ち覆い。

 やはり何も言わず、涙を掬ってくれる祖母の手。

 寝たきりになった祖母。

 料理中、突然倒れた祖母。

 懐かしい家で過ごす、祖母との心休まる日々。

 何も言わず、手を引いてくれた祖母。

 空港で待ってくれていた祖母。

 帰国。

 警察関係者から渡されるわずかな両親の持ち物。

 引き続き捜査すると告げる地元警察。

 波止場に残されていたという両親の靴。

 イタリア共和国ヴェネト州ヴェネツィア県ヴェネツィア。

 訳も分からぬまま連れ出され、空港から飛行機で空へ。


『向こうの警察さんが言うには靴とかの持ちモンが港に残ってるらしいんや。ちょっと確認しにオジサンらと来てくれへんか? ちゃうか。まぁ、その、行くで、マコト君』

『え……?』

『そのツアーのな、行き先にイタリアのベネチヤいうところも入っててな。そこでお二人さん、行方不明になってもうたらしいねん』


 英単語やら数学の公式やらが頭にこびりついて、彼の言葉は耳に入らなかった。


『落ち着いて聞いてほしいんやけどね。キミのお父さんとお母さん、えぇと、(まもる)さんと成美(なるみ)さんなんやけどね、今、旅行中やね。海外の、ヨーロッパ・ツアー?』


 旭日章の入った黒革手帳を開き、身分を証明する男女。


『早河誠君やね? 我々、こういうもんです』


 ――――机に向かっていると鳴ったインターホン。

 鳴っている。耳に反芻されている。

 誠の中で、久しく止まっていた歯車が回転を始めている。


「さぁ、感動の再会だ」


 エンパイア・ステート・ビルのアンテナ付近に浮かぶ白い袋。それに印刷されたロゴマークに誠は見覚えがあった。学校帰り、よく利用していたスーパーのナイロン袋だ。

 しかしそれはとても汚れて見えた。赤黒い何かで満たされているように見えた。

 その袋が、落ちた。真っ逆さまに落下を開始した。

 誠は意思の有無に拘らず走っていた。《韋駄天》を使えば、袋が地面にぶつかる前に余裕で拾える距離だった。

 しかし上手く足が動かなかった。何度も転びそうになり、何度も地面に手をついた。

 両足と臀部を犠牲にアスファルトを滑り、何とか受け止めることができたが、同時に蝶々結びにしてあった袋の取っ手が破れ、内容物が誠の顔や身体を濡らした。

 鼻が曲がるほどの腐臭に包まれる中、呆気に取られる誠は袋の中身を覗いた。赤黒い液体に、おそらく生首と呼ばれるものが二つ浸かっていた。皮や肉のほとんどは腐り落ち、頭蓋から剥離しているが、それは間違いなく人の頭部だった。

 二つの頭の隙間に、何か手帳のようなものが見えた。誠はそれを掬い上げ、開いた。

 母だった。母の証明写真を載せたパスポートだった。

 母、早河成美の懐かしい笑顔が、赤黒く、それでいて色褪せていた。

 エリは口を覆った。酒顛とウヌバは息を呑んだ。ケンは唇を噛みながら彼を見下ろすほかに何もできなかった。

 ビルに取り残された市民らもその様子を眺めたが、何が起きているのか理解できる者は誰一人いなかった。ただ解るのは、テロリストと思しき戦闘服姿の少年兵が異様なまでに絶叫し、泣き叫んでいることだけだった。


「皆さん、危険です! 早く窓から離れてください!」


 バーグの声は市民へとよく届いていた。市民らは仰天したのも束の間、即座に彼の指示に従った。もはや彼は、テロリストと戦うスーパーヒーローという立場を確立しつつあった。


「必ずアナタ方を助け出します! しかし我々だけでは難しい! 皆さんの声を、世界に届けてください!! どんな方法でもいい、インターネットを通し、アナタ方が見ている全てを世界中に発信してください!!」


 彼らという世界の敵がいることを、万民に拡散するのです!!

 市民は従順だった。ハリウッド映画の役者になったような感覚で、世界のために、ひいては自分の命のために、PCやスマートフォンでインターネットにアクセスし、情報を次々に発信した。

 それはヘナ・サパラダランマでさえも阻止できることではなかった。テレビやネット動画の強制放映は〈ユリオン〉ウィルスの特性を逆手にとって封じることはできたが、その他のブログや匿名掲示板など、文字による情報統制までは不可能だった。

 市民は躍起になった。必死になってSOSを発信し続けた。それに待ったをかけたのは青年の声だった。


『騙されるな! そいつが、バーグこそが、この惨状を作り出した張本人だ!!』


 警察の物だろうか、道路に捨てられていた拡声器を使って人々に呼びかけるのは、この一連の騒動の容疑者であり、また被害者でもある大学生だった。


『俺はアンディ・コープ! アナタ方と同じニューヨーカーだ! そして、先日の動画を発信した男だ!!』


 バーグは彼の登場に動じなかった。《念動力》で捻り潰すのは容易だったが、市民の手前それをするのは得策ではなかった。それに何より未来を知っているから、わざわざ手を下す必要がなかった。


『俺にも責任がある! 償うべき罪がある! だが、それを抜きにしても余りあるほどの大罪が奴にはある!! 俺は奴に唆された、記憶を、思考を、行動を操られた!! 俺は奴の目的に利用されたんだ!!』


 あの子供は何を言っているんだ。

 そう思いながらも、市民はデバイスを操作する手を止めて聞き入った。

 青年は懸命に訴え続けた。


『大切な恋人が教えてくれた! あの少年が助けてくれたと! 何から!? そんなこと、言うまでもないはずだ!』


 アンディは満身創痍のジオを指さした。


『少年と同じ格好の人達こそが真のヒーローだ! 糾弾されるべきは彼らじゃない!!』


 市民らは恐る恐る窓から第一実行部隊を見下ろした。


『ココは、世界の中心だ! 情報の発信基地だ! ニューヨーカーなら真実と向き合え! じゃないと田舎者に、“知ったかぶり(ゴッサム)”だって馬鹿にされるぞ!?』


 空気が、風向きが変わったようだった。

 ビルに閉じ込められたある女性は、執筆途中のブログ記事を削除して、スマートフォンのカメラアプリを起動した。そして小さなレンズを窓の外へと向けた。暗闇に浮遊するカイゼル髭の男にピントを合わせ、シャッターを下ろした。


「……せ」


 女性の行動はすぐに他の者達に伝播された。バーグとジオを敵と再認識し、発信した情報を修正していった。


「……えせよ」


 しかしその流れもすぐに止められる。

 エリはアンディの盾になるように立ち、「ありがとう。でも、もう下がって」その目尻からは涙が零れていた。


「返せよ……」


 酒顛らもただ、彼を見守ることしかできなかった。もう止められるものではないと、痛いほど解ってしまったからだ。

 きっとまた自分達は悪役のレッテルを貼られてしまう。それはもう二度と剥がすことはできないだろう。たとえできたとしても、禍根は必ず残る。

 

「返せ、返せよ、なぁ」


 バーグにしてみれば当初の予定通りである。全てはこの日のために、いくつもの伏線という名のとっておきの燃料を溜め込んできたのである。それを遂に、満を持して投下し、つつがなく火を灯すことができた。

 運命は決して覆し得ないことをバーグはよく知っている。どんな選択も、結局は同じ結論に至るのである。並行世界など存在しない。誰一人抗うことはできない。

 皆、刻と呼ばれる怪物に操られる歯車であり、人形だ。バーグはその脚本を手にしているに過ぎない。そしてアドリブ要らずのそのストーリーのために、今日まで過ごしてきた。

 だから、組織が彼を凌駕できる理由などあるはずもないのである。

 よもや組織は、すでに完敗を運命づけられている道化なのだ。


「返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ返せ」


 バーグは嗤い、念仏のような恨み言に聞き入った。


「オレの人生を―――――――――――――――――――――――――――――――返せ」


 そこにいるのは人でもなければ、少年ですらなかった。

 全身の血管がくまなく破れ、酸鼻を極めるほど一色に染まった、名もなき赤い異端者(ヘレティック)――。

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