〔八‐4〕 交わる場所で
呼び止める母の声を背に、アンディ・コープの足は南西を目指していた。
父の職場であるヤンキー・スタジアムを横目にマコムズ・ダム・ブリッジを渡ろうとした。しかしすでに警察によって〈KEEP OUT〉と記された黄色い規制線が張られ、厳重な警備のもと封鎖されてしまっていた。
野次馬とマスメディアが結託し、警察と押し問答を繰り返しているのを遠巻きに眺めたアンディは、人目を忍んで南へ急いだ。145thストリート橋も封鎖されていると分かったので、意を決して橋を縦断するハーレム川に飛び込んだ。川とは名ばかりで、ハドソン川を下った淡水と海水とが交わる海峡である。幅はおよそ一三五メートル、妙にしょっぱい水を口や鼻から吸い込んで無様に咳き込みながら、クロールだか平泳ぎだか分からない泳法で何とか泳ぎ切った。
頽れて噎せ返し、髪をかき上げると周囲に目を向けた。ちょうど巡回する警官が通り過ぎた後のようだった。今の内だと、アンディは遠ざかる警官の背中を尻目に、闇に紛れて先を急いだ。
走りながら衣服を雑巾のように絞っていると、総合病院が人でごった返しているのが見えた。白を基調とし、青いラインが二本入った救急車が、赤と白のランプを忙しなく明滅させていた。
急いで。もっと丁寧に。大丈夫だからね。必ず助けますから。
それはまるで病院の引っ越しだった。逆再生されたかのように、重症患者らが担架に乗せられ、病院から救急車へ担ぎ込まれては、ハーレム川のほうへと走り出していくのだ。患者と思しき人々の腕にはトリアージ――患者の容態別に、その重症度や治療の優先度を選別すること――によって色分けされたタグがつけられている。カテゴリーⅢに分類される緑色は緊急性が乏しく極めて軽症な患者で、Ⅱの黄色は命の危険はないが処置が必要な患者、Ⅲの赤は最優先治療群とされ応急処置が不可欠な患者、そしてカテゴリー0の黒は死亡あるいは助けらない患者を意味している。
アンディは知っていた。この状況を幼い頃に見て知っていた。
『すぐに分かる。今からマンハッタンに行けばな』
家に押し入ってきた連中の一人、ヘレティックという超能力者とされる巨漢が言っていた。確かにマンハッタンの方角からは黒煙が立ち昇っていて、何か得体のしれない状況が広がっているようだった。
俺は本当に、どんな重大なことをしでかしてしまったんだ。バーグの誘いに、くだらない好奇心を満たしたいがために、俺は一体何を……?
考えるたびに心臓が跳ね上がり、腹の底が冷えてぐっと締め付けられる。
頭を振った。つまらないことを考えて、真実から目を背けてはならないと。見るべきなのだと。
アンディは駆け出した。ハーレムの路地を縫い、現場に急行せんと息を切らした。
途中、男達が悲鳴を上げて向かってくるのを見かけた。アンディはさっと影に隠れて彼らをやり過ごした。見ると、彼らが去った方向に濃いブルーのバンが一台止まっていた。黒煙を上げており、今に爆発しそうな素振りを示していた。
別の道を選んで細い路地を進むと、乗り捨てられたロードバイクを見つけた。運よく鍵はかかったまま、タイヤもパンクしていない。走って、泳いで、まるでトライアスロンだと苦笑したアンディは、サドルに跨るとタイムズ・スクエアに進路を取って漕ぎ出した。
セントラル・パークの東、5thアベニューを一直線にペダルを漕いだ。頭から噴き出した汗が額から目に入った。しかし加熱しているはずの身体とは裏腹に、それはとても冷たかった。
公園の一角、観光名所のメトロポリタン美術館前では思わず足を止めた。夜中とは言え、人っ子一人いないのは異常としか言えなかった。マンハッタンの中心地へ近づけば近づくほどに静けさが増していき、それがまたアンディの不安を加速させていた。時折、灰色の煙が視界を遮る様は、恐怖のほかの形容を妨げていた。
途端、息を詰まらせ、ペダルから足を滑らせ、大袈裟に転んでしまった。呻きながら周囲を見ると、大きな瓦礫が堆く積もっていた。よく目を凝らせば死体らしきものもそこかしこに転がっていて、五体満足なものを見つけるのは困難だということも判ってしまった。
倒れた標識は、ここがかつて、ほんの少し前まで、〈グラン・アメリカ〉という高級老舗ホテルだったことを教えてくれていた。
アンディは嘔吐した。今日一日、何も食べちゃいない。それどころか吐いてばかりだ。いよいよ出るものは胃液ばかりで、袋まで飛び出してくるんじゃないかという嫌悪感が身体の芯を蝕んでいた。
「コレが、俺のしたことなのか……!? でも何でっ、俺はただっ、ただあの動画を流しただけなのに!」
人が死ぬなんて言っていなかったじゃないか、バーグ!
アンディは地面を蹴った。南西へ八分ほど駆け、ようやくタイムズ・スクエアへ辿り着いた。
地獄だった。何度も訪れ、ニューヨーカーとして世界の情報発信拠点であることに誇りを持っていたこの場所が、見る影もない廃墟同然、戦場然とした惨状と化していた。
ビルボードのほとんどはビルの外壁から落ち、企業広告のディスプレイも電光掲示板も、その煌びやかな光の海を枯れ果てさせていた。車は横転し、炎上し、建物には大穴が空いて傾き、アスファルトは捲れ返っていた。やはり死体もあって、幼い子供のそれを抱える母親の姿も見受けられた。
力なく膝を突いたアンディは地面に額をこすりつけ、嘆き苦しんだ。
「殺してくれっ! バーグでも、あの死神でもっ、誰でもいいっ! 俺に罰を与えてくれ!! 俺をっ、俺を地獄に落としてくれぇっ!!」
その言葉に答えるように、電源の生きているビルボードのテレビ・ディスプレイや、屋内のテレビモニターが点灯した。ポケットの中で何かが震えるので取り出してみると、携帯していることもすっかり忘れていたスマートフォンが勝手に電源を入れ、ワンセグ機能を起動させていた。ぐっしょりと濡れてしまっていたが、ディスプレイは綺麗に映像を表示していた。そしてその映像は、周囲のディスプレイと同じ光景を映していた。
車のヘッドライトのような放射状の強い光が闇夜を照らす中、二人の男が戦っているようだった。カットが切り替わり、一人に注目すると、アンディは息を呑んだ。キャスケットを被ったカイゼル髭のヒスパニック系男性――つまり、バーグだった。自宅の庭先で死んだはずのあの男が、二度も復活を果たしていたのである。
アンディはディスプレイの右上に目をやった。〈LIVE〉と表示され、嘘か誠か、リアルタイムの映像であることを主張していた。
そのバーグに一撃を加えては瞬時にその姿を消す男の目は赤く輝いていた。よく確認できないが、その男はまだ一〇代のアジア人に見えた。
「ん、この服は――?」
ディスプレイが黒を映した。電源が切れたわけではなく、アプリも起動したままだった。ビルボードのそれも同様のようで、何かしらの視聴制限がかけられたのだと判断できた。
途端、手元のスマートフォンがバイブレーションと着信音を奏でた。画面を見て、アンディはすぐに通話ボタンをタップした。そっと受話器に耳を当てると、『アンディ? アンディ、声を聴かせて』愛する人の声が、すっかりやつれ切った心に染み渡った。
「メリッサ……」
『アンディ、あぁよかった、無事だったのね!?』
「メリッサ、キミは大丈夫か? どこにいるんだ、会いたいよ」
『少し、怪我をしちゃったの。でも大丈夫、緊急活動部隊の人達に助けられたから。今はユニオン・シティの病院にいて――』
怪我を?
アンディは息を呑み、恐る恐る訊いてみた。
「メリッサ。どこで怪我をしたんだい?」
『タイムズ・スクエアよ。バスに乗っていたらテロに遭ったのよ。横転するバスから身体を引き摺って出てきたんだけど、立てなくて……』
何てことだ。
アンディは顔を覆って、蹲った。彼女を傷つけてしまったこと、そして彼女が死なずに済んだこと、悲喜交々と言うにはあまりに落差がある状況に、アンディの良心は捩じ切れてしまいそうだった。
でもね、とメリッサは続けた。
『さっきのテレビ観た? 赤い目をした男の子が映ったの分かった? あの子がね、テロリストから私を助け出してくれたの! ネットではあの戦闘服の連中は敵だって言われてるみたいだけど、彼はそうじゃないわ! アンディ、信じてくれるわよね……?』
何か、パズルのピースが嵌ったような気がした。同時に、今朝のことを思い出した。
バーグが最初に死んだ廃工場で自分を問い質した無機質な声の持ち主のことを、何故か。
「メリッサ、信じるよ。キミの言葉が――真実だ」
アンディは立ち上がった。その瞳からは、最早後悔の色はすっかり消え失せていた。視界を遮る霞は晴れ、強い確信のみが心身を動かしていた。
愛してるよと言い残し、電話を切ったアンディは、南へ向かって歩き出した。次第に早足になり、気付けば駆け出していた。
もう、惑わされない。惑わされてたまるか。
唆されてしまった妹マギーの雪辱も晴らしてやらなければならない。
バーグは敵だ。
奴とその仲間達こそが、世界に反逆するテロリストだ。