〔八‐1〕 兄弟
ルジャ・ドルトーレは走っていたはずだった。
言われるままに押し入ったアンディ・コープの実家で奇妙な体験をした最中、義兄弟クロード・ヴァッヂ・フェロの護衛につけていた子分が慌てた様子で駆けこんできた。
『ボス・クロードがヤバい、ドンに殺される!』
彼のセリフを咀嚼するには時間が必要だった。ルジャが世話になっているジェノヴェーゼ一家の長ワルターは、子分であるルジャ達メイドマンから“ドン”と慕われている。そのドンのもとをクロードが訪れてからは、彼らは実の親子のように良好な関係を築いていたはずだった。落ち目であるマフィア再建のため、家業の未来を若きボス・クロードに全権委ねたほどだ。
それなのに、どうしてドンがクロードを殺そうとするのか。
絞り出した何故だという問いに、子分は目を泳がせながらも真剣に答えた。
『ボスと兄貴がCIAだかFBIだかの回し者だって出鱈目を、ドンが信じまったんだ!』
『ば、馬鹿な……』
『んなはずねぇよな、そうだよな兄貴!? アンタはいつだって俺達と一緒だった! そりゃあお互い一人になるときくらいあるけどさ、兄貴がスパイだなんて器用で狡賢い真似ができねぇ一本スジの通った人だってのは俺達がよく知ってる!』
ルジャはテーブルに凭れかかると、当たり前だと口中で呟いた。自分だけでなく、クロードも政府なんぞの尻に敷かれるようなお行儀の良い人間ではない。もしクロードが裏切り者だとしても、それには相応の理由があるに違いないと思えた。
『あの手紙……か?』
ルジャの脳裏に、一通の黒い用紙の手紙が浮かび上がった。白い手形が押されたそれは、皮肉を込めた脅迫文だ。差出人は本気を示すために、すでに彼らの義母を殺害している。
もしも差出人こそが政府か、それに連なりながら汚れ仕事を請け負っている者の仕業だとすれば、クロードは家族のために連中の犬に成り下がったとしても不思議ではない。
ルジャは子分にクロードの居場所を問い詰めた。市内の地下オフィスにいるはずだという曖昧な情報だったが、ルジャの直感とも合致していて疑うことをしなかった。
ふと我に返った彼は、庭で佇む虜囚二人の背中を見やった。
人を越えた力を持つ男達。脅迫主が政府であるなら、何か得体のしれない極秘プロジェクトに関わる連中なのだろうかと思った。彼らから情報を引き出したり、あるいは引き渡したり、それは想像をはるかに超えた計画のほんの一部分に過ぎないのだろう。そしてマフィアは、使い勝手の良い駒でしかなかったのだ。だから今、内紛を誘発させて、この際に一斉摘発を図っている――か?
ルジャは家を飛び出した。クロードに直接危害が加われようとしている今、虜囚の監視など必要のないこと。一刻も早くワルターの誤解を解き、クロードと今一度手を取り合ってもらわなくてはならない。
ファミリーのため。マフィアという、大いなる黒い血脈を絶やさぬために。
やはり走っていたはずだった。しかしルジャの記憶と違う風景が、瞬きのあとには広がっていた。
忙しなく交互に動かしていた足は床の上でバタバタと転がって、懸命に振っていた腕は地面に向かって振り下ろされていた。
どうなっているんだと状況を把握して分かったのは、自分は今、コンクリートに寝転がってランニングの真似事をしているのだということだった。さながら、おバカな猫や犬が、夢の中で走り回っているかのように。
「ルジャ……?」
聞き慣れないしゃがれた声にも拘らず、どこか名を呼ぶイントネーションに懐かしさを覚えたルジャは、身体を起こすと周囲を見渡した。どうやら彼らはどこぞの地下駐車場で雑魚寝しているようだった。
「そこにいるのか、兄弟」
「えぇ、アナタ。彼は確かにここにいます。ルジャ、返事をしてあげてください」
すぐ傍に兄弟が寝そべっていた。半死半生といった目も当てられない体たらくの彼の手を、その妻が優しく握ってやっていた。妻ナタリアもまた綺麗なはずの容姿を煤で汚し、抱える赤ん坊ジーナもすっかり憔悴しているようだった。
彼女のせがむようで、それでいて芯の強い瞳に我を戻したルジャは、火傷を負ったクロードの手にそっと触れてやった。喉を焼いてしまっているらしい。
「ルジャだ。ここにいる。何があった、どうして、こんな……」
「分からん。停電が起きて、地下オフィスから出られなくなった」
昼頃からニューヨーク市内で起きていた大停電と電波障害。子分はこれによりルジャへの電話連絡ができず、古代の伝令役のごとく自ら走って急報を伝えに来たのだった。
「火事にでも遭ったのか」
「爆撃を受けた。いや、火を吐く悪魔がな……いやいや、何を言っているんだ、俺は」
記憶が交錯しているようだ。しかし彼が自ら世迷言と思い込んでいるらしいセリフを、ルジャはどうしても幻覚と一蹴できなかった。ルジャはすでに人外の者達と出逢い、その特異な能力を目の当たりにしていたからだ。
本当、なのだろう。ヘレティックと呼ばれる“人ではない何か”共が、人間と同じく同属同士で殺し合っているというのは。内一体を脅迫者がクロードに差し向け、暗殺を謀った。ファミリー内で、ニューヨーク・マフィア間で潰し合いを誘発させた。
「俺は、焦り過ぎただろうか……」
「何を言っている、兄弟。お前は何も間違っちゃいない。俺達が俺達であるために、正しい道を示してくれたじゃないか」
クロードは光だった。ルジャにとってはもちろん、ワルターはじめ五大ファミリーそのものにとっても、生き残りを、栄華の最盛をかけた最後の希望の光だった。
「テメーら、何がどうなっていやがるのか教えろ」
ガチャッと特有の音が鳴るや、ルジャの後頭部に硬い何かが押し当てられた。それが銃口だと分からないほど、ルジャはマヌケではなかった。
「ドン、優しいドン。息子に引き金を引けるほど、アンタは落ちぶれていないはずだ」
「黙れ、この野郎。親を裏切っている奴を息子だと思える道理はねぇだろうが。ましてや血の繋がりがなけりゃあ尚更よ」
「なら、撃てよ」
ルジャは諦めたような表情を浮かべた。
周囲に人が集まってきていた。どれもこれもカタギとは思えない。見覚えのある連中もチラホラいて、どうやらここには同類しかいないようだった。
「クロードと。血の繋がりのない兄弟と死ねるなら、本望だ」
「弁明はなしか、あ?」
問うたのは他のファミリーのドンだ。侍らせている連中も同様に眉を波打たせている。
みんな踊らされたのだということを、ルジャは理解した。薄く開いた目蓋の奥で、クロードも状況を把握したようだった。ナタリアも肝の据わった女のようで、何が起きようともヒステリーを起こさないだけの胆力はあるように見えた。
「クロードと俺、そしてクロードとナタリア、それぞれ一つずつ、アンタ達に頼みがある」
若きメイドマンの今際の願いを無下にする者はいなかった。沈黙が、彼に続けろと促していた。
「このままじゃあ、マフィアは終わる。それはドン、アンタ達ならよく分かっているはずだ。だから後生だ、必ず次の時代へクロードと、彼に準じた俺達の遺志を繋げてくれ」
下っ端から順に、空気がざわめいた。ワルターがすっかり汚れた高級な革靴で床を鳴らすとそれは静まった。
「もう一つは」
「ジーナをイイ女に育ててほしい。彼女が望むように、しっかりと。家業を継ぎたいと言うならそれもいい、嫌がるなら影から見守るだけでもきっといい。とにかく、彼女に幸せな人生を送らせてやってほしい」
「ルジャ。親でもねぇテメーが、何を勝手にペラペラ言っていやがる」
「愚問だな」
ルジャは立ち上がり振り返ると、ワルターの銃口を自らの額に押し当てて言った。
「俺とクロードは一心同体の兄弟だ。兄の心を俺はよく知っているし、その兄を愛した女の気持ちもよく分かる。きっと神様も認めてくれている。そうでなけりゃあ、手紙に兄弟揃って裏切り者だなんてつまらない嘘を書いたりしねぇよ」
周りがまたざわつく。しかしワルターだけは真実の輪郭に触れたがごとく、その老いさらばえた脳味噌で考えを巡らせた。
あの手紙に書かれていたことの大半が嘘だとすれば、脅迫主の目的は一つになりかけていたマフィアの仲違い、あわよくば自滅だろう。しかしだとすれば、クロードとルジャをセットにして裏切り者としたのは何故だ。一つひとつの細胞を切り離したいならば、クロードとルジャに軋轢を生じさせるのも好手に違いない。
やはり手紙が真実だから、彼ら二人を火種に内紛の誘発を図ったか。いや、そうじゃねぇだろうとワルターは頭を絞ってさらに思考した。
脅迫主が政府機関だとすれば、スパイを危険に晒すことはないはずだ。いくら使い捨ての駒だとしてもだ。二人が訳ありで、二人もまた脅されていたとしたらどうだ。二人には大切な人間はいない、義母も何者かに殺されて、互いだけだ。あと大事なものと言えば、自分の命だ。じゃあどうして、ここで命乞いをしない。命を担保にしているなら、ここで縋るべきだろうに。
何かがおかしい。何か異質なものがいくつも混在している。
「手紙の中身を何故知っている」
「俺達も脅されていたからだ。つまらない仕事をやらされていた。はじめ断ったら、母が殺された。連中のやり口、アンタが迷いなく銃口をクロードではなく五体満足で抵抗の可能性がある俺に向けたこと、それで合点がいった」
「つまらない仕事とは?」
「笑わないで聞いてくれるか、親父」
「誓おう」
「超能力者を二人ほど、監禁することだった。連中曰く、地下で暗躍していたはずの俺達〈新生ニューヨーク・コーサ・ノストラ〉が見つかったのは、《千里眼》だかって能力者の仕業なんだと」
「それはまた、腰が抜けそうな話だな」
ワルターは笑った。息子の戯言と遊んでいるかのような、気持ちのいい笑顔だ。
「少し納得がいった。超能力者なんてファンタジーが本当にあって、それを政府のようなデカい連中が管理しているとしたら、そりゃあ停電も電波障害も自在に扱えるだろうよ。“ジェイド・ヘルム15”なんて軍事演習もできるんだからよ。停電を皮切りにお前らを殺せってのも、何か変だと思ったんだ」
ジェイド・ヘルム15。合衆国が保有する全ての軍隊による大規模合同演習のミッション・コードとされているが、その全容は全くの闇に覆われている。配電施設を掌握し、電波障害を発生させることで、一地域を外界から完全に遮断するとされており、作戦区域とされる街中では様々な兵器や特殊部隊が戦闘訓練をしているらしい。
もしも政府がテロリストに見立てたマフィアの殲滅を図り、ジェイド・ヘルム15に類似した状況下で事を起こそうとしたのだとすれば、どこか腑に落ちるというものだった。
その上で、偶然にも、奇遇にも、誰からも疑いなく、クロードとルジャがセットで扱われていたのだとすれば、それはやはり二人が言うように、神が彼らを兄弟と認めているということだろう。
超能力者がいるのだ。神が実在しても何ら不思議ではない。
「あーでもー、それってまぁー、ナイんだよねぇー」
一連の流れを切って落としたのは、場違いでだらしのない女の声だった。一同が目を剥いて振り返ると、そこにはワンレングスの背の低い美少女が立っていた。
「誰だテメー?」
「ねぇ、手紙に停電のことが書かれてたってホントー?」
「誰だって聞いてんだよ、嬢ちゃん!!」
ワルターは彼女に銃口を向けた。しかし周囲のマフィアに銃を取り上げられた。やめろ、何しやがると吠える最中、絡みつく連中の様子がおかしいことに気付いた。皆、目が据わっており、口をポカンと開けては涎を垂れ流していた。
「言うこと利かせるのってー、神経使うから疲れるのよー。だからー、さっさと質問に答えてくんなぁーい?」
少女が操っているのか、操り人形のような周囲の男共が、ワルターの首に手をかけ始めた。
ワルターは苦し紛れに叫んだ。
「そうだ! 手紙に書いてあったんだ!」
「ふーん、そっか。そんじゃあー、おやすみー」
少女は目元の空いていないゴム製のような黒いフルフェイスマスクを被ると、挑発するように彼に手を振った。
途端、ワルターの意識が遠退き、男共に押し潰される格好でその場に突っ伏した。
「赤ちゃんにはちょーっとキツイからねー。はーい、お注射だよー」
ワンレンの美少女、情報部第一諜報部隊ダーシャは、ナタリアが抱えている赤ん坊ジーナの腕に針の短い注射器を刺し、溶液を投与した。これで催眠ガス〈ヒュプノス〉によってジーナの脳神経がダメージを受けることはない。すやすやと眠る両親、父の弟、祖父ら家族と共に、しばらくすれば目が覚めるだろう。
しかし目が覚めたとき、彼らの様子は少し違うかもしれない。それでも真実よりかはきっとマシだと思ってくれるはずだと、ダーシャは少しだけ感傷的なモノローグを胸中に抱いた。
「こちら〈DUST-5〉。マフィアはバーグにも操られていた模様ー。繰り返すよー……」