〔七‐3〕 踊る一つ目
組織から〈サイクロプス〉というコードネームを与えられた隻眼の男――ジオ。彼は左に偏った視界を頼りに、周囲に展開した好敵手達を高度三〇〇メートルの中空から俯瞰した。
左手には巨大な東洋の悪魔――鬼が一体。全長はおよそ六メートル、アメリカ人男性の平均身長は一七九センチメートル前後であるから、およそ三・四倍。表面積は二乗であるからおよそ一一・六倍、体積に至っては三乗であるのでおよそ三九倍である。そのような質量を足の裏で支えていられるあの巨人の肉体はどのように構成されているのだろうか。見れば、人体には存在しない筋肉がそこかしこに隆起しているように窺える。骨格の強度もおそらくこのコンクリートジャングルを形成するビル群と同じ鉄筋並みだろう。しかし自重で潰されている様子もないから、もしかすると比重は外見に対して軽いのだろうか。吹けば飛ぶような見かけ倒しであったら残念だとジオは眉間に八の字を寄せた。
鬼の足もとには銀髪の若い男がいる。彼とは一度見えたことがある。戦士としてはいくらか小柄な体格から繰り出される重い拳は、幾人も葬ってきた者ならではの無慈悲さがあった。何より目を瞠るべきは足技だ。連続で打ち込まれる回し蹴りには死を覚悟させられるほどの恐怖を味わわされたが、驚異的なタフガイであるジオは耐え忍ぶことができた。それでも二度とは食らいたくないというのが彼の本心だ。
右手には黒人。鬼のせいで見劣りするが、二メートルを超える高身長は威圧的だ。先程、右腕から発した氷の茨。アレは意識的に動かしているのか、墜落するヘリを救うように包んで、ビルの壁面に固定させたように見えた。もしそうだとすれば厄介極まりない。
しかし本当に危険視すべきは、正面のビルの屋上に佇む少年――早河誠だ。センス《韋駄天》によって超音速の脚力を得、かつまさしく超人的な治癒能力で深手もたちどころに塞いでしまう。さっき、タイムズ・スクエアではほとんど丸腰だったが、今の装備は万端整っている。最高硬度の合成金属オリハルコン製のボディアーマーをはじめ、弾丸を通さぬ特殊繊維の戦闘服、《韋駄天》の脚力に耐えられるブーツ、そして二振りの刃のない剣〈エッジレス〉。ほとんど鈍器のような、平たく幅広の剣状のこの武器は、かつての英雄・雪町セイギが使っていた物だと聞く。オリハルコンの次に硬いとされる特殊合金アダマンチウムで作られており、歯のない刀身は非殺傷武器としても、身を守る防具としても使える攻防一体の代物だ。
早河誠はそれを振り、“決して人を殺さない”と豪語する。人を殺すことで自らの力を知らしめてきたジオにとっては理解に苦しむ存在だ。
しかしそんな彼にジオは敗北を喫した。宣言どおり命までは取られず、組織が所有しているらしいメガフロートで尋問という名の拷問を受けた。無痛症を患うジオには無意味な時間だったが、一敗地に塗れる屈辱は幾ばくと表すことはできない。
「さぁ、来い。誰が口火を切ってくれる……?」
右か、左か。はたまた正面か。
組織の精鋭達が足を止め、ジオを睥睨する。
一分一秒がひどく長く感じられる膠着状態。五人の男達は相手の出方を窺っているように自ら動き出すことはなかった。
緊迫感は各ビルに取り残された男女にも伝播されていたが、やはり十人十色、しかも性差まであるとすれば、中には空気を読めない連中も出てくる。平気でカメラのフラッシュを焚き、主義主張をまくし立てては挑発を繰り返した。
何を黙っている。早くやれ。殺し合え。潰し合え。これ以上街を壊すな。政府は何をやっているんだ。死にたくない。ここから出して。助けてくれ。
心の声は苛立ちを増し、平静を装っていた者達までもが屋内から罵倒を飛び交わせた。それが肥大し、風船のように憤懣が膨れ上がって限界に達する寸前、ジオの右方面、足もとから冷気が競り上がってきた。
身を翻したジオは、ビルの窓にぶつかりながらも方向を転じて迫り来る氷の茨に苦笑した。一つ二つと肉薄する幾重もの切っ先を電磁障壁で弾きながら後退した。空中を踊るように逃げ、もはや幹と化した氷の束を、高圧電流を帯電させた長い金属棒で殴り壊した。
接触時に爆発が起きる。しかし氷は大気中の水分がある限り、あるいは黒人戦士ウヌバの精神力が続く限り、延々と生成され続ける。折られた幹から新たな枝が伸び、棘を生やして彼の身体をヘリのときのように包んで拘束した。まるでハエトリグサ――いや、中世ヨーロッパの拷問器具“鉄の処女”、またの名をアイアン・メイデン。
呆気ない。彼はヒーローじゃなかったのか。
落胆と茫然、絶望が綯い交ぜになった空気が人々の間で滞留しはじめた。それは“氷の処女”から発した強い光で掻き消された。木っ端微塵に砕かれた氷の中から、隻眼のヒーローが復活したのである。すると喝采が上がり、反撃を求める声が勢いを増した。
「逃げて!!」
窓越しにそう叫んだ若い女性の声に気付いたのだろうか、ジオは背後に振り返った。しかし急接近してきた白銀のそれは視線よりもやや下から向かってきて、彼の左脇腹に重い衝撃を加えた。次いで、首根っこが太い何かに締め付けられると、視界がぐると縦に回転した。ややあって瞬きすると、頭が下になって氷の幹に全身が埋め込まれていた。
痛くはない。しかし三半規管を、脳を揺らされたらしい。朦朧として閉じようとする意識が奮い起こしたジオは、全身から電気を放出した。氷の幹は砕かれ、危うく高空から真っ逆さまに墜落するところだった。辛うじて足もとに電子を格子状に組んで浮遊の体を保つと、自然、足もとに鬼の姿が見えた。左足を踏み込み、右腕を投げ出し、上体をやや左に捻っている。振り仰ぐと、鎌首を擡げる格好の氷の幹の上に、片膝をついてコチラを注視する銀髪男の姿があった。
「人間砲弾とはな、笑わせてくれる」
しかもただぶつかっただけではない。腹に肘鉄を食らわせ、さらには首に腕を絡め、ジャーマン・スープレックスさながら胸を反るや、氷の幹に叩きつけたらしい。空中で、あの一瞬で、そんな複雑な動作をやってのけたらしい。
ますます笑いが止まらなかった。
「そうしていられんのも今の内だ。あのとき着けられなかったケリ、ここでキッチリ着けてやる」
「飛べないお前に何ができる?」
「それなら心配いらねぇよ」
雪町ケンが口角を上げた途端、氷の茨が両者の足もとを滑り抜けた。そして茨は横に広がり、絡み合い、結合し、やがてスケートリンクのような氷の足場が形成された。エンパイア・ステート・ビルの上層階から飛び出す格好で突如現れた円形闘技場に、人々は開いた口も目蓋も塞がらなかった。
否応なくリンクに着氷したジオは、身動きが取れなくなって姿勢を崩した。ブーツの足裏に氷が張りつき、さらにはリンクから生えた茨に絡めとられてしまったからだ。
「小癪な……っ!」
「らぁっ!!」
氷の上を滑らず駆けてきたケンの右拳がジオの眉間を打ち抜いた。衝撃は全身から足もとの茨にまで伝わって砕け、彼の身体は後方へ投げ飛ばされた。
転がり、手をついてみたが滑りは止まらなかった。全身から発した電磁波で摩擦を生もうと試みたが、ほとんど純水氷に近いこのリンクは電気を上手く通さなかった。リンクの端まで滑って、身体が投げ出された。縁を掴んでぶら下がったが、情けなくも滑り落ちてしまった。
高高度からの落下だ。身体は突風に煽られ、崩れた姿勢は質量が最も高い頭を下にしようと回転を始める。何とか今一度電子による足場の構築を試みたジオだったが、巨大な影に視界を奪われるほうが早かった。
「が あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ っ っ っ っ っ !!」
身の丈ほどもありそうな拳が降りかかり、ジオは咄嗟にバリアーを構成した。直接的な衝撃は全て不可視のバリアーが吸収してくれたが、肉体とバリアーの間で圧縮された圧力までは緩衝してくれなかった。ジオは向かいの無人のビルへ飛来した。窓ガラスを背に割って、テーブルや椅子で全身を打撲、擦過傷は免れなかった。
「……アレほど人目を忍んできた連中がこうも派手に暴れるとはな」
失笑しつつ立ち上がった彼は、埃を払うと、ケンによって眉間につけられた、いっとう深い傷口を親指で拭った。血を掬い、舐めると、割れた窓から通りへと飛び降りた。四階分の衝撃を両足で逃がしつつ、背筋を伸ばした。
見上げると、リンクを生やしたエンパイア・ステート・ビルが天に伸び、その手前に鬼が立っていた。怪物は名状しがたい形相で彼を見下ろし、言葉とは言えない地獄の息吹のような深い唸りを発した。酒臭い息には思わず眉間が寄った。
ジオは両手を広げて彼らに叫んだ。
「面白い、そうだ吹っ切ればいい。枷を外して、その血が赴くままに争――!?」
気付けば壁に半身が埋もれていた。痙攣を起こす身体を奮い立たせると、通りに少年の姿があった。
いや、もはや子供とは言えまい。わずかに逆立った黒髪、赤く煌めくルビーのような硬質の瞳、忙しなく膨縮を重ねる両足の筋肉。両手に〈エッジレス〉を持ち、右手のそれを肩に置きながら見下してくる不遜な態度。どれをとっても“少年”というイメージからはかけ離れている。
「しかしまだ、戦士とは言えないな……」
「組織が総力を尽くして街を復元する。だから遠慮せずに戦え。そんな風に言われたけど、やっぱり気が引けるんだ。だから、さっさと降伏してくれよ」
「会うたびに、お前の口調は偉そうになっていくな」
「黙れ。オレが聞きたいのは、“参りました”の一言だけだ」
誠と視線を交わらせたジオは、そっと口を開いた。瞬間、一足飛びで距離を縮めた誠が、ジオの首に〈エッジレス〉の切っ先を押し当てた。
「無駄口なら聞きたくない。こっちにはお前一人に構っていられる時間はないんだ」
グッと呻くジオに言い聞かせるように続けた。
「さっきので解っただろ。素人で甘ちゃんのオレ一人相手ならまだしも、他の三人はプロだ。殺すための訓練を何年も続け、実際に手を下してきた人達だ。特にお前一人殺すくらいなら、酒顛さんだけで充分だったはずだ。そうしなかったのは、あの人が拳を振るうだけで、その風圧がビルを破壊しかねないからだ。ケンさんは一度戦っているから同じ轍は二度も踏まないし、ウヌバさんだってこんな市街地じゃなかったらとっくにお前を消し炭にしている」
第一実行部隊はそういう人達の集まりだ。
誠は断言した。ジオはビルに近過ぎたのだ。彼ら第一実行部隊が共通して懸念したのが、ジオがノーマルに危害を及ぼす可能性だ。ビルに閉じ込められた人々を盾にし、もしかするとビルごと破壊させるかもしれなかった。現にジオはこの数時間で二択のどちらも選んでおり、それをあの場でやらないというのは考えられなかった。
だからウヌバが動いた。氷の茨で奇襲し、ケンがつぶさに援護した。ビルから充分に離れたところで酒顛が一撃を加え、足の速い誠が拘束した。
言葉は交わしていない。作戦も立てていない。互いのセンスを理解し、自らの役割を選び、全うしただけだ。
仲間がいれば、こういう戦いもできるのか。ジオは鼻から息をつくと、憑き物が落ちたような表情を湛えた。
「“俺は……”」
「…………」
「“|俺はお前に死を与えよう《I’ll give you to death》」
ジオの身体が発光した。咄嗟にジオの首に押しやっていた〈エッジレス〉をさらに押し込むが、見えない力に押し返された。迸り、入り乱れる光の嵐に、誠は眼球を焼かれてしまった。足を動かし、飛び退いた。背中がコンクリート壁にぶつかった頃、視力が回復して霞んだ視界に振り下ろされる金属棒を捉えた。
辛うじて〈エッジレス〉で受け止める誠だったが、インパクトの瞬間に電気が弾けた。互いに武器を持つ手が後ろに投げ出された。棒を固く握ったままのジオとは対照的に、誠は右手の〈エッジレス〉を離してしまっていた。
再度振り下ろされる雷棒を左の〈エッジレス〉で受け、今度こそは爆発に耐え忍んで距離をとると、ジオは不敵に笑った。
「いい武器だろう? かつて俺が殺した戦士は、電気を帯びるこの棒切れを〈ケラウノス〉と呼んだ。ギリシャ神話における全知全能の主神ゼウスが持つという武器だ。そしてこの雷槍〈ケラウノス〉の先端から発した光をサンダーボルト――ラテン語で雷霆と呼んだ」
不意に向けられた棒の先端。綺麗に切り落とされたその円に、誠の意識は集約された。棒全体を這っていた青白いミミズが先端に集まり、円を眩く照らしていく。ハッとしたときには身体が、足が動いていたが、超音速ごときでは光から逃れられなかった。
その光は暗黒街と化したマンハッタンの一角を明るく照らした。横に走り抜けたそれを、氷の階段となった茨の幹を駆け降りるケンは〈MT〉の望遠機能で確認しようと躍起になったが、建物が邪魔で窺い知ることはできなかった。
何軒の建物を貫き、何フィート吹き飛ばされただろう。誠はまたぞろ瓦礫に埋もれてしまっていた。
「オレは……、本当に甘いんだろうな……」
誠は立ち上がると、口中に溜まった血を吐き捨てた。
「でも、心は変えない。変えたくない。償わせてやる。お前の残りの寿命全部牢に繋いで、殺された人達の想いに押し潰されるまで、ずっと……!!」
ルビーの瞳が輝きを増した。
「お前はっ、そういうことをしたんだ!! それだけの罪をっ、面白半分で背負っているんだっ!! 呆気なく殺してっ、赦してやれるかよっ!!」
自身で開けてしまった横穴の向こう、崩れる瓦礫の隙間から光が瞬いた。障害物を押し退けながら迫るそれを、今度は右に躱した。誠はそのまま路地を走った。ジオに対して反時計回りにいくつものストリートを渡った。
彼の後を追いかけるように雷霆が撃ち込まれていく。その度に建物は貫かれ、弾け、倒壊していく。
ジオはその様を脳裏で感じ取っていた。自身をレーダーの送受信機とし、空間把握能力を向上させているのである。音速で逃げる誠の身体には、ジオから発した電子が付着している。覚醒因子のお蔭か、その電子を発信機のようにすることで確実に捕捉できていた。
「ここだ……!」
ジオは誠の進行方向を予測して雷霆を発射した。
すると見事に誠は直撃を食らい、足を止めざるを得なかった。横たわる身体を起こし、頭を振った。次弾を回避し、今度は時計回りに駆け出した。
裏を掻いたつもりだろうが。ジオは雷槍〈ケラウノス〉の先端を右に振った。ここだと槍に力を込めたが、視線の先にエンパイア・ステート・ビルが見えると〈ケラウノス〉を振り上げた。地面を蹴り、左側面にバリアーを展開した。彼の身体は巨大な手の平に張り倒され、右に飛ばされた。
右肩がアスファルトに削られ、身体がバウンドする。咄嗟に受け身を取り、膝をついたジオは、二車線を跨ぐ鬼と正対した。凄まじい形相と双眸から発する気迫に押されたか、首筋に冷汗が垂れていることに気付くと生唾を飲み下した。
「心地よい殺気だ。つまらん御託ばかり並べるガキにも見習ってほしいものだな」
身の毛が弥立つとはこのことか。鬼が一つ、柏手を打った途端、様変わりした空気にジオは身動きが取れなくなってしまった。
鬼は股を大きく開いて腰を落とすと、両手を両膝に置いた。再び柏手を打ち、右膝に右手を置きながら、右足を横に高く大きく振り上げ――下した。左右交互に行なわれるその動作は、極東の島国の国技――相撲における“四股”と呼ばれる所作そのものだ。
股を開いてさらに深く腰を落とした鬼の視線は、決してジオから離れることはなかった。強い眼力は気迫となって彼をその場に縫いつけた。
これはプレッシャーだ。百戦錬磨の強者のみが内奥から滾らせられる気迫だ。
鬼がやや前のめりになり、右の拳を地面につけようとゆっくりと下す。真っ向勝負を察したジオは、彼の意気に全身全霊で答えようと周囲の磁場を強めた。身体の中心に生成された電界が強力な電力を発生させた。幾度も閃光が奔ると、彼の身体は青白い電子の膜で覆われた。
「尋常に……」
鬼の拳がアスファルトを陥没させる。瞬間、巨体がぐいと前進する。相対距離はおよそ一六一四フィート。巨体を支える太い足が大きな一歩を踏み出す度、鼻先に音速の壁を生成する。
しかし、それを先に突き破ったのはジオだった。彼は全身に電気の負荷をかけることで、神経を、シナプスの電気信号の伝達速度を大きく向上させた。肉体は活性化し、疑似的に《韋駄天》と類似した高速を獲得することに成功した。
いや、肉体活性による細胞の治癒能力向上もあり、ますます《韋駄天》に酷似しているものの、ジオの身体は音速に耐えられるよう設計されてはいない。無痛症による痛みへの鈍さが彼を現実に身に降りかかっている事象から目を背けてしまっているのだ。
しかしだからだろう、生身で音速の壁を越え、人としての姿かたちをどうにか電子の膜で保つ傍ら、内蔵への極度の負担で大量に吐血しているにも拘らず、戦うことへの欲求を忘れず狂的な笑顔を絶やさないでいられるのは。
ジオは〈ケラウノス〉を両手で突き出して突貫していた。鬼は地面すれすれに右手を繰り出し、彼を張り倒そうとしたようだった。しかし針のように鋭い電磁砲弾さながらのジオを突き飛ばすどころか、その手に摑まえることすらできなかった。
鬼の手の平に大きな穴が開いていた。
ゆらと踵を返すジオが告げる。
「俺はヘレティックとして産まれたことを誇りに思う。そして、進化を忘れぬこの身体に恵まれた運命に心より感謝する」
剥き出しの歯を赤く染めながらも、彼の一つ目はらんらんと猟奇的に踊っていた。