〔七‐2〕 奈落の蓋の上で
北大西洋上の、ある経緯度。
作戦部作戦処理部隊が所有する移動式メガフロート〈タルタロス〉は、今日も悠然と巨大な筏のように波間を漂っている。しかし複合ステルスシステム〈DEM〉が稼働中でその巨体を視認することは叶わない。奈落の底から噴き上がる虜囚達の阿鼻叫喚を聞くこともまた、叶わない。
|第一作戦処理部隊《チーム〈NAUGHT〉》所属の隊員――李螺葵は、部隊長である累差絶からの一報を受けていた。何もない、まさしく無と呼べる存在と化している〈タルタロス〉の甲板に立つ彼は、傍から見ればまるで宙に佇む幽霊のようである。
『首尾はぁ?』
「抜かりありません」
相変わらず歯切れ悪く、耳に残るほど厭らしい声に、主の無事息災を聞き取った。それどころかいつにも増して気分が高まっているようで、次に血沸き肉躍る期待感を押し殺しているようだった。
海抜一〇メートルの高さに佇む彼の足もとには通信用のアンテナ・キットが置かれている。〈DEM〉稼働中は電波の発信も自粛されており、〈タルタロス〉の通信室では履歴が残る可能性がある。かつて国連に打ち上げさせ、今なお組織が管理している通信衛星の一基に痕跡が残ることは避けられないが、それを螺葵と絶を繋げるものと証明するのは困難だ。
それほどまでに通話内容に影がある二人の様子を、情報部諜報部隊所属の隊員ムックは常日頃監視してきた。孤高の監獄〈タルタロス〉、その管理責任を負う者の一人であり、過去にボスの暗殺未遂事件を起こした累差絶の動向を探り、事細かなタイム・スケジュールを情報部に通達するのが彼の役目だった。
しかし今は両手両足を拘束され、甲板上で芋虫のように悶えている次第である。口には猿轡をかけられ、鼻息交じりに呻くことしかできなくなっていた。
累差絶がデヴォン島本部基地に召喚されて以降は、監視対象を李螺葵に切り替えた。絶の腹心と目されるこの男もまた、謎に満ちている。
出生はおそらく中華人民共和国、しかし詳しい出生地や生年月日は不明。覚醒因子は先天性か後天性か、それが齎すセンスは何か、そもそもセンスがあるのかも不明である。外見以外の身体データを取得するには毛髪や唾液、皮膚や皮脂から採取できるだろうが、そこには覚醒因子が残留していない。覚醒因子は体外へ排出されると自動で消滅する仕組みになっているからだ。
組織への入隊経緯も分からない。絶と何らかの関係があるようで、入隊手続きには彼が一枚噛んでいると推測できるがやはり詳細は不明。何か確実な不正の証拠を入手できれば査問会にかけることはできるはずだが、尻尾を出すようなマヌケでもないようだ。
むしろマヌケは自分だったとムックは自嘲した。もしかすると絶がいなくなって気を緩めてしまったのかもしれない。螺葵が階段を上がって甲板に向かうの追いかけ、待ち伏せに遭ってしまった。呆気なく、嵌められたのだ。
所属と氏名を問われたので偽の情報を使ったが、問答無用でこの体たらくだ。『作戦処理部隊は作戦部内の諜報部隊だ。ネズミの出入りには敏感だ』と冷然な口ぶりに、返す言葉がなかった。
「本部は作戦を開始した模様です。いかにバーグと言えども、この包囲網からは逃れられないでしょう。我々にも命令が下されました、動ける者は総員出撃させます」
『もう終いかぁぃ。ならばぁ、宴の酣を味わい尽くしてくるとしようかねぇぃ』
「羽を伸ばすのは結構ですが、ほどほどに願いますよ」
不吉な主はイエスともノーとも答えなかった。ただ短く嗤うのである。ソフト帽で顔を隠し、くつくつと肩を揺らしている姿が目に浮かんで、螺葵をぶるりと震え上がらせた。
怯えが伝達したか、ムックは螺葵の様子から怯える目を離せなかった。それに気づいたらしい螺葵はムックの拘束を解いてやった。
唖然とする諜報員に、「無理難題を押しつける上司を持つと苦労するものだな」
「……借りだとは思わないぞ」
「それは困りますね。私の故郷では通らぬ道理です」
「我々に故郷などないはずだ」
「しかし事実は変えられない。いくら塗り潰してもな」
何だとムックは目を細くした。
「小型艇を手配する。〈カローン〉ほどの乗り心地は保証しないが、無事に帰れるだろうさ」
愕然とした。ムックは今更気が付いてしまった。
累差絶の旗艦となる漆黒の潜水艦〈DEM-2-2〉、通称〈カローン〉。冥界へ死者を運ぶギリシャ神話の船頭カローンに準えられたその艦は、ムックがかつてこの〈タルタロス〉へ潜入するために利用した物である。
あれは春の暮れ。バーグの情報により拉致した早河誠が、故郷日本への帰還を懸けて雪町ケンと決闘した日のことである。どこで聞きつけたのか、累差絶は出入り禁止を言い渡されていた旧マリアナ本部基地へ寄港し、その決闘を見物していた。
当時、情報部は〈タルタロス〉への長期潜入を企てるも、実行寸前で断念してばかりだった。隙がなかったのである。辛うじてできたのは艦内査察を名目とした月一週間ほどの内偵のみ。絶にだろうか、よく訓練され統制されている〈タルタロス〉の乗組員の目を盗んで不正を暴くのは至難の業だった。
そんな折、あの決闘騒動である。情報部はここしかないと踏み、諜報部隊から長期潜入工作員としてムック一人を投入した。戦闘にも諜報にも無益なセンスしか持たない落ちこぼれヘレティックという偽経歴を騙り、見習いの機関士として〈タルタロス〉への潜入に成功した。
〈DEM〉稼働中の〈タルタロス〉からは情報の送受信は不可能だ。しかし〈カローン〉の船員となることで、外界との接触が多くなり、情報の受け渡しも容易かった。
〈タルタロス〉では捕虜となったREWBSへの拷問が続いていること。死体はカプセルに入れられ、海に棄てられていること。カプセルには時限式の〈AE超酸〉爆薬が仕掛けられており、海中で起動しているらしいということ。累差絶は時折任務外で〈カローン〉を利用していること。その目的については現在調査中ということ。これらの情報は全て本部に流れているはずである。
だがそれは、それこそ全て、絶らにとっては漏洩しても困らない情報だったのである。そしてスリーパーをおびき寄せるための疑似餌でもあったわけである。釣り人は魚を海に帰すと言っている。貸し借りはなしだなどと呑気なことを言っていられるか。
諜報員は使い捨ての駒、消耗品も同然だ。情報部はいつだって手を切るつもりで動いている。内偵している事実が明るみになれば、他の部署からの信用も地に落ちる。可能性で留まる疑念が確実性を伴うのは危険すぎる。
これは、取引だ。命の駆け引きだ。
黙ってもらえるならば。後ほど、借りを返すだけで助かるならば。海の藻屑となって、両者の記憶から消されるくらいならば……。
「……あ、ありがたく……っ、利用させてもらう……!!」
仮面を剥がれた諜報員の表情に、螺葵はどう思っただろうか。振り返られないまま舞台から降りることしかできない敗者には分からなかった。