〔六‐2〕 Throw off the prisoner's clothing
残り少ない蝋に灯る火が揺らめいている。庭へと続く窓は割れ、秋の夜長を渡る肌寒い風が滑り込んでいる。
コープ家の四人は互いの安否を確かめ合うと、しばらく固く、そして優しく抱き合っていた。それぞれの涙で温め、降りかかった不幸を慰めた。
マーガレットは顔を擡げた。その鋭い視線は庭先で佇む不埒な男二人の背中に注がれた。
vvvv……。
不意に震えたスマートフォン。先程、男達が押し入ってきたときに玄関先で落としてしまった彼女の物だ。
昨日は満足に動画サイトを覗けず、今日は昼から原因不明の停電と電波障害により、電話もメールもインターネットさえも利用できなかった。そうこうしていると大通りが車で溢れ返った。マンハッタンから逃げろと口々に言って、振り仰ぐと確かにニューヨークの中心地の方角で黒煙が立ち昇っていた。日常という張りぼてが軽く倒されたような音がした。
ぞくりとした。現実だと思えないと否定する頭に対して、足は勝手に家に向かっていた。
事情を説明したが、両親は中々信じなかった。先に荷造りを終えた近所の人々が逃げ出す間際に声を掛けてくれたお蔭で重い腰を上げたが、別の危険が彼女らを襲った。
マギーは足を忍ばせて玄関まで行き、自分のスマートフォンを拾った。メールの着信に次いで驚いたのは、アンテナが一本だけ起立していたことだ。回線は非常に弱い、もしかするとすぐにまた圏外になるかもしれない。その前にやるべきことをやらなくてはと、ホーム画面上のアプリを開いた。それは短文投稿サイトのアプリ版。自身のアカウントから現状を報告したかった。
しかし説明する言葉が見つからなかった。何をしようとしているんだと声を殺して問いかける兄アンディの言葉を頭から排除し、逡巡して、カメラアプリを起動した。小さなレンズを通して大きなディスプレイに捉えたのは、立ち尽くす男達の背中だ。
超能力者であるという彼ら。今しがた見せられたあの異様な光景はまさしく疑いようもない事実。そして人が人と争うように、彼らも彼ら同士で争っているらしい。それに巻き込まれたことへの怒り――いや、それよりももっと具体的な、ネイムレスなどというふざけた組織の存在への憎悪が彼女の中でふつふつと湧いてきた。
自慢の兄が勇気をもってやろうとしたこと。
Click。
小さな、本当に小さなシャッター音が一つだけ鼓膜に届いた。ぼんやりとした目をリビングに向ける雪町ケンは、両手でスマートフォンを持って座り込んでいる少女と視線を交わらせた。
動悸が一つ鳴ったが構わなかった。力なく瞬きする瞳から逸らして手元のディスプレイに向け、親指を動かした。三歩進んで二歩下がる、そんな風に打ち間違いを繰り返しながらタッチパネル上のキーボードを叩いた。纏まらない情報から急いで文章を構成した。
〈あの動画の男達が庭にいます。また人が殺されました。誰か助けてください。 #BURGE〉
投稿と記されたボタンに、緊張で冷え切った白い親指の腹が迫る。
途端、ケンのフリーズ状態だった脳に電気信号が通った。シナプスを渡って神経まで達したそれは、マギーがやろうとしていることをすぐに察した。
芝や土を巻き上げるほど強く地面を蹴り、屋内のフローリングを踏み割りながら少女に手を伸ばした。滑り、彼女を抱きしめるように壁際まで追いやると、早々にスマートフォンを取り上げた。画面を見ると、すでに投稿は完了していた。
くそっ。口中で唾棄する彼は、すぐさま投稿されたばかりの文章を削除した。しかし即刻拡散されていた。彼女の友人が、知り合いが、画像ごと共有し、世界中へねずみ講のように情報を広げていった。
怒り心頭に発したケンはスマートフォンを床に叩きつけ、踏み潰した。
「なんてことすんのよっ!?」
「それはこっちのセリフだ!! 分かんねぇのかっ、戦争が始まるぞ!? 引き金を引いたかもしれねぇんだぞっ!?」
心臓が、冷たく跳ねる。血を、肉を、骨を、細胞を駆け上がったそれが鼓膜まで達するも、やはり現実を否定したくて喉を震わせた。
「じょ、冗談言わないでよ。真実を伝えて何がいけないの?」
彼女は庭を指さした。転がる肉の塊を指した。
「あの人は真実を明かそうとした、だから殺したんでしょう? アナタ達は私達に嘘を吐きたい、そうでしょう? 散々私達から真実を隠して、力があるのに戦争や病気を止めもしないでほったらかしにしてきて、そんな連中が何? いざ自分達に火の粉が降りかかろうとしたらこんなにも必死になるなんて、滑稽じゃないの……!!」
「こんのクソガキっ!!」
拳を肩の高さまで持ち上げた。それを大きな手で掴まれた。見上げるまでもない。
舌打ちしたケンは力を抜き、腰に手を当てて項垂れた。頭を冷やし、「どうすんだ、オッサン」
「組織と連絡を取ろう。ここまで状況が悪化しているんだ、ボスがダンマリを決め込んでいるはずがない」
「いいのか」
「責任を取る覚悟があるならついてこい」
酒顛ドウジの強い目に、ケンは苦笑で応じた。
「死体はどうする」
「置いてはいけない。奴が復活した原因を究明する必要もある。また動き出さんとも限らんからな」
怯える妹を介抱していたアンディが、「待ってくれ」と二人の会話に口を挟んだ。二人の猟奇的な眼光に息を呑んだが、「彼はもう死んでるんじゃないのか」と絞り出した。
「我々の世界は驚きの連続だ。今更不死者が出てきても予想の範疇だ。と言うか、まだ関わるつもりか、アンディ・コープ。熱心なのは結構だが、身の程知らずも大概にするべきだ」
「……っ」
「そういやテメーにだけはきっちり灸を据えなくちゃいけねぇな」
「か、覚悟はできてる……!」
弱く、それなのに強がりな瞳。部隊の少年の面影が重なった。
覚悟なんてまるでできていない、薄っぺらい思考の下に成形された子供の目だ。
「死神みたいな奴の拷問にも耐えたんだ、どんな罰だって受ける覚悟はできてる。その代わり、家族だけは――」
「今、何て言った?」
眉根を寄せるアンディに、男達が一歩迫った。「どんな奴に拷問を受けたって?」と問いを重ねる彼らの目は動揺を隠しきれていなかった。
「姿は見ていない。暗闇に閉じ込められていたし、クスリも打たれて意識が不安定だったからな。だけどアレは死神だと思う。厭らしい口調で、いつでも俺の命を刈り取ることができるって圧倒的な恐ろしさがあった。きっとアレは、アンタ達より強い」
累差絶。奴がここに来ている。
ケンと酒顛は顔を見合わせた。やはりボスが手を打っていたらしい。堂々と《千里眼》を出し抜ける者がいるとすれば、それはおそらく奴だけ――奴のセンスだけだ。ボスとしても苦肉の策だったろう。上層部の反対を押し切って強引に決定したのだろう。
奴でなくては、自由に動けないから。
「そいつに何を話した?」
「え?」
「テメーは何を知っているんだって訊いてんだ」
アンディは一歩足を引いた。俯き、視線を背後に向けた。両親と妹が不安を隠そうともしない悲壮な表情を浮かべている。
呼吸をした。深く吸って、ゆっくり吐いた。
そうしてから答えた。死神に話したこと、そして話していないことを、全て。
彼の独白を、家族は事実と受け入れられないようだった。しかし酒顛達は充分に咀嚼して、理解した。
「俺は、自分がしでかしたことの重大さが分からない」
「すぐに分かる。今からマンハッタンに行けばな」
「それだけじゃない。バーグとアンタ達、どっちに正義があるのかも、俺には……」
アンディの記憶が正しければ、幼い頃に入院してから、絶に捕らえられるまでの彼の行動はバーグに、あるいは共謀しているらしいフードの男に操られていたということになる。自由な意思を、奪われていたということになる。
そう考えると、酒顛は彼を責め続けられなかった。
「キミは言ったな。初めてバーグと逢った日、バーグが二人いたと」
「はい。確かに自分の足で立っているバーグと、人形みたいに座っているバーグの二人です。きっと一人はあの廃工場で、もう一人は……」
彼の視線は自然、庭のほうへ向けられた。
「だとするとおかしいな」と酒顛は言った。ケンが説明を促した。
「ジャービルの件以降、《千里眼》はバーグの目星をつけていたようだ。俺達を利用したのは現地で裏取りをさせるためだろう。それが半月前のことだ」
「なるほどな。このガキが新聞で勧誘されたのが一週間ほど前。本当に《千里眼》のヤローがバーグを監視していたとすると、このガキの関与は初めから分かっていたってことになる」
「しかしヘレティックの存在は〈アルパ〉の益にはならない。《千里眼》が独自の理念で、事実を黙認し、法螺を吹いていたか。あるいは……」
その先の言葉は口にしたくなかった。不死者のほうが遥かに分かりやすいし、諦めもつくからだ。
だが、これまでのバーグとの経緯を思い起こせば、答えは一つに絞られてしまった。
『|第一実行部隊隊長《チーム〈LUSH〉リーダー》ドウジ・シュテン、ならび同隊ケン・ユキマチに告ぐ。直ちにセントラル・パーク方面へ急行しろ。〈ホテル・グラン・アメリカ〉だ』
唐突に脳裏に響いた声に、二人は頭に手を触れ、視線を左右上下に振った。鼓膜を介さない男の声色に聞き覚えはなかった。二人の様子にキョトンとする一家を見るに、どうやら声の主は二人を選んで声をかけているようだった。
つまりヘレティックのセンスによるもの。そしてそのヘレティックは非常に優れた空間把握能力を有している。
仲間だという証拠を見せろと告げるケンの言葉に相手はすぐに答えなかった。ようやく届いたのは、『もうすぐ着く、待っていろ』という意味深なセリフだった。
そしてそのセリフが具体的な音となって近づいてくるのをケンの耳は捉えた。彼のセンス《超聴覚》から判断するに、市販でも軍用でもない非正規のバイクが高速で駆けてくるのが判った。しかもそのエンジン音は表世界ではあり得ないものから発している。
「熱核融合炉……!?」
仲間か、敵か。どちらにせよヘレティックの関与は疑いようもない。
二人は一家をテーブル下に団子に集め、彼らを守るように前後を塞いだ。後二人、いや三人、部隊の全員が揃っていれば盤石だろう。しかしそんな贅沢が言えない以上、二人は全ての神経を一家を守るために動員した。
戦闘服がない今、下手を打てば四肢のいずれかを犠牲にするだろう。しかしそれでもノーマルを守ることが、彼らの責務だった。アンディもマギーもそれを背中から感じ、自分達の行ないに疑いを覚えた。
減速をはじめたバイクが玄関前で止まった。それは酒顛の耳にも届き、ハンドシグナルで自分が先手を打つことをケンに伝えた。
玄関のノブが回り、人が侵入してくる。相手は一人、ヘルメットで顔を隠した痩せ型の男。それを確認した瞬間、酒顛が飛びかかった。壁に押さえつけ、背後に回り込んで、二の腕で相手の首を締め上げる裸絞で動きを封じた。
突然のことに戸惑った相手は呻くと、手にしていたアタッシュケースを落とした。「何だ、何が入っている!? 爆弾かっ!?」と詰問する彼の言葉に一家が騒いで目を白黒させた。
ケンはケースに手を伸ばした。そのときに鼻腔に届いたニオイに身体が止まった。彼のもう一つのセンス《超嗅覚》が記憶まで掘り返し、ニオイの主のシルエットを脳裏に描かせた。
「オッサン、離していい」
「いいのか? 大丈夫か? 本当か?」
「しつけーよ。泡吹いてんだろうが、早くしろ」
脱ぎかけのヘルメットから覗く口元からは、確かに涎か泡か分からない液体が垂れ流されていた。拘束が解かれると男は膝から崩れ落ち、呼吸できる幸せを噛み締めながら咳き込んだ。
「フリッツの仲間か。だったら最初からそう言え」
「むっ、ゲホエッ、無茶苦茶だな、アンタ達……」
「状況が状況だ、普段以上に神経質にもなる」
「悪びれもしない……。話どおり、不遜な男だ」
ふんと鼻であしらったケンが無言で話を促していることに気付き、男は喉の違和感を気にしながら言った。
「お察しのとおり、情報部諜報部隊だ。それ以上はノーコメントだ」
「で?」
「プレゼントを届けに来た。戦闘バカのアンタ達ならきっと喜んでくれるはずだ」
彼はアタッシュケースの側面に手を押しつけた。すると所有者の静脈や指紋を認識したケースがひとりでに開いた。中身は確かに二人が喜ぶプレゼントだった。
「わざわざ説明する時間を省いたんだ。さっさと着替えて行ってくれ。後始末は俺達がやっておくから、終わらせてくれ」
男から、彼自身の体臭や、その仲間と思しき複数の者のニオイが漂っていた。そこに混じるのは確かにフリッツのもので、わざとそうしたニオイを残したことは判断できた。しかし同時に、拭うにも拭いきれないニオイもこびりついていた。
「誰か、死んだのか」
「……ノーコメントだと言ったはずだ」
男はそう言って家を後にした。遠ざかるバイク音を聞きながら、二人はケースに目をやった。二人分の戦闘服、二人分の〈MT〉、そして“千丈ヶ嶽”と記された酒壺が収まっていた。
数日ぶりに触れた戦闘服の肌触りには妙な感慨深さがあった。
「どうやら我慢は終いらしい。囚人AもBもお役御免というわけだ」
酒顛は立ち上がると、一家に振り返った。強い目を彼らに注ぐと、ニッと笑顔を見せ、「見ないでネ♡」と頬を染めて秘部を隠すポーズを取った。
バッキャロと小突く二人の掛け合いに、一家はすっかり当惑してしまった。
組織か、それともバーグをはじめとしたREWBSか、正義の所在がますます分からなくなってしまった。
アンディはまた知りたくなった。
自分がしでかしてしまったことの、結末を。