〔四‐1〕 罪過と祈り
――――ケンは思い出さずにはいられなかった。
某日未明のことを。禍根を残すと確信した、あの日の任務のことを。
市ノ瀬総合病院。それが彼ら――組織作戦部第一実行部隊の目的地だった。一五階建てで、一二〇〇を越える病床を有する大きな病院だ。
〈DEM-3-2〉という形式番号を持つステルス輸送機から飛び出した彼らは、時速約二〇〇キロメートル、一分弱のスカイダイビングを行なった。
しかし彼らはパラシュートを使わなかった。まるでロボットがそうするように、戦闘服のボディアーマーから大量のエアを噴き出して、軟着陸を成功させたのである。
それを、〈HAL-F〉という。高高度降下低高度浮遊(High-Altitude Low-Float)の略称である。
高度四〇〇〇メートルから病院の屋上へとピンポイントに着地した彼ら四人は、すぐさまにそれぞれの行動を開始した。
ケンはまず、塔屋から侵入して諜報員との合流を目指した。一抹の不安を抱えながら。
暗い院内、足下の常夜灯のみが不気味に光る長い廊下。そこかしこで寝息が聞こえ、消音措置が施されていない靴であれば確実に足音が響き渡るような静寂の中、一四階で待つとされる諜報員は、ケンの不安をさらに深くさせるように――叫んだ。
『おーいっ! うおっほほーい、アハッハッ、ケーンちゃ~~~~ん!』
軽く絶望した。
子供でも知っている院内の禁則事項を深夜二時過ぎに破り捨て、バカみたいに手を振り続けている諜報員の姿に頭が真っ白になった。
気付けば走り、気付けばの男の顔面に膝を捻じ込んでいた。
(大声出してんじゃねぇよっ、このクソイタリアンが!!)
万歳したまま後ろに倒れた男の胸倉を掴み、一喝した。なるべく声は抑えてだ。
クソイタリアンは気色の悪い笑みを湛えたまま、『いきなりお得意の足技とはゴアイサツだなぁ。ついでに修正しておくと、僕は生粋のドイツ人だよ』と嘯いた。
真面目で厳格な、ドイツ人の鑑だよ。
鼻血を啜って立ち上がった男は患者衣を着ていた。色白で、貧弱な体格が幸いしているのか、よく似合っていた。
男の名は、フリッツ。情報部諜報部隊の一員で、実行部隊のバックアップを務めることを主任務にしている――らしい。というのも、情報部の性質上、外部の人間ではそのような推測できないのだ。秘密厳守、どこの情報関係者でもそれがモットーなのだから。
『嘘言うな、テメー絶対イタリア人だろっ』
『……失礼しちゃうなぁ。一緒にしないでくれよ、僕は奴らが大嫌いなんだ』
急に鋭利な顔つきになってそう告げるフリッツに、ケンは不覚にも辟易してしまった。そうなのかと返す言葉に戸惑っていると、『ところでエリーは? あの天保山のように慎ましい胸を拝みたかったんだけど』
『そういうところがイタリア人っぽいっつぅんだよ!』
『ムッフフ、怒鳴らない怒鳴らない。病院では静かにネ♪』
ケンは白目を剥くと、このふざけた男の両肩を掴み、無言で前後に揺さぶった。
吐いちゃう吐いちゃうよなどと制止を呼びかけるフリッツは、『ま、まぁ、大声を出してくれても構わないよ。院内の人間は一応全員眠らせてあるから』とまた性懲りもなく適当なことを言った。
『一応ってなぁ』
『仕方ないじゃないか、ケンちゃん。今回の任務は特殊だって分かってるよね。あまりに突然の作戦だから諜報員は僕だけだし、“リセッター”に至っては現地協力部隊が代行を務める始末なんだよ』
『それは聞いてる』
『だったら少しは同情してほしいもんだよ。こうして患者に成りすまして潜入するだけならまだしも、たった一人で情報収集からキミ達の潜入の手引きまでしなくちゃならなかったんだから』
『そりゃあご苦労なこったな。苦労ついでに拉致までテメー一人でやってくれたら大助かりだったんだけどな』
『土台無理な相談だね。この周辺は今年になって警視庁から防犯特区に指定されていて、街中には防犯カメラがワンサカワンサカ』
『カメラなんて警視庁にウィルスかませば一発で誤魔化せるだろうが』
『それを一人でできたら世話ないよ。たとえできても、海路はダメだよ。海路と言うより海岸線かな。今は海上自衛隊の特別警備隊による深夜訓練期間らしくてね、関東一帯の警備が妙に厳しくなっているんだよ。組織としては少しでもリスクは下げたいでしょ』
『だから空路か』
『しかも最新鋭の〈DEM〉を搭載している輸送機(〈DEM-3-2〉)を自由に乗り回せるキミ達――第一実行部隊でなくちゃ安心して任せられないのさ。加えて、キミ一人を院内に入れるようなまどろっこしい手順を踏んでいるのは、不測の事態――REWBSの襲撃――に備えるためさ』
『聞いて萎えるだけの裏事情まで垂れ流してんじゃねぇよ』
白羽の矢が立てられた理由にそんな事情が隠されていたことを知り、ケンは嘆息を漏らさずにはいられなかった。
無駄話もそこそこに、二人は目的の一二階にある病室を目指した。途中、先導するフリッツは一冊のファイルをケンに手渡した。
『対象のカルテのコピーだよ。帰ったら、キヨメ先生にでも見せてあげてよ』
ケンは階段を下りながら目を通した。しかしそれは単なるカルテではなかった。フリッツがたったの一日ほどで調べ上げた、対象――早河誠に関する今日までの経歴だった。出生や学歴、性格、身体的特徴、評判……それは誠少年を形作るほぼ全ての情報と言えた。
『僕が言えることは一つ。彼は極めて普通の、日本の男子高校生だ』
ただ少しばかり、他人よりも不幸なだけの、ね。
それらの経歴をナナメ読みして、次のページを開いた。本物のカルテだった。交通事故に見舞われたはずなのに、身体のあらゆる場所を調べたがほとんど無傷であったと記されている。しかしただ一点――彼はある障害を患っていた。
『おい、フリッツ。コイツは一体、どういう了見だ?』
ケンが足を止めてフリッツを見下ろす。しかし彼は止まらず、そのまま一二階の廊下へ出た。ケンはすぐさま追いかけ、彼の肩を掴んで問い質そうとしたのだが、『階段からナースが上がってくる!』とエリ・シーグル・アタミから通信があって憚られた。
彼女は屋上からセンス《サーマル・センサー》を使い、院内を透視していた。目を閉じて意識を凝らした彼女の脳裏には、院内にある様々な熱量が色となって過っている。蠢く動物や、稼動する機械から発される熱――いわゆる赤外線という不可視の電磁波を精確に知覚しているのだ。フリッツの言葉どおり、院内のノーマルは彼によって眠らされていたのだが、どういうわけかただ一人、一階のナースステーションにいたナースだけは起きてしまったようだった。
これは不運だとエリは思った。自分達にとってはもちろん、このナースにも。
『おい、ナースで間違いないんだな』
『武器はない、それだけは確かよ』
『参ったね。ホントに手抜かりがあったとは』
『弁解はいいから対処しろ。そのためのテメーだろうが』
二人は男性用トイレに身を隠していた。扉にある擦りガラスに、ナースが照らす懐中電灯の光がチラチラと映る。
『目的地は一二〇七号室、一番奥の個室だよ』
そう言い残して、フリッツは出て行った。
ナースは彼を見つけると、声を潜ませて窘めた。
(あっ、フリッツさん! 夜間の散歩はくれぐれも控えてくださいと言ったでしょっ)
(オォ、スミマセーン。ですがラッキーでース。お蔭でこんなにキュートな妖精ちゃん(フェアリー)に出逢いマーシタ~。ありがとう、神様)
(もぉ~、ホントに口の軽いドイツ人ねっ♪)
(男が女スキ。ソレ、万国キョーツゥー、人類の必ゼンでース!)
フリッツの軽口に、ナースはウフフと頬を染めている。
患者衣を着ていれば溶け込めるのだろうか。そもそも、フリッツは何の病気で入院していることになっているのだろうか。てかやっぱり奴はイタリア人っぽいのだが……。
フリッツがナースを別の場所へ誘導するのを見計らって、ケンは無数の疑問を浮かべつつトイレを後にした。
『フリッツ君、相変わらずね。ところでケン、さっき何か言おうとしてたけど』
エリの通信で思い出した。力が入って、眉間にも手に持ったファイルにもシワが寄った。
『〈LUSH-1〉、聴こえてるな?』
湧き上がる感情を打ち殺したような声色に、『……何だ』と〈LUSH-1〉こと、〈飲んだくれ一号〉のコールサインを持つ第一実行部隊リーダー――酒顛ドウジは神妙に応答した。
『今回の対象が一〇代のガキだってのは聞いてる。ヘレティックの可能性があるから保護するってのも、組織の義務と思えば納得する余地がある。だけど……』
ケンはフェイスマスクを脱いだ。ズカズカと廊下を渡り、一二〇七号室の扉の前に立った。乱暴に開けて、唇を震わせた。
『だけどなぁ、記憶喪失のガキをパクれとは一言も聞いてねぇぞっ!!』
対象が病院の個室に入院していると聞き、彼らは間違いなく重症患者だと予感していた。REWBSに襲われた可能性も考えていた。子供だと知って、保護するのに気が引けてもいた。件の情報屋が“拉致しろ”と言っていることにも違和感を覚えた。
関わりたくない。それが本音で、それが互いにとって最善であろうと直感していた。
しかし、あらゆる想定をしてこの作戦に臨んでも、存在意義を失っている者を相手にしろとは想定の外の外、寝耳に水以外のなにものでもなかった。
『おい、こんなガキ連れ帰ってどうする気だ? 記憶がないのをイイことに、マインドコントロールでもやろうってのか……!?』
――対象、早河誠は記憶障害を患っていた。
フリッツが調べ上げた経歴の一切を、この少年は忘失していた。
病室の窓に向かって問い質した。閉じられた窓の外には、酒顛とウヌバの姿がある。彼らは安全帯から伸びるロープで屋上からぶら下がっている。
窓越しの酒顛の口が動き、『任務は絶対だ』と耳の穴にはめたボタン電池型のイヤフォンマイクから響いた。
『我々が背負っているのは、特定の一国家の命運ではない。世界の、全ての未来だ』
ケンはそれを痛いほど知っている。産まれた時からずっと、身に沁みて味わってきた。“自分に流れる血”は、その全てを教えてくれていた。
『我々は、それを背負えるだけの力を持っている。その力を正しく行使して、世界の確実で豊かなる進歩の礎となる。小さな任務でも、そのための歯車の一つだ。どんなに過酷でも、ミスをするわけにはいかない』
『この呑気に眠ってるガキを持ち帰ることが、“世界のため”になるのか……!?』
室内に一つだけあるベッドに、一七歳の少年が眠っている。
そんな彼に複雑な顔を向けるケンの様子は、部屋の隅に設置された監視カメラにも捉えられている。しかしそれは、フリッツによって事前に画像処理されているので、実際の映像として録画されることはない。
『少なくとも、彼のためにはなる。彼がもし本当に我々の同胞であるならば、REWBSも黙ってはおらんだろう。この機を逃し、万一彼が連中の手に落ちた時、彼を始末するのは我々だ。俺は、そちらのほうが耐えられん……』
ケンは納得したのか、はたまた己を殺したのか、渋々窓を開けて、酒顛とウヌバを部屋に入れた。巨体を揺り動かす彼らの背中を月明かりが照らし、薄暗い病室で眠る少年の上に大きな影を落とした。
『ケン、お前は間違っていない。だが俺達のいる世界では正しい判断ではない。これは、力を持った者の宿命だ』
ギッと歯軋りを立てるケンをよそに、酒顛は廊下に目をやった。
『フリッツ君。良ければキミも、彼のために祈りを捧げてくれ』
バレたかといった具合に、フリッツが現れた。先程のナースを、ナースステーションで眠らせてきたようだった。
『ムッフフ。そういうの苦手だけど、シュテンさんに言われたら断れないね~』
酒顛達は少年に向かい、またエリは屋上から深く祈った。
『冀わくは、彼の未来に、不滅の光があらんことを……――――』




