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ネイムレス  作者: 吹岡龍
第四章【死を招く怪人劇 -The unstoppable Burge's puppetry-】
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〔五‐5〕 幕開け

 ベッドの上でまどろむ老人が力ない鼓動に耳を澄ませている。薄明かりのこの部屋には、つい先ほどまで世話係も兼ねている専属のナースが、点滴の交換を理由にずいぶん長く居座っていた。どうやら昼過ぎにあった停電が原因と見えるが、彼女は詳細を語らなかった。

 何かが起きている。そう感じつつも、このところ頭を過るのは過去のことばかりだ。老人は薄く開いた目蓋の奥で回想した。

 およそ四〇年前のこと。

 イスラエルとアラブ諸国による四度目の中東戦争が勃発し、石油危機(オイルショック)が発生した。アメリカ合衆国をはじめ、イスラエルを支持する諸外国に対してアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が石油の輸出削減を段階的に開始したのである。

 これに端を発し、欧米各国では物価の上昇と経済の停滞――俗に言うスタグフレーションに陥った。インフレーションは留まることを知らず、失業者は増える一方だった。

 こんな時期にと彼の心の声を代弁したのは家族だった。妻は浪費を抑え、淑女としての振る舞いを続けていた。息子達も立場を理解し、目立つ行動は控えていた。思春期で、もっと派手な生活を送りたかっただろうに、父の都合で何一つ楽しめなかったに違いない。

 戸惑う彼らの視線を背にしながら、正面からはより多くの目が、「どうするのだ、この状況を」と訴えて離れなかった。

 策は考えてあった。税を下げ、規制を緩和させ、同時に金融の厳しい引き締めも行なうというものだ。おそらく凄まじい抗議に遭うだろう。失業者はより増加してしまうに違いない。しかしインフレは急速に萎んでくれるはず。落ちるところまで落ちたときに金融規制を解除すれば、アメリカの再生は可能という試算だった。

 ただそれには、多くの民衆を犠牲にする必要があった。暴動に耐える覚悟を持たなければならなかった。それを短く見積もっても五年続けなければならなかった。

 そうした試算をテレビで図解した矢先、連中は来た。


『イスラエルと手を切ってはいただけないか』

『できるわけがないだろう』

『民主主義も一民族の前にはひれ伏しますか』

『それ以上口にしてみろ、私の口も黙ってはいないぞ』


 二人の闖入者に、彼は毅然とした態度で応じた。しかし冷汗がシャツを濡らして気持ち悪かった。逆らえば殺されるのは解っていたからだ。

 それでも応じるわけにはいかなかった。アメリカを本当に動かしている連中を敵に回せば、この国自体が危ういのだから。


『近く開かれる安保理で、イスラエルに植民地の返還を求める決議が行なわれます。そこで賛成していただき、またパレスチナ問題の解決も図っていただきたい』

『できないと言っている!』

『当事国の若者達が抱えるフラストレーションはいずれ、この国に多大な不利益を齎します。おそらくここが、ターニングポイントです』


 男は反駁のために開きかけた口を閉じ、覚えた違和感に舌を動かせた。


『ボス、何故干渉する……? 表世界の事情など貴様らネイムレスの知ったことではないだろう』


 ボスと呼ばれた老齢の闖入者が薄い笑みを浮かべた。


『イスラエルに〈ユリオン〉があります』

『以前に言っていた兵器か』

『正しくは、その核となるコンピューターです。人で言えば、脳でしょうか』


 答えたのは青年だ。季節は夏だというのに、礼儀正しくも長袖のシャツを着ている。袖口から覗く包帯のようなものが気になった。


『私はその手の話に明るくないのだが、人工知能(AI)とは違うのか』

『我々はその詳細を掴めておりません。〈ユリオン〉が今、どのような姿を取っているのか皆目見当がつかないのです』

『どういう意味だ』

『《天才(ギフテッド)》を自称するヘレティック科学者が記したと思われる資料には、いくつもの〈ユリオン〉の姿が描かれていました。造兵廠(アーモリー)と呼ばれる工場の形をはじめ、戦車のような移動式砲台、戦闘機、ヘリコプター、水上艦、潜水艦など様々です』

『プレジデント・グレア。まだ《ギフテッド》はイスラエルに滞在しているだけですが、根を張られると厄介ですよ。裏世界には勿論、表世界にも』


 第四〇代アメリカ合衆国大統領ジョージ・グレアは決断を迫られた。イスラエル建国当時からの関係に終止符を打たなければならない決断を。


『イスラエルをはじめ周辺諸国は今、色めき立っています。エジプトとの和平も所詮は休戦止まり。憤懣を抱える市民にまで行き届いた監視網により、我々のエージェントも潜入するのに手を焼いています。《ギフテッド》はそれを利用し、隠れ蓑にしているのです。同国との関係を見直していただければ、混乱に乗じて部隊を送り届けることができるはずです』

『しかし……』

『アラブ諸国を支援しているソ連(クレムリン)との代理戦争だということも理解しています。資本主義と社会主義、相容れぬのは無理からぬこととは言え、ことアナタ方――合衆国大統領には世界の平和を守っていただく義務があります』


 義務と言えば聞こえはいいが、それはネイムレスという巨大な影による支配以外の何物でもなかった。

 グレアはカップに残った紅茶に口をつけた。砂糖を入れているはずなのに何の味もしなかった。


『決断はアナタに任せます。無理にとは言いませんし、我々には様々な状況へ対応する準備があります。ただ、今の話を進めていただければ、より有利な戦況を獲得できます』

『プレジデント、一瞬でもいいのです。イスラエル国民の虚を突ければ、《ギフテッド》のアジトを殲滅できます』

『騒動が起きれば、また加熱するぞ』


 大統領の懸念はもっともだった。しかしネイムレスは、『それは事故で処理しましょう』と軽口を叩いた。


『〈ユリオン〉殲滅には一人の兵士を送る予定です。彼ならば被害を最小限に食い留めるだけでなく、申し上げましたとおり一瞬でアジトを制圧できます』

『たった一人でだと? 貴様らの実行部隊とやらは五人一組(ファイブ・マン・セル)が基本という話ではないのか』

『そのとおりです。彼も例に漏れず部隊に所属してはいますが、彼の前では残りの四人は傍観者にならざるを得ません。いずれアナタにも紹介しましょう、最強のヘレティックを』


 後、グレアは国連安全保障理事会でイスラエルによる植民地の返還に賛成した。しかしアメリカの政治背景に居座り続けるユダヤロビーの存在によって、イスラエルとの関係を断つことはできなかった。またパレスチナについても解決できず、棚上げする格好を余儀なくされた。

 これによりネイムレスは《ギフテッド》をすぐに追い詰めることができなかった。この状況でイスラエルの中心地で騒動を起こせば諸外国、もしくはパレスチナ解放機構(PLO)の中でも過激な|パレスチナ解放人民戦線《PFLP》によるテロ活動と目されること請け合いだ。表世界に無為な混乱を齎すのはネイムレスの望むところではなかった。

 ネイムレスは情報部による偽情報(ブラフ)工作を講じ、《ギフテッド》をイスラエルの外へ追い出すことに成功した。しかしREWBSによる妨害を受け、取り逃がしてしまった。

 大口を叩いていても、このザマだ。グレアは揺るがない政治的理念に確信を持ち、次にネイムレスが口出ししてきても決して連中の有利に事を運ばせてなるものかと誓った。

 その決意を悟ったか、ネイムレスによる報復はすぐに下された。

 八年の任期満了を目前とした秋、ゴシップが世間を賑わせた。どの紙面も、〈グレア大統領、未成年を売春〉という根も葉もない文言が踊っていた。心優しい大統領は、増え続ける失業者の愛娘達に血税による金銭援助をして、“肉体労働”の見返りを満喫しているという下劣な内容だ。

 絵に描いたような転落人生の始まりだった。暗殺の恐怖に抗えなかったグレアは、ネイムレスの敷いたレールを走らなければならなくなった。内でも外でも非難の嵐、ネイムレスのダメ押しだろう、売春話に泣く泣く応じたという少女まで現れてしまい、政党の支持率まで絡んでくると、悪徳政治家を演じ切らなくてはならなかった。

 報道陣の前で事実として語り、政界からの引退を表明。離婚をすると激高した妻をどうにか宥めて示談に持っていき、親権と資産の大半を彼女に譲渡した。不幸中の幸いか、オイルショック中に節制していた財産が思いのほか大きく貯蓄されていて、一人暮らしをするにはさほど困ることはなかった。

 しばらくはパパラッチの執拗な追跡から逃れる日々だったが、ネイムレスの監視から外れるにはそう長い時間はかからなかった。

 そうしてできる限りの変装をし、西海岸で悠々自適の隠居生活を送っているとき、満足している自分に腹を立てた。

 何かできないか。残された資産を元本に、この不幸の源であるネイムレスに一矢報いる手段はないか。

 熟考を重ねたグレアは歴代の元大統領達に会うことにした。門前払いされること数十、ようやく観念したのは余命幾ばくもない五代前の大統領だった。床に就く彼は事の経緯をグレアから聞かされ、枕を濡らした。

 長い孤独を慰め合った彼らは誓った。ネイムレスを打ち滅ぼす組織を作ろうと。全ての大統領の力を行使し、コネクションを駆使して資金を調達し、そしてヘレティックを手に入れて連中を打倒しようと。

 八〇年代末期、反ヘレティック組織〈元老院アルパ〉創設。グレアはその創始者となった。

 九〇年代に入ると現職の大統領が死亡する事件があった。彼は〈アルパ〉の財政担当で、財界人に資金援助を要請していた。死因は急性アルコール中毒と診断されたが、毒殺されたということは誰の目にも明らかだった。〈アルパ〉の存在が露呈するのではと肝を冷やしたが、彼らによる報復はなかった。

 胃癌を患ったのが一〇年前。最高幹部の座をディカエル・プレマンに譲り、こうしてホテルの最上階で闘病生活を続けている。プリマスにある〈アルパ〉本部で最新の治療を受けることもできたが、残りの寿命は人間らしくヘレティックに関わりのない表世界の生活を送りたかった。

 停電の後、予備電源が作動した。しかしテレビは点かず、情報を得られなかった。また眠り、時間を浪費しようか。そう考えた矢先、壁一面のガラスが青白い光を閃かせた。グレアはその光の中に人の輪郭を見つけて、「ヘレティック……!」と呻いた。




 高層ホテルの一階エントランスには人の姿がなかった。

 ホテルに誰も残っていなければ……、そんな希望的観測はすでに打ち砕かれている。ホテルの四方に走る通りには、ジオによって破壊された最上階の瓦礫に紛れて降ってきた屍の山が築かれてしまっている。

 このホテルにはまだ多くの人が取り残されている。停電とは言え、どういうわけかホテルから逃げ出す手段のない人々が大勢いる。

 そんな彼らを助けるのが先か。それとも彼らの脅威を排除するのが先か。

 答えが出ないまま、早河誠は非常階段に飛び込んだ。《韋駄天》で増した脚力で螺旋状の階段を五段飛ばし、あるいは勢い余って壁を蹴って三角飛びで一気に駆け上がった。

 途中、その慌ただしい音に反応して、非常階段と通路を繋ぐドアが激しく叩かれた。急ブレーキをかけた誠は回らないドアノブをガチャガチャと動かしては人の存在をアピールするそれに近づいた。


「誰か居るんですか……?」

「……っ、……っ!」


 何かを訴えているようだった。誠は最上階を気にしながらもドアを叩き、ノブを回したが鍵をかけられているように固かった。ドアに耳を当てて、「誰か居るんですね!?」


「居る! 助けて!!」

「出して! 早く!!」


 考えるまでもなかった。「そこから離れてください!! 充分に、距離を取って!!」と叫び、しばらくしてから《韋駄天》を発動し、ドアを蹴り破った。トタンのような軽さに思えたそれは厚さ一〇センチはあった。一緒になって壊れた壁の中から電子回路が見つかり、防犯用のオートロックが掛けられていることが判った。この大停電の中、通路は明かりが灯っていたし、予備電源が機能しているのは明らかだった。

 しかし違和感を拭えないのは何故だ。

 雪町ケン譲りの足刀蹴りを披露した彼は、押し寄せてきた宿泊客にわずかな疑問を押し流されてしまった。

 救世主だ。ヒーローだ。カラテかい。ジャパニーズか。サムライだな。違うよ、きっとニンジャだよ。

 老若男女の歓迎で揉みくちゃになる少年は、「この下の階にもきっと閉じ込められている人がいます、急いで救助を呼んでください!」と伝えた。


「キミはどうするんだい」

「オレはこのまま上の階の人達を助けていきます」

「さっきの揺れは何だか知っているか?」

「……お子さん達には外の様子を見せないよう努めてください」


 人々の緊張が伝わったが、気遣っている猶予はなかった。誠は彼らに背を向けると階段を上がって、同じようにドアを破って救出作業を急いだ。




 空中浮遊もそこそこに、ジオは焼け焦げたフローリングに着地した。

 数秒前までマンハッタン屈指の最高級スィートルームだったそこは、今や天井は剥がされてオープンテラスと化していた。しかし小奇麗なテーブルもなければ、洒落たキャンドルも灯っていない。原形を留めているのはナース服を着た女の上半身と、ベッドに縫いつけられたような老体一つくらいだ。


「ジョージ・グレア。貴様もつくづく不幸な男だな」

「悪魔め……!」


 暗闇からしゃがれた声が響いた。ジオは指を鳴らした。するとこすり合わせた指先から静電気が飛び、部屋の隅に転がっていたウォッカのボトルが破裂した。引火し、寒空にわずかばかり明るくなった。

 照らされた老人の顔を指し、「かつての威風が微塵も見受けられんな」


「ヘレティック。よくもここが解ったものだな、得意のセンスとやらか?」

「俺は仕事と聞かされて来たまでだ。〈アルパ〉に関するデータを渡してもらおうか」

「ネイムレス、貴様らも必死だな」

「俺はその連中にREWBSと呼ばれている」


 グレアは上体を起こし、開ききった眼でジオを凝視した。驚愕し、目を泳がせた彼は俯いて肩を揺らした。次に顔を起こしたときには、名状しがたい笑みを浮かべていた。


「あの烏合の衆が、あの組織よりも先に私に辿り着いた……?」


 ジオは一つ瞬きをして、彼の言葉を待った。


「時代が動いたか。ネイムレスに、ヘレティックに止められ続けた人の繁栄の時代が、ようやく動き出すか……!」


 もはや意味をなさない点滴チューブを腕から引っこ抜いた彼は、ベッドに立てかけられた杖を手に立ち上がった。


「良いだろう、私を殺すがいい。そしてその力でネイムレスと潰し合うがいい!! 貴様らREWBSが舐めてきた辛酸の数々を、ネイムレスに存分にぶつけてやるがいい!! 貴様らヘレティックが根絶やしになるのなら、私は人身御供にでもなってやる!!」


 彼から滲み出る気迫に、ジオはぶるりと震え上がった。嗤い、「イイ。イイな、お前」


「そうだ、この世は戦いだ。殺し合い、潰し合ってこそだ。だが、間違えるなよ、人間(ノーマル)、俺達はお前らが生き続ける限り何度でも生まれてくる。もうな、お前らがこの世に存在している以上、下等種に繁栄なんてものは永遠に来ない」


 グレアは杖を持ち上げ、切っ先をジオに向けた。すると切っ先に空いた穴から弾丸が放たれ、ジオの胸元に飛び込んだ。しかし青白い光を残してその鉛玉は跡形もなく消えてしまった。


「俺は強者にしか興味がない。研げる牙すらないのなら、その少ない寿命を別のことに使うことだ」

「その目、やはり貴様らはどれも一緒だな。腐りきっている」

「グレア、確かに時代は動き始めた。今は過渡期だ、そればかりか今日は黎明の(とき)だ。どうせ終わる人の世が、お前の見苦しさ一つで人類全てに悲惨な結末を与えるか、それとも一生産者として慎ましく小さな鳥籠くらいは遺せるか、二つに一つだ。選べ、たったひと時の名誉か、確かな種の存続か……!」

「戯言をっ」

「大政治家だろう、これまでと同じように決断すればいい」

「政治にはな、両者の要求が擦り合わなかったとき、次代に委ねる“棚上げ”という方便がある。それが実際、多くの戦争を、国家間の衝突を防いできた」

「そうして貴様が“棚上げ”したパレスチナはどうなった? 自治区とは聞こえがいいが、エルサレムに土地を奪われたアラブの連中の怒りは矛となり、回りまわってこのマンハッタンに巨大な傷を遺したんじゃないのか?」


 あの日、グレアは見ていた。

 世界に誇る二つのビルが跡形もなく崩れ去る光景を、この部屋から。何もできず、ただ茫然と見ていることしかできなかった。頬を伝う涙の何と無力なことか。

 指摘されるまでもない。ネイムレスのボスから受けた忠告に耳を澄ませていれば、自国民を犠牲にしなくて済んだかもしれないのだ。


「貴様の刻の針は、未だにネイムレスに止められたままらしい」

「っ……!」

「時代は戻らんし、止められん。時の流れは貴様を待てるほど寛大じゃない。貴様が決められんというのなら、俺が欲望のままに決めてやろう」


 ジオは瓦礫に埋もれたオリハルコン製の棒を引っこ抜くと、床に突き立てた。


「このホテルにはまだ客が残っている。お人よしのヘレティックが救助に精を出しているようだが、おそらく全員を逃がすことはできないだろう。奴も、焦っている」

「ま、待て……」


 グレアの言葉に耳を傾けず、ジオは視界全土に広がる沈黙した大都市を見渡した。あの眠ることを忘れた輝かしいネオンは失せていたが、高層ビルには明かりが灯っていた。彼はその一つ一つに目を向け、「あの日の再現をするのも面白い」と親指と人差し指で小さな虫を潰すようなジェスチャーをした。迸る光が、狂気に満ちた笑みを不気味に照らした。


「待てっ、待ってくれ!! 解った、要求を呑む! しかし提案がある。REWBSよ、貴公に少しでも人類に通ずるだけの良心を備えているのなら聞き入れてほしい……」

「ほぉう?」


 グレアは寝巻の袖を捲って、生白い右腕を露にした。前腕の内側が三センチほど縫合されており、彼はそれをナイフで解いた。皮膚が裂け、ドロリと濁った血液が滴った。彼は唇を噛み締めて肉をほじくり、ビニールで密封されたSDカードを取り出した。


「本拠地の位置情報が入っている。緊急時にコレを使うことで、〈アルパ〉が対処をしてくれる手筈だった」

「連中の良心は裏切られるわけだな?」

「これを渡してほしくば提案を呑め」

「聞こう」

「〈アルパ〉は滅びよう。しかし代わりにこの国からは一切手を引いてほしい」

「他の国に犠牲を押しつけると?」

「アメリカはヘレティックの存在を認める。現職のミリードにもそのように伝える。欲する権利があれば議会でも国連でも全て承認させる。しかし代わりにその欲望をこの国に、人民に向けることだけは止してくれ」

「愛国者の鑑だな、プレジデント・グレア。呆れるほどに」

「私もつまらぬしがらみにはウンザリしていた。こうまで力の差を見せつけられては、悪魔にも縋らざるを得ん」


「自国民から稀代の売国奴と罵られようとも?」


 答えないグレアをジッと見つめてから、「良いだろう。オーナーには貴様の要望を伝える。返答があるまで〈アルパ〉への襲撃も控えるとしよう」

 ジオはカードを受け取った。そして懐から手の平サイズの箱を取り出した。金属製らしいそれを開くと、中には見慣れないデバイスが収まっていた。


「まずは確かめさせてもらおうか」


 カードをデバイスに挿入し、起動させた。即座に読み込みが開始されたらしいが、ブザーが轟いた。

 眉を顰めるジオを、グレアは脂汗を滲ませながら嘲笑した。


「ヘレティックよ、〈アルパ〉を何故立ち上げたと思っている」

「貴様……」

「何を犠牲にしてでも、一人でも多くの人類のために貴様らを根絶やしにするためだ!!」


 デバイスのモニターが赤く明滅し、〈EMERGENCY〉と表示された。羊のアニメーションが現れて、デバイスに内蔵されたデータを際限なく食べ尽していった。


「電波障害が収まれば、立ち所にそのデバイスのネットワークは我々のウィルスに支配されるだろう。今のうちに潰しておくのが得策だ」


 茫然自失する彼の姿に勝利を確信したか、グレアは身を乗り出して絶叫した。


「〈アルパ〉は売らんぞ! 反ヘレティックの意志は国境を越えるっ!! 異常者共めっ、悔い改めるがいいっ!!」




 非常階段もようやく行き止まりに到達した。剥き出しの鉄筋が道を阻んでいるのだ。最上階はまだ二階ほど上にあるらしく、ここ以外に通じる道と言えばホテルを縦に貫くエレベーター・シャフトくらいだ。

 誠は一先ず一階下まで降りることにした。そこは天井が抜け、通路も壁もドアも、その奥にあるだろう部屋さえも押しつぶされている無残な光景が広がっている。非常階段のドアを例によって蹴り破っていた誠は、瓦礫の下から助けを求めるようにして伸びる冷たい腕から目を背けていた。

 《韋駄天》を使えば、ぽっかりと空いて天井まで飛び上がることは難しくないだろう。しかしジオによる電撃の衝撃でホテルも随分ガタが来ている。足場が崩れ、ホテルの倒壊を招くような事態は避けなければならない。

 誠は瓦礫の山を乗り越え、通路の真ん中にあるエレベーターの乗り口前まで足を運んだ。リフトは遥か下にあるようで、それを支えるワイヤーは無事らしい。通路の突き当りの壁は壊れて吹き曝しの状態だ。上を見上げると、壁に走った亀裂が最上階まで続いている。クラックに手を入れてロッククライミングさながらに上ることもできそうだが、誠はそんな訓練は満足に受けていなかった。仕方なくシャフトのワイヤーを伝った。

 恐怖はある。弱気な自分を押し隠せずにいる。しかしジオの目的を阻止し、一刻も早くこの街に、国に、平和を取り戻したいという気持ちのほうが強かった。

 《韋駄天》による下半身の筋力強化は頼もしかった。思いのほか軽々と、そして安全に登り切り、ようやく最上階まで行き着くことが叶った。

 そこに通路らしいものも、部屋らしいものもなかった。屋上のような吹き曝しに、何の意味も持たない壁の痕が垂直に立っているだけ。アルコールに灯った小さな火が強風に煽られる中、二人の男が対峙していた。

 隻眼が嗤っていた。赤く光るデバイスを握り、老人を嘲っていた。


「その人から離れろ!」


 誠の声に両者は振り返った。少年の湛える紅い瞳にグレアは息を呑んだが、すかさずに杖の隠し銃で発砲した。誠は咄嗟に反応し、脆い足場を蹴って回避した。


「待ってください! オレは敵じゃな――」

「敵だよ、マコト・サガワ」


 言ったのはジオだ。状況を把握できない彼に、「コイツはジョージ・グレア。第40代大統領にして、〈アルパ〉の創始者だ」


「〈アルパ〉を創った人……!?」

「少年だろうが容赦はせんぞ……!」


 グレアが再び銃口を向ける。それをジオが食い止めた。杖を破壊し、骨と皮だけの老体をベッドまで蹴り飛ばした。


「コイツは俺の獲物だ。手を出してくれるなよ、プレジデント」


 血反吐を吐くグレアに駆け寄った誠は、ジオを厳しく睨みつけた。


「理解できんな」

「お前に分かってもらおうなんて思ってない」

「まぁいい。グレア、冥土の土産に聞いていけ」


 無理をしてはいけないと気遣う誠を押しのけ、グレアは青ざめた顔を起こした。


「今、電波障害を解除する。お前の主張が正しいか、その目で確かめるといい」

「何を……言って、いる?」

「電波障害は俺が引き起こしていたという話だ。そして停電は、コイツが原因だ」


 デバイスの画面に刻まれた文字に誠達は背筋を凍らせた。


「そう、〈ユリオン〉だ。俺も経緯は不明だが、このデバイスには〈ユリオン〉のウィルスが感染してあるらしい」

「お前達がメギィド博士の協力者……?」

「問うたな、マコト・サガワ?」

「答えろ……!」

「さぁな、雇われ者の俺は知らない」

「惚けるな!!」

「おおっと、動くなよ」


 急激に膨張した脹脛を指摘したジオは、「〈ユリオン〉は賢いと聞いている」と続けた。


「このデバイスからの信号が途絶えれば、即座に次のアクションを開始するに違いない。あらゆる反応を攻撃と認識するシステムが組み込まれている可能性がある。その証拠に、〈アルパ〉を敵と認識し、報復を開始したようだ」


 画面に世界地図が表示された。それはアメリカ合衆国を映し、無数の光点が輝いた。


「このほとんどが原子力発電所だ。青い光は軍事基地か。赤いのはホワイトハウスにペンタゴン。ほぉう、東海岸の辺境にあるコレは、何を示しているのかな?」


 とりわけ赤く煌めくプリマス。グレアは絶望し、走り出した。声にならない叫びを吐きながら、細い腕をジオに振るった。誠はそんな彼の身体を抑え込み、ジオの反撃を回避した。


「邪魔をするなぁっ!!」

「怒りに任せたら思う壺です!!」

「良いことを言うな、マコト・サガワ。だが、この事態の原因の大半はお前にあるんだぞ?」

「あのときお前を殺さなかったからなんて話なら聞かないぞ」

「アンディ・コープから取り上げたUSBを素直に〈アルパ〉へ渡してしまったな?」

「まさか……!?」

「そのまさかだ。あのUSBにはすでに〈ユリオン〉ウィルスが混入されていた」


 こめかみに青筋を立てた誠は一歩踏み出した。


「それを渡せ」

「渡してもいいが、すでに次のステップに進んでいるぞ。この国にある核ミサイルが、発射シーケンスを開始した。リミットは一〇分、絶望的だな」


 ニタリと口角を上げたジオはデバイスを抛った。虚を突かれた誠達は足を竦ませた。直下、全身に電流が奔った。足元が崩れ、ホテルが砂の城のように倒壊した。


「幕開けだ」


 承服できない言葉が瓦礫に呑まれていく。伸ばした手が潰されて、視界も奪われた。

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