〔五‐4〕 Family of the setting sun
シワを伸ばして波打つ黒い手紙には、白いインクによる文字と、同じく白い手形がつけられている。黒い手ならぬ白い手である。
傍には封筒と二枚の写真が置いてある。一枚は家族写真だ。この家の広い庭で撮られた物で、家長からその孫娘に抱きかかえられたひ孫まで、親戚一同二七名が皆良い笑顔を湛えている。もう一枚は若い男の写真だ。一つの歴史の終焉に現れた、次代を牽引するに相応しい男だ。
家業はもう下火もいいところ。検閲は日々厳しさを増し、グレーゾーンはほとんどすっかりホワイトに侵食されている。
黒はどの色よりも強く、根深い。だからホワイトだったものも一滴の黒で落ちぶれていく。そうした連中を使って大金と地位と権力を貪るのが我々だと、先代からよく聞かされてきた。
それが今や警察もFBIも行儀のいい連中ばかりだし、政治家や軍属に賄賂を流して弱味を握ろうにも上手くいかない。美味しくない。武器の密輸などに手を出せば、テロリストとの関わりばかりが目立ってラングレーが動き出す。しかも今のテロリストはカトリックの敵で、関係を持つことさえ嫌悪せざるを得ない。
かつてはFBIもCIAも、互いの理念のためとは言え、持ちつ持たれつの癒着関係にあったが、多くのボスが死に、その事実が薄れていくに連れて疎遠になっていった。今やマフィアの存在は彼らの負の遺産、目の上の瘤に過ぎない。もしもの際の告白文書を代々引き継いではいるが、きっと満足な効果は得られないだろう。
近年は多くの友が摘発された。娘達は市外へ出るべきだと耳打ち合っているようだ。幼い時分は可愛らしかった彼女達。しかし子を産み、孫を持つと、金や地位や権力などではなく、平和であり平凡な生活を欲するようになったらしい。力を得るために単身故郷を出奔、人を殺し、血の掟を交わし、汚れ仕事を請け負い、警察の目を掻い潜ってここまできたが、そのような生き方もすでにまかり通る時代ではないらしい。
だからこそのあの決断だった。五大ファミリーによる全国委員会で四人の首領を前に、提案した。
場所はニュージャージー州の沿岸。現体制になってから所持しているオフィスの会議室だ。
『暗黒街に灯された光が我々を蝕んでいる。アウトフィット――シカゴを本拠地とした巨大なマフィア――もかつての栄華を失い、あの世でカポネも渋面を湛えるほどの死に体だという』
『RICO法という十字架が我らを苦しめておりますからな』
『それだけではない。単純に流通しているヤクの量が減っている。メキシコのマフィア共と連絡が取れんのだ。どこぞの阿呆が横取りしていると思うが……?』
『私を疑っているならとんだ筋違いですよ。それで、ドン・ワルター。会合の主催者であるアナタの目的は?』
三〇代の若いボスが時計を気にしながら問うた。タイム・スケジュールを気にしているのではないとワルター・ジェノヴェーゼは察知した。こうしてファミリーが顔を揃えることに不信感と危機感を覚えているのだ。何かの罠、陰謀、そんなものを孕んでいるのだろうと。
しかしそれは当たらずとも遠からずだった。長年幹部を務める盟友の耳打ちに応じたワルターの合図で、青年が闖入した。
ビクリと肩を揺らす若いボスらの手の甲に、その青年は口付けをして回った。
『私はクロード・ヴァッヂ・フェロ。シチリア出身の実業家です』
動揺を隠せない一同に、今度はワルターがワインを注いで回った。
『そう、あのフェロだ。彼は末裔、正統なるマフィア……』
『ジェノヴェーゼっ、貴様何を企んでいる!?』
四人のドンが一斉に堰を切ったように罵りだした。年長者であり、マフィアが隆盛を極めた時代を少なからず知るワルターには、彼らが恐れていることがすぐに解った。この突如現れた王家の血を引く者の登場に怯えているのだ。自分の地位を、地盤を、名誉と権力を脅かされるのだと、獣のごとく鋭敏な勘で悟ったのだ。
ドン・ワルターへの侮辱に彼の部下は動かなかった。会議室の壁際で佇立していた。明確な怒りを、心身の内側に理性という檻で懸命に押し留めたのだった。ドンであり、親であり、命を賭して守るべき存在であるワルターへの罵詈雑言の雨霰だ、普段なら飛び掛って首を絞めていた。もしも室内に凶器の持込みが可能であったなら、躊躇なく使用しているところだった。
しかしその日はそれをできなかった。ドンの命令だった。彼は自身の決断が何を招くかをよく理解していた。下手をすれば自身だけでなく同伴する者達、それどころか一族郎党根絶やしの憂き目に遭うことも全て覚悟していた。それでもやらなくてはという決死の覚悟だった。離反者もいるだろう、反逆者も出るだろう、それでもドンはリスクを承知し、自らのキャリアを帳消しにすることさえも予測しながらこの日、行動に出たのだった。
その栄誉ある行動を、栄誉ある親を父に持つ子供達がどうして裏切れようか。
『静粛に』、そう言ったのはクロードという若造だった。白い肌に黒い髪、紺碧の瞳、写真でしか知らない“ボスの中のボス”の異名を取るマフィアの王とは似ても似つかない美男子だ。しかしその二〇代前半とは思えない不遜な態度、人の命も躊躇なく踏み潰せるような鋭い眼光、それらを内包する怜悧な風貌は、フェロの名を語るに相応しい威圧感を確かに形としていた。
だから四人のドンは素直に黙ってしまった。彼の次の言葉を待たせられてしまった。
『私は敵ではありません。いや、敵だったと言うべきでしょうか。先程お話しにありました麻薬の取引のほとんどは私が買い占めてしまっていますから』
『何だとっ!?』
『いくつかの主要な麻薬企業連合に情報を――もちろん内密に、そして私からとはバレないように与えて潰し合いをさせたのです。そこに警察を介入させ、目ぼしいカルテルを一つ選んで逃亡の手助けをしました。一人勝ちした興奮と、それを招いた恩人の登場に気を抜かない者はそうそういない。気軽なビジネスの話をして、徐々にこちらの狙いへと移行させる。その間に同じような競合相手の存在をチラつかせ、私の手を掴んで離せないようにしました。結果、彼らはアナタ方ではなく、私を選んだ』
『そんな都合のいい話が……!』
『それにそんな情報は聞いていない!』
クロードは肩をすくめ、『いいですか』と一拍置いてから言った。
『そうやって椅子に座っていればいい時代は終わったのです。かつてボスと呼ばれてきた者達は自ら人脈を築き、それぞれの城を手にしてきた。しかしアナタ方は先代のお下がりに依存し、次々とほつれていく糸をおざなりに紡ぎ直してはそれが回り回って自らの首を絞める行為だと気付きもしなかった』
演説は止まらない。ワルターは目を閉じて説教に聞き入った。
『私は歩きましたよ。祖先がそうしたように、単身海を渡り、人心を掴み、そして表と裏の顔を使い分けている。警察に顔の利く正義感溢れる若きセキュリティ会社CEOの顔と、麻薬や武器密輸、あらゆる犯罪シンジケートを裏から牛耳るスポンサーの顔をね』
『セキュリティ会社?』
『メキシコでは有名です。ただそれも近々畳むつもりです。私の目的は光の中にはない』
『目的とは何だ』
『マランツァーノが生み、ルチアーノが作り変えたこの五大ファミリーを、アメリカ・マフィアを、私が一つにする。〈新生ニューヨーク・コーサ・ノストラ〉、それが私がドン・ワルターに願い出てここへ来た理由であり、唯一無二の目的だ』
あれから一年ほど。クロードはメキシコの企業を売却し、ちょっとした騒動の中、雲隠れした。最初の潜伏先はワルターの実家。産まれて間もない子供を抱えた妻を侍らせてやってきた。しかしそれもひと月ほどの間で、彼は妻子と共に五大ファミリーの各邸宅を転々とし、親交を深め、意識を新たなマフィアへと向けていった。
その間、コミッションは一度も開かれなかった。FBIの目をクロードに向けさせないためだ。意思の疎通はクロードが企業の売却前に作らせたデバイスで行なわれた。簡易なアプリケーションだが盗聴の心配はなく、日々ファミリーでコミッションが開けるようになった。
今、ワルター宅には娘も孫もひ孫の姿すらない。家族とは縁を切り、市外へ退去させた。その後の行き先は分からない。
代わりに構成員が世話をしてくれている。中でもルジャ・ドルトーレは極めて優秀で、忠誠に厚い男だ。シチリアではクロードと義兄弟の契りを交わしたほどの仲だったようだが、再会は先のコミッションの前、クロードが初めてワルター宅を訪れたときだった。さしものクロードもルジャとの再会は予想外だったようで、二人は廊下で無言のまましばらく立ち尽くしていた。
そのルジャを、今はクロードに付かせている。ワルターはクロードに畏敬の念を込め、全てを好きなようにやらせている。どうせ現コーサ・ノストラは尻すぼみ、今更クロードに裏切られたとしても、遅いか早いかの違いに過ぎないという考えだ。だったらルジャなどの優秀な若きメイドマンを新たなボスに着かせ、系譜を絶えさせないようにするのが得策というものだった。
ルジャがいる限り、ジェノヴェーゼの歴史が九〇年程度で終わることはない。マフィアという組織形態が存続し続ける限り、永遠に。
それが、何だコレは。この手紙は。
ワルターは思わず丸め、ゴミ箱に抛った差出人不明の手紙を伸ばし、テーブルの上で同封されていた写真と並べた。手紙にはクロードがCIAの諜報員であること、ルジャもまたジェノヴェーゼに忍び込んだ長期潜入工作員だということ、クロードがメキシコで起業していたのは本当だがそれは長期滞在諜報員としての任務の一環であったこと、そしてファミリーに与えたデバイスはCIAが開発した物で会話内容は筒抜けであったことなど、今までクロードとルジャが行なってきたありとあらゆる全てが嘘偽りだという告白文がつらつらと綴られていた。
そして写真はCIAの安全器――諜報員とその上司である工作担当官が直接接触するリスクを減らす中継役――に情報を渡しているところだという。
手紙の結びは恐るべきものだった。近く、ニューヨークで大停電が起きるという。それを合図にCIAによるマフィアの一斉摘発が行なわれ、文字どおり根絶やしにされるというのだ。確かにそうすれば、電子機器による如何なる告白もできなくなる。CIAは負の歴史の清算を図ろうとしているのだ。
確かにこのところ、クロード以下〈新生〉の者達の様子がおかしかった。どこか慌しく、何かを極秘裏に行なっているようだった。クロード本人に聞こうと試みたが、多忙につき連絡を寄越せないということだった。その態度には些か業腹だったが、半ば引導を渡され隠居したも同然の身の上としては、それ以上口を挟むのは野暮に思えて噤んでいた。他のファミリーも同様だったに違いない。
それがこの有様。まさかと思う反面、情けなくもやはりと自らの節穴にさえも目を瞑ってしまった。この大停電により手紙の内容が裏付けられた今、呑気に椅子に埋もれている暇がないことは愚かなワルターにも解っていた。
八〇間近の老体に鞭打ち、幹部を集め、兵を従わせ、武器を取ってクロードの現在の潜伏先であるマンハッタンの小さなオフィスへ向かった。
だが、そこに広がる光景は異様と言えた。人々は逃げ惑い、立ち昇る黒煙が夕日を覆い、崩落した建物の下敷きに生焼けの屍がいくつも転がる戦場だった。
圧倒される老人の耳に銃声が轟いた。見るとファミリーが潰し合っていた。彼らがジェノヴェーゼの存在に気付くと、矛先は集中した。クロードのような悪魔を招き入れた不貞のファミリーに向けられたのだ。
「裏切り者のヴァラキもジェノヴェーゼだったよなぁっ!?」
「昔の話を持ち出して……!」
ワルターは急いで逃げ出した。背後で部下の血潮が舞う中、車に乗り込んで走らせた。幹部の乗り込んだ車が炎に包まれたのはそのときだった。今や敵となった連中が対戦車ミサイルを打ち込んだのだ。
必死にハンドルを切るメイドマンがどうするのかと何度も訊いてくるが、ワルターには答えが見つからなかった。最中、ワンブロック先にクロードのオフィスがあることに気付いた。真実を確かめなければ、死にきれるものではなかった。
ふと空を見上げると、瞬きはじめた星の中に軽飛行機のシルエットを見つけた。
「モグラの気分だな」
ライターの火に照らされたクロードの顔は優しく微笑んでいた。それを見ると妻ナタリアも気が安らいで、それが両手で抱えられた愛娘ジーナにも伝わっているようだった。
丸い目をパチクリとさせ、そうかと思えば大きくアクビをして指をくわえる。クロードは義兄弟ルジャが護衛にと置いていったメイドマンに、どうだ可愛いだろと自慢するような顔をした。普段は強面で利かせているそのメイドマンも深く頷いて見惚れている。
クロードは今一度通用口に目をやった。厚い隔壁で閉ざされたそこは、電子ロックで管理されており、停電の際でも予備電源で作動するシステムとなっている。しかしその予備電源が満足に機能せず、クロードと妻子、そして数名のメイドマンは地下の隠れ家に閉じ込められてしまっていた。
一人が電源や電線を念入りに点検しているが成果は一向に出なかった。他の者も脱出の手立てを思案していたが、それが実ることはなかった。
「通気口があるのがせめてもの救いです。ボスや奥様達だけでもそこから通って出られればいいのですが……」
如何せん、狭かった。赤ん坊のジーナほどのサイズであれば何とかという感じだが、彼女はまだハイハイさえもできない。しかもその通気口の道筋さえ不透明なのだから、可愛い子を地獄に追いやるようなものだった。
「まだ半日も経っていない。それにここには水も食料も備蓄されている。お前達と四六時中パーティーを開いても一年は楽しめるほどの量がな」
肩を叩いて励ましてくれる若きボスに、メイドマンは心が痛くなってしまった。
もしかするとコレが、この停電と地下への半幽閉状態が、彼を脅している者による策略の可能性があるからだ。電波も届かず、停電ゆえに固定電話も使えない地下だ、外の状況が分かればその可能性の是非を決める判断材料になるのだが、こうも密閉空間に閉じ込められてはどうすることもできなかった。
「そういう顔を見せてくれるな。彼女達は知らないんだ」
耳を寄せられてそう窘められた。
背中に不安そうな妻子の視線を感じて、メイドマンはすっと鼻から息を吸った。
「分かりました。ですが何かご所望がありましたら何なりと申し付けてください。私はジェノヴェーゼではありませんが、アナタに惚れ込み〈新生〉の人柱となるべく付いてきたのです。あのルジャよりも役に立てるという気概くらいはあります」
「頼もしいな。ならばここにいる全員に私の考えを伝えておこう。もしかするとこれは後の歴史に刻まれるやも知れんぞ、“地下室の声明”としてな」
冗談めかしてボス・クロードは言う。するとメイドマン達は吹き出して、暗澹とした空気が消し飛んでいった。
「それではお聞かせ願いましょうか、偉大なる暗黒街のメシアによる声明とやらを」
「そうだ、聞かせてくれよボス。ルジャなんか放っておいてさ」
「俺達はツイてるな。歴史に名を刻める、それでこそワルってもんだ」
クロードは語り始めた。妻子をライターの火で温めながら、マフィアの新たな形について。
「ボス・ルチアーノは言った。コーサ・ノストラを世界的なシンジケートにするのだと。だがそれが叶ったかと言えばそうでもない。ファミリー間でも、国内でも、見据える目的が違いすぎるのだ」
切磋琢磨という言葉は美しい。ただそれは個々の我欲がぶつからないようにするためのお為ごかしに過ぎない。クロードはまず、そのバラバラな意識を一つに統べることを考えた。そしてその上で警察など国家の目を欺くための様々なコミュニティの構築を図ろうとしていた。
「人種も、性別も、宗教も問わない。たった一人のボスと、その言葉に殉じ、裏世界の完全なる掌握を達成し、維持できるという決意のある者ならば誰であってもいい。私が目指すのは、国土も、国籍も、しがらみの一切を取り払った巨大な選民組織だ」
元老院制度について続けた。
「元老にはボスの任命権はあるが、解任権はない。解任は幹部の三分の二以上が賛成する必要がある。また解任についての議題がコミッションに挙げられてからその成立までに、何らかの騒動を起こした者は組織から破門とする」
婉曲な物言いだが、つまりは処刑するということだ。神聖な儀式の間は、構成員全てが静粛にその結果を見守る必要があるのだ。
「元老は組織の相談役だ。ボスや幹部のような命令権はない。独自の兵や武器も持ってはならない。ボスと幹部による協議で選定された、元老一人当たり一〇名以下のボディガードのみ雇うことが許され、武器もまた協議で認可されたもの以外の使用は認められない」
「では元老に役得はないと?」
「いいや。元老は組織全体の収益の一部を得られる権利がある。全体の収益を閲覧できる権限もある。ただし元老になるには、政財界などをはじめ、組織の活動を支援できる者に限られる」
幹部になり、そうした条件をクリアしているならば元老に立候補できるともクロードは言った。その任命権はボスにあると。
「結成当初の元老はコーサ・ノストラの五大ファミリーのドン、アウトフィットの四人のドンだ。元老は三名以上であれば何人でもいいと考えている。ただし、元老が徒党を組んで反乱を起こせるような兵力を持たないよう気をつける必要はあるだろうな」
ニタリと薄い笑みを覗かせる彼を、「楽しそうだこと」と妻ナタリアは上品に微笑んだ。
「次に幹部だが、幹部には各地域の顔役となって働いてもらうことになる。自由に部下を持ち、統制を取るのだ。それはお前達がこれまでやってきたことと然程変わらないだろう」
メイドマンは深く頷いた。
「ボスはそうした部下の身辺調査を行なう直轄機関がある。もしもその結果、政府などのスパイの可能性があれば、まぁ、分かるな?」
あまり想像したくないことだった。そんな彼らの緊張を解すように、「そこで幹部には、ボスに調査依頼をする権限が与えられている」
「なるほど。その権限を行使すれば、つまらない疑いをかけられずに済むと」
「そればかりか、忠誠を確かめてもらえる」
それはいいと、彼らは暗がりに浮かぶ互いの顔を見合わせた。
「しかし、ボスは何をするのです」
「何だ、ボスは組織の象徴だぞ。そこにいるだけで充分じゃないか」
「でも確かに分からないでもない。我々はボス・クロードの人となりを存じてはいるが、他の者はボスの行動に疑いの目を向けるはずだ」
一同の眼差しにクロードはすぐに答えた。
「私の主な役目は組織の統制と調整だ。表の顔を使い、元老同様政財界に食い込む。その収益をお前達に還元する」
「ボスご自身も前線で働くと?」
「若いうちはな。そうでなくては、夫として、そして父としての面子が立たん」
「確かに。ソファーでふんぞり返っているだけの親父なんてのはどうしても尊敬できたもんじゃありません」
「しかしリスクが高いように思えますが」
「そうだ。だからボスには百名の私兵――百人隊の保有を許可する」
百人隊。それは古代ローマの軍事集団だ。市民の所得を六つの階級に分け、それぞれの定員を一〇〇名としたことが本来の意味だが、〈新生〉ではボスの直轄軍事集団として機能するらしい。
「百人隊はボスの完全なる保護下にある。しかし幹部以上の命令権はない」
「私兵ってことは、直接手足となって働けるってことですか」
「ボスの定めた試験をクリアし、幹部や元老が見守る中、ボスと血の盟約を交わす。そうすればお前も、ボスの息子となり、元老の孫となり、幹部の弟となることができる」
一人奮い立った部下は、「だったら俺はボス・クロード、アンタの百人隊になるぞ!」
「それはますます頼もしいな。だがまだ気が早い。私がボスになるには、元老に私を認めさせる必要がある」
「大丈夫です! きっと認められます! いや、認めさせるんです!」
「そうだ、そしてフェロ家をお守りしてみせます!」
いや、とクロードは手で制した。
「私は家を持たない。彼女らには特定の住まいを与えるが、私がそこに必要以上に立ち寄ることはない」
「クロード……」
「すまないナタリア。しかし決めたことだ。私がこれからしようとしていることは、ただのマフィアじゃない。世界の敵となり、世界を動かす。そのためには一人のほうが何かと都合が良い。今でさえ――」
「ボス」
メイドマンが首を横に振る。妻が何かに確信を持ったようだが、夫が説明することはなかった。
「ともかくだ。私はフェロの末裔として、マフィアをかつないほど大きくしたいと考えている。ドン・ワルターをはじめ、現コーサ・ノストラの方々の恩義に報いる必要もある。そのためにも諸君らの力を、私に貸してくれ」
勿論です。
男達は二つ返事で頷いた。ナタリアは渋々ながら承諾した。出逢い、夢を内明かされ、愛の後に指輪を渡されたとき、全てを受け入れたように。
「こんな話を聞いてしまったからには、一刻も早く出なくてはなりませんね」
そう言って隔壁へと向かっていったメイドマンの姿が、突如閃光に消えた。
熱風がクロード達を呑み込み、彼らを一人残らず壁に叩きつけた。次に目蓋を開けたとき、隔壁があった場所には黒い人影が佇んでいた。
喉を焼かれたクロードは、何事だと口中で呟いた。その問いに答えるように、炎が天井を焼いた。辺りはすっかり明るくなって、少し離れた場所にジーナをきつく抱き締めて倒れるナタリアの姿を見つけた。
クロードは焼け爛れた半身を引き摺って彼女らのもとに向かった。母子共々息はあるが、この灼熱ではそれも長くは持たないと直感した。
「ス……、マフィ……、ストラ……、滅ボス……」
炎の中でもその背格好を崩さない黒い人影がそう呟いたようだった。
「ボスっ、お逃げくださいっ!」
右目を焼かれ、両足を炭に変えられた部下が叫んだ。その目が伝えていた。生きてくれと。生きて、〈新生ニューヨーク・コーサ・ノストラ〉を立ち上げてくれと。
しかしもはやクロードには何の力も残されていなかった。できることと言えば、妻子の身体を覆い、この炎から守ってやることくらいだった。
轟々と勢いを増す炎を纏う異形の人影は、一歩一歩、着実に彼らに近付いていた。その影の頭部には確かに目が二つある。業火の中で水分を失わないそれが殺すべき対象を捉えたとき、脳裏にノイズが走った。父母に包まれる赤子の鳴き声が鼓膜を劈くと、ノイズが写真のように網膜に焼きついた。
「が……ガ……!? ぬ……ぅ……ぐがぁっ!?」
部下は言葉を失くした。アレほどの炎の海が、一瞬にして銀世界に様変わりしたのだ。黒い男の全身からはいくつもの氷柱が伸び、それは枝葉のように空間に張り巡らされていた。恐ろしくも美しいとさえ思えるその光景を最後に、部下の世界は止まってしまった。
「何だ、コイツは!?」
ワルターは我が目を疑った。クロード討つべしと思い向かった裏切り者のオフィスが、突如高空から落下した赤い火の玉によって吹き飛んだのだ。恐る恐る駆けつけてみると、途端に業火は氷で鎮火された。ぽっかりと空いた大穴を覗いてみれば、地下空間には同じ人間とは思えない黒い巨人が氷の茨を生やしながら、憎きクロードに迫っているではないか。状況が読めず、不意に頭を殴られたような衝撃で頭も回らなかったが、咄嗟に叫んでいた。
「撃て!」
「え、どっちをっ!?」
「クロードを守れ!!」
部下が一斉に発砲した。弾丸は回転を重ねて黒い巨人に降り注いだ。
クロードには生きてもらわねばならなかった。
あの手紙が真実であったのかを、その口で正直に答えてもらわなければならなかった。
身を挺して妻子を守るその姿に、夢を語ったその目に、誉れ高きフェロの名に偽りがないということを、生きて……。