〔四‐5〕 真実の共有
前を歩かせている黒いスーツ姿の男がピタリと足を止めた。玄関口でのことである。
染めているわけではないだろう、世にも不思議な銀髪のその男は、左手の壁にかかった家族写真に目を向けた。緑豊かな自然に張ったテントの前で、夫妻と兄妹が並んで笑顔を湛えている。とても睦まじく、日頃から団欒している姿が目に浮かぶ良い一枚だ。
ルジャ・ドルトーレは銀髪男――雪町ケンの背中を押して、「早く行け」と安全装置を解除したベレッタの遊底を引いた。妙な真似をすれば殺すぞとサングラスの奥で脅した。
家の中は暗い。テーブルの上で揺れる蝋燭の火だけが唯一の光源だ。どうやらニューヨーク全土で停電が起きているという情報は確からしい。
「お前ら何だぁっ!?」
「アナタっ」
「パパぁっ!?」
押し入った先の家主が錯乱した。ソファーの座面を起こして銃を取り出した。血気盛ん、それでいて妻と娘を背に隠す大黒柱としての責務を果たしながらも、銃を握る両手は震えている。
「S&WのM39か。おい和尚、お前の故郷の警官が使っている銃じゃなかったか?」
「俺は坊主じゃない。杜氏の息子だ」
銃口を間近に見つめながら、丸坊主の巨漢――酒顛ドウジは答えた。
「トージ?」とルジャが問うと、「日本酒の職人だよ」とにべもない態度で返した。
「余計なことは喋んな」
「いいや、お前らには喋ってもらう。知っていることを何から何まで。そしてアンディ・コープの家族、お前達もだ」
ケンは舌打ちした。
ルジャから銃を奪い、形勢逆転するのは容易い。外で見張っている彼の部下達も全く脅威ではない。しかしながらそれをすれば〈アルパ〉に捕らえられているという人質が殺される。ルジャを駒として利用する〈アルパ〉には《千里眼》というセンスを使える優秀なヘレティックがいるから状況は筒抜けと考えるべきだ。
さらに抵抗すれば、その瞬間に第一実行部隊は任務失敗。命からがら本部基地に帰ったとしても、利敵行為と看做されて処刑は待ったなしだ。何故ならその人質は、第一実行部隊を裁く権限を持つ上層部連中の親類縁者達だからだ。
表世界と縁を切り、存在しないものとする。裏世界で生きるとはそういうことだ。そういう仕組み、規則、しきたり、法を作ったのは何を隠そう組織であり、その上層部だ。それを上層部自ら反故にして、その事実を隠蔽している今、貧乏くじを引かされ、たった五人で〈アルパ〉に抵抗してみせた第一実行部隊が英雄視されることは永遠にない。
しかしそれが表世界の人類のためになるならば、甘んじて一切を受け入れる覚悟はできている。実行部隊総隊長酒顛ドウジと、英雄と呼ばれた雪町セイギの息子ケンは特にその決意は固い。
だが、この状況は何だ。どれもこれもつまらない我欲の産物だ。誰も自分以外の誰かのために命を削っていない。
いや、とケンはその鋭い目を細くした。目の前にいるノーマルの親子は、それぞれに家族を思いやっている。男はたかだか五〇〇ドル程度のハンドガンを頼りに愛する妻と娘を守っている。妻は彼の腕に手をやって、抵抗することで彼が殺されないよう躍起になっている。娘も同様だが、その未熟な心は動転して身を縮こまらせている。
俺は何をやっているんだ。
酒顛とケンは互いに目も言葉も交わさずに同じ言葉を口中に吐き捨てた。今日まで命懸けで守ってきた世界を、人類を手にかけようとしているなんてどうかしている。
「デイビッド・コープから銃を取り上げろ」
ルジャの言葉にデイビッドはいよいよもって引き金に力を込めた。今まで人に向けて発砲したことなんてない。的に向かってさえも一〇発撃ったかどうかだ。昔旅行先のハワイで父に教わって以来だ。そのときだって、あまり興味が沸かなかったからすぐにビーチに戻ろうとしたほどだ。ただ誰かを守るために必要だと考え、家庭を持ってから購入したにすぎない。使うことなんてこの先一生ないだろうと思って疑わなかった。
くそったれ。デイビッドの決意は弾丸となって放たれるはずだった。しかしそれは正面の東洋人を穿つどころか、薬室から発射されることすらなかった。気付けばあの黒く重い鉄の塊は手元から失われていた。
「すまない。話を聞かせてほしいだけなんだ」
腰を抜かすデイビッドは、酒顛の手の上で分解されて落ちていくM39をぼんやりと眺めていた。
夫に抱き寄る母子を見下ろし、「アンディの部屋はどこだ」と酒顛は訊いた。瞳には慈愛とすら言えない甘さばかりが滲み出てしまっていた。
コープ家の二階にアンディ少年の部屋はある。ケンと酒顛は彼の顔を写真でしか知らない。身長、体重、経歴などはルジャから渡された書類から頭には入っているが、当該少年がどんな声で、どんな人格で、どんな仕草で、どんな表情を浮かべるのかは全く分からなかった。
ただどこか、その写真から伝わる雰囲気は誠の神経を刺激したに違いないと二人には思えた。似ているのだ、彼が心から止めたいと思っているREWBSの少年に。金髪のセミロングヘアーの白人、ただそれだけだが、きっと。
ケンはまた一つ舌打ちした。
「……お前はよく舌打ちをするな」
「そりゃすまないな」
一家の尋問を担当する酒顛と、彼の見張り役の男を置いて、ケンとルジャはアンディの部屋の捜索に当たっている。専ら、捜索するのはケンの役目。ルジャはそんな彼をM9で脅して見張る役目だ。ルジャが左手に持つ、某社製の警棒にもなる持ち手の長い懐中電灯で照らされた場所をケンが捜索している。
探し物はUSBやコンパクトディスクなど、コンピューターのデータを書き込める記憶媒体だ。また別途、バーグに関すると目されるもの――人も含め――も回収し、所定の場所へ持って来いとのことだ。
しかし今のところ別段変わったものは発見できない。アンディが日頃使っているらしい机を見るに、PC用のモニターはあってもPC本体はなかったが、それは事前に聞かされていた情報どおりだった。
ケンはその情報で〈アルパ〉が先んじて動いていることは分かったが、ここに来て他のことも大体は把握できていた。どうやら〈アルパ〉が何らかのミスを犯したのだと。
「どうやらここらが潮時なんだろうな」
「何だと?」
「マフィアAとしてはこのまま役目を全うしてぇーんだろうが、囚人Aとしてはそういうわけにもいかねぇーんだよ」
「……余計な真似はするな」
固い口調で銃口を向けるマフィアAの首筋には汗が滲んでいる。引き金を引いても当たらないと分かっているのだ。地下の拷問所で言葉を交わしてから分かりきっていた。
この囚人達は人間じゃない、怪物の類だと。しかしワケあってファミリーを脅しているのと同じ連中に服従しなければならず、その牙を、爪を、研ぐことさえままならないのだ。
それがもう潮時らしい。ネコを被るのをやめ、ライオンやトラのような――いや、この男に限ってはその人相から狼やコヨーテという喩えさえもチープだろう、フェンリルのような神話の獰猛な怪物の面を露そうとしている。
「違和感を覚えたのテメーらに逢ってからだ。連中だけで俺達を監視していやがったのに、目的を果たした途端にテメーらみたいな表の連中が絡んできた。つまらん拷問なんてさせ、今では一般家庭に押し入って強盗のお守り役だ」
まどろっこしい上に無計画が過ぎる。
ケンはそう続けて机に凭れかかり、脅されているとは思えないほど悠然と腕を組んだ。
「連中は俺達の全部を把握しきれてねー。生まれてこの方、俺は裏でしか生きてこなかったからな、《千里眼》の“穴”はよくよく知っている。反面、その“穴”がカバーされたときの脅威もよくよく知っている。だが俺の警戒心は杞憂だったらしい」
「何の話だ。《千里眼》とは何だ」
「遥か遠い場所から任意の場所を、今で言うなら俺達の行動をリアルタイムに視認できる能力だ」
ルジャは少し口を閉じたが、耐え切れず吹き出して、「超能力だとでも?」と失笑した。
しかしケンの真っ直ぐな眼光にまた閉口してしまった。
「俺達はそういう動物だ」
「まるで人間じゃないような言い草だな」
「そうだってことは前にも言ったろ」
「それでも信じられん」
ケンは俯いて嘆息を漏らした。聴覚や嗅覚が人間の何百倍も鋭敏であることを今ここで実証するのは不可能だった。宙に浮いたり浮かせたり、火や水や氷や電気を自在に生み出し操れるならまだしも、ケンのセンスはあまりに地味すぎた。
「思い当たる節はねぇーのか。テメーらも脅されてんだろ、見えない敵に」
ルジャは答えない。答えられない。
マフィアの中でも秘密裏に結成されようとしている〈新生ニューヨーク・コーサ・ノストラ〉の存在を暴露することなどできるはずもなかった。
しかし脅してきた何者かはそれを知っていた。故に脅した。いつでも地面を割って出ようという芽を摘むことができると、根の一本一本を毟り取ることで思い知らせてきた。
もしも《千里眼》なる異能が実在し、マフィアの存在をそれで感知していたのだとしたら全て納得がいくかもしれない。ファミリーに裏切り者などいないとすれば、全て。
「テメーのために最後まで話してやる。《千里眼》の“穴”ってーのは、脳裏に一つの光景しか思い浮かべられねぇーってことだ。もし複数の監視対象がいた場合、一人ひとり、あるいはグループごとにしか監視できねぇ」
「つまり何だ、視覚情報としてはほとんど俺達と同じ単一な情報に限られるということか。客観視であるようで主観にすぎないと」
「そうだ。その穴を埋めるなら、《千里眼》を使える奴が複数必要になる。俺は連中に自由を奪われたとき、まず最初にその可能性を予感した。俺だけじゃない、残り三人は間違いなく――な」
含みを持たせるケンの言葉にルジャは眉をひそめることしかできなかった。
ケンは誠のことを思い浮かべていた。組織と関わって半年にも満たないあの少年は、組織が抱える《千里眼》の情報のほとんどを知らないはずだ。だからきっと従順に、今も連中の言いなりに動いているだろうと考えた。
「しかしそうじゃねぇーらしい」
「どういうことだ」
「考えろよ。《千里眼》なんて便利な力がいくつもあったら、テメーらみてぇーな連中は必要ねぇ。テメーらを駒として利用しなけりゃならねぇーほど、人材が不足してるって何よりの証拠だ」
「……しかし例えそうだとしても、今この瞬間、連中が視ていない保障なんてどこにもない。俺がお前の話を鵜呑みにすれば、連中は、連中は……!!」
M9をぐいと押し出すルジャの瞳が揺らめいているのはサングラス越しにでも判別できた。どうやら命よりも大切なものを背負っているらしい。
ケンはしばし沈黙した。
一家の拘束には結束バンドを使った。プラスチックのこの梱包紐は一度縛ると切断しない限り解くことはできないので、拘束具としてはかなり有能な一品である。
しかし両手を手首で一まとめに縛る、いわゆるジップタイと呼ばれる拘束方法から抜け出す手段は今や世界中で知られてしまっている。縛られた両手を勢いよく腹部まで振り下ろして、インパクトと同時に腕を広げると、思いのほか簡単に外せるのだ。
だから彼ら一家の場合は椅子に座らせた。ちょうど背凭れに穴が空いているデザインだったので、両腕を後ろ手に組ませ、それぞれ別々に椅子に縛った。足は椅子のそれと固定し、身動きが取れない格好にした。
口は猿轡で塞ぎ、尋問相手のみそれを外すようにした。今はデイビッドの番だった。
「アンディについて教えてほしい」
「アンディ? 誰だそれは!」
「お宅の息子さんですよ」
「知らん!」
「その嘘は方便としてあまりに無謀です。正直に話してください」
でなければ、大事な家族を失いますよ。
酒顛は耳元で囁いてみたが決して気持ちのいい気分にはなれなかった。本来的に性に合わないのだ。しかし今頃海の上にいるだろう累差絶を呼びつけるような真似もしたくはなくかった。彼は作戦処理部隊として捕虜の尋問におけるエキスパートではあるが、その方法はあまりに残忍だ。ヘレティック相手ならば命をギリギリで残す手段も心得ていようが、ノーマル相手ではきっと手心を加えようにも気付いたころには殺してしまっているに違いない。
目の前のか弱いノーマルの代わりに気弱な己を押し殺した酒顛は、背後で動向を見守るルジャの部下に顔を見られぬように続けた。
「アンディ君について知っていることを教えてほしいのです。アンディ君はどういう息子さんですか。普段は何をしていて、どんな趣味を、夢を持っているのですか」
「……約束してほしい。家族には手を出さないでくれ、もちろんアンディにもだ」
視界に大粒の涙を流す母子の姿が映り、「分かりました」と酒顛は二つ返事で了承した。
対し、部下がショットガンを構えて、「おい、勝手な約束をするな!」と声を荒げた。
「尋問に交渉は付き物だ。そんなことも知らないのか」
「何だその口の利き方は!?」
「銃を持っているくらいでいい気になるなよ?」
やおら振り向いた巨漢の顔が人のものに見えなかった。こめかみから二本の角を生やし、牙を剥き出した悪魔のそれだ。部下は思わず腰を抜かし、ショットガンを落としてしまった。一つ瞬きして見た巨漢の顔は老けた丸坊主に戻っていた。
アレは、幻覚だったのか……?
「それで、アンディ君はどんな子ですか」
デイビッドは喋った。知っていることを洗いざらい話した。愛する息子を売るという親失格の行為に心がよじ切れてしまいそうだったが、目の前の家族のために心を殺して全て話した。
利発で、知的で、運動はそれほどでもなかったが、それでも自慢の息子だった。昔大怪我を負ったが、それで情報の分野に進む決意をしたと本人は語っていた。その夢を叶えるために大学では情報学を学び、日々精進している。一家のトラブルメーカーである自分とは違い、将来は有能なジャーナリストになり、きっと今もいるだろう恋人か、あるいは今後出逢うかもしれない運命の人と永遠の愛を誓い、孫の顔でも見せてくれるだろう。
何もおかしなことなどない。普通の子だ。普通に、ごまんといる大学生の一人だ。
ただ一つ他とは違うことがあるとすれば、この世で最も大切なコープ家の一員であることだけだ。
「それだけだ。アンディは俺とモニカの自慢の息子で、マーガレットの頼れる兄だ。ただそれけだ。もしもアンタらに迷惑をかけたのなら俺が全て償う。親としてアンタらの望むことを全て受け入れる。だから家族は見逃してくれ。彼女達も、そしてアンディも、頼む、赦してやってくれ……!!」
酒顛は拳を固く握った。血が滲むまでそうしてから高ぶった精神を落ち着かせ、「最近、息子さんに変わった様子はありませんでしたか?」
「何?」
「大事なことです。よく思い出してください。ここ数日、一週間、いや数週、ひと月、どれだけ遡っても構いません。息子さんは何か隠し事をしていませんでしたか」
デイビッドはふと頭を擡げた。思い当たる節はある。先日、彼を週末のキャンプに誘ったときのことだ。どうにも歯切れの悪い態度だった。
「あったのですね?」
「……昨日、キャンプに誘ったんだ。週末はベースボールを観戦するつもりだったんだが、ヤンキースが負けてしまってな。それで北の方でキャンプでもどうだと。そうしたら、こう、黙って、しかめっ面だった」
途端、モニカが呻いた。何かを懸命に訴えていた。酒顛は彼女の猿轡を外してやった。その紳士的と言えば聞こえ良く、強盗としては迂闊な行為に、一家は目を丸くしてしまった。
「どうしました、何か話したいのでは?」
「え、えぇ。その、彼は昔大怪我を負って……」
「それは先程旦那さんから聞きました」
「北にはその事故に遭った場所があるんです。場所はハーリーマン自然公園。きっとそのときのことが頭に浮かんでしまっただけだと思うんです」
「しかしアイツは事故の後すぐ、ケロッとした顔でまたキャンプに行こうって言っていたじゃないか。学校の勉強が忙しくなるまでは毎年何度も、暇を見つけてはそこでキャンプを過ごしただろ?」
「アナタ、そうじゃなくて!」
「お静かに」
酒顛が割って入ると、今度はマーガレットが何かを訴えた。頭を掻いてから彼女の口からボールギャグを外してやった。
「昨日ね、お兄ちゃん夜中まで何かやってたみたい。部屋から、何だろう、何か弄ってるような音だった。一昨日だって夜中までどこかに行ってたみたいだし――」
「マギー、それはアイツも年頃なんだ。決して開けて見るんじゃないぞ、声をかけることもご法度だ」
「アナタっ、何て話を!」
「そうよ、パパの変態! お兄ちゃんはそんなことしないもん!」
モニカとマギーは同じように顔を真っ赤にして口々に叫んだ。
男としてのどうしようもない生理現象と経験からの助言をオブラートに包んで婉曲に伝えてやっただけなのに、デイビッドはすっかり夫として、父としての威厳を失ってしまった。
「何だお前達は! アイツも男で、しかも俺の息子なんだ! 夜になればこう、ムラムラしちまうに決まってる!」
アンタもそう思うだろう!?
不意の問いかけに酒顛は、「え、はい、まぁ」と歯切れ悪く首を縦に振ってしまっていた。すると女性陣の厳しい視線が一斉に彼へ集まって、「サイッテー」という今まで事あるごとに耳にしてきた言葉が胸を抉った。
女性経験がないわけではない。ただこの容姿であまりに大っぴらに性の話をすると、異性から煙たがられるのだ。対してケンのように下らないとそっぽ向いてクールを気取っているほうがモテてしまうのである。
初対面の女性二人に侮蔑的な目で見られた酒顛はその場に頽れると、深々と息をついた。
「おいアンタ、気にする必要なんてねぇよ! どっちかと言えばなぁ、皆まで言わずとも察しちまうコイツらのほうがよっぽど変態なんだからよ!」
星を指された女性達がワーキャーと騒ぎ立てる中、「こんばんは」と聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。酒顛が見上げると、テーブルの上で浮遊する男の姿があった。
「おい、このニオイ!」
二階から慌てて降りてきたケンは絶句した。残りわずかな蝋燭の火を足下に、死んだはずの男が宙に浮いているのだ。
「バーグ!!」
「地獄の、いや海の底から蘇ったと言ったほうが、諸君らは恐怖してくれるかな」
紳士服にキャスケット。蝋で固めたカイゼル髭を蓄えたヒスパニック系の中年。その男は先日、あの廃工場で酒顛とケンが殺したはずの男だ。殺して、その遺体を海に沈めたはずだ。
酒顛は咄嗟に裏拳を放ったが、バーグはふわりと浮いて躱し、背後から飛び掛ってきたケンを目に見えない力で空中の一点に固定すると、悠然とした動作でリビングに降り立った。それは《念動力》と呼ばれるセンスがなせる技だった。
「死んだはずだ」
「そう、諸君らが殺してくれた」
「くれただと?」
「そうだ、計画どおりにな。コープ家の諸君、しばし息子さんを拝借させてもらった。気を悪くしないでほしい」
「ど、どういう意味だ」と目の前で起きている異変に怯えながらデイビッドは訊いた。するとバーグは目元を帽子で隠しながら、ニタリと笑って見せた。
「大したことではない。私が彼ら二人に殺される瞬間を収めた映像を、息子さんに全世界へ発信してもらったのだ」
マギーは気付いたようだった。昨日、学校で話題になった一本の動画があった。宙に浮く男を、身の丈何メートルもありそうな大男と白い髪の男が嬲り殺している残忍な映像だ。
クラスメート、特に男子は興奮しきりで、マーベルの最新映画の予告だ、いや超能力者同士の争いは実在したんだと大騒ぎしていた。しかし女心にはとても不快で、映像が暗がりでなければきっとトラウマになっていたに違いないほどショッキングなものだった。
映像自体は投稿から数時間で全て消され、その影響か動画サイトそのものが閲覧負荷の状況に陥り、それはニューヨークが停電になるまでずっと続いていた。
「そうだよマーガレット・コープ、その映像だ。キミの大事なお兄さんがあの映像を世界に配信した。真実の公表に一役買ってくれた。彼は英雄だ」
「お兄ちゃんが英雄?」
「そうさ。彼は我々ヘレティックと呼ばれる超能力者の存在を世界に教えてくれたのだ。この二人が属する名も無き組織が、世界を相手に封じてきた真実を、“世界のために”」
酒顛が動いた。今の言葉はこの不埒な男が使っていいフレーズではなかった。一歩二歩と大股で駆け、拳をバーグの顔面に振り抜いた――が、それは届かなかった。鼻先一センチ手前で不可視の障壁に止められてしまった。しかも次第に押し返されていく。
「その状態で続けるつもりか? それは意地か? 組織としての? 裏世界の警察機関としての? くだらんな、面白くない」
「愉快不愉快で戦っているわけではないっ!!」
「私はそうなんだがね」
「何っ?」
「貴様ら組織は、世界をこんなつまらん様相に傾けた責任を取るべきだ」
「貴様の目的は何だ!?」
「言ったろう。私はバーグ、情報屋だからな、世界に真実を伝えることが究極にして唯一の願いだ。アンディ・コープ、キミが言うところの、“真実の共有”だよ。実にイイ言葉だ、感銘を受けたと言ってもいい」
バーグは目と鼻の先に酒顛の顔を置きながら、背にしていた庭へと続く窓に目を向けた。窓の左手からやつれた顔のコープ家の長男がおずおずと現れた。罰が悪そうに背を丸める彼は、しきりに何かを口にしようとしているが、どうにも言葉が見つからないようだった。
やっぱりそこにいやがったのかと、ケンはまた舌打ちした。玄関で気付いていた。外で挙動不審な様子で隠れる何者かのニオイが、部屋に充満するニオイの一つと合致していた。
「コープ家の諸君、どうか彼を責めないでやってほしい。彼は悪くない。全て私の責任だ。真実を暗い牢獄から解き放つためには、彼のような同志の存在が必要不可欠だったのだ。むしろ褒めてやってほしい、諸君らが住まう表世界においてプレジデントと国連事務総長の歴任者のみが知らされている真実を、彼は決して恐れずに公開したのです。分かりやすく言えば、スノーデンのような勇気ある行動だ」
平和賞だって夢ではない。
そう言って沈黙が訪れると、バーグは乾いた声で笑った。
「コープ家の諸君には、ノーマルの代表として我らの行動に賛同してもらいたいものだ。そのためにはまず、真実についてより深く知る必要があるな」
「それ以上喋るな!」
「焦るなよー、酒顛ドウジぃ! お楽しみはココでは終わらないんだからなぁっ!?」
「黙れぇぇっ!!」
空中に固定されていたケンが強引に身を捩り、天井に足を付け、蹴り、バーグに飛び掛った。バーグが咄嗟にその場で手を払うと、まだ少し距離のあるケンの身体が右に大きく弾かれてしまった。しかし彼は壁に激突寸前でまた腰を捻り、吐血しながら壁を蹴り、バーグを殴りつけた。
プロボクサーのそれよりもよっぽど重いパンチを受けたバーグは窓ガラスを突き破り、庭まであっという間に飛ばされてしまった。青々と生い茂った芝生の上で仰向けに倒れる彼は、すっかり暗くなったニューヨークの夜空を見上げると、関節を折ることなく直立姿勢に至った。
「まずは医療だ」
「コイツっ」
「こうして怪我をすれば傷口が塞がるまでに時間を要するものだ。傷口が大きければ大きいほど、損傷箇所が骨や内臓なら尚更。また疾患においては発病すれば死に至るものもあり、アレルギーなどはもはや不治の病と言ってもいい」
ケンと酒顛は一斉にバーグとの距離を縮め、見事なチームワークで彼に拳を、蹴りを浴びせた。しかしバーグは涼しい顔でそれを避け、払い、不可視の盾で凌いだ。
「しかし彼ら組織はそれらを完全に治療する方法を知っている。それどころか既存の毒物、ウィルスに対する抗生物質を投与し、あらゆる状況下でも耐えうる肉体を手にしている。既存のどれよりも優秀な医療ロボットを保有し、致命傷からたちまち回復させてしまう。
そうだ、彼らは万人を救える知識や技術を持ちながら、諸君らに何一つフィードバックしていないのだ」
唖然とするコープ家にバーグは続けた。
「次に軍事力だ。彼らは肉体から発する超能力――センスと呼ばれる異能を用いて戦う。世界各所で秘密裏にそれを行使する都合上、彼らはオリジナルの兵器を多用しない。もしもどの軍隊も、どの軍産複合体も、どの銃器メーカーも作っていない弾丸が見つかればそれは大問題だ。ヘレティックの科学者による世紀の発明から、表世界の兵器の常識が一変してしまう。彼らはそれを恐れているのだ。無能と蔑むべきノーマルが自分達と同等の力を有することを、彼らは途方もなく恐れているのだ」
バーグが両手を広げると、庭に植えられた木々が文字どおり根こそぎ抜き取られたように宙に浮き、一斉に戦士達へ飛来した。獣のように吠える彼らは、逞しい腕や足でそれらを薙ぎ払った。
季節は秋。枯葉が土埃とともに宙を舞う中、不気味な紳士はその舌を乾かすことはなかった。
「生態ピラミッドについてだ。ヘレティックは諸君ら人間から産まれた、言わば突然変異の賜物だ。人の形を取っているが、遺伝子の構造上決定的に異なっている。故に人間ではない新種の生物と考えるのが妥当だろう。その人口は一万程度だが、そのほとんどはREWBSと呼ばれ、組織から有害指定されている。表向きはアルカイダやISILのようなテロ組織だからというものだが実は違う。REWBSは組織が隠蔽している真実を世界に公開しようとしているに過ぎないだ。組織が影からコントロールしているこの世界情勢を、根底から覆す存在なのだ」
「デタラメを!!」
「垂れ流してんじゃねぇっ!!」
酒顛は拳を顔面に、ケンは足の甲を腹部に放ったが、やはりバーグの不可視の盾は鉄壁だった。
「お察しのとおり、私はREWBSだ。この世界に真実を伝える異能なるスポークスマンだ」
アンディは身震いを隠せなかった。額から脳へと染み渡る痛みに気が狂いそうだった。
もはや何が真実か見えない。蘇ったはずの記憶が正しいのか、今ここにいるバーグの語ることが正しいのか、自分ひとりでは判断できるものではなくなっていた。
「アンディ、そしてマーガレット。若い諸君らならば一度は思ったはずだ。どうして世界はこんなにも争いばかりなのかと。根底に何が根ざしているのかと。それは宗教か、政治か、経済か、軍事力か、技術力か、性か、血の宿命か。答えはそう、全てだ。人は人である限り争うのだ。何か別のファクターが介入しない限り、人は争いを止められない」
「組織なら、止められる……?」
「正解だ、アンディ。やはりお前は優秀だ」
酷薄な笑みがアンディを刺激した。身体は後ろによろめき、地面に散らばったガラスを踏みながら格子に凭れかかった。
「しかしな、彼らはそうしない」とバーグが口にすると、「どうしてしない」とアンディはすかさず合いの手を入れた。
「争いを仲裁するどころか静観すらしない」
「だから何で!?」
「人の世界に関与しないことをモットーとし、事実から目を背け、同じヘレティックを相手に一方的に力を振るうばかりだ。戦地で幼い命が消えていく現状に彼らは見向きもしない。ノーマルを下等と罵り、蔑んでいるからだ。お前達で止めてみろと無理難題を押し付けているのだ」
「ひどい……!」と悲鳴のように呟いたのはマーガレットだ。十代の繊細な神経とあまりに豊かな想像力が、組織という巨大な悪党のシルエットを形成していった。
「ち、違うんだ!!」
「ひっ」
酒顛の弁明も、少女に恐怖を与えるばかりだった。それもそうだ、布石はすでに酒顛自身が作ってしまっていた。正義に準じた誇り高い兄について知るため、強盗まがいのやり口で拘束までしているのだから。
少しでも正義があるならばそんなことはしない。正義を恐れる悪だからなしえるのだ。
「私にはそんな真似はできない。真実を広め、全てのREWBSを頚木から解き放つ! 組織などに恭順しない我々ヘレティックこそが世界から争いを無くし、諸君らに真の幸せを享受させよう!!」
コープ家は真の正義を目の当たりにした。彼が操る無数のガラス片が月明かりを反射させ、ヒーローの姿を確たるものへと昇華させた。
「バアアアグーーーッ!!」
美しささえ覚える光の乱反射が一息に血に染まった。ガラス片は雨のように芝生の上へ落ちていき、コープ家の網膜にヒーローの最期を焼きつけた。
バーグの腹にはケンの拳が二の腕まで突き刺さっていた。忙しなく上下するケンの肩には自然、バーグの顔が寄りかかっていた。
「さぁ」と耳元で、血塗れの口が囁いた。
「さぁ……フィナーレ、だ。どちらに……転ぶかなぁ」
「テメーの目的は何だ!?」
「何だって、いい。誰が、苦しもうが、喜ぼう……が、どちら、でもな。ひゅ、う、あの男が……うぅっ、舞台に上がるのならばぁ、ぞれだげで、充分っだ」
「あの男? 誰だそいつは!」
ケンはバーグの後頭部を掴み、顔を正面に持ってこさせた。するとバーグは真っ赤な髭を怒らせ、歯を剥き出しにして嗤った。
「貴様に遺伝されなかったセンスを持つっ、あの男だよぉっ!!」
吐血を満面に浴びたケンは唖然とし、バーグを穿ち支えていた右腕をだらりと垂らして立ち尽くした。物のように崩れる肉の塊を足下に、ケンは空を仰いだ。
「マコト……」
奇しくも、あの日と同じ弓形の月が浮かんでいた。