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ネイムレス  作者: 吹岡龍
第四章【死を招く怪人劇 -The unstoppable Burge's puppetry-】
130/167

〔四‐1〕 プレジデント・ミリード

 カナダ北東、ヌナブト準州。北極圏はクイーンエリザベス諸島の一端に世界最大の無人島――デヴォン島がある。

 面積約五五〇〇〇平方キロメートルを誇るL字型のその島の地下には、俗称ネイムレスという無国籍軍事組織の本部基地が丸々収まっている。本来デヴォン島基地は規模こそは組織一だったが、基地機能に関しては常々二番手に甘んじていた。それが半年前、マリアナ海溝にあった本部基地が放棄されたことにより、本部スタッフのほとんどが当該基地へと引っ越してきた。

 マリアナで企画、開発、試験運用までされた機器の一切がデヴォン島に集約されたことで、基地機能は各段に向上した。その反面、本部の優秀な人材と、元々デヴォン島に所属しているスタッフとの能力差が明るみになり、ましてやここでバーグやら〈アルパ〉やら、しかも上層部の不祥事やらが絡んできたとなると、軋轢は一層色濃くならざるを得なくなっていた。

 衛生部医療部隊総隊長である清芽ミノルも、その混乱の最中に身を置いている。組織の手術で主に用いられている手術用ロボットに頼らぬ執刀技術は“神の手”と称され、衛生部に属する者達の憧れの的になっている。しかも性格は温和でお人よし、四〇代とは思えない若々しく甘いマスク、優男に見えて実は元第一実行部隊所属の凄腕剣士、人を引き寄せる求心力と道徳心はかの英雄に勝るとも劣らない。まさしく男の理想系とも呼ぶべき彼が身近にいるとなれば、どうしても人々がその不安な胸の内を頼り甲斐のある彼に腹蔵なく明かすべく相談を持ちかけるという構図は必然も必然だった。

 彼がデヴォン島基地の衛生部に配属されると、その評判は自然ナースから他の部署の女性スタッフへ広まった。女性からの熱視線を独り占めされれば、どうにかその心象を覆すネタを発掘しようとするのが男の性というものだ。しかし話して、見て、その優れた人となりに触れるとあっさり手の平を返してしまうのもまた男である。今ではその棘のないカリスマ性に期待を抱く男のほうが多いともいわれている。

 清芽の医務室は四六時中列が絶えない。いつしか診察と、医療に関係ない相談という二種類の客を応対することとなっていた。一方でこうした相談を請け負うべき本職の心理カウンセラーの医務室は閑古鳥が鳴いている始末。マリアナ勤務の頃に考えられない異常事態だ。

 これでは休憩時間も取れないとお手上げ状態の清芽は週に一度、使われていない大部屋に人々を集め、彼らの抱える不安をひとしきり聞く時間を設けようと衛生部上層部に打診した。すると話はボスにまで伝わり、彼の秘書から助言を得た。彼女の意見は清芽がその日までに覚えていた違和感と見事に合致していた。

 承認を得られたその対応には一対一でないとと不満を漏らす声も上がったが、どれもこれも似たような相談だったので無視せざるを得なかった。衛生部へのクレームが加熱する一方、あの多忙な清芽が不安を聞いてくれるならと応募が殺到した。

 まるで人気アイドルのコンサートチケットのような倍率で無作為に選ばれた相談者の中には、彼に会うだけで満足する者も少なくなかった。教祖か宣教師のごとく、人々に道を示す清芽の言葉をメモに取り、お守りのように肌身離さず持ち歩くという話さえもあるほどだ。

 そうして一人、また一人と悩みを解消した者が出ていく一方、部屋にはよく顔を出す者が数人いることが気付いた。そうして今日、かねてから清芽が抱いていた懸念が満を持したように爆ぜた。

 相談日に一度は必ず常套句のように噴出する、旧本部勤めのスタッフとデヴォン島勤務のスタッフの軋轢の解消を求める声をきっかけにしたのは間違いない。もはやメディカルケアとは無関係の訴えだったが、清芽は誠実に答えた。


「キミ達の言いたいことはよく理解できるよ。デヴォン島勤務の長い人達のストレスは、特にね。マリアナから越してきた者の一人として、早急に解決すべき事案だとは思う」


 是非にと一室に集った悩める者達が首を縦に振る。


「しかし僕らのストレスは、彼らのそれと天秤にかけられるだけの重さがあるだろうか」

「彼ら、とは?」


 兵站部勤務の作業服を着た男が問う。

 清芽は少しばかり白衣を揺らすと天井に目をやった。


「作戦部第一実行部隊。そう、僕の古巣だ」


 空気がまた一つ重くなって、人々は口を閉じた。

 皆知っている。上層部の不祥事をきっかけに、彼ら第一実行部隊が貧乏くじを引かされていることを。噂によれば〈アルパ〉の言いなりになって扱き使われているという。死者も出ているとされ、それでも残った者はその訃報を聞けないまま従順な姿勢を貫いているらしい。


「皆、思うところはあるだろう。しかし今だけは抑えよう。僕らの瑣末な問題よりも、仲間の安否のほうが重要なはずだ」


 歯を食い縛る一同から一人、耐え切れなくなった者が立ち上がった。


「分かりますがね、やっぱり俺はボスが許せねぇ」

「 “世界のため”だと思って法に従ってきた俺達が馬鹿みたいじゃないですか!」


 そうだそうだと熱気が増して、ボスや上層部を断罪すべきだというシュプレヒコールが室内を揺らし始めた。

 最中、女が大声で叫んだ。


「先生! 先生がボスになってください!!」


 清芽は全身が粟立つのを感じた。一同が彼女の意見に同意し、一人の男をクーデターのシンボルとして担ぎ出そうとすると、嫌悪感が腹の底から這い出てくるのが分かった。

 遂に来たかと思う反面、実際に対峙すると上手く考えが発揮されなかった。どう止めるべきかと悠長な思考を余所に、「先生ならやれます!」と彼らは言った。


「私はそんなものには――」

「アンタみたいな人だったら俺達はついて行くぞ!」

「ですから――」

「なぁ先生!」

「!?」

「頼む! この組織を一から立て直してくれ!!」


 連中の気迫に押され、清芽は壁に背中を預ける格好になった。

 彼らの言葉が分からなかった。何故自分をそう過大評価しているのか、英雄の死を理由に戦いから目を背けた自分に何を見出しているのか見当もつかなかった。

 しかしこれこそが彼らの純粋な気持ちなのだろう。不安の根源なのだろう。自分達ヘレティックの受け皿としての組織の存在はそのままに、裏世界の警察機構という大義名分に相応しい清純で真っ当な勢力の一員であり続けたいのだろう。

 気持ちは分かる。しかしそんな彼らを率いるのに自分では荷が勝ちすぎている。


「法は変えなくていいよな!」

「そうだ、くだらない暗黙の了解さえなくせばいいんだ!」

「あぁ、言うとおりだ。ヘレティックはヘレティック、ノーマルなんてどうだっていい! 人質なんて気にするから〈アルパ〉に足下を見られるんだ!!」

「な、何を――」

「そもそもノーマルに気を使ってるからこんなことになるんだ!」

「私達のほうが、もっと世界のために働ける!」

「俺達が世界を守ってるんだ!」


 セイヴ・ジ・アース、フォー・ザ・ヘレティックス。

 唐突に誕生したスローガンに清芽は頭を押さえた。ご神体の意思など露知らず、革命派の者達は天に拳を突き立てて叫び続けた。

 あの日、英雄が死んだその日を境に組織はその姿勢を徐々に、目には見えないくらいのゆっくりとしたスピードで変えていった。一本の糸が解けて抜けてしまったことで、布が解れ、大きな穴を空け、破れていったのだ。

 今の彼らのように不安に駆られ、それをひた隠すように理由をこじつけた。本質を見失い、正義を騙り、遂には背を向けて逃げ出した。

 今の組織は抜け殻だ。その殻を指先一つで押しつぶしたのが、バーグだ。そしてそれによる混乱を逆手に暗躍する者がこの組織にいる。

 助言を齎したメルセデス秘書官の言ったとおりになった。おそらくその何者かはこうして上がった火をきっかけにすることで、ボスのリコールの手助けにするつもりなのだ。清芽はただの御輿の一つ、担ぎ出すようここにいる者達をけしかけている者がいる。そしてその者は決して清芽自身がボスになるつもりはないと踏んでいる。

 その者は実質的にボスになれるほどの距離にいる者――つまり、上層部の誰かだ。

 くだらないと口中で唾棄した清芽は、暗い感情を押し留めた瞳を一同に向けた。連中は身体を跳ね上げ、息を呑んだ。


「REWBSのようですね、皆さんは」

「え、え……?」

「分かりませんか。見れば実行部隊所属のスタッフがいませんね。それだけでなるほどと思います。皆さんは知らないんだ、組織の本質を」


 眉をひそめ、首をかしげ、目を泳がせる。顔を見合わせて、清芽の冷徹な態度から距離を置く。彼らの姿はようやく不安を抱える相談者のそれに相応しくなった。


「実際に戦場に出た者であるなら、ノーマルを度外視するような発言をするはずがない。彼ら戦闘員のモチベーションを知らない愚か者ほど正義を履き違える」


 元第一実行部隊所属、それも英雄と称された雪町セイギの右腕であり、かつ年下ながら剣の師でもあった彼の言葉には独特な重みがあった。


「警告したはずですよ、瑣末な問題だと。バーグの件も、上層部の不祥事も、由々しき事態に違いない。しかし断罪すべきは今ではないはずだ」

「じゃ、じゃあ、いつなんです……!?」

「いつであろうと、それはキミ達の役目ではない」


 押し黙る一同は揃いも揃って顎を引き、プレッシャーを放つ優男から目を逸らした。


「徒党を組むのは結構。個々人の意思を剥奪する権利は僕にはない。ただ僕は、これまで幾度とない苦難に適切な決断を下してきた今のボスを支持する。故に、よからぬ思惑に乗せられているとも知らずに幼稚な不満を吐き漏らす者達は認められない」

「後手に回ってばかりのボスを支持するだなんて――」

「僕と同じで無責任だね、キミ達は」

「う……?」

「いずれ背を向けて逃げ出すんだ。そして時が経てば何食わぬ顔をして人の受け皿のような役を買って出る」


 自分の力を世界のために行使するとあの少年は誓った。力を持つ以上、無責任ではいたくないのだと。英雄もそうだった。この世界を愛しているから戦っていた。

 清芽は違った。彼らのような強い意思で世界と向き合ってはいなかった。流れのまにまに組織に参入し、英雄の背中を負うのが日常となっていた。その背中が道半ばにして斃れると、灯台を見失った小舟のように時流に呑まれてしまった。そしていつしか荒波に耐え切れなくなって舟を下りた。

 清芽家の務め――血の盟約を果たす気力さえ失い、気付けば愛刀まで封じてしまった。代わりに握るようになったメスは軽く、人を救うために皮膚を裂く感覚には喜びのような感情が芽生えた。それに浸り、現実から目を背け、我武者羅に人命を救い続けると、“神の手”などと持て囃されるようになった。

 自己嫌悪が増した。あの少年と出逢い、その弱々しいながらも直向な瞳を前にして、さらに自分に嫌気が差した。


“そんなに心配ならばぁ、あの頃と同じように血に従い、お目付け役を買って出ればいいぃ”


 累差絶。あの男は全てを見透かしている。清芽が腰抜けになってしまったことを、PTSDにも似た精神の脆さを抱えていることを。

 挑発に乗ればよかった。この弱気を克服するためにも、今目の前で不安に押し潰されそうになっている同胞のためにも、戦場に復帰し、この身に宿った力を行使すべきだった。

 それができない今、やるべきことは――


「間違わないでほしい。僕らは何のためにここにいて、何のために生きているのか」


 心の弱さを自覚しているからこそ、厚顔無恥な二〇余年を過ごしてきたからこそ、彼らに伝えられる言葉があるはずだ。


「そして彼らが何故戦い、何故命を懸けているのか」


 知っていること。知りながら目を背けてきたこと。それらを彼らに伝え、戦士達が帰る場所を守ること、それが臆病な自分に課せられた新しい役割だ。


「自らへの不都合ばかりを訴え、安息ばかりを求めて艱難辛苦から逃げ続けるだけの僕らには、他人に意見する資格なんてあるはずがないんだ」




 同刻。

 デヴォン島基地の中枢区画、核爆発や放射線をも防ぎきるオリハルコン製の隔壁で守られた場所に作戦部統合指令室はある。

 総勢一〇〇名を越えるスタッフが収容されたこの空間は緩やかなすり鉢状になっている。しかしコンサートホールのように段違いに椅子が並んでいるわけではなく、代わりに大なり小なりのコンソールがまばらに設置されている。また固定された椅子は存在しないが、縦横無尽に浮遊できる椅子は多数あり、多くのスタッフが高い天井を利用して様々な高度で仕事を行なっている。椅子自体にコンピューターの機能があり、両耳に装備したボタン電池型の万能デバイス〈MT〉と併用することで高度な情報処理を可能としている。

 すり鉢の底には彼らと同じ椅子が一脚、最低限の浮力でホバリングして待機している。ロマンスグレーのオールバックヘアーが目立つ六〇代後半の男がそれに座し、足を組みながら頬杖を尽いている。腕にはいくつものケーブルが差し込まれていて痛々しいが、その鋭い双眸は〈MT〉で投影されたホログラムウィンドウをジッと見つめ、ピクリとも表情を変えない。人は彼を“鉄仮面”と揶揄し、“ボス”と敬する。

 彼の隣にはスーツ姿の女性が立っている。秘書官であり、作戦部参謀長官でもあるメルセデスだ。彼女は室内で閃くいくつかの光をインテリ眼鏡のレンズに反射させながら、スタッフに現状の追加報告を求めた。

 彼女の問いに、直上の天井すれすれで情報を整理を担当している男が答えた。


「〈LUSH-5〉の信号消失(シグナル・ロスト)。〈望遠諜報特務部隊(サード・アイズ)〉による追跡を継続、GWBを走駆中とのことです」

「《韋駄天》は?」

「使っていません。時速約二八マイルで力走中、それでも目立っているようです」


 それもそのはずだ。この速度はかのウサイン・ボルトが世界陸上のベルリン大会一〇〇メートル走において叩き出した世界記録九・五八秒における瞬間最大速度とほぼ同じなのだから。〈LUSH-5〉こと早河誠は、ボルトが六〇から八〇メートル間で出したその記録を生身の足で常時出し続けているというわけだ。

 四七六〇フィートに及ぶ二層構造式の吊橋の上部歩道を、東洋人の少年が世界記録を出し続けながら疾走する。渋滞に掴まって進退両難となっている大衆の目が彼の背中に集約されるのは無理からぬことだった。

 それでも彼なりに気を遣っているのだろうと判断したメルセデスは、「監視を継続させなさい」と命じた。すると別の女性スタッフから報告が上がった。


「その〈サード・アイズ〉の〈チームB(ブラウン)〉から緊急連絡、繋ぎます」


 スタッフ一同の目が空間に大きく出現したホログラム映像に向けられた。

 どの位置からも同じように見えるその茶色いウィンドウには、大きく〈BROWN〉という部隊コードのみが表示された。部屋の壁面に据えられたスピーカーや〈MT〉から声が響いた。


『こちら〈ブラウン〉、応答願う』

「こちらHQ、どうぞ」

『〈アルパ〉が公表した人質リストのほぼ全員の生存及び無事を確認。ただ、数名の周辺にマフィア等のアサシンが存在。早急に脅威の排除、あるいは人質の救出を提案します』


 本件では作戦部と情報部からセンス《千里眼》を使えるスタッフを集結させ、〈サード・アイズ〉という特務部隊を結成させた。ニューヨークで活動を強いられる第一実行部隊には、九名からなる〈ブラウン〉が監視に当たっている。また同部隊は累差絶の監視任務もあったが、絶のセンスの都合上その存在を度々見失い、ジオと対峙するまで追跡しきれないというミスを犯してしまった。


「対象の詳細なデータとその近辺に駐在する特別外部協力者(コラボレイター)のリストを情報部へ譲渡しなさい。情報を精査後、連絡します。オーバー」

『〈ブラウン〉、ラジャー・アウト』


 通信が終わるや、「〈アルパ〉に動きは」とメルセデスはスタッフらに呼びかけた。


「兵站部、〈チーム・A(アンバー)〉共に追加報告ありません」

「本拠地があるプリマス全域も視野に入れるよう伝えなさい。人手が足りないなら人員を回す」


 人格に問題がある絶だったが、彼はそれを補って余りあるだけの活躍をしてみせていた。組織同様〈アルパ〉の《千里眼》にも察知できない彼特有のセンスを使い、誠に盗聴器を仕掛けることに成功したのだ。量子通信は対盗聴に特化しているが、組織はそれでも盗聴と逆探知を可能とする技術を有している。誠と〈アルパ〉の間で行なわれるやりとりは、絶の〈MT〉によって盗聴され、その音声は直ちにデヴォン島基地へと届けられる。

 そしてその通信の道筋を、ボスがセンス《ライト・ライド》によって遡る。腕に刺したケーブルから肉体へ通信電波が直截染み入り、ボスの意識が経由されたいくつもの通信サーバー、デバイスへと渡り、光速とも呼ぶべき速さで〈アルパ〉の本拠地へと到達するのである。

 ボスは電波の発信地を特定した。ニューヨークより東北東、一九〇マイルに位置するマサチューセッツ州プリマス。一六二〇年、イギリスの清教徒(ピューリタン)であるピルグリム・ファーザーズが初めて大陸に踏み入った地。彼らが乗ってきたメイフラワー号は故郷イギリスのプリマスから発ち、病と荒波に苦しめられること六六日間、ようやく同州のケープコッド湾に錨を下ろすこととなった。その偉大なる入植の記念として一八八九年八月に彫像が建てられた。

 |祖先への記念碑《National Monument to the Forefathers》。八〇フィートほどの高い台座に七〇フィートほどの女性が右腕を持ち上げ、左手に聖書を抱えている。“信仰”を意味する彼女のすぐ足下には、それぞれ椅子にかけた四人の男女が四方を向いている。道徳、法律、教育、自由を象徴する彼らをして――巡礼始祖(ピルグリム)

 今やプリマスは、“アメリカの故郷”と言われている。

 ボスはその記念碑の地下に意識を置いていた。記念碑の付け根に隠された扉から階段が下へと伸び、狭い通路からエレベーターでさらに下へと降りる。彼の意識はいくつかある一室の一つへ辿り着き、通信を制御しているコンピューターを操作する少女を目撃した。

 彼女を一目見て、ボスはその揺るがぬはずの表皮を歪ませた。ボスは彼女を知っている。生まれたばかりの幼い頃に一度見たきり会っていない孫娘だ。成長過程を彼女の母親から送られてくる写真で見ているから間違いない。

 名は、ノイン。九月九日にドイツで生まれたからだと言っていた。

 その名を剥奪された彼女は、同室の男から“小羊”と呼ばれているようだ。あの癖のあった愛らしい栗毛が真っ白になっているのだからそのような渾名で呼ばれているのだろうが、ボスはそのふざけた名を今すぐ撤回するよう男に迫り寄りたい気持ちを抑えるので精一杯だった。

 何があったのか。何が彼女を変えたのか。ボスは絶や誠が電波障害地帯へ足を踏み入れるまでの数分、孫の安否とその変容ぶりにばかり意識を裂いてしまっていた。


「タイムズ・スクエアの様子を」


 メルセデスの声で我に戻ると、一つ瞬きしてスタッフの声に耳を澄ました。


「〈NAUGHT-1(ノット‐ワン)〉、依然〈隻眼男(サイクロプス)〉と交戦中とのこと。戦場の被害、甚大です」


 メルセデスは舌打ちした。〈NAUGHT-1〉とは作戦部第一作戦処理部隊隊長、累差絶のコードネームだ。誠に接触し、バーグと関わりを持っているらしいアンディという少年を拉致、情報を引き出すために自白剤を使ったことまでは目を潰れるが、彼から入手した鍵をこちらに相談も仰がずに使用、しかもP.O.Boxから発見したUSBを無断で表世界のPCに挿入した。するとどうだ、それをきっかけにしたとしか思えないタイミングでニューヨーク市内に電気は通わなくなり、挙句電波障害まで発生してしまった。そして何より問題だったのは、あの隻眼男と戦闘を開始してしまったことだ。

 任務を忘れ、己の欲望のまま暴走する。幼い頃から何も変わっていない。以前、ボスを殺そうとしたあのときに始末しておくべきだったのだろう。英雄の可愛い部下だったから、そんなつまらない理由など蹴り払って。


「ボス、失策でしたな」


 磨き上げて艶のある革靴を鳴らしながら男が近付いてきた。情報部長官コイル、ボスと同様に能面のような淡白な顔をした無表情の白人だ。


「先のジャービル氏の件とは違い、無関係のノーマルから死者を出してしまった。コレは責任問題ですよ」


 コイルはボスの左隣に立つと、上司の頭に無能と罵るような冷たい視線を注いだ。


「よりにもよってあのルイーサを差し向けるとは常軌を逸していらっしゃる。アレがノーマルのみならず森羅万象の命を軽んじていることはアナタがよくご存知のはずだ」


 今し方通った関係者以外通行不可のセキュリティ・ドアを潜って幾人かの男達がやってきた。上層部とそのその秘書、先陣を切るのは作戦部長官のシルド・ボ・ギャバンだ。彼は鼻息を荒くして近付くと、「状況は!」とメルセデスに詰め寄った。彼女は手にはめた手袋タイプのマンマシンインターフェースで〈MT〉のホログラム映像を操作し、経過報告を上層部全員に送信した。


「〈シグナル・ブラック〉は順調ですかな?」


 唐突に立ち昇ったその声に、コイルは映像に向けていた視線を落とした。ボスがわずかに顔を彼に向け、無感情に一瞥していた。

「何です?」と聞きなれないワードを耳にしたギャバンが問いかけるが、二人は手拍子で答えなかった。コイルにとっては尚更だった。〈シグナル・ブラック〉は情報部長官と第一諜報部隊にのみ代々口伝されてきたはずの極秘作戦コードだ。ボスにさえ極秘で遂行される諜報活動を意味し、それは時としてボスをはじめとした組織内部への監察にも利用されてきた。

 情報部が情報部たる所以を守り、ひいては組織を守るための安全装置だ。ボスの暴走を止めるファイナル・セーフティ・コード、それが〈シグナル・ブラック〉だ。

 それが何故、ボスに漏れている。しかも今使われていることを、何故。

 まさかとコイルは息を呑んだ。《ライト・ライド》を使ったか。しかしすぐにその可能性は失せた。情報部長官室のセキュリティは万全だ。しかもあのときは電子機器を一切使用していなかった。口頭で〈DUST〉の連中に伝え、人目を盗んで出発させた。情報部の性質上、歴代の長官達は各基地に情報部用の完全に独立した(ドック)を用意させている。連中もこの基地内に隠されたそれを使ってニューヨークへ向かった。ドックの電子機器がボスが利用する基地中枢のそれから独立している以上、感知されるはずがない。

 もう一つの可能性は、〈DUST-1〉――フリッツだ。しかしあの男に限ってそれはないはずだ。ないはずと信じている。諜報のプロにして、忠誠心は誰よりも高い。しかし掴み所のない性格が故に満足に会話したことはあまりない。

 彼が裏切っているのだとすれば、あの件もボスはすでに――


「ワシントンと繋げろ」


 ビクリと肩を揺らすコイルをよそにボスは重い口を開いた。「繋がりました、どうぞ」とスタッフが手際の良い仕事をすると、室内用のホログラムウィンドウにアメリカ合衆国の国章の表面――翼を大きく広げたハクトウワシが右足に一三枚の葉がついたオリーブの枝を、左足に一三本の矢を握った図柄が表示された。


「プレジデント、私です」

『ボス、まさか……』


「いえ」とボスはアメリカ大統領ミリードの不安を掻き消した。叔父がプリマスにいることは掴んだが、確保にまでは至っていない。


「ニューヨークの状況についてはご存知ですかな」

『報告は来ている。過激派のテロだという話だが、違うのですか』


 米国内で駐留し、一市民のように普通の暮らしをしているコラボレイターによる偽情報だ。しかも政府内に潜り込ませている工作員(モール)がその情報を政府中枢に通達することで信憑性を向上させている。

 しかしそれはあくまで時間限りであり、表向きの情報統制のための一手にすぎない。裏世界の存在を知るミリードには真実の一端に触れさせ、危機感を認識させる必要がある。


「残念ながら。バーグの手先となっている者の仕業です」

『市民に、人間に被害が出ているという話だ。アナタ方ネイムレスが掲げた盟約は偽りだったのか!?』


 ミリードは弾けた怒りを極限まで押さえ込み、声を潜ませながら語気を強めた。どうやら一目を忍んで電話に出ているらしい。きっと緊急事態につきホワイトハウスの地下――大統領危機管理センターにでもいるのだろう。

 手短に済ませるべきだろうなと思いつつも、ボスは一拍置いてから打診した。


「プレジデント、一つ相談があります」

『…………』

「アナタにはこれから私共の指示に従って政府を動かしていただきたい」

『何を言っている。それは我々人間が、お前達に膝を屈するべきだということか』

「事態を早急に終息し、その後の混乱を拡大させないために適切な措置を取らせていただきたいのです。もちろん、期限付きですが」

『叔父が怒るのは無理もない。貴様らはやはり、人類の敵だ……!!』

「そうかもしれません」

「ボス……!」


 我に返ったコイルが彼の肩を掴んだ。これ以上大統領の心象を悪くしては今後どのような影響があるか分かったものではない。やはり今すぐにでもこの男を引き摺り落とすべきか。暗い野心が鎌首を擡げた矢先、彼の手をメルセデスが叩き落とした。

 揺るぎない視線に追いやられ、コイルは足を一歩引いた。


「確かな力を持ちながら、世界で起きる争いから目を背けてきた我々はアナタ方の敵に違いない。世界を思えば、アナタ方の下らない争いに逐一干渉し、沈静化に注力するべきだったろう」


 ミリードの声はない。反駁する言葉を選んでいるのか、それとも耳を澄ましているのかは把握できない。

 しかしボスには視えているようだ。《ライト・ライド》を使い、彼がいる場所を、スマートフォンを片手にトイレに籠もっているその姿を垣間見ている。


「政治も、宗教も、倫理も、兵器も、何もかも破壊し、我々がこの世界を牽引することこそが平和への近道になったという想像がどうしても私の脳裏に張り付いて離れない。全知全能の神のごとくノーマルを陵辱することなくそれが実現できるならば、私はREWBSと和平を結ぶことも吝かではない。それは私がノーマルではなく、ヘレティックとしてこの世に生を享けたからだ」


 彼の発言に指令室はどよめいた。宙に浮く椅子を突き合わせ、大丈夫なのかと耳打ち合っている。

 ワシントンのミリードはノーマルとして生まれ、生きてきた人生を思い起こしながらボスの言葉に聴覚の一切を費やした。


「しかし遥か昔、魔女と謗りを受け迫害されてきた者達は、自らと他者にある生物学上の違いを受け入れ、この世界の安寧を守るためならばと表舞台から身を引いた。そして影から無理解な貴様らの歩く道を支え続けるという重い決断を下した」


 ボスの口調がやや乱雑になった。彼もまた思い出していた。組織の誕生ときっかけ、今日に至るまで経緯を先代のボスから聞かされた際の感情を。腸が煮えくり返る、あの怒りと一言で表現できない感覚を。


「全ては“世界のため”、“世界のゆるやかな変化と、豊かな進歩のため”と、その覚悟の固さを口伝して――今日を迎えたのだ」


 組織の歴史全てが、組織に関わった者の全員が清廉で、潔白であったわけではない。しかし大多数は純粋だった。複雑な感情を抱きつつも、世界の平和を願っていた。ヘレティックとして産まれた自らの役割を全うしていた。


「今も、一人の部下が覚悟を決めた。我々のつまらない争いに翻弄された少年が、その小さな身体を戦場に投じようとしている。貴様らの命を、一つでも多く救うために。裏だ表だという陳腐な境界を飛び越え、世界のために……!!」

『子供まで戦わせているのか、お前達は』


 ボスは答えなかった。

 ミリードはしばらく沈黙し、やがて深い息を漏らした。子を持つ父親として、その正義感が強いらしい少年を放ってはおけなかった。もしもそのような子がアメリカ人であったなら、きっと類稀なる愛国者になったに違いないと思えた。


『……話せ。しかしこれから我々は対等だ。表も裏もなく、世界のためにお前の打開策を聞かせろ』


 ボスはやおら立ち上がり、ホログラムウィンドウに正対した。閉じられた目蓋の裏側には、佇むミリードの姿がある。


「選択肢は二つあります。一つは作戦終息後にヘレティックの存在を米政府が公表するという前提に基づいた作戦――」


 バカなと長官達が喚きだすのを背中に聞きつつ、「その場合、私と部下がアナタの横に立ち、そのセンスをカメラの前で披露します」と続けた。

 酒顛ドウジのように一目で分かりやすいセンスを使えば、大衆は半信半疑でもヘレティックの存在を知ることになるだろうなとメルセデスは解釈した。あとは時間をかけて何度も生中継でそのセンスを披露すれば、やがて認めざるを得なくなると。


『……もう一つは』

「作戦終息後、事態を目撃した人々の記憶を改竄し、徹底した情報統制のもと、ヘレティックに関するあらゆる事象を再び闇に葬ることを前提とした作戦です」

『お前達が責任を取るか否かということか』


 しかしこの決断は重い。ミリードはスマートフォンを握る手が汗ばんでいることを自覚した。

 公表すれば全ての敵意はヘレティックに向けられ、組織がこれまで抑圧してきたREWBSの行動を激化させることになる。第三次世界大戦は必至、混乱に乗じて世界各地ではテロも加熱する。しかも組織がノーマルに加担したとしても世界はより混乱し、組織が危惧しているノーマルの劣等感は爆発するに違いない。そのとき、組織はきっと分裂し、世界は未曾有の危機に瀕することとなる。

 隠蔽したとしてもニューヨークで何かしらの事件が起きたという事実までは隠せるはずもない。真実は封じれたとしても一人歩きした噂は妙な陰謀論と結びつき、ニューヨークという大都市で起きた異変だけに政権への不信感は拭いきれない。しかも動画サイトに投稿された映像を引き合いに出されれば、真実の輪郭を見出す者もいるかもしれない。それに真っ先に辿り着くのは、記者ではなく政府関係者だろう。大統領と国連事務総長のみが知る真実に触れた者はどう動くか知れたものではない。こちらが口封じのために手を汚す覚悟を決めたとき、組織と同列になるのは目に見えている。

 いずれにせよ、これは……。


『私にしか決められないことなのだろうな』

「…………」

『ろくでもない私の人生を叔父は劇的に変えてくれた。そんな叔父のためにしてやれることは、きっとこの世界を、人類の未来を守ることなんだろう』


 ミリードは選択した。彼の言葉を聞いたメルセデスが予定していた作戦行動を関係各位に発する。長官らも意を決してか、方々に散り、的確な行動を開始した。

 ボスは目蓋を伏せたまま敬礼した。彼の脳裏には、危機管理センターへ戻るミリードの背中が淡く残っていた。スマートフォンに残る電波が一つ残らず消えるまで、ボスは椅子にかけることはなかった。

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