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ネイムレス  作者: 吹岡龍
第一章【記憶の放浪者 -Memories Wanderer-】
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〔三‐4〕 ヘレティック――人間ではない何か

挿絵(By みてみん)


 二車線分はありそうな広い通路は閑散としている。人通りは皆無も同然。右手に連綿と続く耐圧ガラスと相俟って、閉鎖寸前の寂れた水族館のようだ。

 誠とエリ、二人の足音の他にBGMになりそうなのは、誠の忙しない鼓動くらいだった。


「もしかして、緊張してるのかなー?」


 ウブな少年の体温が高まっているのを見抜きながら、エリは白々しく問いかけた。

 誠は口をモゴモゴさせると、何も言わずにまた噤んだ。その様子が何ともいじらしくて、抉じ開けたくなり、「ん~もぉ~~♪ カワイイなぁ、マコっちゃんはーっ!」


「マ、マコ……!?」

「ダメ? アナタのあだ名なんだけどー」


「い、いえ……、その、んぅ……」と誠は赤らんだ頬を掻いて俯いた。

「グ○シって感じ?」と中指と小指を折って、免許皆伝な感じで見せつける彼女に、誠は驚きと同時にどこか冷めた気分になって、「……きっと、これに関しては、そうですって言ったらダメな気がします」赤と白のボーダーカラーが迫ってきそうで怖かった。

「お堅いなぁー♪」とニコニコしている彼女に、誠は訊いてみた。


「あの、ア、アタミさん……」


 すると、「そんな他人行儀な呼び方はメっ! エリって呼んで?」と彼女は幼児を窘めるように言って、ウィンクした。

 しかしさすがに呼び捨てにはできず、「じゃあ、エリ……さん」チラチラと彼女の顔色を窺いながら口にすると、「なぁに、マコっちゃん?」と優しい顔で返してくれた。

 やはり、良い人、なのだろうか。

 それでもと目を伏せながら、「ボクはこのまま外には出られないんですか」アクアリウムの中を、赤い(たてがみ)と白銀の身体を持つ巨大な生物が泳いでいる。リュウグウノツカイだとかいうその深海魚は誠の傍らを通り過ぎると影を落とした。

 もうここが自分の知っている世界ではないということは解っていた。ガラスにも天井にも床にさえも継ぎ目らしいものは見当たらないし、天井に至ってはどういう理屈で光っているのかさえ見当もつかなかった。しかもここは海底にあると聞いた。こんなにも未知な建築様式をまざまざと見せつけられては、組織やオーバーテクノロジーの存在を否定などできようもなかった。

 少年の切実な問いかけに、エリは握っていた手をそっと離して立ち止まった。


「そうしてもらえるととても助かるわ。組織としては表世界にヘレティックを放置しておくことはできないし、アナタをREWBSに盗られるのは好ましくないもの」

「皆、エリさんみたいに二つ返事で承諾したんですか?」

「私が知る限りは、そうね」


「信じられませんね」と誠はまたひねた口振りで吐き捨て、「もう二度と元の生活に戻れないっていうのに、どうしてそう簡単に割り切れるんですか」


「ぶぅ。マコっちゃんって、可愛い顔して頑固なんだねー」

「かっ、かわ……!?」


 エリは悪戯な笑みをたたえながら、真っ赤に染まった少年の頬を突いた。


「それだけ表世界に未練がないってことよ。そりゃあ誰だってお日様の下で自由に幸せに暮らしたいけれど、ヘレティックという特殊な存在を受け入れられるほど、ノーマルの心は広くないのよ」


 自分の目を指差した彼女は言う。


「私には“熱”が視える。私の目は世界を温度で彩ることができる。私にとって赤外線は可視光線なの」


 続けて彼女は誠の足を指し、「そしてアナタには、誰よりも速く走れる足がある」

 フィルムに再生された動画が思い出される。誠はもう、アレは紛れもなく自分であると認めざるを得なかった。


「コレは脅しじゃなくて現実的な一般論として聞いてほしいんだけれど、アナタの速過ぎる足を見た人は、凄いと感心してばかりいられるかな。世界記録を持つスプリンターどころか、生身でレーシングカーすらも真っ青のスピードを出せてしまうアナタを、果たして一人の人間として受け入れられるかな」

「分からない、ですよ。そんなの……」


 口癖が出てしまった。ネガティブながら有り得そうな予想を浮かべたにも拘らず、嘘で隠してしまった。しかしそのネガティブを、彼女は言い当てた。


「アナタの身体を調べるんじゃないかな。そしてアナタが人間と遺伝子レベルで違うと判ったとき、皆はアナタを人として扱うかな」

「遺伝子が違う……?」

「見た目は同じだけどね、遺伝子の構造が少しだけ違うの」

「それだけで、そんなことだけで、ボクらは区別されてしまうんですか……!?」

「そういうものでしょ、生物学って。そうじゃなきゃ霊長類は全てヒトで、全てサルよ」


 誠は言い返せず、深刻な顔を床に向けた。


「言質を取らせてもらうと、ヘレティックだという事実を受け入れられなかったアナタの心が全てを物語っているわ。ヒト――ノーマルは繊細なのよ」


 彼女はアクアリウムの耐圧ガラスに触れた。するとガラスの一部にパソコンのモニターに表示されるようなウィンドウが開いて、〈Shall I connect to the LAN?〉という質問が現れた。「接続、検索エンジン起動、ワード――“覚醒因子 発現”」と彼女が要求すると、英語はすぐに日本語に調整(アジャスト)され、ガラスに巨大な資料がいくつも投影された。

 その圧倒的な科学力に誠が愕然としていると、ガラスに有機ELフィルムをコーティングしているのよと教えてくれた。

 彼女が歩くと、資料は常に彼女の少し前に映り続ける。彼女が人差し指を立てて、それを差し棒のように振ると、特定の資料だけがどこかに飛んでいく。彼女が装着しているグローブがマンマシンインターフェースとして働いているのだ。

 そうした仕組みを知らない誠は、ただただ彼女の後に続くばかりだった。


「私達ヘレティックはヒトゲノムの中に、“覚醒因子”というセンスの源を持っているの。ヒトゲノムが核ゲノムとミトコンドリアゲノムでできているのは知っているかしら」

「というか、ゲノムって、何です?」


 その問いに反応したのか、ガラスモニターのウィンドウに見覚えのある二重螺旋やら図解された一個の細胞が映し出された。見出しには、〈ゲノムとは、全ての染色体を形作るDNAの、全ての塩基配列。また生存に必要最低限な一組の染色体〉と余計にワケの分からない一文が記されていた。


「要約すれば、アナタという全てを化学的に調べ尽くし書き記した、たった一冊の本。それがゲノム。ヒトゲノムは言わば一つの作品、核ゲノムとミトコンドリアゲノムはその作品の前後編といったところかしら。それを二冊、三冊と増刷(コピー)しようって考えからクローンが生まれるのよね」

「ボクの身体が、一つの作品……」

「そして覚醒因子は、それら二種類のゲノムの仲立ちをするようにして発現される第三のゲノム。二種類それぞれが別の役割を持っているにも拘らず、覚醒因子は一対の染色体と複数のミトコンドリア双方に同じ状態で存在している自由奔放でスタンドアローンなゲノムなの」


 新たなウィンドウが開いた。

 ヒト染色体の図がある。右に正常な雄個体に存在するX染色体とY染色体が、左に正常な雌個体に存在する二本のX染色体がそれぞれ貼られている。〈このように、二本で一セットの染色体を持つことを、二倍体と言う〉と記されている。


「じゃあヘレティックは三倍体なのか、と言えばそうでもないようなの。ヒトゲノム上での三倍体は染色体異常と呼ばれるけれど、覚醒因子は単純にそうとは言い切れない。一対の染色体から付かず離れずの距離を保って存在して、アドレナリンが分泌されると、たちまち染色体と反応するという変わった性質を持っているの」


 〈Heretic genome〉と題されたGIF画像が現れ、ループ再生された。

 雌雄別のそれら一対の染色体に、球状に近い一つの染色体が見える。それは高濃度のアドレナリンが分泌されると二倍体に接触して形を変え、アドレナリンの濃度が低くなると元の形に戻る。


「形が変化したときに、ヘレティックはセンスを発動させているらしいわ。覚醒因子によって染色体が形を変えるから、ヘレティックはセンスに見合った身体に変化できる――つまりウヌバが炎を出せたり、出しても火傷をするどころか痛がったりすらなかったのは、そういうところに原因があるんじゃないかってこと」

「まだ、判っていないんですか?」

「イイ質問ですねぇ~」


 聞き覚えのあるようなフレーズの後、エリは指を鳴らした。染色体の画像が散り散りになって消え、新たなウィンドウが一人の男――グレゴール・ヨハン・メンデルを紹介した。遺伝学の第一人者である彼の顔は、誠も見覚えがあった。

 しかしその彼を映した画像は一枚のカードのように裏返り、彼よりもいくらか若く――随分と幸薄そうな黒人女性にスポットを当てた。彼女の名はヘッカ・サパラダランマ。くしくもメンデルと同じ時代を生き、当時では彼よりも突飛し過ぎた理論を提唱していた組織の研究員だ。

 コンピューターもない時代。彼女は逸早く染色体を発見、DNAの二重螺旋構造に着目し、ヘレティックにはDNA内に覚醒に至る特別な物質があると考えていた。

 覚醒因子の発見は彼女の死後半世紀を待つことになったが、組織は彼女をヘレティック研究の第一人者として讃えている。


「覚醒因子は、誰に、いつ、どのようにして発現されるのか判らないだけじゃなくて、いざ調べようにもとてもデリケートな構造をしているから研究が難しいらしいの。組織にもとても優秀な科学者――メギィドっていうお爺さん博士がいるんだけれど、彼でさえ因子の繊細で複雑な遺伝子コードを解明できずにいるわ」


 エリの話に聞き入っていると、『あぁ、また失敗だ』と誰かが唐突に舌打ちした。

 しゃがれた声に肩を震わせた小心者の誠は、彼女が指差すほう――ガラスモニターに目を向けた。ウィンドウが増えて、動画が再生されていた。

 動画は、〈メギィドによる覚醒因子構造解析実験〉と題されており、白頭翁が頭を抱えている。染色体から覚醒因子のみを切り離そうとする試みだったが、因子は実験が始まるとすぐに雲隠れでもしたように分解されてしてしまうのだ。


『覚醒因子は実に都合良く、そして賢くできている。このようにあらゆる干渉を拒む様は、私が発明した〈DEM〉とよく似ている。特異な遺伝子コードを防衛するための自己消失プログラムは、さながら〈AE超酸〉による自爆システムそのものだ。私はこの不思議な情報体に共感を覚えると同時に、これを持つ全てのヘレティックに敬意を表するよ』


 ラボでインタビューに答える彼は、眉間を揉むと、再び研究に戻っていった。


「ボクの中に、ああいう物がある、ということですか」


 エリが頷くと、誠は自分の胸に手を当てた。


「事故に遭う前から、ボクはヘレティックだったんですか?」

「いいえ。アナタはここで後天的に因子を発現させたの」


 そう言って彼女は一つの映像を再生させる。受精卵の卵割過程を高速再生した映像だ。


「コレは、先天発現型ヘレティックの誕生の瞬間を捉えた貴重な資料よ。覚醒因子の発現の瞬間は、アナタのような後天発現型も同じとされてるから見ておくといいわ。ちなみにモデルはマコっちゃんも知っている人」

「誰ですか?」

「それ言っちゃうと怒られるから私からは言えないわ」


 彼女ははぐらかすや、「あ、ホラ見て、胚が胎児の形に成りはじめた。受精から三週間が経ったのねっ」と声を弾ませて映像を指差した。


「この青く光っているのって何ですか?」


 胚の中で、突然輝きだした無数の青色を指摘した。


「これが覚醒因子よ。勿論通常は光ってないけど、モデルになった子のご両親が色をつける薬を飲んでいたの。後世の研究に繋げるためにね」

「害はないんですか?」

「当然無害よ、その証拠にもう消えかかってる。つまりね、覚醒因子は何の前触れもなく、突然その姿を現すの」


 妊娠から一〇週目、胎児の臓器が人らしいものへと成長していた。その頃には青色は消えていた。

 誠が見惚れていると、おぎゃあと産声が上がった。看護師に取り上げられた赤ん坊の顔を見届けようとしていると、エリにむずと腕を掴まれて、引っ張り歩かされた。


「この資料で、それまで自己申告でしかなかった先天発現型の存在が明らかにされたわ。先天発現型は後天発現型よりも知能肉体共に優秀だ~、なーんて主張もあるんだけれど、組織一の英雄と言われている人は後天発現型だったから、やっぱり結局は個人差って言葉に尽きるんじゃないかっていうのが組織の公式見解よ」

「英雄、ですか」

「凄い人がいたんだってさ。私も生まれる前の話だから、詳しいことは知らないけどね」


 誠は立ち止まると、覚醒因子と呼ばれる独特のゲノムの画像をジッと見つめた。そうしてから眉を顰め、ようやく一つの疑問に辿り着いた。


「あの、エリさん。覚醒因子はいつ発現するのか判らないんですよね?」

「…………」

「答えてください。発現するかも判っていないのに、どうしてボクをヘレティックだって決めつけられたんですか!?」


 背中に問いを投げかけられた彼女はゆっくりと踵を返し、誠と向き合った。その瞳は彼の足下に向けられていたのだが、次にはそのまま深々と頭を下げた。


「え、何を……?」

「ごめんなさい。アナタを連れ出した後、寝ている間に薬を打たせてもらったの」


 声も出せないくらい驚いている彼に殺される覚悟で、エリは告白した。


「薬の名前は、〈覚醒助長薬〉。本来は覚醒が不充分なヘレティックに完全な覚醒を促すための物。言うなれば脱皮の手助けをするための薬。でも専らの使い道は、ヘレティックのセンスの限界を引き出すために用いられているわ。使用すれば一時的に絶大な力を発揮するけれど、効果は一度きり。すぐに抗体が作られて常習できない。だけどアナタには、ヘレティックへの覚醒を促すために使わせてもらったわ」

「そ、そんな、何でそんな、酷いことを……!?」

「事情はまだ話せないわ。今理解してほしいのは、アナタの命を守るために仕方なくやったんだってこと」

「そういうのを恩着せがましいって言うんじゃないんですか! もしも間違いが起きていたらどうしていたんですか!」

「そんなもの起きなかったわ。ノーマルだったら何も起きないはずだから、またアナタを眠らせて病院に戻せば済んだ。アナタはちょっとした白昼夢を見ただけ。夢遊病のような扱いにはなるものの、数回のカウンセリングを受けたら元の生活に戻れたはずよ」

「そんなデタラメな……!」

「ゴメンね、本当に。確かにこんなこと許されていいわけがない。でもね、人が作った道理に合わせていたら私達はヘレティックを守れない。だから無理をしてでも、自分達の道理を貫かなくちゃいけないのよ」

「“世界の、ゆるやかな変化と、豊かな進歩”のために、ですか!?」


 躊躇いもなく、彼女は首肯した。

「狂っていますよ……」と唾棄すると、「返す言葉、ないなぁ」と彼女は天井を仰いだ。

 その瞳があまりに寂しげだったので、誠はそれ以上の鋭鋒ができなかった。


「私は話を続けたいんだけど、アナタはどうする? このまま何も聞かずに、また布団の中で泣き寝入りでも続ける?」

「ボクに、選択権はないんでしょう?」


 そう不貞腐れる彼に同情するように、エリは嫣然(えんぜん)と笑い、続けた。


「Fight-or-flight response――戦うか逃げるか反応。あの偽テロ騒動は、まさに恐怖により交感神経を奮い立たせ、アドレナリンの分泌を高めるために仕掛けたものだった」


 銃声と赤い光景が、目蓋の裏に呼び覚まされた。


「覚醒因子がアドレナリンに反応することで、はじめてセンスは発動できる。でも、ここに連れてきたばかりのアナタには覚醒因子は発現していなかった。私達はアナタがヘレティックの可能性があるから拉致を決行したのだけれど、正直に言ってノーマルであることを知ったときには頭が真っ白になったわ」


 初めてバーグが間違ったのか。ついにバーグに唆されたのか。


「どうして、ですか」

「ノーマルや表世界を守るために不干渉を貫いてきたのに、こっちの都合に巻き込んでしまったから。私達には、ノーマルからヘレティックへ覚醒させる術がなかったの。それまで組織が保護してきたのは、すでにヘレティックへ覚醒を果たした人達ばかりだった」


 エリ達は、この異常事態を打開すべく組織の知恵を総動員して策を練った。


「そんなときに兵站部のヘレティック研究グループがある薬の投与を提案した。それが、〈覚醒助長薬〉だった。しかしチャンスは一度きり。不十分な環境で投与して抗体を作られたら、二度と覚醒しない可能性があった。だから私達は、後天的にヘレティックへと覚醒する際の二つの条件を満たすために、環境作りをした。一つは交感神経を揺さぶり極度の興奮状態へ陥れ、アドレナリンを分泌させること。そしてもう一つは、生への執着」

「生への……」

「生きようと思ったでしょう。ケンに追い詰められたとき、死にたくないって」


 憶えていない。気付けばベッドの上だった。だが、あのフィルムの映像では、迫り来る死に抗っていた。

 生に、執着していた。


「化学的に言えば、テストステロンっていう攻撃性を高めるホルモン物質が分泌された。そして薬がそれら二つと反応し、アナタは覚醒因子を発現させた。つまり、一時の極限状態に陥ることで、ヘレティックへと覚醒した」

「もしもあの時、ボクが屈していたらどうしたんですか」

「ヘレティックになったこと、後悔しているの?」


「えぇ、していますよ」とエリを睨む。見当違いな子供の目をして、彼女を睨む。


「私はこれで良かったと思っているわ。アナタを孤独にさせずに済んだもの」

「こ、こんな身体になるくらいなら、独りのほうが――」

「自分まで否定するの?」


 ぞくりとした。言い当てられたからではない。彼女の瞳が慈愛に満ちていたからだ。


「ヘレティックの人口は大よそ一万人、その内組織の構成員は三割強。私はその一握りを家族と思っているの。アナタがアナタを、そして私達をどう思おうが勝手だけれど、私はアナタを家族と思うことに決めたわ。マコト君はもう、独りじゃないよ」


 額が痺れる。切り裂かれたような痛みは焼かれるような熱を伴って脳髄に染み渡る。


『――――それでも。それでもマコトは、独りじゃないよ』


 誰の、声だ。


『――――勝手に孤立していかないでよ』


 聞き覚えがある気もするが、思い出せない。

 額を押さえてよろめく彼は、エリが咄嗟に伸ばした手を再び振り払った。


「エリさんは、イイ人……ですね」


 払われた右手を左手で慰める彼女に訴えた。


「ねぇ、エリさん。イイ人なんですから、ボクをこんな所から解放してくださいよ!」

「マコっちゃん……?」

「ボクは、ね、怖いんですよ。思い出そうとしても、どんなに頭を雑巾のように絞ってみせても、乾いて固くなってるから水滴一つ出やしなくって、手が擦り切れるみたいに頭が痛くて堪らなくなるんですよ」


 東京の病院で目覚め、記憶障害を患っていると聞かされてから、ずっと頭を悩ませてきた。そうしてどうにも思い出せず疲労困憊だった頃に組織に拉致された。

 あの時にはもう本当に、意欲が湧かないほど憔悴していた。

 しかし今は怖くて堪らない。記憶を取り戻して、この喩えようもない不安から一刻も早く抜け出したい。そのためなら、もう――


「お願いです、エリさん。ボクをここから出してください。元の世界へ、あの病院へ戻してください。ボクの記憶はあそこにしかないんですよ!」

「言ったでしょう、それはできないって。REWBSに見つかったらアナタは――」

「殺されたっていい!!」


 戻ったところで父も母も、祖母さえもいないのなら、生きていたって仕方がない。

 だったら自分が自分であることを、自分が名前だけしか知らない彼らの息子であり、孫であったという事実を胸に死んでいきたい。


「ボクは記憶を取り戻したいんです! 本当の自分を見つけられるなら、命なんて――」


 いらない。惜しくない。

 もう二度と、生にしがみついたりしない。

「バカ言わないで!!」という絶叫が鼓膜を劈いた頃には、誠の左頬は酷い熱に魘されていた。刹那の出来事に、彼は目を白黒させた。


「アナタ何言ってるの!? 私達はね、苦しむのを解っていながら、それを黙って見過ごせるほど薄情じゃないの! 悲しいこと言わないでよ!」


 エリは涙を流していた。怒りに震えながら、誠のために泣いていた。


「家族がいないと知って生きるのが辛くなった? 人間じゃないと知って気持ち悪くなった? 皆そうなのよ。皆何かを失ってわだかまりを抱えているのよ。でもノーマルは誰もそれを解ってくれないの。だからREWBSは表世界を壊そうとするの、自己主張するの。それでもそうするのが間違いだって思うから、私達は組織に身を寄せているの。絶望したまま死にたくないから。自分も正しいんだって誇りを持ちたいから……!」

「そ……んなの、関係ないですよ。ボクは記憶を取り戻したい、ただそれだけなんですよ。エリさんにはそれができないでしょう、だから帰るんです!」

「私はできなくても、師匠――キヨメ先生は治療するって言ってるわ」

「涙を呑んで、こんな冷たい海の底に縛られるほかにないんですか……!?」


 顎を引く彼女の視界に、一人の男が踏み入った。その男は、「そんなに表世界がイイのか」と頑なに恭順を拒み続ける少年の背中に問うた。

 振り返る誠の目が捉えたのは、産声を上げたあの赤ん坊によく似た銀色の髪を持った青年だった。彼は眉間にシワを寄せながらも落ち着いた口調で言った。


「ガキ、帰る道ならあるぞ」


 呆気に取られたエリは涙を拭い、「アッハハ、潜水艦ジャックするとか? 泳いで逃げ出すとか? ケンったら冗談下手なんだから無理しないでよー」

 彼女がいくら笑っても、彼は誠の弱々しい瞳に鋭利な眼光を突きつけていた。


「その両足を根元からバッサリ切り落とせばいい」


 誠がその一言を理解するには、ほんの少しの時間が必要だった。

 しかしそれを待てるほどケンという男は大らかではなく、冷酷な持論を展開した。


「そうすればテメーは、二度とセンスを使えない。念のために監視はつけさせてもらうが、その代わりもう誰からも狙われずに表世界でヘラヘラと笑って生きていける。とんでもねぇ激痛だ、記憶だってすぐに戻るかもしれねぇな」


 いつもの仏頂面でとんでもなく残酷なことを言い放つ彼に、エリは激怒した。


「アンタ頭おかしいんじゃないの!? そんなことして、彼の人生どうする気よ!」


 誠にしたように彼の頬を叩こうとしたが、左手で受け止められ、「うるせぇよ」とその手で突き飛ばされた。尻餅をつくと、「エリさん!」と誠に介抱された。


「この際だから言わせてもらうわ! アンタ、この子に対してだけおかしいわよ! どうしてそんなに酷いことを平気な顔して言えるのよ!?」


 仲間に裏切られ、仲間が無差別に殺されたあの日、彼が差し出してくれた手は温かかった。とても心地良い色をしていた。それが今は、氷のように非情な色をしている。


「そうですよ。そっちの都合で連れてきたくせに、勝手にも程がありますよ!」

「命があるだけマシだっつってんだよ」


 ケンは狼の如く険しい形相を作り、「さっきから聞いていりゃあ、死んでもいいだの何だの心にもないことばっか並べ立てやがって。本当にそんだけの覚悟があるなら足の一本や二本、大好きなジユーとキオクのために捧げやがれよ」

 やってやりますよ! その一言が出てこなかった。下肢を捥がれて、車椅子から動けぬ自分を想像してしまっていた。

「へっ、できねぇんじゃねーか」と恐怖に苛まれる彼を罵るようにケンは言う。


「ヘレティックに居場所はねぇ。俺らはノーマルにとって“恐怖”そのものだ。尋常じゃねぇから、同じ世界で生きることができねぇ。奴らが抱いた弱者的反抗心(ルサンチマン)で、一体今までどれだけの同属が殺されてきたと思う!?」

「彼を責めてどうするのよ!」

「だが、最後に俺達に銃口を向けるのは、その同属だ。俺達は奴らに売り買いされて、兵器として扱われる。挙句、自分のセンスを他人に売って、用心棒紛いのやり口で生きる輩までいる始末だ。テメーはもう、そういうくだらねぇ世界の一部になってんだよ」

「じゃ、じゃあ、どうしろって言うんですか!?」

「……今から俺ともう一度、一対一(サシ)で勝負しろ」


 耳を疑ったが、彼の目は揺るがなかった。立てば雷、座れば火山、歩く姿は暴風雨。何者にも遮られず、誰であろうと売られた喧嘩は大人買いして、求められたようにただ拳を振るうだけ。

 それが、ケンという男だ。


「イージーなルールだ。どちらかが降参するか、気絶するか、死ぬまで戦うだけだ。ハンデとしてテメーはどんな武器を使っても構わねぇ、俺はこの身一つだ。ただし、敗者が生きていた場合は、勝者の言うことを必ず一つ聞く」


 意地だった。本当に誠のセンスが《韋駄天》と言われるそれかを、見極めたかった。


「俺はテメーをタダでこの世界から放り出すつもりはねぇ。もしもこの勝負を拒否するなら、さっき言ったとおり、両足を切り落として元の場所に帰してやる。要するに、テメーがテメーの望むジユーとキオクを手にするには、俺に勝たねぇといけねーってわけだ」

「そんなの、一方的じゃないですか!」

「俺は、本気だ」


 ケンは頭に巻いた包帯を解き、汚名を雪ぐかの如く気迫で、改めて誠に挑んだ。


「自分の足で戻りたけりゃあ、俺と戦って――勝て」

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