〔三‐5〕 ヒーロー
路上の些細な段差に乗り上げたタクシーがぐらりと揺れる。二時間ほど前に目覚めてからというもの、車体が傾くたびに脳や腸がかき回されるような嘔吐感に悩まされている。
あの男――累差絶と言ったか。誠はジーンズのポケットに入れているスマートフォンを意識した。端末と接続しているイヤフォン・コードには彼から渡された盗聴用端子が取り付けられている。満足に稼動しているかどうかは不明だ。今も《千里眼》との回線は開いている。その声に聞き耳を立てられていることに気付いているのか否かも彼にはまるで判別できない。
スーツケースは手放している。あの廃工場から車で北西に一五分ほどの距離にあるオールバニー国際空港前の喫茶店で男に譲り渡した。メガネをかけた凡とした風貌の中年白人男性だ。彼は誠にまるで興味を示さず、スーツケースと交換に妙に厚い茶封筒とサバイバルナイフを渡してきた。ことナイフに関してはこんな物はいらないと返そうとしたが、動転する少年の言葉に耳を貸さないままそそくさと店を後にした。その後ろ姿が消えていく方角から、彼が飛行機に乗るつもりだということは分かった。廃品とは言えあの電子機器の山をどうやって機内に持ち込むつもりなのだろうか。
ひとまずニューヨークまで戻れという命令を受けた。空港で拾った白タクに乗り込んでから行き先を告げた。すると運転手はその長い道程を頭に過らせるや、への字口の渋面を隠そうともしない上に一ミリもタイヤを動かさないまま誠を降ろそうとした。日本ではありえないことだと想起するが、その記憶が正しいものかどうか、記憶喪失の早河誠には確信を持つことができなかった。
とりわけ白タクというのが良くなかった。白タクとは自家用車で客を任意の場所へ届ける個人経営のタクシー業で、日本では違法とされている。アメリカでは合法は合法なのだが、個人経営であるが故に利用者の身なりや雰囲気、態度、不慣れな様子などから足下を見られ法外な利用料を吹っかけられる場合がある。正規のタクシー会社が所有しているという証明書でもあるイエローキャブを捉まえられればよかったのだが、生憎空港のロータリーには白タクばかりが目立っていた。
猿は嫌いだ。貧乏に違いない。お前なんかのために貴重な時間を割きたくない。矢継ぎ早に人種差別や罵詈雑言を浴びせる運転手の口振りに《千里眼》は終始大笑いしっぱなしだった。しかし次第に口調は激化し、早く降りろ、警察に突き出すぞと脅し文句を使い始めたので、さっきの茶封筒から半額ほど渡すよう誠に指示した。
誠少年は封筒の中身を見て目を剥いてしまった。アメリカが誇る偉人ベンジャミン・フランクリンが一〇〇人ほど、真一文字に口を引き結びながら誠をジッと見つめていた。米一〇〇ドル紙幣、日本円で一万円相当、つまり茶封筒の中に一〇〇万円ほどが入っているということだ。
《千里眼》に言われるまま、誠は運転手に前金として五〇〇〇ドルを渡した。運転手は度肝を抜いたが、早く走らせろと強気に言うとすぐさまアクセルを踏んだ。
きっと偽札や如何わしい金だと疑ったに違いない。しかし一度本物だと考えれば、目の前にぶら下げられた人参を追いかける馬車馬のようになってしまうのが人間というものだ。運転手は時折バックミラーで誠の様子を窺いつつ、笑いどころが分からないアメリカン・ジョークを飛ばしつつ、目的のニューヨーク市内まで南下していった。
体内に漂う気持ち悪さと疲労感で目蓋が重くなってきた頃だった。誠が外を眺めていると、さっきまでこの無言の空間を穴埋めしていたラジオの音が途切れ、『どうした』と《千里眼》が声を漏らし――回線が切れた。
何だってんだ、この野郎。運転手がラジオのボタンを色々押している。誠の視線に気付くと、「わ、悪いねお客さん。もうコイツ、ポンコツでしてね、へへ」と引きつった笑みでご機嫌を伺った。
誠は素知らぬフリをして背凭れに身体を預け、目を閉じた。どういうことだと冷静に考えを巡らせるためだった。
ほぼタイミングを同じくして起きたこの異変。共通点と言えばどちらも電波を用いていることくらいだ。もしかすると絶が仕込んだ盗聴器がバレたのかとも思ったが、それとラジオの音声が途絶えることがイコールで結ばれるかと言えば違う気がした。
窓の外を見た。緑豊かな山道や田舎道から抜け、都市圏の雰囲気を漂わせる街並みに近付いていた。そのせいか車の量が増え、市内へ入る車の列だけが渋滞していることが分かった。市外へ出ていく車も多く、その車内の人々はどこか焦燥に駆られているようだった。市内へ向かう車内では誰もが携帯電話やスマートフォンを使って誰かと連絡を取ろうとしている。「どうなってんだ、繋がらねぇ」と運転手が呟いた。やはり電波が悪いのかと思った矢先、フロントガラスの向こうに小さく見える信号が赤く明滅を繰り返しているのを見つけた。
誠は他の車の運転手らと同様に外へ出て、市内を眺めた。果てしなく続く車の列が、明確な異常事態の発生を伝えていた。場所はニューヨーク州の西、ニュージャージー州フォートリー。マンハッタンとを繋ぐ巨大な吊橋――|ジョージ・ワシントン・ブリッジ《GWB》の手前だ。
『応……ろ』
誠はイヤフォンを耳に押し当てるようにしながら、「どうしたんですか、電波が悪いようですが」
『市……の電力供……断たれ……』
聞き取りにくいが、やはり電気に関する何かしらのライフラインが異常を来たしたらしい。〈アルパ〉のウィザードである小羊も電波障害にはお手上げということか。
このまま従順な奴隷を演じ続けておくべきだろうかと誠は思案した。絶という男がサポートをしてくれると言ったが、その詳細までは聞かされていない。また何より、酒顛や部隊の面々からの命令もなく単独で事を判断できるだけの経験や知識はない。できることと言えば、この足を使って戦うか逃げることくらいだ。組織や世界のために正しい判断で行動できる能力は決定的に欠如している。
――しかし、市内へ急行すべきだという直感はある。
「すまないな、足を止めて」
けたたましいブレーキ音の後に動揺を押し殺した声音で男が言った。サラリーマン風で、知的な雰囲気を漂わせる彼は、きっと見ず知らずに違いない男達と反対車線を身体を張って塞ぎ、連なる数台の車を引き止めた。
車の運転手は運転席のウィンドウを下ろすと、「アンタら、今すぐ引き返したほうがいい!」と切迫した表情で声を荒げた。車の助手席には彼の妻だろうか、後部座席には年端も行かない少年少女が並んで不安な心情を明らかにしている。
「どういう――」
「テロだよ、アレは! もう何人も死んでる! 爆発も火事も起きてる!」
「また連中か……!?」
髭面の太った男が顔を青褪めさせた。沈黙があの悪夢を呼び覚ました。国内各地で頻発したあの不幸、とりわけマンハッタンのそれは今でも彼らを苦しめ続けている。
「ひ、飛行機が、墜ちたのか?」
老人が涙を浮かべながら問うた。運転手は頭を振った。
「違うよ。詳しくは分からないけど、アレは爆弾の類だ。色んな場所で爆発が起きてる」
絶句して立ち尽くす人々を殴り起こすように、後続の車がクラクションを輪唱のように鳴らしだした。運転手の男性は愕然とする彼らを諭すように、「今のタイムズ・スクエアは地獄だ! 生きたかったら車を置いてでも早く逃げろ!!」と叫び、彼は車を徐行からすぐに法定速度を越えたスピードでニューヨーク市から飛び出していった。
事実を知った人々は決断を迫られた。ある人は市内に家族がいると言った。迎えに行かなくてはと。ある人は恋人がスクエアで働いていると零したが、微動だにできずにいた。
他には逃げ出す者がほとんどだった。車を置き、あるいは強引に前後を塞ぐ車にぶつけながら対向車線へ渡り、とにかく市外へ引き返そうとした。
しかし従軍経験がある彼らの中でもより正義感の強い者達は、車内に隠していたハンドガンやライフルを装備して、険しい顔で市内を目指して走っていった。
それは愚行だと誠は思った。彼は少なからず戦闘を知っている。誰もがハリウッド映画の主人公のようにはなれないと知っている。ノーマルの彼らはヘレティックよりも軟弱だ。ジャービルの護衛を務めていたノーマルによる私兵団〈フェリズ〉、兵士として熟練度の高い彼らでさえも、結局は――。
「“世界のため”、“世界のゆるやかな変化と、豊かな進歩のため”……」
耳に馴染まない日本語で独り言ちる少年の隣で、白タクの運転手が目を泳がせている。少年は拳を固く握ると、意を決した。
「ここまでありがとうございます。約束どおり残りの五〇〇〇ドルをお譲りしますが、一つ約束してください」
「な、何だ……?」
「これからきっと、市外に直接被害を受けた方々が逃げ出してくるはずです。この五〇〇〇ドルはその人達のために使ってあげてください」
被害規模を予測すれば、日本円で五〇万程度ではきっと足りないに違いない。でも、救済の足しにはなるはずだ。
「ボウズ、お前はどうするんだ?」
「オレは決めたんです。無責任ではいたくないって。この力は人のために使うんだって」
唖然とする運転手をよそに、誠は失笑した。ハリウッドの主人公を気取っているのは自分のほうじゃないかと。しかしそれも間違いだと思えた。
こんなに膝を笑わせているヒーローがこの世にいるわけがないのだから。